10月10日、羽田・弁天橋で山﨑博昭君に献花と黙祷(記事と写真、2015年)

10月10日、羽田・弁天橋で山﨑博昭君に献花と黙祷

2015年10月10日、10・8山﨑博昭プロジェクトの第3回東京講演会に先立って、午後2時から羽田・弁天橋で山﨑博昭君追悼の献花と黙祷を行った。参加者は27人。48年前の10・8羽田闘争に思いを馳せ、そこで闘い、機動隊との激突で亡くなった当時18歳の山崎君を偲んだ。

●羽田・弁天橋の脇の鳥居のある広場にて

辻惠「皆さん今日はご苦労様です。羽田闘争から48年目ということで、再来年が50年ということで、去年から10・8山﨑博昭プロジェクトを発足させて、去年も10月にここで献花と黙祷を行いました。毎年恒例でやっていきたいと思っております。
まず代表の山﨑建夫さんからお話をいただきたいと思います。」

司会・辻さん014_1

山﨑建夫「48年目ですね。当日は8日で抜けるような晴天だったそうです。何度かここへ一人で来ることがあるんですけれども、いつ来ても感無量ですね。
ただ、気になっているのは、どこで死んだかはっきり分からへん。ハの字型に止められた装甲車があって、その橋の左側の装甲車が動いていった後に、学生たちがあふれた。そこに機動隊が逆襲した。当日、それまで機動隊は何回もやられていたから憎しみを込めて学生を乱打している写真はたくさん撮られています。実際、このプロジェクトに関わっている人の中でも頭を割られて入院した人がいてます。
だけど、当時の記事ではとにかく学生が運転する車に轢かれた、轢かれた場所は左側の動いた車の真後ろ、非常に矛盾だらけの話なんですけれども、目撃した当時の学生にも話を聞いているんですが、一人の人は橋の右側だったと言うし、一人は橋の左側だったと言うし、それが山﨑博昭だったかどうかは分からない。他にも何人も殴られて頭を割られているから。けれども、僕自身は何回来ても、どこがその現場なのか橋の上は間違いないんだけれども確定できない。まだまだこれから聞き取りをやっていかなあいかんなと思っています。
あと2年で50年、長いですね。みんな白くなったりしましたけれど、亡くなった弟はまだ18の青年ですよ。写真見たら憎たらしいくらい若いもんな。当り前やけれど。
そういうことで、プロジェクト、死因の究明も含めて記念碑の建立、そして記念誌、それからベトナムへの資料の提出、向こうで資料を展示するという話があります。これからどんどん進めて行きますので、みなさん、是非ご協力のほどよろしくお願いいたします。」

山﨑さん

「去年は10・8の弁天橋の上で参加者の北本弁護士から彼の体験を語っていただいたんですが、今日も、当日参加された方にこの場にご参加いただいているので、一応お二人を予定しています。日野さんの方からよろしくお願いします。」

●あの日、山崎君とともに弁天橋にいた

日野「日野と申します。ちょうど48年前の10月8日でしたけれど、先ほどお話がありましたように大変その日は晴れておりました。
私共は前の晩から法政大学に泊りこみまして、翌朝電車で羽田に向かったんですね。大鳥居駅で降りたんですけれども、降りた時にはもう機動隊がずらっと駅にいたんです。そこから闘争は始まったんです。ですから私たちも目的である羽田空港に何としてでも突入したいという意思を固めておりましたので、あっと言う間に機動隊を蹴散らして、それから公園(萩中公園)に行って、ちょっとした集会をやって、それから弁天橋に向かったんです。
弁天橋に向かうまでに相当な激戦がありまして、私の仲間も相当そこで血だらけになったり、弁天橋にたどり着く前に救急車で運ばれた学友がいました。そういった中で、私も何とか弁天橋にまで来て、ようやくこれから空港に突入するというところで、装甲車があったんです。この装甲車が障害物になっておりまして、そこに機動隊がずらっと警備しているということで、私たちは石を用意して石を投げたんですね。それで装甲車の周辺が少し空いたというか、1台の装甲車を乗っ取ることができたんです。鍵を忘れた機動隊員がいて、(鍵を)置いたまま逃げてしまった。もう1台の方を何としても橋の下に落とそうということで、大勢の力を借りて一生懸命やったんですが、なかなか動かないんです。
そういった中で、僕らは周囲を見る余力はありませんでしたので、山﨑君が一緒にそういうことをやっていたと思うんですが、私の山﨑君の記憶はありません。自分の闘いで精一杯という中で、約1時間くらいでしょうか、羽田弁天橋での攻防の中で、「仲間が死んだ」という声が出たんですね。そこから闘いを止めて、みんなで一時黙祷をこの橋のたもとでやった記憶があります。それが山﨑君が死亡されたということで、ちょうどお昼前くらいだったんでしょうか、それから闘争が一応終わったんですけれども、また黙祷が終わった後に、我々としては目的が達成出来ていませんので、何とか空港に行こうということで再度戦線を作って突入を試みたんですが、力及ばずして届かなかったということで、その後、総括集会をやって解散したということです。
私は幸い怪我もなく、逮捕もされなかたんですが、私の横で山﨑君がやっていたということは、ちょっと間違えれば私であった可能性もあったということを、今、思って、私もそれから48年間生活してきましたけれども、山﨑君は年齢も私と同じだったんですね。ちょうど大学1年生で、私も学校に入って半年目だったので、今日まで私も社会人として生活してきましたけれども、山﨑君の意思を引き継いで、当時、戦争反対という気持ちで私たちはやった訳ですから、今、国自体が戦争に向かった法律を整備し始めているという中で、その意思を継いで戦争反対ということが、今、生きる私たちの責任ではないかと私は思っています。
今日は48年ぶりに私もここに来まして、山﨑君を追悼したいと思います。」

