10・8と反原発の今を繋ぐもの――羽田闘争50周年記念講演/水戸喜世子

羽田闘争50周年集会記念講演

10・8と反原発の今を繋ぐもの――私にとっての「10・8」

日時:2017年10月8日(日)

会場:四谷・主婦会館9F「スズラン」

司会:道浦母都子

「この私たちの会の生みの親とも言えます水戸巌さん、物理学者で反原発学者でいらっしゃいましたが、今はお亡くなりになっていらっしゃいます。その奥様でいらっしゃいます水戸喜世子さんに話をしていただきます。水戸さん、お願いします。」

水戸喜世子

 

 皆さま、今日はよくおいで下さいましてありがとうございました。

 私は救援の人間ですので、救援というのは普通は黒子で、縁の下の力持ちで、こういうところに出る立場ではないんですけれども、何故かこういう話をすることになりました。

みなさま、鈴木道彦さんをご紹介します
 今日ここに、フランス文学者の鈴木道彦さんが遠い所を お出で下さっています。10・8が起きて、新聞は暴力学生一色になって、暴徒キャンペーンが張られる中で、知識人が3回にわたっていろいろな形で声明を出して下さいました。その多くの方はお亡くなりになっていらっしゃるんですけれども、ご高齢をおして来ていただきまして本当にありがとうございます。

 10・8は私の夫も反戦青年委員会として参加していました。その時は東京大学の原子核研究所の助教授の立場でしたが、研究所は進歩的な人といえば共産党系の人たちばかりでしたから、参加するのはとても大変だったと思います。そういう中で一人参加して、帰って来てすぐ準備して翌朝には報告集会を開いて、立看板を出して職員に呼びかけて、それでも10人くらい集まってくださったと、喜んでいました。

 その日から来る日も来る日も電話をかけて、自分で作って文章を読みあげて、署名してくださいとお願いしていました。梅本克己、大井正、大江健三郎、小田実、小田切英雄、……という方々でした。声明を出すだけでなく、学生を救援しようじゃないかという救援の訴えの中にも鈴木先生のお名前が入っております。暴力一色のキャンペーンの中で、50人くらいの当時の知識人の方が名前を連ねて、政府はベトナム戦争に加担するなという志と行為を自分たちは支援するんだ、何故、学生たちの目的を新聞ではちゃんと伝えないんだという、怒りを込めた声明でもありました。黒田喜夫さんら文学者が書かれた声明も出て、それがどんなに私たちの力になったのかということを、今、鈴木先生にお目にかかって、改めて思い起こしたところです。
 山﨑博昭のモニュメントを作りたいという一つの思いで、私たちはここにこうして出会うことが出来た者たちです。共謀罪、秘密保護法、集団的自衛権と、黒い罠が一つまた一つと仕掛けられ、権力者が一網打尽にこの国に住む人を戦争の中に叩き込みたがっている気配を感じます。そんな折だからこそ、このような場を持つことができた巡り合わせを心強く嬉しく思います。

一人一人に「反戦」の根拠があり、足跡があり、ついに奪い返した「表現の自由」の感動!
 結論を申しあげますと、長いこと奪われ、押し込められてきた表現の自由、憲法で保障されている表現の自由を、自分たちの側に初めて奪い返したという、私にとっては胸のすくような瞬間が10・8でした。表現の自由が人間の根源に関わる欲求であるということも改めて思いました。憲法に書いてあるたったの5文字「表現の自由」を実現するまでに、どんな経過があったのか、私の体験からお話したいと思います。

 完全装備の治安弾圧部隊に、当たり前の市民が石ころと棒きれで立ち向かえるという、それは本当に私にとって驚きでした。ただ、その代価はあまりにも大きいものでしたけれども。一瞬取り戻したかに思えた表現の自由も、今また、以前よりももっと厳しくなった感があります。でも、私たちの記憶の中に、本気になって頑張れば、願いは実現するものであるという感動と、歴史を残してくれました。山﨑博昭の死を私たちが思い続けることが大事だと、困難な時代にあって一層強く思うこの頃です。
 十・八は突然やってきたものではありません。(一人ひとりの長い歴史があって)やっと十・八にたどり着いたんだと私は思っています。私の場合はどうであったか、お話したいと思います。

