10月8日、反戦の熱い意志は半世紀を生き続けた――10・8羽田闘争50周年集会(詳報・写真、2017年)

反戦の熱い意志は半世紀を生き続けた――10・8羽田闘争50周年集会(詳報)

2017年10月8日、10・8山﨑博昭プロジェクトの主催により、「羽田闘争50周年―山﨑博昭追悼―」集会を東京・四谷の主婦会館で開催しました。集会の参加者は約220人と大盛況でした。その集会の様子を報告します。なお、集会の第二部「詩の朗読」と第三部「短歌絶叫コンサート」は文字の書き起こしが難しいので、省略させていただきました。また、第二部の水戸喜世子さんの講演の内容は、別途掲載しています。
http://yamazakiproject.com/from_secretariat/2018/01/19/3919
午前中の弁天橋での献花・黙祷と、福泉寺での50周忌法要の様子は下記をご覧ください。
http://yamazakiproject.com/from_secretariat/2017/10/12/3632

【第一部 50周年を迎えて三事業の報告】

司会:福井紳一(60年代研究会)
「ただいまより、10・8山﨑博昭プロジェクト主催で羽田闘争50周年、山﨑博昭追悼の記念集会を始めます。
50年前の10月8日も日曜日で、今日のように晴れて青い空だったと聞いております。佐藤栄作(当時首相)の南ベトナム訪問、これをベトナム戦争のさなかに行うのを阻止するために、京都から羽田に向かった18歳の少年の思い、そして羽田空港を目の前にした弁天橋において奪われた青春と肉体と未来、今日はそのようなことを噛みしめながら、今、やるべきこと、あるいは絶対にやりとげたいこと、または本当は実はやりたかったことなどを考えながら、追悼の記念の集会を進めていきたいと思います。
まずはお兄さんの山﨑建夫さんからお願いします。」


弟・山﨑博昭の生と死に向き合った3年間でした
山﨑建夫

「50年前の弁天橋であった弟の死。50年後に今日皆さんと一緒に弁天橋の上に立って、何とも言えないですね。当時の様子をいろいろ調べさせてもらって、あの時に、京急・大鳥居駅から萩中公園、そして弁天橋に突き進んでいく、そして途中で機動隊とぶつかって突破していく、そういう状況とか写真とかたくさん見せていただいて、それがほんまに半日くらいの出来事なんだけれど、そこで弟が死んだ。その場にいた人、あるいはその後の時代の人、もちろん僕たち家族にとって、その日の青空と同じように晴天の霹靂、思いもかけない事件でした。紆余曲折、その後、運動が1968年には盛りあがり、さまざまな方面に飛び火していって変化をし、いろいろな動きがありました。

50年経って、今、僕らが集まって思い出して懐かしもうというだけじゃなくて、弟があのように生きて、あのように死んだということを、後の世にも伝えたい、若い人にも知ってほしいという思いで僕らのプロジェクトが始まったんですけれども、その過程で発起人になってくださった方、賛同人になってくださった方、事務局の方々、たくさんの方の応援で記念碑を建てよう、記念誌を作ろう、後から出たんですけれどもベトナムへ行こうという話、それを目的に掲げて、最初はそんなのほんまにできるかな、やろうと言い出したけれども、というのが言い出した人間たちの中でも共通の思いで、どこまでできるかよく分からなかった。
だけど、それが3年目にして、お墓の形だけれども記念碑となる墓誌、墓石を建てることができた。記念誌も出版できた。最初は私も思いもかけなかったけれども、ベトナムまで行くことになった。そこに、この弟の遺影が展示されることになって、本当に驚きです。
当初はそんなことも考えもしなかった。それが実現した。佐々木幹郎さん、辻惠さん、山本義隆さん――この写真も山本義隆さんの手作りなんです。最初に作ったものはベトナムに置いてきたから、新しいものをまた作ってくださった――、ほんまに僕らお世話になりっぱなしで、そういう方たちのおかげで運動が進んで来ました。ただ回顧するだけではなくて前を向いた運動になっているというのは、例えば、ベトナムの平和村のニー院長さんが今回来てくれている、あるいは1968年の日本の反戦運動、学生運動を研究対象にしているアメリカの学者さんが来て下さっているとか、日本の国内だけでなくベトナムやアメリカの方が研究のために参加されている。すごいことだなと思っています。

