『飯舘村からの挑戦 』を読んで考えたこと/山本義隆

『飯舘村からの挑戦 ― 自然との共生をめざして』(田尾陽一著)を読んで考えたこと
原発事故からの復興とは,新しい社会を作ることである
山本義隆


田尾陽一著『飯舘村からの挑戦――自然との共生をめざして』(2020年12月刊、新書版320ページ、1034円(本体940円)、筑摩書房)

Ⅰ.福島県飯舘村

 書名にある飯舘(いいたて)村は,阿武隈山系の海抜400 ~ 600メートルの高原状の村で,福島県の北部,事故をおこした福島第一原発から北北西約40キロに位置し,面積230平方キロ,うち75%が山林で,農地は2200ヘクタール。広い村である。たとえば千葉市の面積272平方キロと比べれば,その広さがわかる。広いだけではなく,福島原発の事故までは農業・林業・畜産酪農業を中心とし,「日本で最も美しい村のひとつ」をかかげて「までいな村づくり」が全村あげて進められていた村であった(「までい」とは「丁寧」の方言)。

 2011年3月11日の東日本大震災の際の東京電力(以下,東電)の福島第一原発の事故が飯舘村の人たちの運命を変えた。12日に福島原発1号機が水素爆発を起こし,その日の夕方,政府は原発から半径20㎞圏内の住民に避難を指示し,そのとき飯舘村には約1500人の人たちが逃れてきて,村はその人たちのために炊き出しを行なった。事故はさらに14日の3号機の爆発,15日の4号機の爆発と続き,そして15日,それまで太平洋側に吹いていた風が北西に変り,吹き上げられ大量の放射性物質は内陸部に運ばれ,折からの雨と雪で飯舘村に降り注ぐことになった。文部科学省に備えられていた原発事故にさいして住民を放射線被曝から護るための被害予測システムSPEEDI(緊急時迅速放射能影響ネットワークシステム)の試算結果は公表されず,結局,飯舘村全村が計画的避難区域と指定され全村民に村外への自主避難が指示されたのは4月22日になってからであった,それまで飯舘村の人たちは,なにも知らされずに強い放射線に晒されていたのであった。

 こうして飯舘村6000人のコミュニティーは崩壊した。以来,放射能に汚染された村は,2017年3月に長泥地区をのぞいて避難指示が解除されるまで,当時3000頭と言われた家畜の世話等でどうしても必要な人が昼間の限られた時間に戻る以外,事実上無人となった。2017年以降に帰村した人は約1400人,大部分は高齢者である。帰村が認められたといっても,村の面積の大部分を占める山林に降り注いだ放射性セシウムはほとんど手付かずに残されている。

 ちなみに,原発から40㎞も離れているこの飯舘村は,電源三法による交付金の対象外で,原発建設にともなう「恩恵」とは一切無縁であった。
 4歳のときに広島で被爆し,大学で物理学を専攻し,大学院で素粒子物理学と加速器の研究に携わっていた本書の著者・田尾陽一は,2011年の原発事故に衝撃を受け,事故直後の3月25日,単身で第二原発近くの楢葉まで赴き,後日語っている(以下、『飯舘村からの挑戦――自然との共生をめざして』から引用)。

 2011年3月11日の東日本大震災直後,私は地球の表皮にへばりつく日本列島が自然の力に翻弄れていることを実感した。そこに住み続けるには,日本列島のあちこちにそれぞれふさわしい自然条件を見つけて,分散して自然と共存することが安心,安全だと考えてきた。「多極分散型国土」とか「地方分権ネットワーク社会」とか過去にむなしい言葉だけがあったが,この巨大地震を経験し,今こそ安心・安全のためにもその方向に向かう機運が生まれるだろうと期待した。ところがそのようなことは全く話題にもならなかった。ほとんどの政治家・官僚・メディア・知識人が中央集中志向にとらわれており,東京集中政策を支持し,それこそが経済成長を取り戻す道だといわんばかりである。野党は中央集権体制を前提に政治権力を取りたいと熱望している。要するに,大震災から教訓を得ていないということだ。(p.11)

 地震だけではなく東電事故との,言うならば天災と人災の二重の被災地でもある福島への著者のこだわりの原点であろう。そして著者は,その年の6月,飯舘で農業と畜産を営んでいた菅野宗夫・千恵子夫妻に出会い,何人かの友人と語らって「ふくしま再生の会」(以下「再生の会」)の立ち上げを決意し,それはただちに実行に移された。

 実は私は,著者とは大学の教養学部のクラスから理学部の物理学科そして大学院まで同じで,長い付き合いがあるのだが,それにしても本書を読んで,著者の果断な決断力そして行動力にはあらためて感心させられた次第である。