日野さん048_1

「ありがとうございました。では、もうお人方、小林さんの方からよろしくお願いします。」

小林「小林智子と申します、旧姓は北村と申しまして、当時大学3年生でした。それで、先ほどの方と同じように、前の晩、法政大学に泊って、朝、大鳥居で降りて萩中公園で集会をして弁天橋に向かったと思います。
山﨑さんを個人的には存じ上げていませんでしたけれども、法政に泊った時に、近くに京都大学から来た人がいっぱいいらして、夜中に法政の校庭で、京都大学の人が中心になってデモをしていたのを、とても記憶に覚えています。
私も当時は戦闘的な学生でして、装甲車があって、装甲車の前までは行ったんですね。時間的な経過をよく覚えていないんですが、装甲車の前にいた時に機動隊が催涙弾を撃ったんですね。それまで私が学生運動をやっていた中で、銃弾を撃ったというのが初めてだったので、それが催涙弾とは思わず、機動隊が銃を撃ったというのがすごい印象に残っていまして、とりあえず1回退こうとしたら、装甲車が斜めに止まっていたので、左側に行ったら、橋の欄干と装甲車の間が人一人しか通れないような場所があったんですね。みんな退いて後ろに行こうとするし、そこがすごい狭くて、ぎゅうぎゅうで、橋の欄干が低い感じがして、体が半分以上橋の欄干からのり出していて、目の下は川だったので、泳げないし、落ちたら死ぬと思ったんですが、うまく押されて後ろに戻ることが出来ました。それから山﨑さんが亡くなったというのを聞いたんですが、本当に私自身があの時、川に落ちて亡くなっていたかもしれないし、他の理由で亡くなっていたかもしれないことを思いますと、それから48年ですけれども、50年近くいろんなことがあっても生き延びて来られたんですね。
でも、その時亡くなっていたのは私であったかもしれないということを、いつもいつも心に思って、山﨑さんのことは1日も忘れたことはありません。
その時も、ベトナム戦争反対といった反戦の意思で参加して、今、世の中のこういう状況を見ますと、あの時の反戦の意思というものが、今、本当にここで強く意思表示して行動しなければいけないと強く思っています。ありがとうございました。」

小林さん066_1

「ありがとうございました。最初に山﨑建夫さんもおっしゃったように、10・8山﨑博昭プロジェクトは、一つは、弁天橋でどういう事態が起こったのかということを、死因究明を含めて、聞き取りとかいろんな形で当時を再現していきたいというのを大きな軸としております。弁天橋はその後拡幅されたということで、当時はもっと狭かったということでありますし、今、当時闘争に参加された10人くらいの方々から順次聞き取りを進めて行きたいと思っていますので、お知り合いの方とか、ご証言いただける方をご存知の方は、是非ご紹介いただければと思います。
それでは、1967年の7年前の1月16日に、羽田空港で樺美智子さんが逮捕されたと思いますけれども、その闘争参加者で、この弁天橋は当時木であったことを記憶しておられる小長井先生の方から一言お願いします。」