ほぼ三つの目的は実現したんだけれども、これで終わりでほっと息が抜けるんじゃなくて、これからまだまだ前向いて行かないかんと思っています。今後もぜひともよろしくご支援のほどお願いいたします。」(拍手)

 

続いて当日参加した発起人の紹介があった。
(発起人)
三田誠広(作家)、福島泰樹(歌人)、宮本光晴(経済学者)、北本修二(弁護士)、道浦母都子(歌人)、小長井良浩(弁護士)、佐々木幹郎(詩人)、辻惠(弁護士)、山本義隆(科学史家)、山﨑建夫(山﨑博昭兄)、山中幸男(救援連絡センター)、上野千鶴子(東大名誉教授)、水戸喜世子(十・八救援会)。

モニュメントを建立でき、記念誌も出版できました
佐々木幹郎

「10・8山﨑博昭プロジェクトが発足当初から目指していた三つの目標の一つ、モニュメントを羽田の近辺に作るという取り組みをずっと続けてきました。地元の方々との折衝は難行続きでしたが、最終的に、萩中公園に隣接する福泉寺のご住職が、墓石の形でモニュメントを建てることを了承してくださいました。そして墓石とともに墓誌として『反戦の碑』という形で言葉を刻むことができました。建碑式を今年の6月17日にやりまして、今日が50周忌法要と、モニュメント一般公開の日です。
その6月の建碑式の模様を上映します。」

▼代島治彦監督(映画「三里塚に生きる」「三里塚のイカロス」の監督)が撮影した建碑式の映像(約10分)を上映

(続き)「代島治彦監督の「三里塚のイカロス」という映画が現在、各地で上映されていますが(追記:2018年1月、同作品は第72回「毎日映画コンクール」ドキュメント映画賞を受賞しました)、その代島監督がわたしたちのドキュメントを作ってくださっています。6月17日の建碑式の様子がいま写っていますが……(映像を観ながら、突然、佐々木氏、言葉に詰まる。)……いま、僕はちょっと胸が潰れる思いで……(道浦母都子さんが「佐々木さん、がんばって!」と声をかける。)……まさか、山﨑博昭のお母さんのお声がここで登場するとは思いませんでした(佐々木氏は映像初見)。墓石の横にコアラのぬいぐるみが置かれているシーンがありました。そのコアラの説明を映像の中で水戸喜世子さんがされていたと思いますが、その水戸さんの説明の直前に、山﨑晴子さんのお声で、「息子が亡くなった後、水戸喜世子さんが家に訪ねてこられて、コアラのぬいぐるみを持ってこられた」という1967年当時の録音の声が出てきました。そして、山﨑博昭がどのような思いで羽田の闘いに参加したのかということが、晴子さんの声で語られました。お母さんの声が聞こえてくると、僕は、いまも言葉がありません。代島さん、僕にはキツかったけれど、素晴らしい映像を作っていただき、ありがとうございました。

モニュメントは6月の建碑式の後、今日10月8日、一般公開し、同時に50周年の記念法要を福泉寺の本堂で多くの方々の参列を得て、無事、済ませることが出来ました。前日の10月7日、ある友人が先にお花を墓石に供えようと福泉寺を訪ねたとき、寺院の墓地のお掃除をいつもしてくださっている地元の奥さんに声をかけられたそうです。彼女は、この墓地の中で山﨑博昭の墓にだけ、いつも花が絶えないと言って、感心されたそうです。6月に墓石が作られてから今日の10月8日まで、花が絶えず代えられているということは、私たちの同世代の方か、このプロジェクトのことをご存じの方が、入れ代わり立ち代わりお墓に行って、花を捧げて下さっているということです。お寺さんにとっては、自分の墓地の花がいつも新鮮な形であるということは、とても嬉しいことだそうです。