Ⅱ.ふくしま再生の会

 その「再生の会」の活動形態そして組織原則として「何かをやるとあらかじめ決めて進めてきたわけではない。支援者という立場でもなく,現地で,協働して,継続して活動するという原則を決めているだけだ(p.293)」とあり,もう少しフォーマルには,「現地で継続して協働し,事実をもとに活動し,被害者の生活・産業の再生と創造,これを通して新しい公共空間の創造,社会の創造的変革を目指す,自立して思考する諸個人のあつまり(p.225)」とその目的が語られている。

 ここに「現地で」とあるように,再生の会の活動は徹底的に飯舘にこだわって,飯舘に集中して行われている。それはもちろん,直接的には失われた飯舘の自然と社会を取り戻すためであるが,それと同時に,未曾有の原発事故からの回復のモデルケースを創り出し世界に示すためでもあり,したがってその眼差しは,飯舘の内部に注がれているだけではなく,世界にも向けられている。現実にインターネットを駆使して世界に発信し,国内の大学生や高校生だけではなく,留学生や外国からの見学者をも多く受け容れ,さらに韓国や米国でも講演し,活動はきわめてインターナショナルに展開されている。

 「事実をもとに」とは,イデオロギーにとらわれずに,ということであろう。

 「継続して」という点では,「ふくしま再生の会」がこれまですでに10年の活動を記録し,そればかりかNPO法人としてメンバー300人を越えるまでに成長し,今もなおさらなる活動を展望していることで,十分に実現されているといえよう。それは,自然災害の後の一過性のボランティアの活動とは本質的に異なるものである。そのことは人災としての原発事故が地震や台風等の自然災害と本質的に異なることを正しく反映している。

 そしてまた「協働し」とあるが,その意味は,ひとつには現地の村民との関係が支援・被支援という上下的で一方向な関係ではなく,共に学び共に働くという水平的で相互的な関係だということであり,そしていまひとつには,開かれた運動として他の諸団体・諸機関との協力関係を拒まない,いやむしろ積極的に関係を求めるということであろう。

原発災害は,福島のみならず日本にとっても未経験・未曾有の事態である。世界にも日本にも本当の専門家は皆無である。そこで,専門分野を越え公私を超えた取り組みが必要になっている。「ふくしま再生の会」は“やってみる”ことが重要だと考えており,いろいろな専門家・大学・研究機関との共同の取り組みが行われている。(p.110)

 この表明が,著者および著者を中心とする「再生の会」の基本的なスタイルをよく表している。それにしても,どのような立場の人に対してであれ,どのような地位の相手であれ,臆することなく協働と協力を呼びかけ,ポジティブな関係性を築き上げてゆく著者の手腕というか,むしろ正確には著者の人間的なスケールとキャパシティーの大きさには,ほとほと感心させられる。

 「再生の会」の当面の具体的な課題として「1.環境放射線測定,2.放射能測定,3.農業・林業・畜産業の再生,4.生活・コミュニティーの再生」が挙げられている。その具体的な詳細については,本書を直截読んでもらうほうがよいが,協働ということの実際として,たとえば,放射線の測定においては村民との共同作業として,そして除染の実験でも村民から多くを教わる形で実践されていることは記しておくべきだろう。

 放射線の測定について書かれている。

 2020年3月まで,飯舘村役場の予算が付き各行政区から住民2人,総勢40人が,ふくしま再生の会やいいたて協働社のサポートで,自分の行政区を当初月2回,近年は4回測定を続けた。その貴重なデータは,村の予算で私たちが年間一冊のわかりやすいパンフにして,全村民に配布し続けてきた。2020年3月でこの事業の予算が,突如何の説明もなく打ち切られた。私たちは,8年におよぶ村民主体の全村放射線測定が飯舘村で行われたということを誇りに思っている。……今後は,〔帰還困難地区として〕まだバリケードの中にある長泥地区住民の要望にそって,ボランティアで住民と会員による測定を続けていくつもりである。(p.121)

そして続けられている。

 また長泥以南の〔汚染のより激しい〕浪江町等の山間部について自然環境調査と並行して放射線測定を行う新しいプロジェクトの実現を追求している。……私の構想を聞いたKEK〔高エネルギー研究機構〕や海外の科学者が,その意義を認め期待をもっていることも事実である。20~30年と無人の,放射能汚染された閉鎖自然空間で何が起こっているのかを,科学的に継続・観測を続け,その結果を世界と共有することは歴史的な責務であるが,この国にはそれを理解できる人は少ない。(p.121f.)

