山﨑博昭君50周忌、羽田弁天橋と福泉寺で追悼(2017年10月8日)

山﨑博昭君50周忌、羽田弁天橋と福泉寺で追悼(2017年10月8日)

――ベトナム平和村からニー代表が初参加
  三つの目標すべての完結を喜び合い、第2ステージへ

 50年前の1967年10月8日、佐藤栄作首相(当時)の南ベトナム訪問を実力で阻止するため闘われた第一次羽田闘争の中で、羽田弁天橋の上で機動隊との闘いの先頭に立った京大生・山﨑博昭君が亡くなりました。享年18歳。

 それから50年目の2017年10月8日、午前10時半から弁天橋で献花・黙祷と発起人からの挨拶、12時から近くにある福泉寺(萩中公園向かい側)での50周忌法要、そして夕方からは「羽田闘争50周年―山﨑博昭追悼―」集会を東京・四谷の主婦会館で開催しました。
 今回は、速報版として、弁天橋での献花・黙祷と発起人挨拶を中心に報告します。

 

 当日は午前10時半から、羽田・弁天橋の近くにある鳥居前の広場で献花・黙祷を行い、発起人から挨拶がありました。50周年というメモリアルな行事ということもあり、例年の倍近い80数人の方が参加されました。「朝日新聞」10月6日付「都内版」に「羽田闘争50周年集会」の記事が掲載されたのを見て参加された方たちもいました。

 最初に広場にある机の上に献花し、参加者全員で黙祷を行いました。

 

 

 黙祷の後、法昌寺(東京都台東区)住職である発起人の福島泰樹氏(歌人)とその弟子が弁天橋に向けて読経する中、発起人の辻惠氏(弁護士)の司会により発起人挨拶が始まりました。

 最初にプロジェクトの代表である、山崎博昭君の兄・山﨑建夫氏から挨拶がありました。
「本日はたくさんの方にお集まりいただいて嬉しいです。ありがとうございます。これまでいろいろなことをやってこれたのは、山本義隆さんを始め、佐々木幹郎さん、辻惠さん、本当にこの人たちのおかげです。今日、お花を用意したり、いろんな準備で駆けずり回って下さっている東京の事務局の方々にも、たくさんお世話になっています。その人たちのおかげでここまでやってきました。
 50年です。50年は長いようで短いような気もします。今日は本当にたくさんの方に来ていただいて嬉しいです。ありがとうございました。」

 次に50年前に弁天橋で闘った北本修二氏(弁護士)から挨拶がありました。
「今日はたくさんの方に来ていただき、感激しております。50年前の今日、私たちはこの弁天橋のところで、佐藤首相のベトナム訪問阻止、戦争加担を阻止するために闘いました。その中で、山﨑君が、まだ18歳でありましたけれど、その命を失われました。50年前と言いましても、私どもにとりましては、つい昨日のように思い出されます。常にまた、何かあれば山﨑はどうしているだろうかと、ずっと思ってまいりました。
 そんな中で、この50周年行事、たくさんの方にご協力いただき、東京の事務局の方にもお世話いただきまして、ここまで大きな形になったことについて、大変嬉しく思っています。
 10・8羽田闘争の記憶、これを歴史に残す、社会に残すために、こういう活動を始めました。そのことの評価は、皆さんそれぞれおありかと思いますけれども、かつてベトナム戦争を阻止するために、ここで血を流した人たちがいたということ、それは是非残していきたいと思っております。どうも今日はありがとうございました。」

 続いて、今年の8月20日からベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館で開催されている「日本のベトナム反戦闘争とその時代」展の監修者であり、展示資料を中心となって集めた山本義隆氏(科学史家、元東大全共闘議長)から挨拶がありました。
「今日は大勢の方に集まっていただき、ありがとうございます。私は3年ほど前に10・8山﨑博昭プロジェクト加わったわけですけれども、その目標である、記念誌を作る、記念碑を作る、それからベトナムとの連帯を強化するという、皆さんに公約した三つのことを成し遂げることができました。そのことを報告できるのを本当に嬉しく思っております。
 私は、この2年間、ホーチミン市の「戦争証跡博物館」での展示会のための準備をやってきましたが、8月20日から開催されている展示会について、博物館の館長さんから当初は10月20日までの会期だったのを、11月15日まで延長したいと言ってこられて、本当によかったと思っております。(拍手)
 それから、(ベトナム・ツアーで)50人を超える参加者が全員無事に帰って来て、皆さんからよかったと言ってもらい、本当に嬉しく思っています。
 今後もベトナムとの関わりは続くと思いますし、日本の反戦運動、今の時期、改めて反戦ということが問われていると思うので、今後とも、私たちにできることやっていきたいと思います。皆さんもよろしくお願いします。」

 さらに、10・8羽田闘争に対する弾圧に対して、故水戸巌さん(物理学者)とともに、「十・八羽田救援会」を立ち上げ、現在の「救援連絡センター」の活動に繋げた水戸喜世子さんから挨拶がありました。
「50年前の今日、穴守橋(弁天橋上流にある)で反戦青年員会で闘った私の夫、水戸巌は、怪我人を全部病院に運んでから帰ってきました。洋服は血だらけでした。それでも本人は本当に“やったー!”という思いで帰ってきました。私の仕事は、翌日からこの辺の病院全部、一つ残らず回りました。スバル360に乗って、一軒一軒回って、治療費を払って、診断書をもらってということは、それから始まった闘いです。それは、今の安倍政権の戦争政策の前で、今、私たちがこういう風に皆さんで集まって、原点に立ち返ることができた。山本さんの今のお話を聞いても、私たちはまだまだ旬であると思います。この前、もう年寄りばかりという話があったんですけれども、5ケ月間逮捕・拘留されていた沖縄の山城博治さん(沖縄平和運動センター議長)が“私たちが旬なんだ”と言ったんです。ですから、その思いで皆さん、また今日から出発したいと思います。」

