開けておく意味があるドアはある/牧野良成

開けておく意味があるドアはある
――10・8山﨑博昭プロジェクトの今後を考えるための一発言

牧野良成(大阪大学文学研究科博士後期課程)

まえがき(2022年11月21日記)

 この原稿の前身は、関西集会の詳細な告知が公開された11月14日に、プログラム上に発言者という位置づけで紹介されていたことを知ったのをきっかけに、わずか数日で読みあげ原稿としてまとめたものです。プロジェクトの今後にかかわる重大な集会ということで、それなりに責任をもって発言しなくてはなるまいと考え、運動史にかかわる目的と意義を(こんご立派に遂行できるかどうかはともかく)いまの私なりに提示することを目指しました。その骨子を本文中から前もって引き出しておくと、「運動史を血の通った私たちのものとして語りなおす作業」のためには、過去を自分とは断絶したものと把握して総括・教訓化するのではなく、「語るに語れない空白を抱えるという心境において、私は過去との接点を持てる」という態度をこそ出発点にしなくてはならないのではないか、というふうにまとめられるかと思います。

 原稿準備にあたった数日間には、それぞれまったく別々の活動にかかわる同年輩の2、30代の知人・友人らを中心に10人ほどに下読みしてもらい、いくつも大事なコメントや感想を受け、論議を交わしました。なかでも、弾圧史に触れた箇所、「血」を過去に塗りこめてはならないと主張した箇所には、これらのコメントがあって初めて明確にできた点があります。もちろんここでの文責は私が負うものですが、かれらが私にあたえてくれたものがあるという事実を、感謝とともに明記しておきたいと思います。

 当日は、もともと20分強の内容だったものを、早口と割愛とでどうにか15、6分ほどに圧縮して語り切りました(それでも、他に発言を予定していたプロジェクトメンバーの機会を奪ってしまったところがあり、とても心苦しい思いです)。当日参加したみなさんにもお聞き苦しい点があったかもしれませんし、下読みしてくれた知人・友人らがあたえてくれた気づきをじゅうぶんに表現できなかったのではないかと私自身悔やまれる点が大いにあります。そういう次第で、集会を終えて、事務局から「事前に用意していた原稿の様式を公開用に整えて、あとで送ってほしい」とお願いされたとき、文字通り胸をなでおろしました。

 以下、発言の背景にある資料や文献の情報を注記しつつ、当日の議論で話題になった点なども補ったものを、発言録として示します。口頭で読みあげることを前提としてつくった原稿ですので、基本的には方言をまじえた話しことばになっています。いささか厳密さを欠き、イメージに頼った抽象的な言い回しになっている点も少なくありません。この原稿の末尾でも問いかけてはおりますが、ご意見ご叱正をいただけるとうれしく思います。

プロジェクトとのかかわりを振り返る

 牧野良成(まきの・よしなり)と申します。大阪大学の文学部の大学院にある、「日本学」という看板を掲げた研究室で、博士課程の大学院生として籍を置いています。きょうは改めての自己紹介も兼ねて、プロジェクトのかかわりの経過を振り返りながら、第2ステージ以降プロジェクトがどうあるべきか、お集まりのみなさんの考えを触発したく思います。

 話は5年前の2017年にさかのぼります。そのころから私が取り組んできたのは、1970年代以降社会運動全般の転換期のなか、大阪の女性たちが労働運動のなかで〈女性だけで動く〉という活動の形態をどうやって成り立たせていたかというテーマです。この年の春、エル・おおさか4階――今回の関西集会会場のちょうどひとつ下のフロア――にあるエル・ライブラリーという施設が主催した連続講座で〈①〉、私は社会運動史研究者の黒川伊織(くろかわ・いおり)さんと出会います。エル・ライブラリーは社会運動や労働問題関係資料の収集・保全機関でして、この運営母体がその名も「大阪社会運動協会」です〈②〉。かつての大阪総評はじめ在阪労働諸団体が、1978年に、戦前からの大阪の社会運動を網羅的に対象とする『大阪社会労働運動史』編纂事業のためにつくった団体でして、現在は2000年代以降を扱った最終巻、第10巻を鋭意編纂中です。

