『きみが死んだあとで』を観て:賛同人諸氏の感想

『きみが死んだあとで』を観て:賛同人諸氏の感想

 代島治彦監督作品『きみが死んだあとで』が引き続き各地で上映されています。当10・8山﨑博昭プロジェクトの賛同人の方たちの感想、批評をご紹介します。勝手ながら、見出しは事務局でつけさせていただきました。

 

彼はぼくと誕生日が8日しか違わない

竹内良男(「〈ヒロシマへ ヒロシマから〉通信」)

 「10・8 羽田闘争」と言っても今の若い人たち、何のこと? という顔をすることが想像つくのだが、間違いなく、尖(とが)っていた時代がかつてあったのだ。
 その1960〜70 年代の学生たちの、反戦平和を願う運動の中には実にたくさんの若い死者たちの名前がある。その一人が京大生の山﨑博昭くん。彼がもし生きていたら・・・、と会ったこともないのに時々思うことがある。
 彼はぼくと誕生日が8 日しか違わない。彼は死んで、ぼくは生きて歳月を重ねた。
 20 歳の誕生日を生きて迎えられなかった山﨑博昭くん、1967 年10 月8 日羽田弁天橋、18 歳11 ヶ月の死。
4月24日 「ヒロシマ通信」№748から転載。
(たけうち・よしお)
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同時代に同じ場所にいた私は……
信田さよ子(原宿カウンセリングセンター顧問)

 「きみが死んだあとで」@ユーロスペースを最終日がんばって観た。3時間超えで途中10分の休憩をはさんだが長さを感じさせない。羽田闘争で山﨑博昭さんが頭部を狙った機動隊に撲殺されたことが導入、後半は赤軍派や反原発運動まで触れる大作だった。
 同時代に同じ場所にいた私が書いてきたのは、その後、臨床心理学に専攻を変えてからの経験に限られている。半世紀あまり前の経験は映画の中で誰かがインタビューで語っていた。「語れない」のだ。
 若松孝二「実録あさま山荘への・・」2008から13年後の本作は改めて東大闘争と全共闘運動についても迫る。登場する誰もが苦悩し明晰に整理をつけるわけでもない姿勢を示す。順次全国公開とのこと多くのひとに見てもらいたい。
 監督は代島治彦さん。とかく団塊世代は下の世代から批判されがちだったが、そのインタビューする姿勢からは敬意が感じられた。折原浩(当時東大教官だった)による総括も再読したい。
4月24日 Twitterから転載。
(のぶた・さよこ)
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「山﨑ショック」を受けた世代
西川哲(元大学教員)

 昨年、大阪で「きみが死んだあとで」を拝見致しました。1967年10月8日は日曜日、翌9日は月曜日だったと思います。高校1年生でした、新聞の朝刊を読み、俗に云う「山﨑ショック」を受けた世代です。1969年11月13日は糟谷さんが扇町公園でやはり機動隊により虐殺された年で、高校3年生でした。
 山﨑さん、糟谷さんの死を受け止め、以降の生き方に随分影響されました。来月、古希を迎えますが、お二人に恥ずかしくないように余生を過ごすつもりでおります。
4月24日。
(にしかわ・てつ)
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全共闘運動の歴史的意味を改めて思う
小林一(地域づくりプランナー)

 1967年10月8日の佐藤訪ベトナム阻止羽田闘争で亡くなった同世代の京大生・山﨑博昭さんの人生と取り巻く友人達を中心にあの時代から今を振り返るドキュメンタリーです。昨年の三島由紀夫vs東大全共闘に続く全共闘もの、語ればキリがないのですが、私の印象を、順に記すと、
 1967年4月、彼は京大、私は東大入学ですが、政治への関わりということでは、大変な違いがありました。大阪出身の彼は、高校時代からのリーダー格の活動家で、大学入学後も、自然に学生運動の中心に入っていき、1年生の秋に命を落としています。私の方は、神奈川のミッションスクール出身で、受験勉強の息抜きにサーフィンを楽しんでいた純粋ノンポリ派、入学した頃は駒場も立て看板は並んでいたものの、まだまだ日常の学生生活、同じクラスでも、東京―地方、公立―私立それぞれで、政治―学生運動に対する熟度がずいぶん異なっていたのを思い出します。その中で、67年10月の羽田闘争は、まだまだ遠いところの出来事という感じでしたが、こうして振り返ると、この時から、学生運動が活発化していったといえますね。