今日から始まって、来年も10月8日にはイベントをやります。そして、毎月の8日、できる限りみなさんもモニュメントを訪ねていただけたらと思います。福泉寺から弁天橋まで歩いたら二十数分かかります。あの長い道を、昔はみんな若かったから一気に走ったんですね。今日は弁天橋で献花と黙祷をした後、歩くだけで精一杯でした。萩中公園は、10・8当日、闘争が終った後も、集会をやった場所です。その横に山﨑博昭のお墓ができたことはとても嬉しいことです。福泉寺から弁天橋までの一帯、そして弁天橋そのものが反戦と平和のランドマークになれば、これほど嬉しいことはありません。」

記念誌『かつて10・8羽田闘争があった』の販売促進をお願いします

(続き)「記念誌『かつて10・8羽田闘争があった』(発行:合同フォレスト、発売:合同出版)は今日発売です。624ページ、3900円という値段になっています。最初はもっと薄い冊子にするつもりでした。でも、「10・8の記憶とその後の50年」ということをテーマに原稿を公募したところ、思いもかけず61人という多数の方から原稿が寄せられました。原稿は400字詰原稿用紙で10枚以内を条件としていたのですが、応募原稿のほとんどがそれを越える枚数でした。50年という時間が経つと歴史的事項の記憶間違いや人名や年号の思い違いが多く、それらを校正して、また、本として表記の統一をする必要もあって、何度か著者とやりとりを続けていくうちに、どんどん書き足して来られる方や、最初から書き直される方もおられました。でも、手を入れていただくほどに、内容は面白くなりました。そういうこともあって本はこんなに分厚くなりまして、厚さは3.2センチくらいあります。そのため、この値段になりましたが、採算ギリギリです。

本をお読みになったら、誰もが感動すると思います。61人の50年の人生がそれぞれまったく異なっていて、また、いろんな意見の相違はあるけれども、にもかかわらず現在の日本が戦争のできる国に向かおうとしている情勢に懸念を表明し、“10・8と山﨑博昭の記念のために、ここに文章を書く”という形で、全員の結論がそのことに収斂されています。異なった意見と人生の、そのそれぞれが共振し、共鳴しあっているのです。そのことがとても面白い。わたしたちが通過してきた50年という時間と、この多様さの空間。その時間と空間がこの本の厚さとなって現れています。奇蹟のように生れた本だと思います。今回のような機会がなければ、二度と作ることは出来ないでしょう。もちろん、原稿の締め切りまでに間に合わなくて、書きたかったのに書けなかったという人も、たくさんおられると思います。

今年の10月8日に刊行した、これが第一巻です。元々は、もうちょっと薄い本をイメージしていまして、公募の原稿と当時の記録資料、写真や新聞報道、大学のチラシ、評論や詩歌やそういうものを合わせて、1冊にするつもりでした。しかし、投稿原稿だけでこの厚さになったので、第1巻としました。来年の10月8日を目指して、第2巻『記録資料篇』を刊行する予定です。この第2巻を出すためには、第1巻を全部売り切らなければなりません。この売り上げで第2巻を来年に出したいのです。

10・8山﨑博昭プロジェクトは今日で終わる訳ではありません。まだもう1年あります。第2巻が完結して初めて、プロジェクトの三つの目標の全てが終ります。それと同時に、これから始まる1年の間に、来年の10月8日に向けて、次の第2ステージをどうしていくのか、みなさんと一緒に、ゆっくりと真剣に考えたい。
そのためにシンポジウムなどイベントをやります。
どうぞみなさん、これからも、何度も何度もわたしたちの集まりに足を運んでください。よろしくお願いします。」

ベトナム戦争証跡博物館での展示会は感動的でした
山本義隆

▼代島監督が撮影したベトナム展示会の映像(約10分)を上映

「まず初めに、今回の展示会に対して、ホーチミン市の戦争証跡博物館はわれわれを最大の厚意で歓迎してくれました。博物館の館長は10月1日で定年なんですけれども、10月2日にその館長から連絡がありました。展示会の予定は10月20日までだったのを11月15日まで延長させて欲しい、という申し出でした。もちろん、われわれは喜んで同意しました。
この展示会のために、私たちは300点の資料を送りました。ところが直前になって、向こうから70数点しか展示できないと言ってきて、担当者が向こうに行って交渉しました。事情の一つはスペースの関係、もう一つは私たちが初めにベトナム側に出した目録(東京・根津で展示したもの)で人民委員会の許可を取ったので、それ以外は展示できないということでした。交渉の結果、壁面に展示できたのは約80点、そのほかにヘルメットや旗など現物展示、ドキュメント映画「怒りをうたえ」の放映、その他の資料はコピーしてクリアファイルに入れて、卓上で見られるようにした。そういうことで、私たちが準備したかなりの部分を展示することができました。そのことを除いて、博物館側のわれわれに対す対応は、最大限の厚意でやっていただいたと思います。