小学生に刻み込まれた軍国主義思想。とってかわった『民主主義』も馬脚を露す
 私は1935年の生まれです。学校に入ってすぐに教わったことは「我慢すること」。「ほしがりません、勝つまでは」。「国のために死ぬことこそが人の道である。」としっかりと刻み付けられた少女の時代でした。それがある日突然「個人が大切。幸せになっていいんだよ。」という真反対の価値観が同じ一人の少女の上に重ねられたんです。本当に混乱した思春期を過ごすはめになったのです。戦後の人にはこのように鮮烈で衝撃的な意識転換の記憶はないと思います。「新しい憲法の話」という、ほんのしばらくの間だけ学校で正規に使われて、すぐに副教科書に移行してしまったんですけれども、その「新しい憲法の話」という本が私に、人は誰も平等に自由に幸せに生きる権利があるということを教えてくれた最初でした。お互いの自由や幸福を尊重するために民主主義がある、と習いました。ですから、大学に入って、学生ならば学生自治会に参加するのは当然だと思いました。ですけれども、私が入った大学は学生大会を開いてもなかなか定員が集まらない、本当に私はその現実を見て驚いたんですけれども、自治会活動に入っていくようになりました。18歳の春です。

オイコラ警官の復活。「基地は違憲」判決から「基地は合憲」米国介入判決へ
 大学に入っていろんな運動に関わりましたけれど、一番学んだのが砂川の基地拡張の反対闘争、いわゆる砂川闘争でした。初めはスクラムを組んで警官に向き合っている、対峙している。私たちは警官に向かって、平和な故郷が大切だということを分かって欲しくて「赤トンボ」を歌ったり、「農民の土地を奪ってアメリカの基地にする。あなたは人殺しの片棒を担いでいる。」と話しかけると、警官はうなだれてうつむいていくんですね。そういう闘いの始まりでした。それが2度目か3度目になると、警官はまるで怯えたように凶暴になっていきました。意味不明な暴力を受けました。1956年10月の行動では、とうとう4000人のデモ参加者に対して1000人の怪我人が出るという、歴史に残るような不当な弾圧が行われて、その時の新聞は「警棒の雨、暴徒と化した警官隊」と書いたほどでした。これが1956年ですから、まだ戦後たかだか10年しか経っていないのに戦前復帰が始まっていたということです。民主警察はどこへ行ってしまったのでしょう。
「オイコラ警官というのはなくなるんだ」と先生に習ったんですね。テストで、髭を生やした威張った警官の絵には、私たちは×を付けました。ところが、それは真っ赤な嘘でした。

 弾圧されても地元の反対同盟と学生・労働者はひるまないで闘争は続いて、57年に、たまたま学生が基地の柵を倒して数メートル中に入ったということで、警察は事後逮捕で23人、指導者ばかりを逮捕しました。その中で7人が起訴されましたが、全員無罪判決が出ました。皆さんよくご存じの伊達判決です。下級審では本当に真面目に司法ということを考えている裁判官が時々いらっしゃるんだと思います。刑事特別法違反でしたが。この法律の根拠が安保条約ですから、安保条約が9条違反なのだから、そんな罪名で起訴されたものは無罪であるとしたのです。

