2023年秋の関西集会に参加して

日の丸をめぐって ――2023年秋の関西集会に参加して――

福本 和夫(会社員)

去年11月、1967年の羽田闘争で山﨑博昭さんが亡くなったことを追悼する大阪の講演会に、現在、大学などで社会運動をしている若者が来ていた。話しを聞かせて頂いたが、本当に頭が下がる思いだった。

私の時代から見ると、圧倒的に、大学当局が学生の活動を締め付けている中で、本当によくやっていると思う。

とくに、話しのなかで、よかったのは、司会役の仲間がふった問いに対し、若者が「大学で学生運動が引き継がれていなくても、自分たちでやればいいんですよ。自分たちで作ればいい。」と答えていたことだった。その通り。

私も、30数年前、首都圏の大学に入ったとき、目立って運動をしている人はいなかった。民青ぐらいだ。

そのうち、じっくり観察をしていると、活動をしている先輩がいた。しかし、私が入学したのは、自分の大学でノンセクトの学生運動が盛り上がったあとだったようだ。

ちょうど、昭和天皇が死去したときだったので、日の丸を大学に揚げるか揚げないかで、学校中がもめた。共産党系の大学教授、大学職員の組合、自治会はなんとか揚げない理由を探し求めていた。そのときに、ノンセクトの先輩が突然、学内に現れ、活動を始めたので、仲間に入れて頂いた。

受験教育を俺に無理強いし、元々、活発なガキだった俺を、引きこもり、不登校までに追い詰めた毒親に対する家庭内暴力で、半分、自暴自棄になっていた。25歳までに機動隊に突っ込んで死のうと、学生運動をすることだけを目的に東京の大学に進学した。このため入学後、学生運動の「が」の字もなく、拍子抜けをした。そこで、隣の大学に友人を作り、新左翼の仲間に入れてもらい、三里塚闘争や反天皇制の活動現場に参加させてもらった。

こうしたなかだっただけに、自分の大学でも新左翼ノンセクトの仲間がいることに感動した。当時、俺はいわゆるゲバルト文字が嫌いだということで、普通の習字のような文字で、天皇制への反対を呼びかける立て看を書いた。天皇制という制度は天皇に近い人物を上位に置き、遠い人物を下位に置く差別的な性格を持っている、民主主義に反するのではないかという内容だった。しごく、単純な理屈を立てていた。看板には、自分の名前と自宅のアパートの電話番号を入れた。わかりやすい理屈か、もしくはストレートなところが認められたのか、先輩にいい内容だよと言ってもらい、素朴にうれしかった。

また、隣の大学の友人と参加した反天連(反天皇制運動連絡会)の集会か、首都学実(天皇世替わり攻撃と闘う首都圏学生実行委員会)という枠組みの集会で、「俺の大学はノンセクトが少なく、日の丸掲揚が強行されるかも知れない」と話したら、東京外大のノンセクトの知人がわざわざ支援に来てくれた。正直、うれしかった。

もちろん、隣の大学のサークルに入れてもらい、学生運動ができたことはめちゃめちゃうれしかった。構造改革派のセクトの先輩とはいろいろあったが、今では非常に感謝をしている。そして、ずっと一緒にいてくれたノンセクトの友人、先輩は言うまでもない。彼らと一緒に「脱天皇制」の闘いも広げ、「非国民クラブ」という立て看を作り、新聞記事に掲載されたはずだ。

自分の大学に戻ると、結局、俺の立て看は、街宣右翼にこっぱみじんにつぶされた。帰省先から帰ったところ、先輩に気をつけるように言われた。

そして、大学の正門に、昭和天皇の大喪の礼の日、1989年2月24日、日の丸が掲揚されると聞き、とにかくその日は朝から行くことにした。そして、エコロジー研究会を主催していたことから、緑色のスプレーを用意し、日の丸を染めてやろう、そして、すきがあればライターで火をつけ燃やしてやろうと思っていた。

