闘争のなかの死を受けとめるということ/大野光明

闘争のなかの死を受けとめるということ
60年代のラディカリズムを継承するために
大野光明(滋賀県立大学准教授、歴史社会学・社会運動論)
週刊読書人2018年2月16日号から転載
http://dokushojin.com/article.html?i=2904

 一九六七年一〇月八日、ベトナム戦争の最中、当時の首相・佐藤栄作は南ベトナムをふくむ東南アジア歴訪へと羽田空港から出発した。これをベトナム戦争への積極的加担ととらえた全学連の学生らは、南ベトナム訪問阻止闘争を展開する。羽田空港に通じる弁天橋では、警察と学生らが激しく衝突、そのなかで京都大学一回生の山﨑博昭が死亡した。マスメディアは山﨑の死が警察車両を奪い運転した学生による轢殺によるとの警察発表をそのまま流し、こぞって「暴力学生」や「暴徒」への批判をつづけた。一方でこの闘争はその後につづく大衆的な反戦運動と反体制運動の一つのメルクマールとなった。

 本書はこの「一〇・八羽田闘争」から五〇周年をむかえるにあたって、山﨑博昭を追悼するために編まれたものだ。追悼プロジェクトの発起人、羽田闘争の参加者、山﨑の高校・大学時代の同級生など六〇人を越える寄稿者の文章がならんでいる。一読後、出来事の生々しさと重苦しさがしばらく身体を離れなかった。一人の人間の死という具体が克明に描かれ、読むものに迫るからだ。本書第四部において、現場にいた人びとや遺体搬送先の医師らの証言、残された文章や映像の記録などにより明らかにされたのは、警察・機動隊による撲殺の可能性が極めて高いこと、そして、警察がその事実を「学生=暴徒」キャンペーンとともに意識的・組織的に隠したことだった。

 国家の暴力によって人間が撲殺される――その重苦しい事実がその場にいなかった私の身体を激しく揺さぶった。と同時に、当時を生きた人びとにとって、その衝撃がいかほどのものだったのかと思う。本書は寄稿者それぞれが羽田闘争をどのように受けとめ、その後を生きたのかを伝えている。羽田闘争は国家が暴力によって成立すること、日本の「平和」や「豊かさ」が戦争と直結したものであることを人びとにつきつけた。それはまた、「殺されたのは私だったのかもしれない」という切迫した思いを人びとに抱かせ、その後の闘争への参加を促す出来事でもあった。あの闘争は多くの人の生き方を変えたのだ。

 では、五〇年を経たいま、私たちはあの闘争から何をどのように受けとめればよいのだろうか。多くの寄稿者が語るように、日本は戦後一貫してアメリカの戦争に加担しつづけ、いま、その姿勢はさらに前のめりなものになっている。ベトナム戦争を止めようとした人びとの経験を分かちあうことが喫緊の課題である。しかし、六〇年代のラディカリズムは「暴力」や「稚拙さ」という言葉でぬりかためられてきた。運動のなかでさえその傾向は強い。そのような認識が撲殺を轢殺にすりかえる権力の磁場のなかでつくられてきたことをまず再考するべきだろう。

 また、本書が、人びとの心の襞のなかに埋もれた言葉や沈黙をひかえめではあるが伝えていることを考えたい。あの死をめぐって「先を越された」、「自分も死をかけて闘わねばならない」と感じ、「あれから死をかけて闘ってきただろうか」と自問する寄稿者たちの思いがある。死者に向きあうことは、自らの生命を差し出すことをも要請する。命を肯定するための闘争が、死をかけた競争へと横すべりする。そして、死を決する闘いができる(ようにみえる)者の言うことやなすことがときに絶対化され、そうできない者たちは周縁化される。その先に内ゲバという惨事があったのではないだろうか。人びとの沈黙や言葉にならない思いは死を受けとめる困難な経験のなかで澱のように重ねられてきたのではないか。

 羽田闘争のあと、佐世保や王子での大衆的な直接行動、そして各大学での全共闘運動など、圧倒的で自律的な人びとの力は花開いた。羽田闘争はラディカリズムの開花と困難の一つの契機であり分岐点であった。いま、私たちは、饒舌に語られたことだけを読むのではなく、また、安直な過去の否定を受け入れるのでもなく、沈黙をも聞き、読むことを通じて、六〇年代のラディカリズムを継承できるのではないかと思う。

2018年2月16日
(おおの・みつあき)



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