 これに驚いたアメリカは最高裁に介入しました。介入の事実が2008年から明るみに出てきました。アメリカは一定期間が過ぎると国家秘密は公開されていきます。驚くべき内容で、田中最高裁長官に対してアメリカが介入して、地裁から高裁をすっ飛ばしてすぐ最高裁に飛んで合憲であるという決定をだした。最高裁は15人いるので、多数意見、少数意見が必ず出る。ところが、「少数意見を書くと、国民がまた暴れ出すから、全員一致で私たちは判決を出すつもりです」と、田中最高裁長官は自分の方からそういうことを言っているんですね。本当に恥ずかしい、これが日本の最高裁の長官かと思うような態度でアメリカに対応しているということが明るみに出てきました。この最高裁の判決を、自民党の高村さんたちが集団的自衛権の根拠にしたのです。それに対して国会に呼ばれた憲法学者たちが、それは見当違いだと正面から反対して、彼らは全く根拠を失っている状態だと思います。ですから、今の戦争法(安保法制)を初め、共謀罪もそうですけれども、私たちはそれを法律として認める必要は本当にない、それを廃案に持っていく闘いをしなければいけません。

 私が砂川にこだわるのは、日本の中に軍事基地があるというのが憲法下では絶対に許せないからです。戦後習った民主教育の中で、もう日本は再び戦争はしないと決めたのに、なぜ日本の中に軍事基地があるのかということを私は理解できないんですね。伊達判決は本当にシンプルですっきりしていて、私にはとてもよく分かるんですけれども、どうしてそれが通らないんだろうと不思議ですけれども、それはきっと私のような戦後民主教育を受けてきた者の憲法感覚なんだと思うんです。

保育所無いから、仕事辞めて、子ども連れで米領事館前座り込み。夜は屈辱のデモに耐える
 私は、その後、水戸巌と結婚して、最初の就職が関西だったものですから、関西で6年間過ごしました。その6年間の間に、大学の研究所の前に引越しをして仕事をしていました。1年間に3人の子どもが出来てしまいまして、年子で双子ということで、それを預かってくれる人がいくら探してもいない、ベビーシッターを頼みましたが、それも永続きしないので、とうとう仕事を辞めることになりました。でも、辞めていいこともあったのです。

 ちょうどその頃、60年代半ばですが、ベトナムで北爆が盛んになってきました。民間の人たちの上に落ちる爆弾、悲惨な写真が新聞に毎日のように出て、胸が締め付けられる思いの日々でした。自分の子どもに重ねてしまうのです。私たちはそれで、神戸のアメリカ領事館前で始まっていた座り込みに参加するようになるのですが、ちょうどヨーロッパでもそういう運動が盛んになっていた流れではないかと思います。そこで「神戸ベ平連」をみんなで作って、子ども3人を連れて、近所のママ友のお母さんたちも誘って座り込みを始めました。その活動は50年以上たった今も、当時の人たちによって続いています。「神戸ベ平連」ではなくなりましたけれども、沖縄に若い人を送ろうというカンパの呼びかけをするなどして反戦活動が続いています。

 神戸にいる頃、昼間はベ平連の活動を子どもと一緒に穏やかにやっていましたが、一方では日韓基本条約の締結をめぐって、韓国の中での血を見るような闘いに応えるために、日本でも日韓条約反対の運動が盛り上がっていました。私は子どもを夫に預けて夜のデモに参加していました。その頃のデモはひどいものでした。文字通りサンドイッチデモで、デモの両端に二列の機動隊が付くのです。足で蹴っても通行人から見えない、殴っても見えない。それから前でデモ指揮の人がジグザグをやろうとすると殴られる。デモが終わって見てみると、先頭のデモ指揮者はいつも顔から血を出している。最後尾の人は尾てい骨を蹴りあげられる。横にいてもアザができるくらい蹴られる。そういうデモをずっとやっていました。その時はさすがに悲しくて、いつになったらトンネルから出られるのだろうという思いをして、デモに行きたくないという思いと、デモ指揮をして最前列で私たちをかばって、いつも血を流して闘ってくれている人たちのことを思うと、行かないわけにはいかなくて、参加していました。私は「痛いデモ」というのを砂川の次には日韓で体験しました。