 先にも指摘したように,飯舘への徹底したこだわりが,そのことのゆえに国際的な意義をもつことの自覚である。

Ⅲ.原発事故の本質とは

 世界史的な事件としての福島の原発事故は,20世紀後半の工業文明そのものの破局を表している。それゆえ,その自然的かつ社会的影響を長期にわたって詳細に調べ上げ世界に公表することは,世界最大最悪の原発事故を起こした日本の「責務」だとする,本来ならば国の指導者こそが持たなければならない自覚と認識が,ここにはある。しかしそれにしても,そのような重要な「責務」を私的でボランタリーな組織に委ねっぱなしで,これまで「技術立国」を謳ってきた国が責任を負おうとしない,この国の貧しさを痛感せざるを得ない。

 原発事故はその被害が空間的には国境を越え,時間的には何世代にも及び,その意味ではそれまでの,たとえば石油コンビナートの火災とか爆薬貯蔵庫の爆発のような事故とは,根本的に異なるものである。崩壊した東電福島第一原発四基では,10年経た今なお人間の立ち入りが拒まれ汚染水が発生し続けている。はっきり言ってお手上げなのである。そもそもが,原発は,通常運転でも放射性廃棄物,いわゆる「死の灰」を生み続け,それらはたとえ無事故で稼働し終えたとしても残される廃炉の中心部とともに,10万年という人間の時間感覚ですれば事実上永久的に隔離して保管されなければならない。もちろん事故が起ればその危険が人間の生活空間に直接侵入し,現実の人間社会に多大な影響を与える。

 今回の事故で放出された毒性の強いセシウム137の量について,日本政府は2011年8月に広島原爆によるセシウム137の168倍と発表したが,海外の研究者による独自調査では,その3倍にのぼる可能性が語られている(W.Biddle『放射能を基本から知るためのキーワード』梶山あゆみ訳,河出書房新社)。そしてそれは半減期30年でベータ線を放出してバリウム137にかわり,そのバリウムが強力なガンマ線を放出する。もちろんその大部分は太平洋に落ちたと考えられ,飯舘村に落ちたのはわずかな部分であろうが,それでも量は少なくはない。いずれにせよセシウム137は半減期30年ゆえ,事故から10年経た現在も (1/2)10/30=0.8,つまり事実上8割が飯舘の山林に残されている勘定である。その一部は雨に洗われ川に流されたかもしれないが,大部分は地面表層に染みこみ,苔等の植物に吸収されて残っているであろう。

 こうして,長期にわたって飯舘は人の住めない空間に変貌したのであり,そのことは,飯舘の農業や林業や畜産業に甚大なダメージを与えただけではなく,村落の共同体を破壊し,家族を分断し,人々の精神に多大な傷を与えたのである。もちろん,原発事故直後の被曝の人体への影響が今後「晩発性障害」として現われる可能性も零ではない。

 飯舘村の一部をのぞき避難指示が解除された2017年,著者・田尾陽一は生活拠点そのものを飯舘に移す。そのことは原発事故の深層をあらためて著者に開示することになった。

 私は,飯舘村に移住してここに2年間住んでみて,原発事故の被害地の厳しい現実があることを思い知らされている。それは未だ続く放射線・放射能の影響,それによる農林畜産業の打撃もさることながら,住民の精神・気持ちへの打撃が大きいと思う。国や行政が物理的な除染をやっても,古い家を壊し新しい施設をつくっても,賠償金を支払っても,人々が受けた精神的打撃は消えない。(p.175)

 こうして筆者が到達した原発事故の本質として,著者は2015年のワシントンの講演で語っている。

 福島原発事故は,放射能・放射線の直接的被害だけでなく,避難による家族生活の破壊,コミュニティーの破壊,農業・産業の破壊,精神・文化・伝統の破壊を引き起こしたことを認識しなければ,人類の未来はないだろう。(p.227)

 著者のその表明を貫いているのは「福島原発事故被害地の問題は,根本的には21世紀の日本・世界の人間が自然とのかかわりをどう考えるかということである。現在の文明を支える精神の根源的な見直しにつながっている(p.299)」という確信であろう。

 端的に,福島原発事故からの復興とは,新しい社会を作ることであるということの認識である。

Ⅳ.ポスト福島を見据えて

 そしてこの発言は,「福島後は,私たちは全く違う世界に生きているのだという自覚が必要です,旧来の政治も,経済も,哲学も,科学・技術も,教育も,再度根本から見直し,この世界にその内部から何を残し何を破棄するか,思考を重ねなければならない時だと思います。(p.228)」という根源的な認識へとつながってゆく。