 このライブラリーの連続講座で講師を務めた黒川さんから紹介されたのが、山﨑博昭プロジェクトだったわけです。黒川さんのおしごとには、現在公式にはことしが「結党100周年」とされる日本共産党のご研究があります(ちょっと含みがある言い回しをしましたが、その理由については黒川さんの著書〈③〉をぜひご一読ください)。黒川さんの方法論は、戦前の非合法時代からのコミュニストの動きをアジアとの連関において把握するというものです。そういう視野を前提にしておられたからでしょうか、その年の夏の集会のときも仰っていたのが——さきほど小林哲夫さんも、辻恵さん講演のあとに提起しておられた点でもありますが——、ことしでちょうど半世紀、1972年のあさま山荘事件が、それまでの運動の終わりとみなされてしまうという、現代史の語り口の問題なんですね。そういった支配的な語り口をひっくり返すような話題提供が、求められたわけです。このとき一緒に登壇したのが、東大闘争研究の小杉亮子(こすぎ・りょうこ)さん、昨年亡くなった富山妙子さんの画業を追ってきた徐潤雅(ソ・ユナ)さん、ドキュメンタリー映画研究の中村葉子(なかむら・ようこ)さんで、私は紅一点ならぬ黒一点だったわけです。そんな私が話したのも女性の運動についてで、関西の三里塚支援の女性たちが現地はもちろん各地の女性らとの共同で企画して、泉州から三里塚まで2か月かけて走破した長距離リレーデモ「女たちのゆっくリレー」(1987年9月~11月)を扱いました。

〈①〉「講座「大阪社会労働運動史」第3期|エル・ライブラリー」[https://shaunkyo.jp/events/43/%E8%AC%9B%E5%BA%A7%E5%A4%A7%E9%98%AA%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%8A%B4%E5%83%8D%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%8F%B2%E7%AC%AC3%E6%9C%9F”>https://shaunkyo.jp/events/43/%E8%AC%9B%E5%BA%A7%E5%A4%A7%E9%98%AA%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%8A%B4%E5%83%8D%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%8F%B2%E7%AC%AC3%E6%9C%9F]。これ以降本文中で挙げるURLはすべて、2022年11月21日に最終確認したものです。
〈②〉「公益財団法人 大阪社会運動協会」[https://shaunkyo.jp/shaunkyo/
〈③〉黒川伊織『帝国に抗する社会運動:第一次日本共産党の思想と運動』(有志舎、2014年)、同『戦争・革命の東アジアと日本のコミュニスト:1920-1970年』(有志舎、2020年)

博昭さんとの出会い(損ね)を振り返る

 ところで、このプロジェクトに触れるまで、私は博昭さんのことをまったく知らずにきました。正確に言うと、知っていても良かったはずなのに、博昭さんを博昭さんとして認知していなかったんです。あさま事件からほどなくして、リブの活動家田中美津さんが『いのちの女たちへ』(田畑書店、1972年)を世に問います。ここに、博昭さんの名前が登場するんです。ヴェトナム反戦・日韓条約・沖縄闘争・三里塚の時代、博昭さんの存在は同時代を生きた人たちのなかに刻み込まれていたのだという事実、そしてそれを私は見落としていたのだという事実が、ものすごい衝撃でした。

 私はもともとの関心がフェミニズムでして、学部に入学した2011年からずっと、それなりに過去のことは勉強してきたつもりだったんですね。それなのに、「なんでヤマザキヒロアキを知らずにきたのか」と。いま振りかえってみると、その理由は単純です。まず、私の関心の持ちかたが、フェミニズムしか視野に入れないという狭いものだったからです。もっともこうした関心自体、女性の動きがともすれば運動史のなかで脇に追いやられがちだという前提からのものではありました。

 もうひとつ、こちらがさらに重大な点です。戦後フェミニズムの多くの整理には、右派勢力からのバックラッシュといった締め付けはある。60年安保での樺美智子さんはじめ幾人かは亡くなっているし、死者とまではゆかずとも、闘争現地や街頭〈④〉に官憲が動員され、その過程で負傷した、不当逮捕された女性個人・女性らを中心とするグループ個別のケースはあたりまえに出てきます。そしてそんな人たちの救援という観点から言えば、とうぜん水戸喜世子さんらが10・8などをきっかけに始めた救援連絡センターは外せない。けれども、女性の団体そのものが官憲の力で壊滅に追い込まれるあからさまな弾圧が加えられた例は、ちょっと思いつかないのです。まずは私自身の不勉強を恥じるべきではありますが、ここには主流の整理からは忘れ去られているものがある、数えられるべきものがみえづらい、わかってはいてもそれをどう数え入れたら良いものかといった問題も無縁ではないはずです。日本のとりわけ戦後の経過を振り返ってみると、フェミニズムと弾圧史がどうもうまく結びつかない、弾圧の経験抜きでもまあひと通りは語れてしまうという問題があるように思うのです。来月、私も企画に加わって東アジアのフェミニズムにかんする本〈⑤〉を素材にオンラインイベントをやるんですが、その準備にあたって韓国や中華圏諸地域の運動と対比してみたところ、その事実はもっと歴然としました。ともあれ、この弾圧という点の見落としの自覚は、おそらく博昭さんとの出会いなくして得られなかった最も重大なポイントのひとつです。