砂川、羽田闘争に参加する巌。山崎君の死。それでも「やったぞー!」
 6年間の関西の暮らしは出産、育児の合い間の反戦運動で、のどかな日常生活がありました。東京に戻ってきたのは、夫が東大原子核研究所に転勤になったからで、67年の1月でした。戻って、夫が真っ先に参加したのが砂川闘争でした。私は今回は小さな子たちがいるので参加できません。頑張ってきてね!と4人で送り出すだけ。砂川闘争はまだ延々と続いていて、2月26日の大きな集会の呼びかけに応えて、一人で参加していきました。ところが帰ってきた顔を見ると、顔面を殴られて前歯は折れているし、服はドロドロで、まるで人相が変わった人が玄関に立っていて、子どもと私は呆然として言葉も出なかった記憶があります。7年ぶりの東京も、60年安保の時代とは打って変わって「痛いデモ」に逆戻りしていたのです。

 その傷がやっと治った半年後の羽田闘争に、彼はたった一人、反戦青年員会の隊列に入って、穴守橋の戦いに参加していきました。穴守橋がどうであったか。記録があるので読み上げます。

「穴守橋の後ろの座り込みをしている時に、萩中公園に戻り始めた反戦青年委員会の隊列は、その側面と前方を機動隊に囲まれた後、一瞬の停滞の後、機動隊の警棒が無防備の反戦の労働者(当時はヘルメットなしだった)の上に打ち下された。頭部裂傷で顔面を真っ赤にして倒れる人が続出した。萩中公園に結集した全部隊は、学生が殺されたという知らせを受けて弁天橋に向かい、抗議集会を開いた。再び橋を渡ろうとするデ隊に対して、催涙弾と警棒の弾圧が加えられ、ここでも多くの重傷者を出した。」

 この日の闘いで山﨑博昭くんが頭蓋骨骨折(牧田病院の診診断書)で死亡。負傷者・重傷者はわかっているだけで約100人にのぼります。診断書は、私が子どもの保育園の送り迎えに使っていたスバル360で、弁天橋、穴守橋あたりの病院を全部歩きつくして、治療費を払って診断書を受け取ったものなんです。1ケ月くらいかけてそれをやりました。診断書は、国会の法務委員会で過剰警備であるということで追及してもらおうと思って、北小路敏さんと議員面会所に一緒に行って出しました。悔しいですがその実物のコピーは手元にありません。ただ、当時の雑誌(『現代の眼』)には罪名が書いてありますし、救援の縮刷版にも主なものは載せています。

 日が暮れて夫は、子どもたちの前で「やったぞー」と拳を上に突きあげてみせて、意気軒昂に帰って来た時は、洋服は血まみれでも、大きな怪我はありませんでした。無事に帰って来てくれただけでも有難い事だと思いました。洋服の血は怪我人を全部病院へ運んできたからだと言っていました。デモに参加する時の学生時代からの彼の流儀です。彼は仲間とハイキングに行く時でも、体が弱い人とか、体調が悪い人の安否が最後まで気になって確認するような人でしたから、おそらく全員の確認をしてから家に帰ってきたんだと思います。
 洋服を見ただけでも、デモが大変なものであったことが想像できました。

国民的高揚があった60年安保闘争とその後の冬の時代を耐えた力が10・8ベトナム反戦につながる
 60年安保反対闘争の国民的な盛り上がりを振り返ると、大阪でも、御堂筋をフランスデモして、道幅いっぱいに手をつないで歩く、爽快なデモができました。樺美智子さんが亡くなりましたが、国会の中に突入するような闘いも経験しています。60年安保の時の被告の弁護を最後までやって下さった5人の弁護士の一人に内田剛弘先生がいます。結局、被告は実刑なしで執行猶予がついて、しかも、逃げるのを襲ったのは過剰警備であるから無罪であるということで、多くの人を無罪にしています。そういう素晴らしい裁判闘争も経験しました。その60年安保が収束してしまった後の数年間は、日韓条約反対デモに象徴されるように一切の表現の自由を奪うかのような本当に屈辱的な時期だったのです。
 そこで起きたのが10・8だったのです。それまでの屈辱的なデモはまるで永久に続くかのように思えて、無力感につぶされそうになっている時に10・8が起きたんです。泣きながら、涙を流しながら、それでも嬉しくって、うれし涙になるようなそんな10・8だったんです。これを暴力だと言う人がいたら、それは政府に向かって異義ありと声を上げたことのない人だと私は思いました。民衆を大事に思ったことのない人は、それを暴力だと言うかもしれませんけれども、完全装備の機動隊に対して、本当に棒と石ころ、子どものけんかみたいなものですが、それでそこまで闘った、命がけで闘ったということに私は本当に感動しました。

