弁天橋の青い空に虹がかかった―1967年10月8日を回想する/原田誠之

弁天橋の青い空に虹がかかった――1967年10月8日を回想する

原田 誠之(10・8羽田闘争参加者)

●佐藤首相の南ベトナム訪問をめぐって緊迫

 1967年10月8日からまもなく47年の歳月が経とうとしています。
 この日の記憶は、きわめて鮮明な部分とかなり曖昧な部分とが混在していますが、その曖昧な部分も含めて、当時のことを回想してみます。

 10・8当時、私は19歳、法政大学文学部の2年生でしたが、前年(1966年)の6月頃から都学連のデモに参加していました。三派全学連が結成(1966年12月)される前の都学連のデモはいつも人数が少なく、機動隊の厚い壁に挟まれて自由な行動ができないまま、国家権力の思いのままに殴られ蹴られて終わるというのが常態でした。

 10月8日の佐藤首相の南ベトナム訪問に対する抗議行動について三派全学連とその上部団体である党派が具体的にどのような方針を出しているか、一活動家である私はあまり詳しく知りませんでした。それでも、東京都公安条例によってデモ行進そのものが禁止されていること、しかしこの南ベトナム訪問がアメリカのベトナム侵略戦争に対する日本政府の加担政策を質的にエスカレートさせる行為である以上、なんとしても実力で阻止しなければならないという方針が出されていることは知っていました。この戦いに向けて各党派は全国動員をかけていました。
 ただ、角材やプラカードを使って機動隊の阻止線を実力で突破するという方針について、私自身はそれほどはっきりとは自覚していませんでした。「実力阻止」というスローガンはそれまでもよく使っていたからです。なんとも頼りなく、ぼんやりしている学生でした。

●10月8日前日、全国から結集

 前日の朝から、私たちはキャンパスで金槌と釘を使って大量のプラカードを作りましたが、これも機動隊に向けるというよりも、当時中核派と社青同解放派との間に鋭い緊張関係があり、彼らとの有事の際にはこれを「武器」として使うというようなことも言われていました。このあたりの記憶が私にとってはちょっと曖昧なままです。
 ただし、数年経って、この10・8闘争の裁判に弁護側証人のひとりとして出廷したときは、裁判長から「何のためにプラカードを準備したのか」と問われて、「凶器準備集合罪」を意識しながら「これはもちろんデモ隊の意思をアッピールするためですが、もし解放派から襲撃された際には自分たちを守るために使ったかもしれません」などと証言した記憶があります。

 前日の7日、中核派の拠点校である法政大学には全国から多くの学生が続々と集まってきました。翌日、一緒に羽田の弁天橋に向かうためです。学生たちは校舎のあちこちの床に衣類やベニヤ板や新聞紙を敷いて寝転がりました。ただ、どの大学の学生も議論したり、楽しそうに談笑したりと、あまり眠る様子はありませんでした。
 この中にもちろん山﨑博昭君もいたわけですが、私は知るよしもありませんでした。

●一目散に弁天橋へ

 当日の朝は、飯田橋駅から品川駅にむかい、そこからは京浜急行に乗って大鳥居駅で下車しました。そして、いったん駅近くの萩中公園に集まりました。
 この公園では、デモに出発する前の集会はなかったように思います。そもそもデモ自体が禁止されており、すでに機動隊が弁天橋のかなり手前に集結しているという情報もあって、緊迫した雰囲気でした。少しの時間、そこにたむろしたのち、指揮者の指示にしたがい、弁天橋にむかって一目散に走り出しました。スクラムを組んだデモ行進ではありませんでした。萩中公園から弁天橋までは曲がるところのない、まさに一直線の道です。
 途中、どこかで立ち止まって、予め用意されていた角材を渡されました。私は大学を出たときからずっとプラカードを持っていたので、それをそこにおいて角材を受け取った記憶があります。プラカードには「佐藤の南ベトナム訪問阻止」「ベトナム人民の虐殺を許すな」というようなスローガンが書かれていました。

●四十数年ぶりに弁天橋を再訪

 昨年(2014年)の10月8日、弁天橋に花を供えるため、四十数年ぶりでこの地を再訪したのですが、当然ながら周囲は大きく様変わりしていました。萩中公園も全面的に拡張整備されており、当時の面影を全くとどめていません。再訪のときは萩中公園から弁天橋までバスで移動したのですが、バス停が幾つもあって、かなりの距離でした。当時、この距離を走ったとは我ながらちょっと信じられない思いでした。多くの学生が当日の朝食などろくに摂っていなかったはずで、若さとは驚くべきものです。当日角材の受け渡しをしたと思われる材木屋を見つけることもできました。位置的にも記憶とほぼ合致しており、店の人から当時もすでに営業していたということを確認できました。