〈④〉ここで当初念頭に置いていたのは、三里塚や北富士といった地域・住民闘争でしたが、2021年に強行された東京オリンピック・パラリンピックの開催準備のなかで(テロ対策と一体化して)進められた、都市における野宿者・貧困者の排除問題も——そこで生活をつづけるということそのものが否応なしに闘いとなってしまうという意味で——ここには近接するのではないかというコメントをくれた友人がいたことを付記しておきます。
〈⑤〉熱田敬子・金美珍・梁‐永山聡子・張瑋容・曹曉彤編著『ハッシュタグだけじゃ始まらない:東アジアのフェミニズム・ムーブメント』(大月書店、2022年)

映画『きみが死んだあとで』が教えてくれたこと

 それを映像化してくださったのが、関西集会でも上映された代島治彦さんの『きみが死んだあとで』だったわけです。プロジェクトの成果物である資料集〈⑥〉もつぶさにあきらかにした点ですが、博昭さん轢殺説がそのじつどれだけ筋が通らないものだったか、実のお兄さまである建夫さんの語りが、冒頭から端的に物語ります。

 代島さんの映画が教えてくれたことはもうひとつあります。活動にかかわる人たちが築きあげる関係のままならなさです。ちょうどプロジェクトと接点を持った頃から去年あたりまで、私、それまで活動をきっかけに出会ってきた人たちとの関係がものすごくしんどい時期がありました。そんなとき、「同窓・同期の山﨑くん」として、博昭さんとのかかわりを振り返るみなさんの姿と出会ったんですね。なあんや、具体的な状況、課題、活動のかたちが違っても、そのときの関係のなかで置かれる心境って、そこまで私の経験から遠くないもんなんやなあと気づかされたんです。

 ちょっと比喩だのみの説明になりますが、私の気づきの内実について、説明させてください。ほとんど毎日を一緒に過ごしていた時期があって、どこかで元気にやってるだろうとばかり思っていた人が、ある日ぽっかりといなくなる(亡くなるばかりでなく、とつぜん姿を消すとか、以前とはまったく別人のように変わってしまうなども考えられるでしょう)。その人の存在が欠けてしまうと、自分のありかたが意外なほどにその人の存在に依存していたとわかってしまう。場合によっては、それまで自分自身だと疑っていなかったものがいっぺんに空白に転じてしまうことすらありえます。その空白をどうにかみたすため、私たちは何かをしなくてはと思って動くわけですが、私たち個々のなかにできる空白の内実って、失われたものとの日頃の関係や思い入れの深さや大きさ、密度なんかに左右されて、それぞれぜんぜん違います。長く生きて人との付き合いを重ねてゆけば、私たちのなかにはそういう穴ぼこがぽこぽこ空いてゆくもので、そのこと自体はごくあたりまえの事実です。そうしたたくさんの穴ぼこの存在には、膝つきあわして語る機会があればちょっとは気づけるんですが、語られなければとうぜん知る由もない。ところが私たちのあいだには、膝つきあわすことすら阻む、数多の壁や亀裂がある。それを越えるにはいろんなものを振り切らなくてはなりません。でも、語ったところで思った宛先へ思った通りに伝わる保証なんてないし、そもそもそんなことを聞いてくれる人間がいるともなかなか信じられない。だからそんな危険をおかしてまで、あえてそういったことについて語るなんて蛮勇は、私たちはそうそうふるわないわけです。

 ともあれ、そういうままならない経験をずーっと抱えて、それでも目のまえのやるべきことはやってゆくほかない。状況は待ってはくれませんからね。具体的な状況も課題もやりかたも違うけど、いや、違うというのを前提にするからこそ、たとえばこういう、語るに語れない空白を抱えるという心境において、私は過去との接点を持てるんや、と思えるようになったんです〈⑦〉。