反戦運動こそが憲法9条を生かすこと。憲法を守らず、弾圧する以外に政策を持てない政府は変えねばならない
 この感情は私の子どもの時からの体験に根差しているのでしょう。あれだけの残酷な戦争を体験してまだ70年しか経っていない。日本人の中に戦争の心の傷はまだ残っているはずです。戦争反対の意思表示をするのに、何故こんなにも国家権力の暴力を受けなければならないのか、私の中に疑問としてあります。住民が自分の土地を軍事基地に使わせたくないという砂川の人たちの思い、三里塚の人たちの思い、それは日本人の根底にある思いだと思います、ベトナム戦争に日本は協力するなというのも、憲法に書いてある平和の理念に全く沿った行為、それが国家の暴力で阻止されて痛い目に会わなくてはいけない、時には殺されなければならない。本当に私は理不尽だと思います。これが民主主義といえるでしょうか。紛れもなくファシズム国家だと思います。警察力でしか、まともな人民の意思を押さえつけることが出来なくなっている。羽仁五郎さんは、今の段階の資本主義国家は何一つ政策を打ち出すことが出来ないと書いています。彼らにできる行為は一つだけで、それは反革命である、それだけであると言っています。社会ファシズムだと言っています。共謀罪であるとか秘密保護法であるとか、警察力、それから情報操作、メディアなどの社会的ツールを駆使して人民を押し込める他やりようがないんでしょう。私は暴力は好きではありません。ヘルメットは防御になるから被れと言われれば被りますけれども。

 話が飛びますが、台湾で政権を取った原動力は日本で全共闘時代を共に過ごして、母国に帰った人たちが後輩の学生に働きかけて準備したんだという話を私は直接当事者から聞いたことがあります。国会を占拠して、学生たちが実によく働いて政権を交代させましたよね。韓国でも反原発で共闘することがありましたが、座り込みでロウソクを持って祈りのデモをする、集会をする、放水にも耐えて闘う。それならば私にも出来る気がします。守りには強いけれど、棒を持って石を持ってというのは私にはちょっと無理かなという気がしています。

口先の「反戦」ではなく、己のあり方として「反戦」と向き合った10・8の若者たち
 羽田10・8の闘いのもう一つの素晴らしい意味は、他人事として口先だけでベトナム侵略戦争反対を唱えるグループ、既成政党がありましたね。それを、そうではなくて、現地で闘っているベトナム人と同じ目線に立って、自分の国の首相の戦争加担を止めようとした、他者の闘いではなく自分自身の闘いであったこと、それが人々の感動を呼び起こしたのだと思います。世界に衝撃を与えて、南ベトナムの闘う学生を励ますことに繋がった理由です。山本義隆さんがおっしゃったように、向こうの人たちが大変好意的に私たちのことを受け入れて下さったということは、単に山﨑さんが亡くなったということだけではなくて、その時闘った皆の闘い、誰が死んだって不思議じゃない状況を、診断書を1枚1枚受け取りながら想像しました。そんな闘いがベトナムの方たちに少しは理解されたんだと思い、私は少し嬉しくなりました。

 ベトナム人民の闘いを我が事として引き受けて、その中で失った大切な一つの命。一つの命を失ったということは本当に大きなことで、どんなに悔いても、それは悔い足りない事ですけれども、それに対して山﨑建夫さんはこのように書いています。短いので聞いてください。

