趣意書

「わたしたちは、いまも、これからも、戦争に反対し続けます」

――第2ステージに向けて――

わたしたちは1967年10月8日、アメリカによるベトナム戦争に反対する第1次羽田闘争で、国家権力によって羽田・弁天橋で斃れた山﨑博昭(18歳)の死を忘れません。山﨑博昭を追悼し、そのことが社会変革につながることを求めて、「10・8山﨑博昭プロジェクト」の活動を続けます。

「10・8山﨑博昭プロジェクト」は、戦争に反対することを個々人の意志によって、さまざまな分野で表明し、行動に移す、表現運動の磁場となることをめざします。

「10・8山﨑博昭プロジェクト」は、政治、思想、芸術のあらゆるジャンル、すべての世代に向けて開かれています。

このプロジェクトは、2014年7月の発足時から2018年10月8日までを第1ステージとし、以降、1972年の沖縄闘争50周年を区切りとする2022年10月8日までの4年間を、第2ステージとします。

第2ステージでは、以下の活動をします。
(1)2020年~2021年に、アメリカで「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」を開催します。
(2)2022年までの間に、沖縄で「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」を開催します。
(3)第1ステージの活動から生まれた以下の事業を継続します。
①ベトナム・ホーチミン市戦争証跡博物館と連携し、ベトナム各地の博物館、ギャラリーなどで、「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」を、毎年、共催します。同時に、ベトナム戦争時のアメリカ空軍による枯葉剤散布に起因する障碍児が今も多く誕生していて、その子どもたちが収容されているホーチミン市のツーズー病院「平和村」への支援を継続します。
②「十・八羽田救援会」の歴史を検証し、創立関係者のオーラルヒストリーを作成します。
③毎年、東京、関西での集会(講演会と研究集会)を開催し、山﨑博昭の墓石と墓碑がある「福泉寺」(東京都大田区萩中三丁目27-10)並びに弁天橋で、毎月8日の「月命日」の集まりを継続します。

このプロジェクトは、「山﨑博昭」という死者の名前を掲げて、今後も進みます。わたしたちは、いまも、これからも、戦争に反対し続けます。

ご賛同いただけますように、お願い申し上げます。

2019年4月30日

10・8 山﨑博昭プロジェクト〈第2ステージ発起人〉

氏名をクリックすると発起人からのメッセージに移動します。

山﨑 建夫 (山﨑博昭兄)
北本 修二 (弁護士、大手前高校・京都大学同期生)
佐々木幹郎 (詩人、大手前高校同期生)
辻   惠 (弁護士、大手前高校同期生)
三田 誠広 (作家、大手前高校同期生)
下重 暁子 (作家、大手前高校同窓生)
山本 義隆 (科学史家、元東大全共闘議長、大手前高校同窓生)
鷲田 清一 (哲学者、京都大学同窓生)
金城  実 (彫刻家)
高橋源一郎 (作家)
福島 泰樹 (歌人)
道浦母都子 (歌人)
石田  涼 (京都精華大学理事長)
大野 光明 (滋賀県立大学准教授)
幸田 直子 (大学講師・アメリカ外交史)
代島 治彦 (映画監督)
新田 克己 (予備校講師)
福井 紳一 (予備校講師)
真鍋 祐子 (東大東洋文化研究所教授)
三橋 俊明 (文筆家・『日大闘争の記録―忘れざる日々』編集人)
小長井良浩 (弁護士、当時遺族代理人)
水戸喜世子 (十・八羽田救援会)
山中 幸男 (救援連絡センター事務局長)

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「わたしたちはここで泣く!」――第1ステージ発足にあたって――

1967年10月8日という日付と、この日に羽田の弁天橋の上で、18歳で亡くなった山﨑博昭の名前を、わたしたちはいまも忘れることができません。

山﨑博昭の死は1960年の反安保闘争のとき、国会議事堂前で亡くなった樺美智子さん以来の、学生運動のなかでの死でした。

戦争に反対する。

その一点で二人の死は共通していました。67年10月8日の羽田闘争は、当時、ベトナム戦争が続いていたなかで、日本の首相が羽田空港から出発して南ベトナムへ向かおうとしたことへの異議申し立てでした。日本がベトナム戦争に加担することを阻止しようとする学生たちの闘いでした。

山﨑博昭は大阪府立大手前高校時代から反戦運動に参加しました。寡黙で成績優秀で、おとなしい青年だったことは級友たちの誰もが覚えています。その彼が京都大学文学部に入学して半年後、当時の三派全学連の一員として羽田闘争に参加。弁天橋を渡って羽田空港へ向かおうとした学生たちと機動隊との間で激しい衝突があり、彼は橋の上で亡くなりました。

わたしたちは、山﨑博昭の死は、戦争に反対した人間の死、としてだけ理解しています。なぜ彼があの日、弁天橋の上にいたのか。戦争に反対する意志表示をするためです。

一人の無名の若者の小さな死。その小さな死こそが、わたしたちにとって、いまも大事です。

この不幸な事件に接して、人生が変わったという人もいますし、当時の学生運動に関わらなかった人でも、この日のことを記憶にとどめて、自らの青春時代の激動の象徴にしてきた人もいるでしょう。わたしたちの世代は、10.8羽田闘争を経て、全共闘運動へつながる大きな学園闘争の渦を経験しています。その原点となったのが、10.8でした。

あれから半世紀が経とうとしています。

1967年10月8日という日付と、山﨑博昭の名前を聞くと、わたしたちはいまも泣きます。

半世紀という歴史の時間を経て、羽田の地に、弁天橋にほど近いところに、山﨑博昭を追悼する小さな鎮魂碑を作ろうと、わたしたちは発案しました。日本が徐々に戦争に向かいつつある現在、このプロジェクトは、山﨑博昭の名前とともに、わたしたちがいまも、これからも戦争に反対し続けるという意志表示でもあります。

ご賛同いただけますように、お願い申し上げます。

2014年7月4日

10・8 山﨑博昭プロジェクト〈第1ステージ発起人〉

氏名をクリックすると発起人からのメッセージに移動します。

山﨑 建夫 (山﨑博昭兄)
北本 修二 (弁護士、大手前高校・京都大学同期生)
佐々木幹郎 (詩人、大手前高校同期生)
辻   惠 (弁護士、大手前高校同期生)
三田 誠広 (作家、大手前高校同期生)
宮本 光晴 (経済学者、大手前高校同期生)
下重 暁子 (作家、大手前高校同窓生)
山本 義隆 (科学史家、元東大全共闘議長、大手前高校同窓生)
上野千鶴子 (社会学者、京都大学同期生)
鷲田 清一 (哲学者、京都大学同窓生)
鎌田  慧 (ルポルタージュ作家)
川村  湊 (文芸評論家)
金城  実 (彫刻家)
高橋源一郎 (作家)
福島 泰樹 (歌人)
道浦母都子 (歌人)
小長井良浩 (弁護士、当時遺族代理人)
水戸喜世子 (十・八羽田救援会)
山中 幸男 (救援連絡センター事務局長)



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