 その頃から本郷での医学部の闘争が燃え上がり、学問・研究のありようへの問いかけ、産学協同反対が叫ばれ、駒場でも闘争の渦中に入っていきました。羽田闘争の背景のベトナム戦争への反対も当時の主潮、左翼運動が、被害者の立場からのものでなく、加害者の立場からのものに変質したという指摘が映画の中でなされていたのは同感です。
 身近なことで記憶に残るのは、1968年10月の国際反戦デー・新宿動乱、私も四谷あたりにいたと記憶していますが、この時は、多くの友人が逮捕されました。生業となる都市計画を研究しようということで都市研究会に入部し、学友会の委員になり、1968年11月の駒場祭では、文化サークルの展示・イベントのまとめ役を務めました。その時のポスターが故橋本治さんの「止めてくれるなおっかさん……」、コンペのもう一つの有力案は校門のバリケード写真、橋本案を選んだのは、主戦場の本郷―御茶ノ水―神田からは離れた駒場のある種の文化性が表れていたと今でも思っています。

 翌69年1月は、安田講堂陥落、この頃私の方は、ゲバルト的な戦い方とセクト主義についていけないところがあり、高校時代の友人と絵画旅行に行っていました。そういう意味では、この安田講堂が私の中では、一区切り、実際、運動の方も収束の方向に向かって行ったように思います。同年5月の例の三島由紀夫と東大全共闘の対談は、当時の学友会の仲間達の仕掛けによるもの、前の方に座って参加したものですが、正直「戦い済んで日が暮れて」という感じでした。全共闘時代は青春の一コマ、色々なことを経験し考えた期間だったと改めて思うのですが、振り返るとわずか1年半くらいの出来事だったということに驚きます。

 今回の映画によれば、安田講堂以降、大学闘争が全国に広がっていった、同時に、セクト間の争いも激化し、結果的に、学生運動全体が収斂していったということも、この映画をみてそうかと思ったものです。丁寧に取材・編集された山﨑さんのご家族や同志の方々のその後の生き様をみて、政治中心の日本の歴史の中では束の間の出来事ではありますが、団塊の世代の生き様に大きな影響を与えたという意味では、全共闘運動の歴史的意味は大きかったと改めて思うところです。色々の見方はあるものの企業戦士?として日本の経済成長を担い、少なくとも戦争を起こさなかったということは評価されていいかと思います。

 映画の終わりの方で、ベトナムの戦争博物館のオープンセレモニーに招かれた東大全共闘議長の山本義隆さんがご挨拶で、全共闘運動の一つの意義はこうしてベトナム戦争を終結させ平和がもたらされることに貢献したことだと言っていたのも印象的でした。私の推察では、ベトナムでドンズーという日本留学志望者の学校を創設したH先生が山本さんと原子物理学科で机を並べていた方、わがアジア起業家村にも同校の優秀な卒業生が数名いて、日本でいい仕事をしているのは、特筆しておきたいと思います。

 私自身のことを言えば、アジアサイエンスカフェからすぐの多摩川に出ると、対岸に山﨑さんが亡くなった弁天橋が臨まれ、カフェ入居のベトナム人のAさんは、ドンズーの卒業生のリーダー格、日越ビジネス支援ビジネスを幅広く展開しています。不思議なご縁を感じます。
 同世代の方はもちろんですが、団塊の世代にひと言ある方、研究者の方……是非ご覧ください。
6月5日。
(こばやし・はじめ)



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