「最後に弟へ。お前は言ってたっけ。同じ死ぬなら戦争で死ぬより反戦の闘いで死ぬって。心から平和を願う人々の心に、細々としかも消えることのない灯りとなったお前を、俺は誇りに思う。」

 このようにお兄さんは書いてくださっています。(拍手)本当に慰めになります。

「羽田十・八救援会」は三人の幼い子の手を借りて発足。子持ちの主婦にもできること
 羽田十・八救援会というのは、知識人、こういう思いを支える人たちによって誕生しました。中でも忘れられないのは、山﨑君のお母さんが毎月8の付く日に必ずカンパを送って下さっていたんです。そこにいつも短い文、自分の今日の暮らしとか思いを付けて送って下さっていました。1回だけお母さんにお会いして、その時にいただいたのが(ぬいぐるみの)コアラちゃん。うちの子どもたちがまだ3歳4歳の小さい時だったものですから、ぬいぐるみを持ってきて下さって、それ以来大事にしています。

 救援の訴えを振替用紙を入れて全国に送りました。どこへ送ったらいいか分からないので、学会員名簿とか文化人手帳などを集めてきて、片っ端から送りました。1万通以上送ったと思います。小さな私の子どもたちも切手を貼ってくれるんですけれども、山﨑建夫さんがこの前、「切手を逆に貼ってあったのは意味があったのかと考えた」と言われて、クスッと笑ってしまいましたが、たぶん子どもたちが貼って送ったものだと思います。結構な戦力でした。小さな官舎に居たものですから、2階と1階があって、1階の四畳半は全部作業場になっていたんです。その時に、見かねて作業を手伝ってくださったのが、今も反原発を一生懸命なさっている私の女友達や槌田敦さんだとか山本義隆さんでした。

 救援会が何をやったかと言いますと、学生が学生をひき殺したというストーリーが予め出来ていて、死因の記者会見の前にそういう情報が流されていました。だから運転して逮捕された学生を支えなければいけないということで、私は生れて始めて、警視庁に差し入れに通うようになりました。とびきり上等なケーキ1個を大事に抱えて持って行ったり、まっ白なセーターを持っていったりしました。差し入れの時に自分の住所を書きたくなかったから、嘘の住所を書いていたら、ある日それが見つかって、警視庁の一室に閉じ込められて追及されました。下手な嘘はつかない方がいい。いろんなことをそこで学びました。警察で出されたお茶を飲んではいけない、指紋が付くからダメだとか、救援をしていくうえでいい経験をしました。もちろん逮捕学生は、不起訴で釈放されました。

 それから救援組織というのもだんだん広がっていって、最初は羽田十・八救援会でしたけれども、闘いは連日三里塚、王子、佐世保と休む暇もなくて、私たちだけでは完全に手に負えなくて、知人友人を介して三里塚闘争救援会、王子野戦病院救援会と分担していただきました。日大闘争・東大闘争は単一組織ですから独自に救対を持ち、私たちは連絡を取り合うだけで実務はノータッチでしたが、その人たちで合同救援ニュースを作ってやがてそれは救援連絡センターになっていきます。

羽田、王子野戦、三里塚、日大闘争、東大闘争……が産み落とした「ゴクイリイミオイ」
 救援連絡センターには被疑者を逮捕した警察から弁護士選任が入ってきます。誰か逮捕されると、「ゴクイリイミオオイ」(591-1301)と警察に言うと、仕方なく警察が電話してくれる。救援連絡センターは弁護士事務所の出張所になっているわけですから、刑訴法違反になるので電話しなくてはいけない。例えば「目黒警察の留置番号5番の人が面会を要求している」という電話が警察から入ってくる。夜中に電話が入ってくることが多いので、当時は徹夜で救援連絡センターを開いていました。連絡があると、地域の救援会、例えば目黒救援会というところに電話を入れる。「留置番号5番の人は逮捕されているから3点セットを持ってすぐに行ってください」。3点セットとは歯ブラシと下着とタオル、それと食料の差し入れ。当時は手作りの差し入れを受け付けてくれていたので、各救援会は競争して美味しいおにぎりを作ってくれました。中に牛肉を入れたり塩鮭を入れたり、連絡会議ではその報告でもちきりでした。