セレモニーの映像がありましたが、セレモニーでは私が挨拶して、佐々木君が詩の朗読をして、山﨑建夫さんが記念品の贈呈とテープカットをやりました。
オープニングセレモニーは、われわれの展示だけではなくて、越日友好協会25周年記念のセレモニーだった訳ですけれども、圧倒的にわれわれのためにやってもらったような感じになりました。
昼食会の後、かつて南ベトナム政府に弾圧されたという男性と女性の方との懇談会も用意していただきました。はっきり言って、至れり尽くせりだった訳です。
最後の日に、私たちは館長にお礼に行きました。館長は非常に喜んでおられ、われわれの展示会のことが地元の新聞10紙に載っていたと見せてもらいました。

今後のことは明確ではありませんが、館長からは、常設展示で残してもらいたいものを選んでくれと言われました。それから、今後、この展示会をベトナム国内で巡回できないか、という提案までしていただきました。そこまで好意的にしていただいたことを皆さんにお知らせしたいと思います。

準備過程では多くの方に支えられました。ベトナム展示の話が具体的になって、まず国内で展示会をやろうではないかということで、東京と京都でやりました。駿台予備校の日本史科の諸君と『60年代研究会』というのを組織しまして、60年代の日本の反戦闘争をしておられた何人かの方に話を聴きにいきました。
砂川闘争、相模原闘争、大泉の闘争、それからジャテックの闘争の関係者にお会いして、資料も貸していただき、譲り受けてきました。非常にお世話になっています。
去年6月に、上野の谷中で展示会をやりました。僕が展示会をやろうと言いましたが、その時はできないだろうと思っていました。なぜなら金がないからです。でも、谷中の展示会は画廊のオーナーの厚意で完全に無料でやらせていただきました。普通は、ギャラリーを借りたら1日10万円、1週間で最低70万円かかります。
その後、京都精華大学でさらに拡大してやることができましたが、それを実現してくださったのは大学の職員の皆さんです。献身的に協力していただいて、京都精華大学で展示会をやることができました。
その2つの展示会によって、いろいろな方からさらに資料を提供していただいて、それでベトナムの展示会ができたということを、皆さんに知っていただきたいと思います。

ベトナムの展示会ですが、ツアーの全員でツーズー病院平和村という、枯れ葉剤の障害児のリハビリ施設に見学に行きました。衝撃的だったのは『一番若い方は誰ですか』と聞いたら『13ケ月』という答えでした。ということは、ベトナム戦争が終わって40年経っても、まだ被害者が出ているのです。昨日、平和村のニー代表にお話しを伺って「その13ケ月の子のお母さんはベトナム戦争が終わってから生まれたのではないか」と聞いたら「そうなんです」ということでした。そういう人にも被害が出ているという意味では、ベトナム戦争は今でも続いている、と言わざるをえないと思います。

最後にもう一つ。南ベトナム政府に弾圧されていた方との懇談会で、男性の方は十数年間獄中にあって、1973年のパリ協定で解放されて、奇跡的に死刑を免れた方でした。最後の質疑応答でツアーのメンバーが『現在、ドイモイ政策でアメリカ資本が入っているが、そのことについてどう思うか』と聞いたのです。通訳を介してなので答は正直よく分からなかったけれど、最後に『アメリカの兵士も被害者なんだ』と言われたことが印象に残っています。十数年間、アメリカと南ベトナム政府に弾圧されてきたおじいさんが、そう言ったのです。僕はベトナム人の偉さというか、すごさをつくづく思いました。
今後もベトナムとの関わりはこれで終わらないと思います。今後ともよろしくお願いします。」