当日、大学当局が、日の丸を揚げようとして、3分程度、民青、ノンセクトの学生、大学院生ともめ、その後、大学当局が、「現場の混乱により旗を揚げられないと判断しました」とアナウンスをして、掲揚をあきらめた。民青、共産党系の組合は大拍手。その瞬間、俺は、「最初からこれを狙っていたのではないか。はめられた」と思い、なかば正門に掲揚されていた状態の日の丸を引きずり下ろそうと駆け寄った。先輩もかけつけ、一緒に引きずり下ろした。そのあと、私が、スプレーを吹きつけ、ライターで火をつけようとしたときに、先輩が「馬鹿野郎、やめろ」と言って羽交い締めにして、阻止してくれた。本当に助かった。結局、日の丸の一部と守衛職員のスーツに緑のスプレーがかかり、守衛職員の男性には後日謝罪に行った。

俺の場合も、ノンセクトの先輩が現れたにせよ、まあ何もないところで運動を行った。そういうものだと思う。

しかし、ありがたかったのは、受け皿が寛容だったこと。

最近、聞いた話でしかないが、シールズや反ヘイトの運動体が、抗議のやり方に規制をかけたと聞き、それはないだろうと思った。今までの左翼、新左翼と思われたくないということのようだ。しかし、権力側が、社会の不正義に対し学生、若者が声をあげないように学校現場を再編、若い社員は会社で上司に従順にしたがうようになり、不条理なことがあっても声を上げないようにしている。こうしたなかで、もし運動体がそうしたやり方をとっていたとしたら、権力の姿勢を内面化しているとしか思えない。まずは、自らもイデオロギーにおかされているのではないかと、突き放すべきだ。「民主主義とヤジ」の重要性。

私の時には、憧れの運動体があった。「反天皇制全国個人共闘秋の嵐」。「あきあら」だ。革マル派が早稲田大学を暴力的に支配していたこともあり、外で活動するため、早大のノンセクトが外に出たのだが、当時のインディーズのパンクバンドブームを踏まえ、原宿でバンドの演奏とデモをする姿に正直、クールな運動だ、格好いいと思った。

運動に、クール、格好よさを求めるか。私は、それぞれだとは思うが、思い思いのクールさ、格好良さ、こだわりを表現するべきだと思う。

「秋の嵐」は、実は、私の好きな60年安保を担ったブント=共産主義者同盟、そして、その後、前衛を否定した「SECT NO.6」、60年代末の全共闘と同じくらい、画期的でクールな運動体だったと思う。しかし、中心人物の見津さんが亡くなりあまり後世に伝わっていないようだ。もちろん、法政大学の松本哉さんが行った運動も興味深いと思っているが。

去年11月の山崎博昭プロジェクトの講演会では、現在、大学で学生運動をしている若者が、格好よさを追求しないのはダメだと思うと発言をしていたのは良かった。その通りだと思う。もちろん、ダメ連のように、見た目、格好悪い運動でももちろんいい。しかし、できるなら、共感を広げるためにも格好いい方がいいかもしれないし、それよりもほとんどレイブパーティと一緒だが自分なりのこだわりで格好良さを持っていた方がいい。自分が運動をやっていて良かったと思うから。

しかし、学生運動に参加して良かったのはいろいろある。真面目にいうと、三里塚闘争の現場や寄り場のように、一般学生のように、自宅/下宿→大学→バイト先という生活をしていれば分からない社会現場を知ることができた。さらに、言うと、東京のど真ん中でデモをして、空があんなに広いものだとは思わなかった。解放感があった。また、何よりも、仲間との関係のなかで、自分自身が解放されていった。

「いいじゃないか、そこには私の至純な歳月があったのだから」。この言葉通りだ。これは、ロシアのアナキスト、クロポトキンが自らの運動を振り返り話した言葉で、在日朝鮮人の詩人、金時鐘さんがよくとりあげておられる。俺にとって学生運動は、結局、このひと言につきるかもしれない。

 



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