 続いて50周年記念誌『かつて10・8羽田闘争があった――山﨑博昭追悼50周年記念[寄稿篇]』の編集人である佐々木幹郎氏(詩人)から挨拶がありました。
「皆さん、今日はご参加いただき、ありがとうございました、記念誌がやっと出来上がりました。この1年間、わたしはこの本の編集に没頭してきました、本には61人のメッセージが収録されていますが、そのどれもが読めば読むほど面白い。今、水戸さんからお話しがありましたが、旬の人たちの文章が集まっています。
 寄稿者61人の、10・8の記憶と、その後の50年間の生き方はことごとく異なっています。10・8を起点として半世紀、どんなふうに人生を過ごしてきたか。あらゆる政治信条や生き方を超えた形で、10・8という日付と山﨑博昭の名前だけで、言葉を寄せていただきました。この機会を逃したら、二度と作ることができなかった本だと思います。できたことが奇跡のように思います。本は3.5センチの厚さがあります。こんなに厚い本になるとは、寄稿された誰もが思っていなかったでしょう。
 そして、わたしたちがいまここにいる時間帯、ちょうど50年前の午前10時半から11時半までの間に、山﨑君は弁天橋で斃れました。彼が斃れた50年後の同じ時間、同じ場所に、わたしたちはいま集っています。この3年間、われわれが目標として立てた三つの事業は、皆さんのご協力で、今日、全て完結しました。そして今日からわたしたちは、第2ステージへ向かおうと思います。今後とも、どうぞよろしくお願いします。」

 佐々木氏の紹介で、今回の50周年集会に合わせて来日したベトナム・ホーチミン市の「ツーズー病院・平和村」のニー代表から日本語で挨拶がありました。
「ツーズー病院は、ベトナム戦争で使用された枯葉剤による、最も重症の「障害者」の子どもたちを介護しケアしている施設です。私は今、子どもの「障害児」の仕事をしています。皆さんいつも応援していただき有難うございます。またよろしくお願いします。」

 最後に、司会の辻惠氏から献花式参加者へ挨拶がありました。
「どうも皆さんありがとうございます。50周年の今日、2014年から4回にわたって10月8日にこの場でこういう黙祷の集いを持てたことが非常によかったと思います。
 先ほど第2ステージという話がありましたが、来年以降も、そして福泉寺に私たちのモニュメントが出来上がっているということで、福泉寺にも私たちは10月8日だけでなくて、参拝していくことを皆さんとともに検討していきたいと思います。本日のこの集いはこれで終わりにしたいと思います。」

 その後、参加者は献花の周りに集合して記念撮影をしました。

●福泉寺で山﨑博昭50周忌法要を催す

 献花・黙祷と発起人挨拶が終り、参加者は徒歩あるいはバスで50周忌法要を行う福泉寺に向いました(バス停「萩中公園前」下車1分)。福泉寺(大田区萩中3丁目27-10)は、第一次羽田闘争の出撃場所となった大田区萩中公園に隣接しています。
 この福泉寺の墓地には、今年の6月にモニュメントとして「山﨑博昭」の名を刻んだ墓石と、第一次羽田闘争と反戦平和を祈念する文章を刻んだ墓誌「反戦の碑」が建立されています。

反戦の碑
一九六七年一〇月八日 アメリカのベトナム戦争に加担するために日本の首相が南ベトナムを訪問 これを阻止するために日本の若者たちは羽田空港に通じる橋や高速道路を渡ろうとし デモ禁止の警察と激しく衝突 重傷者が続出し 弁天橋の上で京都大学一回生 山﨑博昭が斃れる 享年一八歳 再び戦争の危機が高まる五〇年後の今日 ベトナム反戦十余年の歴史をふり返り 山﨑博昭の名とともに かつても いまも これからも 戦争に反対する というわたしたちの意志を ここに伝える
二〇一七年一〇月八日
     10・8山﨑博昭プロジェクト
     代表・兄山﨑建夫 建之

 法要は12時に始まりました。本堂に入りきらない参加者は、本堂の前で法要に参列しました。

●目標の三事業達成に大きな感動、220人が参加

 午後4時から四谷の主婦会館で開催された「羽田闘争50周年―山﨑博昭追悼―」集会の概要は以下のとおりです。

(概要)
「羽田闘争50周年」集会は3部構成で行われました。
 第一部は「50周年を迎えて三事業の報告」。プロジェクトの代表である兄・山﨑建夫氏からの挨拶、発起人によるプロジェクトの三つの事業と、現在、ベトナム・ホーチミン市の「戦争証跡博物館」で開催中の展示会の報告などがありました。
 第二部は「羽田闘争と今」。冒頭、佐々木幹郎氏が山﨑博昭君の死の直後、彼を追悼して作った長編詩「死者の鞭」を俳優の品川徹氏が朗読。続いて水戸喜世子さんが「10・8と反原発の今をつなぐもの――私にとっての10・8」というタイトルで記念講演を行いました。そして、ベトナムの「ツーズー病院・平和村」ニー代表から挨拶がありました。その後、ホーチミン市「戦争証跡博物館」元館長などからのメッセージが読み上げられました。
 第三部は、歌人・福島泰樹氏による「山崎博昭に捧げる 短歌絶叫コンサート」が行われました。

 集会終了後、同会場で、50周年を記念したパーティーがあり、小長井良浩弁護士の音頭で参加者一同が献杯しました。
 集会参加者は約220人と大盛況でした。

 

 この集会の様子と、水戸喜世子さんの講演内容は、後日、掲載する予定です。



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