プロジェクト会計報告
辻 惠

「山崎基金は2014年7月4日に発足して、規約上は毎年8月31日までが会期となっています。1期は2014年7月4日から2014年8月31日まで。続いて2期、3期とあり、今回は2016年9月1日から2017年8月31日までの第4期です。賛同人の方には後ほど簡単な収支報告書を書面でお送りする予定ですが、本日は口頭で報告させていただきます。
第4期の会費収入、賛同金が3,498,000円。4期トータルでは15.776.864円になります。今までに630人の方が名前を出す出さないに拘わらず賛同人になっていただきました。その他収入としては、イベントの参加費、カンパで2,374,256円です。それから、ベトナム戦争証跡博物館の展示会実現のためクラウドファンディングで資金を募り、1,541,000円を集めました。収入のトータルで5,926.322円が第4期の事業収入でした。4期分を合わせると約2,000万円、いろいろな形でご寄付、収入をいただいています。
今、手元に残っている金額は,5.524.233円ですが、これは8月31日までの決算の数字で、記念誌の印刷費を9月に支払っておりますので、これより減っています。
来年の記念誌第2巻の刊行に向けて、記念誌の第1巻を売らなければいけない状況です。会計は賛同人の税理士の方にも入っていいただいて、会計報告の書類は完備しております。
以上です。」

 

【第二部 10・8羽田闘争と今】

司会挨拶/道浦母都子
「第二部の司会をさせていただきます道浦母都子です。どうぞよろしくお願いします。発起人の一人であります鎌田慧さんが、今日どうしてもこられないということで、『命を懸けて反戦を訴えた若者のことを、私たちは伝え続けたい』というメッセージをいただきましたので、ご紹介させていただきます。
最初に、佐々木幹郎さんが山﨑さんに対して作られた詩『死者の鞭』を朗読していただきます。朗読は俳優であり声優であります品川徹さんにお願いしております。」

品川徹さん紹介/佐々木幹郎
「私は品川徹さんと40年来の付き合いです。品川さんは、テレビ朝日でつい最近終わったドラマで『やすらぎの郷』に出演されていました。テレビドラマ『白い巨塔』では重要な役をやっております。劇団転形劇場の中心メンバーでした。その後、さまざまな映画、テレビドラマで活躍されております。品川さん、どうぞよろしくお願いします。」

 

詩朗読:佐々木幹郎作「死者の鞭」/品川 徹
(詩は省略)

司会/道浦母都子
「次に、私たちの会の生みの親とも言えます水戸巌さん、物理学者で反原発学者でもありましたが、今はお亡くなりになっていらっしゃいます。その奥様、水戸喜世子さんにお話しをしていただきます。」

 
記念講演:「10・8と反原発の今をつなぐもの―私にとっての10・8」/水戸喜世子
(講演内容は当サイトに別途掲載しています。)

司会/道浦母都子
「水戸さん、どうもありがとうございました。50年間の思いですから、とても決まった時間の中には納まらなかったと思います。でも、私も救援会のおかげで警察署に電話をかけてもらい、弁護士が来てくださってという経験がございます。水戸さんは反原発で闘う女性になって走り回っておられます。もっとお話ししたいことがあっただろうと思いますがありがとうございます。
次は、今日のスペシャルゲストをご紹介します。私たちがベトナムに行きまして、さきほど山本義隆さんが少しお触れになりましたが、枯れ葉剤の被害を被った子どもさんが平和村というところにいらっしゃいます。ツーズー病院の中にある平和村です。そこのニー先生に来ていただいています。今日はアオザイで来ていただきました。」

ニー・ベトナム平和村代表紹介/プロジェクト事務局
「本日のためにベトナムからお越しいただいたニー先生をご紹介させていただきます。先生は、現在、ホーチミン市ツーズー病院障害児リハビリセンターの科長を務められ、また、併設の障害児施設平和村の代表を務めておられます。
先生はフエ出身で、フエ医科大学を1991年に修了し、その後、ホーチミン市医科大学で小児科を勉強され、2015年に小児科神経科の臨床医として医学博士号を取られております。また、その間。1993年までの3年間、滋賀大学大学院にて障害児児童の教育を勉強され、修士課程を取られております。」


記念講演:「平和村からのメッセージ」

ニー・ベトナム平和村代表

「この機会を設けて下さって本当にありがとうございます。ベトナム戦争が終わってから40年が経ちましたけれども、ベトナム戦争によって残された被害はまだまだあります。戦争によって環境だけではなく、人々の健康にも被害を及ぼしていまして、また、次世代の子どもたちにも影響が出ています。

