6月30日、大阪シンポ、10・8以降の運動の継承めぐり議論深める(記事と写真、2018年)

6月30日(土)、大阪で開催したシンポジウム「つたえたい、この思い~あのとき目指した反戦・平和とは何だったのか」(TOGホール)に約70人の方のご参加がありました。ありがとうございます。
この日の集会の司会は関西運営委員会の中谷俊雄さん(大手前高校同窓生)でした。
シンポジウムの最初にプロジェクト代表の山﨑建夫さん(山﨑博昭兄)から挨拶がありました。ここまでの多くの皆さんのご協力に感謝し、当初の目標を達成した上で、さらにプロジェクトを継続していく思いが述べられました。

続いて関西運営委員会の新田克己さん(同事務局長)が活動報告をしました。2014年10月の東京での最初の講演会から4年間の、東京と関西での講演会やベトナムでの展示会等のイベントの歩みを、チラシと内容紹介のスライドにまとめ、一つひとつ丁寧に説明しました。参加者には分かりやすいと大変好評でした。
続いて、この間、10・8山﨑博昭プロジェクトの歩みを映像に記録している代島治彦監督(「三里塚のイカロス」監督)によるビデオを放映し、代島さんから記録することの意味が語られました。
シンポジウムに移り、進行を当プロジェクト事務局長の辻惠さん(弁護士)が務めました。

 

第1部として、まずシンポジストの三浦俊一さん(釜ヶ崎日雇労働組合副委員長)が問題提起の発言をしました。
三浦さんは、賛同人になり、最初はこのプロジェクトに違和感を抱いていたが、第2ステージに進むと聞いて、積極的にかかわろうと思った、と語りました。そして、釜ヶ崎で労働運動をやりながら、沖縄・辺野古に33ヶ月連続で通っているという自らの経験を語り、それを踏まえるなら、若い人たちの闘いをどうつなげるかが大事で、そのためにはわれわれ世代がどう語りかけるのかが重要、と強調しました。
それを受けて、進行役の辻さんの質問に答える形で、進められました。
 昨夜、「ナチスの手法と緊急事態条項」というタイトルの集会で講師の石田勇治氏(東京大学教授、歴史学)は、「東大で教えている学生は、よく本を読み、よく考えている」と述べられたが、実際に若者と接しておられてどうか。
三浦 反対派と機動隊の衝突を見て、日本人同士なのになぜ衝突するのかなどの疑問が出されたりするが、現場で感じることが大切で、釜ヶ崎の越冬闘争に参加する若者がいる。若者には行動力があると感じます。
10・8羽田闘争の後、ブント(第二次共産主義者同盟)内分裂とか党内闘争とかがあったが、現時点でどう議論を作っていくのか考える必要があります。
 若者と話をするにあたって気を付けていることは何か。
三浦 決めつけない、結論を出さない、一緒に考える、ということです。
運動の現場で実践している三浦さんの話は、重みがあり、説得力がありました。

続いて、大野光明さん(滋賀県立大学准教授、スワロウカフェ@京都)から「運動経験の継承をめぐって」と題する報告を受けました。
大野さんは、配布されたレジュメに沿って、スライドを何枚か見せながら、第1に「記憶をめぐる闘い」の重要性を指摘しました。
今の現実は、国家権力が闘争に対して否定的烙印を押して体制を維持することに加えて、アカデミズムにおいても闘いを鎮圧し、さらには大学内の管理の進行という形で、権力関係の中で闘争の記憶が固められている、と語りました。10・8羽田闘争の山﨑博昭追悼50周年記念誌『かつて10・8羽田闘争があった[寄稿篇]』は、これに対する貴重な闘いであるが、経験と声の多様性を、非当事者に問いを提示する努力が必要であり、さらに沈黙の意味を検討する必要がある、と指摘しました。すなわち、死者の声、未だに語れない心情、饒舌から排除されている声に耳を傾け、検討することが必要、と述べました。
大野さんは、第2に運動経験の継承という課題を指摘しました。
鎮圧による一方向的評価が、成果と効率で物事・人を測る新自由主義の現代社会で増幅されている結果、社会運動は意味がなく面倒くさいとイメージ化され、痛みは以前より見えにくくされている、とし、そのことに対して、出会いと対話の方法を模索し、過去の断罪ではなく、過去の蓄積を聞くことを通して現実化する努力が必要である、と語りました。
具体的には三つの視点から考えたいとして、その第一は、何を、なぜ、どのように、したのか/しなかったのかということ。現代の若い人々と闘争経験者との間で、問題意識・動機・経験を、そして闘争の持続・転形の在り方を、それぞれシェアすること、をあげました。例として、山本義隆著『私の1960年代』(2015年、金曜日)、小杉亮子著『東大闘争の語り――社会運動の予示と戦略』(2018年、新曜社)に触れました。
第二は、スタイル・戦術・原則・思想・理論を、具体的に示すこと。
第三は、暴力について、何が暴力なのかについて考え、構造的暴力を問題にすることと暴力(国家や軍隊)を否定することの両立を課題とすべきであり、非暴力がすなわち無力でなく、合法でもないことを理解し、「許容された不服従の空間」を広げ、つなぎながら、暴力を意識的に控える市民的不服従の方法を、豊かにしてゆくことが求められる、と語りました。例として、2012年の大飯原発ゲート前実力封鎖の闘いをあげました。
大野さんの話は、沖縄闘争の研究をはじめ日本の社会運動を対象化してきている高い知見から問題提起したもので、その新鮮な切り口に参加者はいろいろ考えさせられたのではないでしょうか。
この後、会場から発起人の水戸喜世子さん(「子ども脱被ばく裁判」を支える会・西日本代表)が、福島原発事故で被ばくした子どもたちを守る闘いの重要性について、問題提起を行いました。