 そして,そこに至る唯一の途としての「地方分権」が,飯舘での10年の実践に裏打ちされた教訓として語られている。

 中央政府とその周辺が破壊した地域の自然と人間生活は,どんな困難でも地域の力で再生するしかありません。外部から上から目線で安易なことを言う必要はありません。地方自立こそ,現代社会のすべての出発点です。復興事業は,福島の人々が財政執行権を持ち実施すべきです。食糧・エネルギー・高齢者問題は,福島の人が自立的に解決できるでしょう。現在の中央政治・官庁・専門家が,どうしても地域を理解できないなら,そろそろ明治以来の官僚制全体主義を抜本改革する時期だと思います。(p.230)

 こうして,ポスト福島の展望が語られる。注釈を交えることなく,著者の肉声を載せるほうがよいだろう。

 日本の典型的な山村で,林業,牧畜,酪農,農業を組み合わせた循環型の産業を振興しながら,この地に根付く伝統・文化を発展させていくことの意義は,飯舘村のみにとどまらず,福島,日本そして世界の今後にとって計り知れない意味がある。近代化がさらに進む21世紀社会における意義として重要である。現在世界各国で語られる社会目標は,経済成長・科学技術振興という二つの言葉一色になっている。これらを各国が競って追求するその先に待っているのは,直感的には文明の崩壊ではないだろうか。コロナの来襲は,このことを予感させる。今や緊急に,新しい社会目標の再構築が必要である。そのことは,21世紀初頭に最悪の原発事故を起こしたこの日本から始めなければならない。(p.300)

 私自身は,正直なところこの著者ほどの行動力はないけれども,しかしこの最後の提起には全面的に同意することができる。 

 明治期に日本は独立を確保し,アイヌ支配と琉球処分を強行し、さらに国際的なステータスを獲得するために「殖産興業・富国強兵」をスローガンに、『女工哀史』に表される女工や炭鉱夫、農民への過酷な搾取・収奪をもって産業と軍事での近代化を達成した。こうして「脱亜入欧」を果した日本は,20世紀に入る前後に覇権主義的ナショナリズムに突き動かされて日清戦争、日露戦争をとおして台湾、次いで朝鮮を植民地支配した。第一次世界大戦後,「高度国防国家の建設」をスローガンにして,総力戦体制によって軍事大国に突き進み,資源を求めて東アジアの諸国を侵略し,あげくに1945年8月の破局としての敗戦を迎えることになった。

 しかし戦後,日本は,その覇権主義的ナショナリズムを十分に反省することなく,戦時下の総力戦体制の遺産をもとに復興をとげ,戦争責任をあいまいにした保守政党と中央官庁と財界からなる権力ブロックを確立させた。そしてその中央集権的指導の下で,日本は経済成長をなしとげた。そのことは,国内では公害や環境破壊そして地域の共同体の破壊をともない,さらにはおりからの朝鮮戦争・ベトナム戦争での特需等にも助けられていたのであり,このことは戦後の経済大国化が再びアジアの民衆の流す血によって購われたことを意味している。

 このように明治以来,国内的には技術立国による重化学工業国家の建設をめざし,国際的には列強主義的ナショナリズムに突き動かされてきた日本は,1945年の破局の後も,主戦場を軍事の分野から経済の分野に移し替えただけで,「経済成長・国際競争」をスローガンに戦後版の総力戦を戦い,こうして20世紀末に出来上がったのが,エネルギーと資源を大量に浪費し,大量生産・大量消費・大量廃棄にはげむGNP世界第2位の経済大国日本であった。そしてその挙句に,第2の破局というべき福島の原発事故を引き起こしたのである。そして同時に,現在,明治以来はじめての人口減少と,急速な高齢化社会を迎えている。そのことは成長経済持続の客観的条件が失われたことを意味しているが,にもかかわらず経済成長を第一義とする新自由主義経済は,労働者の貧困化をもたらすに至っている。そして今,新型コロナウイルスによる感染症COVID-19のパンデミックで,第3の破局を迎えつつある。

 福島の原発事故と新型コロナウイルスのパンデミックは,世界史的出来事である。そのことは,中央集権的権力によって指導され,資源とエネルギーを大量に消費する重化学工業を基幹産業とし,巨大化した都市に人口が集中している20世紀的国家の終わりの始まりとみることができる。著者・田尾陽一は,飯舘の再生という実験のなかに,その先の社会のあり方を展望しているのである。

 そのことを10年に及ぶ実践をふまえて語っていることにおいて,本書『飯舘村からの挑戦』は,重く貴重な提言であるといえよう。多くの人に読んでもらいたい。新書というコンパクトな書であるが,中身は濃く重い。
 ただ,無理に新書に収めようとしたからであろうか,添付されている幾つもの写真が小さくて見づらいのは,残念である。

2021年4月30日
(やまもと・よしたか 科学史家、元東大全共闘議長)



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