1967年10月の私と50年後の私/山口研一郎

1967年10月の私と50年後の私

山口研一郎(大阪高槻・やまぐちクリニック、現代医療を考える会代表)

1.はじめに

1967年10月8日の私は山﨑博昭君と同じ18歳で、長崎県立高校の3年生。当時私が山﨑君の死に何を思い、その後の人生をいかに歩んできたのか点検することで、「10.8第一次羽田闘争」を思い起こしたい。それから50年、ベトナム戦争をめぐり激動の時代を迎え、大学闘争、田中角栄の「日本列島改造論」(1972年)をきっかけに自然や地域共同体が破壊された。バブル景気に陰りがみられつつも「一億総中流」は維持され、その後リーマンショック(2008年)が契機となり格差社会が訪れ、「貧困大国」「孤立社会」「老後破産」との文言が並ぶ。

現在、2011年3月の東北大震災以降下火に見えた原発の再稼働が目論まれ、「特定秘密保護法」「安全保障関連法」の成立、憲法改悪の策動と、新たな「戦前」の様相を呈している。今こそ「全共闘世代」「70年世代」の責任は大きく、今後10年、20年をいかに過ごすかが問われている。私自身の残された人生の「決意表明」の場として、本記念誌に寄稿させていただく。

2.野や山、自然に満ちあふれた幼少期

私たち「団塊世代」の幼少期は、生活圏内に自然があり、地域の共同体が保たれていた。私が生を受けた1949年8月の長崎は、4年前、原爆によって火の海となり廃墟と化した。幼い頃の遊び場の近くには、まだ洞穴に住居を構える人々がいた。小学校の近くには、軍事工場の跡地が瓦礫の山と化していた。それでも自然が生活のすぐそばにあった。川でめだかを捕り、笹薮に来たスズメを生け捕りにした。季節ごとに地区の「花見」や「運動会」「ソフトボール大会」「日帰り旅行」と、様々な年中行事が開かれ、「地域コミュニティ」が実在していた。

3.1967年10月の衝撃から1968年1月のエンタープライズ寄港へ

そのような環境で生まれ育ちながら、1965年4月高校へ入学。「ベビーブーム」も手伝い、高校生活は初めから「受験戦争」への突入だった。高校が市郊外の小高い山の中腹にあり、社会から隔絶された生活だった。「1967年10月8日」のニュースは、そのような私たちにも衝撃だった。はるか遠くの東京での出来事だとしても、同年齢の青年が佐藤首相のベトナム訪問に反対して命を失った事実は、私たちの心に波風を立てずにはおかなかった。

翌年の1月、身近な事態が起こった。米原子力空母エンタープライズが長崎から車で2時間ほどの佐世保港に寄港した。大学受験を控えていた私たちを残して、多くの教師が現地に駆け付けた。授業が自習になり、一部は校長、教頭が担当した。全国から集結した大学生に、地元の市民たちが声援を送り、住居を提供し、おにぎりを握って集会場へ持参している、とのニュースが流れた。

その時の被爆者の声が、西村豊行著『ナガサキの被爆者-部落、朝鮮、中国』(1970年)に紹介されている。「あの人たち(三派全学連)の気持ちこそほんとうの気持ちばい。全学連がああいうふうに、機動隊相手に自分たちの血を流してまでエン・プラの入港に反対し、核兵器の持ち込みに抗議した。私はショックだったね。……ほんとうなら、私たち被爆者が、佐世保橋で機動隊とたたかっていなければならなかった。ああいうふうに、学生を負傷させ血まみれにさせた責任は被爆者にもある」(「エンタープライズの入港と被爆者」)。

原子力空母の長崎・佐世保への寄港は、被爆以来四半世紀、核兵器の非人道性を訴えてきた被爆者への挑戦であり、「佐世保橋において、私たちの被爆体験が権力に対決し、権力を超える思想として、運動として問われた」(同上)出来事だった。

4.京都における浪人生活と大学闘争

1968年2月下旬、京都の大学を受験するために夜行列車に乗った。京都在住の学生と席を同じくした。彼も「佐世保闘争」に参加し、1カ地に滞在しての帰りであった。彼は、世界のこと、日本のこと、教育問題など、話題を提供してくれた。翌朝終着駅の京都でともに下車し、予定の下宿まで重い受験参考書を運んでくれた。「また会おう」と言って別れた一夜だけの出会いが、私の浪人時代・学生時代、そして医療の世界に身を置くようになってからも影響し続けた。