今、私が勤めているところは、生まれつき障害を持っている子どもたちを支援しているところです。平和村が設立されたのは1994年で、ドイツ平和村の支援によってツーズー病院が設立されています。ドイツの平和村の経済的な支援で、平和村の建物が建てられました。しかし、今の活動は主にツーズー病院によって支援されています。
平和村の活動は、ベトナム戦争の枯れ葉剤の影響によって、生まれつき障害を持って生まれた子どもたちの療養とリハビリを支援することを目的としています。今まで平和村病院で療養できた子どもたちは400人います。病気の主なものは戦争による枯れ葉剤によって障害を持っている子どもたちです。その子どもたちは、ほとんどは平和村病院で生まれた子どもたちですが、その他は南の県から運ばれた子どもたちです。
平和村病院では子どもたちは療養だけではなく、治療と手術、リハビリテーション、機能の回復を支援しています。身体的機能の回復のリハビリができるようになったら、家族とのコンタクトを取って、家で療養できるよう支援しています。
現在、村では60人の子どもたちが療養していまして、病気の70%は脳の障害と精神の発達遅延です。残りの30%は重い障害をもっているので、学校では勉強できないため、平和村病院で療養しています。勉強ができる子どもたちは、普通の学校に行かせています。障害を持っているけれど、ある程度できる子どもたちは特別支援学級に通わせています。残りは重い障害なので、平和村病院でリハビリをして身の回りの世話ができるように支援しています。学校で勉強できる子どもたちに対しては、ボランティア活動をする大学生たちと特別に連携して、学校に連れていけるようにしています。子どもたちの教育で一番大切なのは愛情と忍耐力です。
子どもたちは成人になると、自分の自我が芽生えて、予想外にコンプレックスを持ち始め、悩みも大きくなってくるので、そういう面での支援が大事になっています。
勉強の能力を持っている子どもたちに対しては、その能力を最大限発揮できるよう支援して、大学にも行かせ、職業訓練にも行かせています。私たちの支援はほんの少しですが、子どもたちの頑張りによって、12人が大学を卒業しました。ベトちゃんとドクちゃんはその一人です。私たちは子どもたちが自立して生活できることを誇りに思っています。
平和村にいる子どもたちは家族からの愛情が欠けている部分もあるので、平和村にいる時は、家族といる時と同じように感じられるように、私たちが愛情を持って育てています。
平和村にいるほとんどの障害者たちはまだ子どもなので、遊びとリラクゼーションが必要となります。そのため、私たちは毎月誕生日会を開いたり、近くに観光に連れて行ったり企画しています。特に旧正月とか国際子どもたちの日とかクリスマスなどに、ボランティアで参加している学生たちと交流の場を設けています。ボランティアの学生は、愛情が足りないとか、障害を持っている子どもたちに何が足りないか、自分たちに何ができるか感じてもらい、逆に障害者の子どもたちは、ボランティアの学生から勉強とか遊び方を教わっています。
私たちの一番大きな願いは、子どもたちが大きくなった時に、ちゃんと職に就いて、身の回りの世話もできて、自立できることです。

これまでの平和村の成果は、国の支援、ツーズー病院の支援、国内外のボランティアの方々、大学生の方々の支援によってできたものです。特に日本の皆さまが戦争の時、そして戦争が終わってもベトナムに沢山支援していただき、今も平和村に支援していただき、ツーズー病院を代表して心から深く感謝しています。

最後に、私が言いたいことは、平和を守るためには、私たちは次世代に常に教えていかないといけない責任があるということです。
本日はありがとうございます。」

この後、ニー代表から山﨑建夫氏にプレゼントが手渡された。
「お米から作った絵です。ベトナムの故郷の風景です。静かで平和な雰囲気です。私は日本の滋賀県に3年半留学しました。日本に来ると味噌汁をいつも思い出します、朝起きて温かい味噌汁とお米を食べるのが大変懐かしいです。」

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メッセージ:
山﨑博昭君50周忌への弔辞と連帯の挨拶
フイン・ゴック・バン Huynh Ngoc Van(ベトナム社会主義共和国ホーチミン市戦争証跡博物館元館長・現顧問)