●「警察がやったことは間違いないと今でも思っている」

小長井良浩「昭和一桁でこの会に参加してるのは私一人ではないかと思うので、発言をしなければいけない立場になった訳なんですが、当日、ここで激しいデモがあるということまでしっかり認識していたかどうか、自分でも自らに問うて恥ずかしく思うような状態なんですね。ですが、ちょうど日曜日で天気のいい日、何しろ学生が亡くなったという、誰か弁護士を紹介してくれないかという、そういう連絡がありましたのでやってみましたけれども、(連絡した弁護士は)出ていて分からないものですから、亡くなっているのなら連絡するよりも自分が行こうということで駆けつけて、今日に至っている訳です。
ベトナム戦争に反対するという大変大事な皆さんの行動があって、私が関わったのは、亡くなった後に、警察が「学生側が轢いた」などというとんでもないこしらえ事をして、そして皆さんの運動を貶めるという行動に出たということは、これは私はあの時に関わって弁護士という仕事をしておりまして、大切な自分の生き様の一つであったと思います。
今、紹介していただいたように、1960年、樺さんが亡くなったのは6月15日なんですが、1月16日の岸首相が渡米する時は、(私は)弁護士になる前に司法研修所という最高裁判所の施設がありまして、そこで2年間、法律を実践においてどう進めるかということで裁判や検察や弁護士の修養をする訳なんですが、その研修所に行く前に、その時は自分も血が騒いで、この木橋のところを突っ込んで行った訳ですが、ちょうど自分の前のところで機動隊の列がある、向こうに押し返される。前の人たちはみんな中に入っちゃったんだけれど、自分は入られなかったものだから起訴されずに、デモに参加するというだけで済んだ訳です。そのために山﨑博昭君の轢殺説を流した警察に対して立ち向かうという、あの時誰か「警察がやった」と言わなかったらいけないと考え、警察のこしらえたのを解いちゃった訳です。そういう意味では、あの時に関わって行って、確かに警察がやったということは、その頃、私はまだ30を少し超えたくらいでしたが、それまでに経験したこと(大田区大森北の第2牧田病院で山﨑博昭の死体と対面し、医師の「脳挫滅」という判断を聴き、それが記された「死体検案書」を入手したことなど)からしても間違いないと今でも思っております。
今、辻先生からみなさんにお願いしたように、是非、その当時のことの知っている事を教えていただいて、警察がやったことは間違いないことなので、詳しくは機会を見ましてまた申し上げたいと思いますが、是非、真相の解明のために皆さんのお力添えをいただきたいと思っております。」

小長井弁護士073_1

「ありがとうございます。もうお一方だけお話を伺いたいと思います。当時、東大のベトナム反戦会議で羽田闘争にも闘ってこられて、この度『私の1960年代』(10・8刊、金曜日)という本を出版されました山本義隆さんの方から一言お願いします。」

●「機動隊の撲殺」報道が翌日には一変した

山本義隆「私は1967年の時は大学院の2年の時で、その前の年、ベトナム戦争が特に米軍の北爆が激しくなってきた頃にベトナム反戦会議というのを作って、これは大学院と助手が中心です。そんなんだったので、学生諸君ほど戦闘的にはなれなかったんですけれども、文京反戦の部隊として僕らはやっていました。羽田闘争を組む時も、文京反戦の部隊です。文京区というのは大きな工場とかなくて、零細企業しかなくて、反戦といっても本当に個別に小さな職場から来ている部分と、プラス東大の大学院と助手だったんですよ、文京反戦の場合は。そんなでずっと、その当時、文京反戦として王子とか羽田とかに行っとったんですけどね。
山﨑君に関して言いますと、たまたま僕の高校の7年後輩で、大手前高校なのかというのでびっくりしたんですよ。僕らの頃の大手前高校は、そんな雰囲気全然なかったですからね。僕も含めてそうですから、そういう諸君がいたのかというのが、とても。さっきの小長井先生の話がありましたけれど、その日の夕方の新聞は一部、機動隊の撲殺によることがかなり明確に書かれていたんですけれども、次の日になると一切その記事がなくなってしまって、学生が奪って運転した装甲車に轢かれて死んだという、それはみごとに全部の新聞がそうなったんで、その直後に書いた我々のビラも、一体何なんだと、前の晩の報道と全く違うではないかと、明らかにこれは作為があると、そういう内容のビラを出した記憶がありますけれども、ずっとそのことが引っかかっていました。
今回、辻さんや佐々木さんや山﨑さんのお兄さんがこういう運動を立ち上げられたので、僕も出来る範囲で協力しようと思って、去年もここに来たんですけれども、一緒にやってきましたので今後ともよろしくお願いします。」