休憩の後、第2部、シンポジストと会場を交えた意見交換に移りました。

 大飯原発前の話をお聞きして、1972年に米軍相模原補給廠のM48戦車を止めた実力阻止を思い出しました。昨年の国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の展示会「「1968年」無数の問いの噴出の時代」は画期的なものでしたが、暴力の問題に及ぶ可能性のある三派全学連や新左翼党派の活動は取り上げられていませんでした。どう思われましたか。
大野 暴力の問題を避けたためではないでしょうか。暴力・党派をめぐる問題は、複雑な問題で、展示のスタイルで取り扱うのがいいかという問題があるし、オーラルヒストリーの方がいいかもしれないという方法論の問題もあったと思います。
(会場から)
Aさん 党派の問題は難しいが、検証したい。
Bさん 暴力革命って何なのか、ぴんと来ない、教えて下さい。
Cさん 暴力と言うとテロ集団・非国民という話になるが、かつての植民地朝鮮の安重根(アン・ジュングン、1909年10月、伊藤博文を殺害)は義士とされている。
Dさん 6月23日の沖縄集会での中3女子の詩の朗読は素晴らしく、中2の孫に何を考えているのか聞いてみたい。
 暴力革命と言っても答えがあるわけでない。羽田闘争が実力闘争の原点であると考えるが、この意味を今どうとらえるか。柴田道子さん(児童文学者)は当時、羽田空港の待合室で抗議の声を上げたが、これも実力闘争と言えるわけで、色々考える必要があるでしょう(註:柴田道子さんは羽田空港の滑走路に進み出て、飛行機の出発を止めようとした。柴田道子著『ひとすじの光』1976年、朝日新聞社を参照)。
三浦 実力闘争は、当初は角材・ヘルメット、それから火炎瓶だった。しかし69年4・28沖縄闘争で勝てなくなったので、その後は武装闘争、軍、そして連合赤軍事件まで行った。何かを見落としたからだと考えるが、暴力を行使するかどうかの権利は保留したいと思います。
大野 抑えようのない荒ぶる力があるということは大切であるでしょう。しかし、暴力の手段化は運動が切り開いた政治を摩耗化させるし、逡巡や様々な立場を切り捨ててしまいます。プロセスを丁寧に議論することが必要で、非暴力・暴力の否定が重要です。
 4・28で勝てなくなったという心情は分かるが、勝つということをどう考えるか、目の前の機動隊に勝つかというより、この社会が資本の論理で成り立っている、そこの所でどう勝つかという視点もあり得るのではないでしょうか。
大野 伝わるということが重要で、大飯原発ゲート前で、「ガンジーだよ」「ガンジー」という声が期せずして挙がったことが、印象的だったです。
議論はまだまだとば口に差し掛かったところであり、さらに意見交換を続けたかったのですが、時間いっぱいとなり、この日のシンポは終了となりました。続きは、今年の秋の集会以降の課題としたいと思います。

 

発起人の北本修二さん(弁護士)から、東京と関西で今秋51周年の集会を予定していること、ベトナムのカントーで昨年のホーチミンと同様の展示会の開催を目指していることなど、今後の活動予定が提起されました。
そしてこの日に参加した発起人が前に出て、自己紹介しました。水戸喜世子さん、東京から参加した山本義隆さん(科学史家、元東大全共闘議長)、同じく山中幸男さん(救援連絡センター事務局長)、辻惠さん、北本修二さん、山﨑建夫さんからこもごもこのプロジェクトを持続していくことの思いが語られました。
最後に、山﨑博昭君の大手前高校同期生である黒瀬準さんが、山﨑博昭への個人的思いを含めた閉会挨拶を述べられ、集会を終えました。
その後、近くの居酒屋で懇親会をもちました。あちこちでシンポジウムの議論の続きが語り合われ、よい交流の場となりました。
皆様、ご参加ありがとうございました。

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