私達ベトナム人民は山﨑(君)が払った犠牲を決して忘れることはありません!
山﨑(君)のご冥福をお祈りするにあたり、お互い手を取り合い、日本とベトナムの友情と連帯の絆を固めましょう。
山﨑(博昭君)とご家族ご友人の皆様、そして平和を愛する日本人民の、私達の独立への闘い、戦後の復興、そして我が国の発展へのご支援に対して心より感謝申し上げます。

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メッセージ:
羽田闘争50周年記念日にて
グエン・コン・タイン NGUYEN CONG TANH(ホーチミン市ベトナム‐日本 友好協会会長)

ベトナム人民の反戦救国の戦いに、いつも日本人民の支援を受け取ってきました。ある若者がアメリカに反対するため、犠牲になりました。
私の記憶では、日本人民の募金運動や、アメリカの戦車を阻止すること等、特にベトナム戦争が終結してから、ベトナムで枯れ葉剤(ダイオキシン)の被害を受けたベトさんとドクさんを手術したことについて偉大なことだと思っています。この事実は日本人民とベトナム人民の友好連帯を不断に発展させることと思います。
今年、羽田闘争50周年記念日にあたって、私はベトナム人民を代表して、日本人民がかつて支援したことに対して心から感謝をしたいと思います。
そして、ベトナム人民と日本人民の友好連帯が益々発展することを確信しております。
山﨑博昭君追悼の集会が成功することを心より祈念申しあげます。

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メッセージ:
三里塚からのメッセージ
萩原富夫(三里塚芝山連合空港反対同盟)

10・8山﨑博昭プロジェクト 50周年記念集会にご参集の皆様へ

1967年10・8羽田闘争から、山﨑博昭さん虐殺から50周年の記念集会にお集まりの皆様に、三里塚農民の一人としてご挨拶を送ります。
1966年7月から始まった三里塚闘争は、当初の社会党・共産党との共闘から、10・8羽田闘争を闘った学生達を受け入れて激しい国家権力との闘いへと発展したと聞いています。「三里塚の地下壕はベトナムに通じる」と言われたように、農民と学生・労働者が命を懸けた三里塚軍事空港粉砕の闘いは、ベトナム人民の闘いと繋がるものでした。

本日、三里塚現地では10・8全国総決起集会を開催しています。51年間事務局長として先頭に立ち続け、8月9日老衰のため95歳で逝去された北原鉱治事務局長を追悼し、市東(しとう)孝雄さんの農地を守るための集会です。北原さんの熱い反戦の思いは、ご自身の戦争体験からくるものでした。戦争の記憶が薄れいくこんにち、記憶と闘いの継承が必要です。「三里塚に勝って世の中を変えよう」という北原さんの訴えが胸にこだまします。

現在、成田空港会社は「への字」に曲がったまま使用されている誘導路を直線化するため、市東さんの農地が邪魔だから明け渡せと要求して裁判に訴えた末に、あろうことか強制執行で取り上げようとしています。空港建設のためなら無理やり農民から農地を取り上げようとする姿勢は、50年経った今でも変わりません。さらに空港機能強化と称して第3滑走路建設・B滑走路の1000m延伸・飛行時間延長(24時間化)という住民無視と営利優先の政策を進めようとしています。新たな農地取り上げと自然破壊に騒音被害の拡大を許すことはできません。
また、沖縄の民意を無視した辺野古新基地建設や、被曝した福島への帰還強制と棄民政策、原発再稼働など、国策の名のもとに住民を犠牲にして金儲けと戦争に突き進む安倍政治を許してはなりません。三里塚は、沖縄・福島の人々と共に闘います。

最後に、山﨑博昭さんのご逝去から50年に思いをはせ追悼するとともに、52年目の三里塚闘争へのご支援、ご注目のお願いをして、ご挨拶にかえさせていただきます。

2017年10月8日

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11・12関西シンポジウム案内
関西運営委員会:新田克己