 弁天橋のたたずまいも当日の記憶とはかなり大きく隔たっていて、違和感を拭えなかったのですが、橋の手前の、川に沿った遊歩道に手作りの小さな「追悼の札」を建てていたとき、橋のすぐ横に住んでいる老人から声をかけられて、橋の変遷についての話を聞くことができました。それによると、弁天橋は十年ほど前に古い橋を撤去して全面的に架け替えられたそうです。その際、護岸工事として海老取川の川幅を狭めたため、橋の縦の長さは以前よりも短くなったそうです。逆に橋の横幅は広がっています。いまは橋の両側に鉄柵で仕切られた歩道があるのですが、以前は橋の横幅がいまの車道部分だけで、両側の歩道部分に相当する長さが拡張されたということでした。

●弁天橋の青い空には虹がかかっていた

 当日のことに戻ります。
 弁天橋のかなり手前に機動隊が蝟集し、阻止線を張っていました。60年安保闘争の時も弁天橋での攻防があったようですが、私たちの大部分はここに来るのは初めてなので、弁天橋がどこかもよく知りませんでした。まず機動隊の一群だけが見え、その背後にある橋の姿は見えない状態のまま、角材を握りしめて彼らに向かって突進しました。記憶ではきわめて短時間、まさに「一挙に」というような感じで機動隊の阻止線は破られ、彼らは逃げるようにして弁天橋の中ほどに止めてある装甲車の向こう側に退散しました。

 ようやく弁天橋とその上の装甲車が視界に入り、私たちは橋の上に到着しました。このあたりで私たちの投石も本格的に始まったと思います。しばらく攻防が続いた後、警察は放水を始めました。私たちはみんなずぶ濡れになり前進を阻まれましたが、放水している間は機動隊もこちらに向かって攻めてくることができません。このとき、攻防にちょっとした小休止が生まれたことをはっきりと覚えています。
 空を見上げると、放水の向こうに大きな虹がくっきりとかかっていました。当日は典型的な秋晴れで、抜けるような青空が広がっていました。この虹については、覚えている関係者が多くいます。場違いな虹だけにひときわ印象深かったのでしょう。このときは私にもまだ虹の美しさに目を奪われる心の余裕がありました。

 放水の合間を縫って私たちがなおも前進しようとすると、今度は催涙弾が立て続けに発射されました。これをもろに浴びたときの衝撃はいまでも忘れられません。異臭が鼻をつき、放水で濡れた顔の皮膚に焼けるような痛みが広がります。目にも激痛がはしり、まったく開くことができなくなりました。そのときに感じた失明の恐怖はいまでもはっきりと思い起こすことができます。
 わたしはすでに「催涙弾」「催涙ガス」という言葉は一応知っていましたが、いま浴びたものがそれであるということが分からず、いわば得体のしれないものに襲われたと感じて気が動転してしまったわけです。しかし、いったんそれを体験し、「得体」を理解すると、やみくもな恐怖心は消えていきます。翌年1月の佐世保の橋の上では、それを浴びてもかなり余裕をもって対処できたことを思い出します。

●ヘルメットを剥ぎ取られ、頭部に集中乱打を受ける

 袖や手で目をこすったり、無理に涙を出そうとしたりして、なんとかものが見えるようになって、再び橋の上を機動隊に向かって前進しようとしましたが、このあとの記憶は少し曖昧なところがあります。視力もふつうの状態までは回復していませんでした。
 覚えているのは、2台の装甲車の間から、向こう側にいる機動隊に向かって突っ込んで行ったということです。しかし、向こうも警棒で応戦してきますので、いったん引き下がろうと思ったのですが、後ろから仲間の学生たちが押し寄せてきて、下がることができません。そのうち仲間たちの後ろからの圧力に抗しきれず、心ならずも装甲車の向こう側、いわば敵陣のまっただなかに突っ込むかたちになってしまいました。そのあと、短い攻防があったと思いますが、わたしはそのときかなり狼狽していたので、細部までは記憶がもどりません。