憧れの京都で浪人生活を送った。朝もやの中を、北白川通りを抜け賀茂川に沿って自転車を走らせた。その生活も夏休みを境に一変した。通っていた関西文理学院で不正経理問題が発覚。抗議した学生たちが、授業の自主ボイコットを始め、9月から翌年1月に至る5カ月間近く、ほとんど授業が無かった。カンブリの運動は京都全体の予備校に拡がり、「京都反戦浪人連合」が結成された。10月8日や21日(国際反戦デー)の円山公園での集会には、「反戦浪連」の灰色ヘルメット部隊200~300名が参加した。

その頃、私が下宿していた吉田神社の裏手まで京都大学から「時計台放送」が響きわたり、暮れも押し迫った頃、学生の手によってバリケード封鎖が行われた。1969年春は東大入試が中止になり、大学入試は全国的に混乱した。私も福岡の地で二浪目を送ることになった。英数学館に在籍した私は、仲間と「受験生による討論会」への参加をよびかけ、職員につかまり事務長室へ連行された。始末書を書かされ退学となり、郷里の長崎へ戻った。長崎を出て2年後の「敗北」の帰還であった。

5.70年安保闘争と医学生としての8年間

1970年4月長崎大学に入学した私を待っていたのは、自治会が呼びかける「70年安保改定阻止全学ストライキ」であった。医学部は率先して闘いに参加し、私は自治会の一員となり、2年目には自治会長に当選した。当時の教養部自治会長選挙は、新左翼系と右翼系(学生協議会)の一騎打ち打ちであった。学協とは、現在「日本会議」の役員である椛島有三らが1968年長崎大学で組織した民族派学生の集まりである。

1973年4月専門課程に進んだ私は、基礎医学には何の興味も持てず、履修すべき科目を全て落とし留年となった。翌年春、1人の医学生が退学処分になった。その当時長崎大学医学部は「一学年二年制」という制度を全国に先駆けて導入し、1学年に2年間を越えて在籍すると即退学処分になった。それまでの5~6年間で30数名の学生が退学になった。専門課程1年生の2年目を迎えた私の所へ、医学部学友会の学生が訪れ、「学生の処分撤回の闘いへの参加」を要請した。私は運動に加わり、再び勉強どころではなくなった。一方、大学入試の合格発表が行われた頃、医学部長の長男が不正入試の結果合格したとの噂が流れた。それを表沙汰にすると即退学処分という「恐怖政治」が医学部内に敷かれていた。

私たちは春休みの間、綿密な計画を立て、4月の1年生の最初の授業で、開講直後7名の学生が立ち上がり口を揃えて教授に一学生の退学の件と「不正入試」について見解を正した。授業は中断され、教室員によって7名の名前が記録された。私たちは100名あまりのクラス仲間に事の真相を説明した。数日後7名に対し、「あらぬ噂を立て、医学部長を侮辱した」との理由で、教授会名で停学処分が発表された。1年生は「処分撤回」のクラス決議を行い、それは2年生、臨床過程の3、4年生にも拡がった。

5月の連休明け、1~4年生全体で、「不正入試の真相が明らかにされ、全学生の処分撤回までストライキに入る」との決定が下された。その後学友会は、長崎市内の一般家庭5万世帯へのビラ入れや宣伝カーによる街頭宣伝、学内には「大学管理法」で禁止されている小屋を一夜で建てるなど、学内外の活動を行った。その結果、医学部長、学長は不正入試の責任をとり退任。「一学年二年制」は撤回され、過去退学になった学生全員の復学を認めた。暮れも押し迫った12月、学友会は自主的に団結小屋を撤去し、8カ月にわたるストライキは解除された。

医学部時代の私にとって、その後私の生き方に大きな影響をもたらす出来事があった。生理学の講義の際、「各民族における汗の研究」というテーマの中で、教授が沖縄や北海道、中国大陸の人々に対し行った研究成果が披露された。講義終了後、学生数名で教授室へ行き、「研究をどこで、どういう人たちに対して、どのような方法で行ったのか」問い質したが、教授は答えなかった。

長崎大学には熱帯医学研究所(1967年、風土病研究所から改称)があり、戦時中は東亜風土病研究所(1942年創立)と称し、大陸各地で主に感染に関する研究を行った。関東軍七三一部隊との接点を持つ医師や研究者もおり、戦後大学や研究所に返り咲いた。人を救うべき立場にある医学が、戦時中とは言え人を対象に実験を行い、その犠牲の上に研究の「成果」が語られるという事実に疑問を持った。

6.37年間の臨床と現代医療を考える会

大学卒業後1979年に脳外科に入局した私は、1981年より倉敷中央病院へ赴任した。1983年春、9歳の女の子、関藤有紀ちゃんとの出会い(そして別れ)は、医師としてのあり方を180度転換させた。母親が運転する車の後部座席に乗っていての事故により、有紀ちゃんは頭部を強打した。救急車で搬送後、緊急開頭手術を受けた後、「脳死」と診断された女の子をめぐる39日間は、助からないかもしれない命にどうかかわるのか、気持ちの整理のつかない家族にどう接するべきか、有紀ちゃんは小さな体で力の限り訴えた。