〈⑥〉辻恵・事務局「50年目の真相究明:山﨑博昭君の死因をめぐって」10・8山﨑博昭プロジェクト編『かつて10・8羽田闘争があった:山﨑博昭追悼50周年記念[寄稿篇]』(合同出版、2017年)
〈⑦〉「語るに語れない空白を抱えるという心境」に触れたあたりは時間の都合上、集会当日は完全に割愛した部分です。代島さんの映画を観たのとどっちが先だったか失念してしまいましたが、私がここで示したような考えに至ったもうひとつのきっかけが、中岡哲郎『現代における思想と行動:挫折の内面をとおして見た個人・運動・歴史』(三一書房、1960年)でした。私が言うところの「空白」というのは、中岡さんが述べるところの「実は自分達自身の内部でもうまく現在の行動につなぐような思考のあたえられていない、いわば自分自身の内部で疎外されてしまった過去の部分」(137頁)に該当するのかなと思っています。長くなりますが、中岡さんの洞察の要点が端的にまとまった箇所を引用しておきます。「一人の人間にとって過去‐現在‐未来というつながりは、彼の生き、そして生きるであろう人生として、完全にひとつのものでなければならない。そのつながりをつけ、彼の過去‐未来‐現在を一つの人生として確保するのが思想の働きである。そのつながりがどこかで断ち切られることは、彼の人生にとっても思想にとっても死にひとしい。役に立たなかった経験も、ひとつの経験として現在に生かされることを要求しつづける。あやまった過去も未来につながることを要求しつづける。どこへもつながらなくなった過去は、どこかへつながるまで私達をゆすぶりつづける。こうした、いわば私達の過去の現在への生存本能が、私達の思考の科学的論理的機能をはげしくねじまげるのが、行動の場の特徴なのである。転向のなかにあらわれたもの、私達の戦後の運動のなかにあらわれ、挫折のなかにあらわれたものはそれである」(115‐116頁)。60年以上まえのこの著作の存在を私が知ったのは、後註⑯でも触れる『社会運動史研究1』(新曜社、2019年)に掲載された座談会「社会運動史をともにつくるために:問題意識と争点」に参加した、安岡健一(やすおか・けんいち)さんの発言を介してでした。


▲発言する牧野良成さん

私たちはとっくに血まみれだ

 そのうえで、先月の東京集会での代島さんの発言に一点、私はどうしても異論を唱えたいのです。代島さんはあの日の集会で、「なぜ博昭さんが握っていたバトンが、血で汚されてしまったのか」といった言い回しで、あさま事件や内ゲバへと赴いていった往時の運動の総括の必要を語りました〈⑧〉。とんでもない、きょうび特別“過激”だとみなされているわけでない活動のただなかですら、私たちはもうとっくに血まみれです。劇的な死や暴力的な対立といった鮮明な外観は取らないけれども、活動内の差別やハラスメント、性的・精神的なものを含む暴力、時には運動が掲げる名目そのものに自分のありかたを理不尽におとしめられるのを苦にして、そこからひっそりと立ち去る人たちがいる〈⑨〉。10・8前後はもちろん、もっと遡っても、それをうまく語れることばも場もなかっただけで、そんな人たちは間違いなくいたはずです。この意味で、血塗られたバトンが、過去のものだったところなんてどこにもないのです。むしろ、過去のあまりに目立つ出来事のなかに「血」を塗り込めてしまっては、この事実から目を背けることになるんやないですかと私は言いたい。このことは私、他ならぬ代島さんの映画から教えられたことだと思っているんです。だからこそ、ここできちんと言っておきたいのです。

 私は1991年、湾岸戦争・入管特例法・元日本軍「慰安婦」の金学順(キム・ハクスン)さん証言・ソ連崩壊の年に生まれた、ぼちぼち若いと言うには後ろめたくなってくる世代です。ついさっきお話しくださった小林哲夫さんの新書に詳しいですが〈⑩〉、私の同年輩には、活動にかかわってたり心を寄せてたりする人らは決して少なくありません。世界金融危機からごく数年の民主党政権時代を中高生時代に、3.11の東日本大震災を大学入学前後に経験した世代です。かつてとは違って、どこか組織に属してというよりは、継続的な活動を前提にしない小さなグループやコミュニティをその都度つくって動くスタイルがいまの主流で、いわゆる何らかの生きづらさの“当事者”であることをじぶんの出発点として認識してる人らが多いかと思います。情報技術の発展のおかげで、出会うのも情報の収集・交換もオンライン空間上で、飛躍的にかんたんになったのも追い風です。