「50年前の今日、山﨑君が殺害されたのはここ東京でした。でも、山﨑君は関西・大阪の出身です。3年前に、10・8山﨑博昭プロジェクトが立ちあがった後、東京とは別に関西独自の活動も続けてきました。例えば、山本義隆さんの講演会、今日もお出でいただいている上野千鶴子さんの講演会、それから京都におけるベトナム反戦闘争の展示会も開催いたしました。そして、東京ではまだやっていない試みだと思いますが、今年の7月に大阪で、社会運動を研究している若手研究者4人の方に集まっていただきまして、シンポジウムを開きました。われわれの運動をこれから若い人たちに伝えていかなければいけない、その一環としての活動をこれからも続けていきたいと考えています。
来月、11月12日、第二次羽田闘争から50年目の日にあたります。その日に大阪でイベントを企画しています。内容は封筒に同封したチラシをご覧ください。三田誠広さんの講演会と趙博さんの歌を中心にしたイベントを企画しています。
よろしくお願いします。」

死因究明報告と第二期プロジェクトへの呼びかけ
辻 惠

「山﨑博昭君の死の死因究明については、記念誌の第四部『歪められた真実』で『50年目の真相究明』を出しました。その中で、事務局でいろいろ議論して、その結果、現段階で少なくとも間違いなく語れることを語っているということです。
一番のポイントは、死因は何なのかをほぼ解明することができたということです。警察は学生が奪って運転した警察車両による轢殺だとして、胸のところを轢かれたと言っている。何の証拠もない。その後、都議会や国会の中で、権力自身が致命傷は頭だったと言っている。だからここが一番のポイントで、それについてどういう証拠があるのかということで、警察側も全く証拠がないし、裁判の中で一つも出てきていない。少なくとも、轢殺ということは通常考えてもあり得ないということが、私どもの結論であります。
かつ、26人の羽田闘争参加者の方から聞き取りをして、現場で闘った方も記念誌に現認した証言を書いておられますし、山﨑君らしき人が下流側の橋の欄干でボクシングでロープダウンするような形で殴られているのを見た、という海老取川に飛び込んだ人の証言もあります。病院に担ぎ込まれた山﨑君を最初に診た医師の現認証言が映像で存在しており、死体検案書があります。
そういう意味で、整合性を考えた場合、死因は警察官の警棒による撲殺ではなかろうか、その疑いが極めて強いというのが、私たちの現段階での結論です。
死体検案書がある。しかし解剖鑑定書が隠されているという問題があります。それで60年安保の時の樺美智子さんの死とその死因究明の経過も本の中に書いていますが、樺さんは人雪崩による圧死ではなく、警官の警棒で突かれ、首を絞められた死であることが明らかとなっています。本件では鑑定書が出てきていない、全て廃棄されているという中で、私たちは可能な限りの証拠、証言を集め、少なくとも轢殺は極めてあり得ないだろう、これは撲殺に違いないと言えるのではなかろうかということを、とりあえずの結論として出しています。また客観的な資料が出て来たら、さらに検証を深めていきたいと思います。

プロジェクトの今後については、賛同人を始め皆様とじっくり語り合いたいところです。若手の研究者とは関西で交流しているし、ベトナムの関係者の方とも今後もっと関係を深めていきたいし、今日、こんなにたくさんの方に集まっていただいた皆さんと、いろいろ議論して、今後も続けていきたいと考えています。
来年も必ずやるということを皆さんと共に確認できれば嬉しいことです。
ありがとうございます。」

 

【第三部 山﨑博昭に捧げる短歌絶叫コンサート】
福島泰樹(短歌絶叫)

永畑雅人(ピアノ)

【記念パーティー(献杯・挨拶・懇談)】
会場のレイアウトを変更して記念パーティーが始まった。

献杯:小長井良浩
 
閉会挨拶:辻 惠

「来年は、記念誌の第2巻「記録資料篇」を出しますし、10月8日には集会も開催する予定です。それまでに皆さま方にいろいろご意見を頂戴する機会を持ちますので、ぜひ、今日の感想を含めて事務局の方にお寄せいただければありがたいと思います。
10・8山﨑博昭プロジェクトの50周年記念集会はこれで終了といたします。ありがとうございました。」

50周年集会の後、隣のビルの中華料理店に場所を移して「懇親会」を開始しました。60人近い方が参加し、「懇親会」も盛況でした。

 

(終)



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