その後私は、九州、広島の病院を経て大阪に移り住んだ。1991年初頭、関藤泰子さんと再会し、有紀ちゃんとの別れを綴った記録を読ませていただいた。このような声こそもっと人々に伝えたいと思った私は、翌年、泰子さんとの共著『有紀ちゃんありがとう-「脳死」を看続けた母と医師の記録』(社会評論社)を出版した。

4月には出版を記念して「脳死・臓器移植を問う全関西の集い」が開かれた。それをきっかけに「現代医療を考える会」が結成され、その後今日まで27回の会合が開催された。

1992年1月には「脳死臨調」が「脳死を人の死とする」との「最終答申」を出し、臓器提供を可能とする法律を準備する時期であった。1997年6月臓器移植法、2009年7月改正臓器移植法が成立し、「脳死体」からの臓器摘出、移植が定着しつつある。「尊厳死法」の法制化と共に、死の概念を国家が定めることは、国民に生死を強制するものとして強い危惧を感じる。

一方、1994年3月中国東北部ハルビン近郊平房(ピンファン)の七三一部隊跡を訪問し、1999年8月ポーランドのアウシュビッツ強制収容所跡を訪れた。高槻市においては、1994年12月「七三一部隊展」、1998年1月「毒ガス展」を開催し、戦時中の医学犯罪を検証する場を持った。

1992年以来25年間の「考える会」を通じ、医療・医学の行く末を以下のように考える。

一つは、医療・福祉の再編、その原動力としての「尊厳死」政策である。団塊の世代が全て「後期高齢者」に達する「2025年問題」に向けて、「公助から自助・共助へ」(2012年5月「社会保険制度改革推進法」)と大転換を計っている。一方、医療・福祉へ市場原理を持ち込み、民間企業へ丸投げする政策も進められている(2014年6月「地域医療・介護推進法」)。経済力のない人々の命や人権は根底から奪い去られる。そのような時、人々の気持ちに入り込み、国策として進められるのが「尊厳死」政策であり、尊厳死法制化の動きが2011年末より始まっている。

二つ目は、見境いない命の選別、人体利用の横行である。「新型出生前診断」による染色体検査により、多くのダウン症や染色体異常の胎児が出生を拒まれている。終末期の段階では「脳死」や「尊厳死」により死が早められ、まだ暖かい臓器の移植や医療材料・医薬品への利用が行われようとしている。体質や病気に関する遺伝子診断により、人々が管理され(「マイナンバー制」と連動)統制される「100万人ゲノムコホート研究」も進行中である。このような動向は全てが「優生思想」に基づき、「相模原やまゆり園障害者殺傷事件」(2016年7月)と全く同様な価値観である。

三つ目は、医学・科学が再び戦争のための殺人兵器となる危険性である。2015年9月の「安全保障関連法」を待つまでもなく、多くの大学や研究機関が、米軍や防衛省より資金援助を受けて研究を行っている。「日本学術会議」は、1949年の成立以来堅持してきた、軍事目的の研究を否定する方針を見直す検討を始めた。医師・医学者・科学者が無自覚に戦争へ動員される状況はくい止めなくてはならない。

7.残された人生の「決意表明」

「安保法」(戦争法)成立過程において、「SEALDs」の活躍はめざましかった。奇抜な発想や人々へ訴える力、結集力は目をみはるものがあった。今から50年前の「反戦・反安保」の闘争も、それに勝るとも劣らない運動であった。しかし、両者には決定的な違いがあった。マス・メディアの扱いである。前者は「正義感を持つ若者たちの行動」であり、後者は「暴力学生」であった。紹介本も出版され、多くの紙面も割かれ、多くの知識人・文化人のなかにも、「かつての学生運動と違って、今の若者には人々を引きつける力がある」と評価が高い。

私は正直「何かが違う」と感じている。その「何か」を論じることは重要である。例えば、国家権力にとって、かつての「学生運動」と現在のSEALDsはどちらが脅威なのか。あるいは、かつての若者と現在の若者では、どちらが運動や人生に対し真剣に向き合っているのか。その答えは、1967年10月から50年を迎える私たちの生き方と、これから50年先の今の若者の生き方とを比較することで明らかになるだろう。

1967年に思春期を過ごし、60年代後半から70年代前半の息吹きを体験した私自身に問われているのは、現在の生きる姿勢である。益々きな臭くなる現代をどう生き、どのような時代を切り開いていくのかが問われている。

(おわり)

(やまぐち・けんいちろう  2016年12月3日)



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