 だけども、ともに動く、何かを動かすという局面になるとどうか。決して「かつてのほうがマシだった」と言うつもりもそんな用意もないのですが、方針の提示や情報の発信に責任をもつ恒常的な組織が希薄であるがゆえに起こりやすく、こじれやすい、しんどい出来事もあります(さきほど言及した、活動内でのハラスメントがその最たる例です)。かといって、そういった力のある組織を立ちゆかせるだけの余力や力量はあるのかと問われれば、それも甚だ心もとない。活動の基本になるのは時間とカネですが、それを大きく左右する労働条件は良いとは言えず、さらにそれぞれに置かれた条件はバラバラ。良くないところで働くしかない、そもそも働くのが怖いという人も大勢いる。身近に世話が必要な人間がいれば、とうぜん放っておけるわけはありません。ごくわずかにヒマができて人とつきあうにしても、オンライン空間を介して共通の趣味や関心があるとわかってる人と接するほうが手軽で気楽なわけです。だからそもそも自分事から関心が深まらないし、活動に関心があってもなかなかお互いに結びつけないし、何ならヘタに結びつくのを忌避してすらいます。ことしの6月、山本義隆さんがご来阪の折にこの話をしたら、ちょっとした激論になりました。

 ともあれ、私たちの血塗られた状況は現在進行形なのです。活動をめぐるしんどさについて語る機会って、ほんとにないんですね。ここ数年、自分もアホみたいに苦しかったというのに、いくつか深刻な状況について友人から相談を受ける機会がありました。私は、プロジェクトとかかわって以来出会ってきた人たちから学んだあれこれ、知識というよかさっき言うたような姿勢みたいなものを背景に話すんですが、みんな「こんなことを話せたのは初めてだ」と言うてくれるんですね。プロジェクトをはじめ、運動史を血の通った私たちのものとして語りなおす作業の意義って、じつはこういう瞬間をひらくことにこそあるんでないかと思うんです。何かわかりやすい総括なり教訓なりを引き出して片付けるというよりは、あちこちで、ようわからん別々の壁にぶつかってた人らが、ようわからん壁にぶつかったというささやかな一点をもって、不思議と邂逅できるような瞬間です(当日の発言ではこういう言い回しを選びましたが、血のメタファーにあえてこだわってみるならば、「それぞれが抱える空白に、温かい血がふとまた通うような瞬間」という言い方も成立するかもしれません)。きょうは残念ながら欠席ですが、先月の東京集会で水戸喜世子さんも、2016年の京都精華大学での展示会を振り返って似たようなことを仰っていて〈⑪〉、私は確信を強めつつあります。たとえめったに立ち寄る人がなくても、目立たなくても、開けておく意味があるドアはあるということです。

〈⑧〉山中健史「野次馬雑記|No 604 10・8羽田闘争55周年記念集会 前編」
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/17505200.html
〈⑨〉塩田彩「「女性を踏み台にするデモはいらない」 社会運動内部での性暴力に抗議相次ぐ|毎日新聞」
https://mainichi.jp/articles/20201107/k00/00m/040/266000c]。栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社、2019年)所収の論考「真空地帯としての社会運動」も、ぜひあわせて参照してください。
〈⑩〉小林哲夫『平成・令和 学生たちの社会運動:SEALDs、民青、過激派、独自グループ』(光文社、2021年)
〈⑪〉山本義隆さん監修で、2016年6月の東京展覧会につづいて企画された、「10・8 山﨑博昭追悼『ベトナム反戦闘争とその時代』展」のこと(2016年10月、京都精華大学)。牧野は関西集会当日の発言では、「東京集会」と誤って言及しました。訂正のため、前掲山中健史記事から次の引用を示します。「[引用者註:先に発言した山本義隆さんの展示会の振り返りを受けて]今の続きで言いますと、私は精華(京都精華大学)の展示会に行ったんですね。そうすると本当に来る人が、50年間言いたいことをずっと胸の中にしまっていたということを吐き出すように喋ってくれるんですね。本当に私も場の雰囲気というか、みんな10・8以来こういう場がなかったがために、みんな一人ひとり胸の中にしまい込んでいたんだなって、あれは本当に私も感動して、あの展示会をやってよかったんだなという思いを強く持ちました。」