 二、三人の機動隊に囲まれ、蹴られて倒されたあと、ヘルメットの上から数発殴られました。このあたりからの記憶は極めて鮮明です。やがてヘルメットが剥ぎ取られ、数人が代わる代わる、われさきにという感じで頭部を乱打しはじめました。大量の血が流れ、それが目や口に流れてきました。おそらく短時間ではあったのでしょうが、抵抗するすべもなく痛みに耐えながら、「これで自分は死ぬんだな」ということを妙に覚めた意識で感じていました。このときの奇妙に冷ややかな感覚は今でもはっきりと心に蘇ります。
 そのうち、誰かが「もう、やめろ」というようなことを言って止めに入りました。その男はなおも殴り続けようとする機動隊員を手で押しのけるようにして私を機動隊員のもとから引き剥がしました。年配の私服の男だったので、おそらく警察のそれなりの地位にいる人物だったと思われます。このときの「ああ、これで助かったな」という気持ちもはっきりと思い起こすことができます。

 機動隊員たちは異様に興奮しており、怒声を浴びせながら警棒を振るっていたことも記憶しています。最初の激突で阻止線を突破され、逃げるようにして橋の上の装甲車の向こう側に退却せざるを得なかったこと、デモ隊が放水や催涙弾に全く怯むことなく、さらに前進を続けようとすることに対して、警視庁幹部や機動隊員たちが度肝を抜かれ恐怖を感じていたことは間違いありません。今まではデモ隊を思うがままに制御してきたわけですが、そうした経験からはおよそ信じがたい事態が眼前に現出してしまったのです。

●逮捕され、乱暴な治療に怒り

 やがて私はパトカーに乗せられて荏原警察署に連れていかれました。
 後日、人から聞いた話を総合すると、私は最も初期の突撃で逮捕されたようです。青木忠全学連書記長が装甲車の上にあがり、そこから機動隊のいる方に向かって飛び降りた直後の戦闘ではないかと思われます。だから、私はその後の一進一退の攻防も、山﨑博昭君の死も、それに抗議する装甲車上の北小路敏氏の演説も知りませんでした。

 山﨑博昭君のことは荏原署の留置場にいるときに接見の弁護士から聞いたような記憶があります。荏原署ではその日のうちに医者が来て割られた頭部を縫合してもらいましたが、そのときの口ぶりと手つきがいかにもぞんざいで腹が立ちました。たしか7、8針縫ったと思いますが、最初から最後まで「こんなやつの治療なんかしたくない」というような投げやりな態度でした。数日を経て、別の医師から抜糸の前の消毒をしてもらいましたが、彼は「ひでぇー縫い方だな、こんな縫い方ははじめて見た」とあきれていました。
 荏原署ではたしか10日間の勾留延長が二回繰り返されたのち、未成年ということで東京家裁に送られ、親が迎えに来るという条件で釈放されました。

●当時の公安警察のある一面

 後年、母が死去したあとの遺品の中から思いがけないものが出てきました。以下に転載しておきます。

「前略 貴台御子息原田誠之君を去る10月8日佐藤首相第2次東南アジア訪問阻止を図って発生した「羽田事件」の被疑者として検挙しました。折角の勉学の途上いろいろとご心痛のことと存じますが、当方におきましても御子息の将来を考慮し処遇には慎重を期しておりますので、貴台におかれましても監護上一層のご配慮を払われたくここにご通知申し上げます。昭和42年11月(空欄)日 東京都千代田区霞ヶ関2-1-1 警視庁公安部第一公安部公安第一課長」

 私は荏原署では完全黙秘を貫いていましたが、弁護士には身元を明かしていましたので、おそらくこういう文書が発送されたのだと思われます。書類は二重封筒に入っており、毛筆で宛名が書いてあります。
 10・8闘争のあとはマスコミを利用してのすさまじい「暴徒キャンペーン」がありましたが、それでもこのときの逮捕者は53人と、その後の闘争に比べれば少なく、未成年者の場合にはこうした一見牧歌的とも思える文書が親元に発送されていたのでしょう。そういう意味ではこのころはまだ「激動の時代」のとば口だったともいえます。

●山﨑博昭君、もし命永らえていれば……

 1967年以来、私にとって10月8日という日付は忘れられないものとなりました。毎年この日が巡ってくると、18歳の山﨑博昭君の顔が胸に蘇ります。私は生前の彼の顔を一度も見たことがなく、留置場にいたために日比谷公園で行われた彼の追悼式典とそのあとの追悼デモ行進にも参加できませんでしたが、数種のパンフレット類に載っている彼の遺影は数知れぬほど見つめつづけてきました。
 ある日、同じ場所で、同じ「志」を抱き、同じような行動をとった山﨑博昭君。もし命永らえていれば、彼にはどのような人生があったのでしょうか。それを思うと、いつも底知れぬ悲しみと怒りが胸を圧します。
(はらだ・しげゆき 2015年3月2日)



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