山本さん

「ありがとうございました。大手前高校の同期のうちの一人として、佐々木幹郎さん、一言よろしく。」

●ベトナムの戦争証跡博物館に10・8羽田闘争が展示される

佐々木幹郎「あの鳥居、さっきから気になっているんですけれど、平和という文字が今年は、去年はあれはなかったけれど、シンボリックな文字が鳥居に付けられましたけれど、一つだけご報告しておきます。
私は山﨑さんと高校時代の同級生だったんですが、今日の講演会でも短くご報告しますけれど、ここではみなさんにゆっくり聞いて欲しい。
この8月に辻さんと2人でベトナムのホーチミン市に行ってきました。私たちのプロジェクトの目的は三つありまして、一つは羽田の近くに山﨑君の小さな追悼碑を作るということ、それとこの50年間の私たちの歴史、それから50年前の山﨑博昭の本当の死の真相をもういっぺん50年目にどこまでも突き止めたい、そういうことを含めた記念誌を出すということが二つ。三つ目は、最初から長い間かかってベトナムとの交渉をしてきました。私たちはベトナム戦争に反対するという運動をしてきた、そしてそれがベトナムにちゃんと伝わっていない。そのことを考えまして、日本における駐日ベトナム大使の方及び秘書の方と何度もお会いしまして、最終的に、ベトナムのホーチミン市にベトナム戦争証跡博物館というのがあります。3階建ての大きな建物です。そこに日本におけるベトナム反戦活動の歴史として、今現在はベ平連関係と日本共産党関係の小さな展示コーナーがありますけれども、この羽田闘争については一切展示されていない。山﨑博昭の遺影をそこに飾っていただいて、羽田闘争の歴史もそこに展示させてもらおうと、その交渉をずっとしてきました。
ホーチミンの博物館の方から、来るんだったら夏に来いという招請を受けまして、私と辻惠の2人がこの8月に行ってきました。私たちは最初は小さな、50センチでも1メートルでもいいから壁面が欲しいという交渉で行ったんですが、大変な逆提案を受けました。
私たちは写真とかいろんなものを館長にお見せしたんですけれども、こんな情報は全く知らなかったと驚かれて、高校時代の友人たちが50年目にこういうことをするというのは、ものすごく感動した。博物館の1階のホールに大きな部屋があるんですが、毎年1月から3月の3ケ月間特別展示をやっている。そこを使って3ケ月間展示をして欲しい。特別企画展をやりたい。そしてそこでは山﨑博昭の死を中心とした羽田闘争と、1960年から70年代にかけての日本の反戦運動の歴史を紹介する部屋を作って欲しい。特別企画展でそれをやって、その後はベトナム全土の大学を回って1年かけて移動展示をする。それをしたい。その二つをやった上で、ベトナムの人たちの反応を見て永久展示を何と何にするか決めたい、という私たちが思った以上に大きな提案を受けまして、10・8山﨑博昭プロジェクトとして全力でそれを引き受けて、来年の1月からやってくれと言われたんですが、それはとても時間がありませんので、再来年の1月に向けて、この年末から1年かけて資料を整理して展示の仕事をしようと思います。
山﨑博昭プロジェクトが大きく発展しました。それと同時にベトナム日本友好協会の会長、この方は今、ベトナム政府の閣僚なんですが、この方からも特別賛同人としての英文メッセージをいただきました。追悼碑が出来た時は参列するということです。
1967年のここでの羽田での闘い、ベトナム戦争に反対するという闘いが、ベトナムの人たちに届いて、そして50年後に交流がそういう形で出来るようになったというのは皆さんのお陰です。このプロジェクトが去年から始まって持続してきたこのエネルギーのお陰だと思います。
これから資料のセレクト、それは山本義隆さんを中心に私も一緒に頑張りたいと思います。どうぞこれからもお力添えをいただけますようよろしくお願いいたします。」

佐々木さん092_1

「ありがとうございました。それでは、献花をして、それに向かって黙祷をしたいと思いますが、まだ記念碑が建っておりませんので、この場所で山﨑建夫さんから献花をしていただいて黙祷したいと思います。」

献花と黙祷101_1

参加者記念撮影106_1_1

(終)



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