過去との連帯としての運動史のために

 私の運動史への関心の原点には、「だれかと一緒に何かすんのってほんまに難しいなあ」という、自分自身の困難があります。3.11以降の数年間、私は運動に距離をかんじていました。「東北みたいに遠く離れたところの問題が、なんでみんなの問題みたいに語られなあかんのか?」と、じつに浅はかな反発すらありました。けれども私がもっぱら関心を抱いてきたフェミニズムのあゆみを学んでみると、問題を問題たらしめてきた人たちの努力がそこにはあったんです。もちろんそこには、運動内の差別もある。たとえ女たち同士でも、支援が当該を置いてけぼりにすることもあるし、裁判など傍目にもわかりやすい闘いをしなかった人を軽んじ傷つけることもある〈⑫〉。敵だとみなした集団の言動を「危ない」「怖ろしい」「どないかしてるわ」と周囲に印象付けるのに終始して、“当事者の声を聴く”、“当事者を守る”という名目を掲げておきながら、その名目をだれかの困難や望みを知るのをサボったり、背景にある不当な状況を認めずに済ませたり、最悪の場合だと攻撃するための口実にするとかいった構図もあったりします(もっとも、たとえどんな集団がどれだけ「危な」くて「怖ろし」くて「どうかしてい」て、いかにも同情に値しないふうに語れてしまうとしても、人権の尊重ってそういう悪印象を持ち出せば無効にしても良い話じゃないはずなんですけどね。むしろ、そんなあたりまえの考えのもとですら考慮の外に置かれても仕方ないとみなされてしまう集団こそがきわめて苛烈な状況に追い込まれていると言うべきだし、意図的に悪印象を広めて回って“無垢な当事者”とのコントラストを成立させようとする言動こそ大いに恥を知るべきです)。そしてそういう過ちを過ちとして知ることができるのも、書かれたものを、語られたことを、なかったことにしない努力が積み重ねられてきたからです。

 端的に言ってしまえば、運動史は過去との連帯だというのが、私の考えです。過去との連帯は、将来の連帯を問い直す作業にもなりうるでしょう。先月の東京集会と相前後して、ある著名なコメンテーターの悪意ある発言をきっかけに、辺野古基地建設反対の座り込みに対する中傷が瞬く間に広がりました〈⑬〉。あろうことか沖縄“復帰”から半世紀のこの年にです(もちろん1972年を画期としてモノを考えること自体に問題がないわけではありませんが、今回のかれの発言は、そういった問題提起すら理解されがたい状況に私たちがいるという事実の、端的な現われでもあります)。これは運動史の敗北の一端だと私は思います。沖縄然り、三里塚然り、三池や水俣などなど然り、自分に直接関係することであれ直接には無関係であれ、不当な条件や状況を問題にして、闘いを積み重ね心を寄せてきた私たちは、たしかにいたはずなのです。私たちは、私たちの歴史を語る用意を取り戻さなくてはなりません。誤解のないようつけ加えますが、「取り戻さなくてはならない」のは、何か「私たちの正しい歴史」ではなく、そもそもの「語る用意」、つまりはつながり切れなかった過去との接点を探りなおす姿勢のほうです。

 さて、1980年代以降、歴史学のなかで注目されるようになった「public history(パブリック・ヒストリー)」ということばがあります。ネオリベラリズム(新自由主義)の進展にともなう学校教育や社会教育の空洞化への対処としての側面もありますが、専門家でない人らが行なう歴史の実践に――山﨑プロジェクトの場合、資料集や展示会はもちろん、墓碑建立や月命日の墓参もとうぜん含まれるでしょう――積極的な位置づけをあたえ、大学や史料館などで専門家として研鑽してきた人らもかれらとのコラボレーションに取り組むといった含みのあることばだと思っておいてください〈⑭〉。私がこの語をはっきりと意識したのは、昨年12月に刊行された『年報・日本現代史』掲載の、戸邉秀明(とべ・ひであき)さんの論考をつうじてでした〈⑮〉。戸邉さんが直接に言及するのは代島さんの『きみが死んだあとで』ですが、博昭さんをめぐる語りが、「パブリック・ヒストリー」の一環として紹介されています。さきほどお話しいただいた内藤秀之さんらの糟谷孝幸プロジェクトはじめ、山﨑プロジェクトは2010年代後半以降、先行するさまざまな流れからの影響を受け止めつつではあるでしょうが、いまから約半世紀まえの運動史にかんして、少なからずパブリック・ヒストリーの試みを触発した側面があるわけです。