 そういう支えが市民の中に広がっていって、都内には全部の区毎にできました。それから北海道から沖縄まで、誰に頼まれたわけでもなく、自主的に全部で82の救援組織が出来たのです。それは皆さんが作った闘いの結果だと思います。闘いが共感を呼んで、そういう救援組織が出来ていきました。

 大きな逮捕といいますと。69年の10・11月闘争です。そこで日本の戦後の最高の数だと思いますが、4,200人余が留置され、東京の留置署は満杯で、千葉や埼玉にまで送られていきました。誰がどこに行ったか一人でも逃したら大変なので、警察からきちんと受け取って、記録をして、弁護士に依頼をするのですが弁護士が足りないので、3泊4日の間には行けませんでした。救援連絡センターの仕事は、3泊4日の間に1回は弁護士接見するというのが最低のきまりですが、それが出来なかった。勾留期間の23日の間にやっと1回行けるという状態になってしまいましたが、一人でも行方不明にならないようにということで救援会と連絡を取って、差し入れで弁護士不足をカバーすることが出来たと思います。それが最後の街頭闘争のピ-クでした。救援連絡センターの縮刷版を見ても、その後は逮捕者が減って、息が切れたんですね。いつまでもそんな闘いが続くはずがないというか、息が切れたら休めばいいと、縮刷版を見ながらつくづく思いました。そうやって、後は大量逮捕ではなくて、三菱重工爆破だとか小さいグループ、連赤、テルアビブまで庄司宏弁護士にお願いして行っていただくこともあり、闘いの変化に応じて、救援も変わっていきました。
 救援会の中でも新しい試練を迎えたのだと思いますけれど、権力の弾圧に対しては救援センターは絶対に立ち向かうという二つの原則があります。「一人の弾圧に対しても全人民の弾圧として受け止める」、もう一つは、「思想信条の如何を問わずこれを救援する」。この二つの原則だけは私たちは守ろうということで、どんな小さい一人の逮捕者に対しても関わってきたと思います。私は74年に関西に来ていますので、後は水戸と山中幸男さん(現救援連絡センター事務局長)が引き継いでくれて、今日まで活動を続けて下さっていますが、その縮刷版を見ると、その後の闘いの方がむしろ救援としては大変な時期でした。

 羽田闘争については京浜安保共闘のメンバーが空港内にちょっと足を踏み入れたということで刑期12年という求刑が出たんです。それに対して、全体の運動がほんとに大変な影響を受けることになるので、絶対にそんな不当な判決を認めてはいけないと、水戸は弁護士と必死になって奔走していました。その結果刑期をずいぶん短くできて、保釈も出た。それが坂口弘君です。彼は出てしまったために、あんなに大変な事件を起こしてしまった。水戸は、入れておけばよかったと、後から半ば本気で後悔していました。救援の悩ましいところですね。軽井沢で大変な事件が起きました。家族を含めた人権侵害を見張るために私たちも軽井沢に行きました。長野救援会の力を借りて、尾行する警察を巻きながら、とにかく家族をマスコミから守らなければいけないということで必死でした。水戸は軽井沢山荘の真正面に行って、とにかく殺すな、という訴えをやりました。その事について坂口君は、後で本当に申し訳なかったという手紙をくれていますが、水戸は山に入る日まで拘置所通いをして坂口君への援助を惜しみませんでした。頼るべき組織や友人を失ってしまった人にこそ、救援の手が届かねばならないお手本を水戸巌は示してくれました。