 そんな牽引役としてプロジェクトがやれることは何か。ひとつだけ提言しますと、集会・展示会・資料集編纂など、プロジェクトが第2ステージまでに活動の過程で収集し、産み出してきた文書・モノ・ビジュアル資料、その他記録の類いをアーカイブズ資料として整理し保存する用意を進めることでしょう〈⑯〉。関係者の証言などを残すのも緊急の課題ですが、そもそもの活動の必要から生まれた資料・記録はプロジェクトそのものの痕跡です。この作業は、何十年かしたあとにプロジェクトの取り組みそのものを実証的に、批判的に検証する基礎になることはもちろん、第2ステージまでの賛同人の方々への説明責任を果たす意義もあると思います。保存の主体などについては無理のない選択ができるよう議論が必要ですが、アーカイブズ化は必須と言って良い作業でしょう。

 プロジェクトそのものの今後について言えば、縮小しながらでも活動をつづけることは、社会運動全般にとって谷間の時期を乗り切るという点でとても重要です。この重要さを語るため、アメリカの現代女性運動史研究のなかで出てきた「abeyance structure(アベイヤンス・ストラクチャー)」、日本語だと「休止構造」と訳せるアイディアの助けを借りてみます〈⑰〉。「休止構造」とは、運動にとって必ずしも追い風でない時期にあっても、そこで活動を絶やさぬ知恵や熱意などが育まれ、追い風がきたときにまた動き出す助けになるような人的ネットワークを指すことばです。運動史を語り継ぐ作業は、そういう気の長いつながりの屋台骨になり得ます。

 もっとも、次に何が来るかなんてぶっちゃけわかりませんし、バトンを渡す相手を私たちは選べません。バトンを渡した相手がリレーをつづけてくれる保証はないのです。それどころか、まったく想像もつかない別の競技が始まるかもしれません。3.11以降しばしば好都合に持ち出される“若者”はじめ、後に来る人たちに期待するというのは本来、そんな不確かで危険な賭けなのです。けれども連帯って、そもそもそういうものじゃなかったでしょうか?

 ここまで不十分ながら、私は私なりに運動史にかかわる目的と意義について述べてきました。きょうお集まりのみなさんは、目的と意義、どう考えますでしょうか?

 おしまいにします。

〈⑫〉こうした経過をまとめた例として、ここでは晴野まゆみ『さらば、原告A子:福岡セクシュアル・ハラスメント裁判手記』(海鳥社、2001年)、高橋りりす『サバイバー・フェミニズム』(インパクト出版会、2001年)などを挙げておきます。
〈⑬〉「ひろゆき氏から謝罪と撤回について返信なし 座り込み「0日にした方がよくない?」投稿に市民反発|沖縄タイムス+プラス」[https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1036442
〈⑭〉最近年の概説書として、ここでは菅豊・北條勝貴『パブリック・ヒストリー入門:開かれた歴史学への挑戦』(勉誠出版、2021年)を挙げておきます。
〈⑮〉戸邉秀明「特集にあたって」(「年報日本現代史」編集委員会編『年報・日本現代史第26号 社会運動の一九六〇年代再考』現代史料出版、2021年)。同特集には、黒川伊織さん、小杉亮子さんも寄稿しておられます。
〈⑯〉アーカイブズ全般の概説書としては、大阪大学アーカイブズ編『アーカイブズとアーキビスト:記録を守り伝える担い手たち』(大阪大学出版会、2021年)。各地の社会運動アーカイブズについては、大野光明さん・小杉亮子さん・松井隆志さんの3人が編者となって2019年の創刊からすでに4号を数える『社会運動史研究』(新曜社)の各号に、エル・ライブラリー館長の谷合佳代子さん(第1号)はじめアーキビストたちのインタビュー記事が掲載されています。
〈⑰〉Rupp, L., & V. Taylor, 1987, Survival in the Doldrums: The American Women’s Rights Movement, 1945 to the 1960s. Oxford University Press.

(2022年11月20日、10・8羽田闘争55周年記念関西集会、エルおおさか5F視聴覚室)
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