殺すな! 死刑制度の廃止を。人類と共存できない原発を廃炉に!
自分ができることで、闘いを持続すれば必ず勝てる

 70年代に入って、水戸が取り組んだのが死刑廃止でした。反戦の闘いの中から死刑判決を出し、国家権力による殺人を見過ごすことは絶対にできないという信念でした。それは本当にすごい決意で、安田好弘弁護士を奮い立たせました。議員時代に死刑廃止を掲げていた中山千夏さんにも頭を下げて共にやろうとタッグを組みました。反弾圧運動が彼を絶対的「死刑廃止」論者に高めていったのです。おそらく死の瞬間まで、死刑廃止が脳裏にあったに違いありません。
 大量逮捕が終わった頃、日本の原発ラッシュが始まり、そのころから原発立地に入って測量と反対運動を精力的に始めていました。原発が出来たころから、事故隠しは日常茶飯事でしたから、松葉の新芽を取って、半導体測定器で測れば、(原発は必ず海岸沿いですから防風林として松葉がどこにもあります。)1年間に漏れ出した放出量がほんの微量でも検出できるので自分で車を運転して定期的に全国の原発を調べて歩いていました。時には排水口の汚染水も。六ヶ所村など原発立地になるところにも通って、原発を作ってはいけないと、話して歩いていた時期が70年代からです。

 彼が一番言いたかったことは、原発は原爆と同じなんだ、原発技術の生みの親は原爆であるということです。瞬間的な核反応を利用して爆発させ死の灰をまき散らす原爆の技術をトロトロと燃やして電気を取り出すために使うなど、そもそもが間違っている。核反応に耐えるような原子炉の材質を私たちはまだ手に入れていないこと、普通規模の原発を1年運転すれば、広島原爆10発分の死の灰が原子炉内に貯えてしまうと、その危険性を訴え続けました。彼の主張は樋口判決の中に生きていて、それは伊達判決と同じくらい素晴らしい判決だと私は思っていますけれども、大飯原発の再稼働を禁じる判決を出されました(2014年5月)。それは本当に感動的な言葉です。

 例えば「原発の稼働が電力供給の安定性・コストの低減に繋がると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人たちの生存そのものに関する権利と、電気代の高い低いの問題等々を並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている」とか。「極めて多数の人の生存そのものに関わる権利、そういう権利と電気代が高い低いというものを同列に論じていいものであろうか、法的には断固許されないことであると考えている。このコストの問題に関連して国富の流失や喪失の議論であるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流失や喪失というべきではなく、豊かな国土と、そこに国民が根を下ろして生活していることこそが国富であり、これを取り戻すことが出来なくなることが国富の喪失であると、当裁判所は考えている。」こんなことを言って下さっているのです。

 こんなに分かりやすい言葉で書かれた「判決」を見たことがない。それは今になって気が付いたことですけれども、樋口さんが何故こんなに易しい言葉で書いてくださったかというと、関西電力がこの判決を不服として控訴して、今高裁で審議されていますけれど、目に余るひどい訴訟指揮です。裁判だけで勝とうと思うな、市民が立ち上がらなければいけないよというメッセージだったのですね。樋口さんが言いたかったことを私たちは本当に心に置いて市民が頑張る。アメリカの意思、国際マフィアの力が働いての原発推進ですから、原発を止めるのは大変なことです。

 でも、私たちは羽田10・8に向けて、戦後営々と蓄えてきた反戦の力を爆発させたように、樋口判決を土台にして、脱原発に向け、自分ができることを力の限りやり続ければ必ず原発を止められる。羽田10・8が教えてくれているように思います。

 長くなって申し訳ありませんでした。どうも有難うございます。

司会:道浦母都子

「水戸さん、どうもありがとうございました。50年間の思いですから、とても決まった時間の中には納まらなかったと思います。でも、私も救援会のおかげで警察署に電話をかけてもらい、弁護士が来てくださってという経験がございます。水戸さんは反原発で闘う女性になって走り回っておられます。もっとお話ししたいことがあっただろうと思いますがありがとうございます。」

(終)

 当日の発言に一部訂正加筆しております。(水戸喜世子)



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