10・8 山﨑博昭プロジェクト

「暴力学生」非難の大合唱に抗して論陣を張った日々/鈴木道彦

「暴力学生」非難の大合唱に抗して論陣を張った日々――「10・8山﨑博昭プロジェクト」の実現のために

鈴木 道彦(フランス文学者)

●山﨑博昭はあの日、無帽だった

 一九六七年十月八日のいわゆる「第一次羽田事件」は、戦後史の重大な転回点だったが、私自身にも大きな衝撃を与えた事件だった。むろんこのときに、ベトナム戦争への加担に反対するデモ隊のなかで京大生山﨑博昭が若い命を奪われたからだが、それだけではない。その直後にわき上がった「民主主義」の名による「暴力」非難の大合唱と、それを報じるマスメディアの姿勢に、私は身が震えるほどの怒りと嫌悪を感じたのである。

 殺害された山﨑博昭を含むデモ隊は「気違い学生」と呼ばれ(「毎日新聞」)、意見を求められた「識者」たちは、これを「反社会的集団」(藤原弘達)、「学生とはいえない連中」(池田弥三郎)などと決めつけた。また元東大総長の茅誠司は、「学生が暴力で首相の外遊を阻止しようというのはすじちがいだ。民主主義国家としてはずかしい話である」と言っている(強調引用者)。つまり茅にとって「民主主義国家」とは警棒を振るって襲いかかる機動隊によって守られるものであり、「暴力」はただデモ隊の側だけにあったことになるのだろう。

 たしかに学生を中心とする諸セクトのなかには、内ゲバの発生以来、角材とヘルメットで武装する者があらわれた。しかしこの十月八日のデモに参加したすべての学生活動家がヘルメットを被っていたわけではけっしてない。むしろ無防備の者の方が圧倒的に多かったことは、事件直後の各紙に掲載された写真を見ればすぐ分かる。とくに『朝日ジャーナル』十二月二十四日号に載った機動隊と衝突する前のデモ隊の写真は興味深い(82ページ)。そのなかには直後に降ってくる死も予感していない山﨑博昭の存在も確認されるので、これは「中核派」の一隊かと思われるが、二十四、五人の学生のなかでヘルメットらしきものが見えるのは僅かに二個だけ、山﨑も無帽の頭をさらけ出している。

●「轢殺説」は警察の作意と直感、判断

 さらにこの「羽田事件」が私にとって衝撃的だったのは、六〇年安保以来着々と進められてきた権力とメディアの癒着が、ここで一気に明らかになったためだ。それは山﨑博昭の死因をめぐる報道に端的にあらわれた。

 周知のように警察は、十月八日の午後いち早く、奪った放水車を運転した学生によって一人の学生が轢き殺された、という発表を行った。しかしその一方で当日のラジオは、死因が「頭蓋底骨折」による「脳内出血」であるということも伝えていたから、私自身は初めからこの轢殺説に違和感を覚え、何か警察の作為があるのではないかと疑っていた。

 ところがその翌朝から、すべての全国紙、ほとんどすべての週刊誌が、一斉に轢殺説のみを客観的真実として、一面でデカデカと報道し始めたのだ。しかも轢殺現場を目撃したという記事はどこにもないのに、あたかも警察発表通りのことを見たかのような文章が至るところに氾濫しており、おまけにその描写が各紙誌でまちまちなのであった。これはどうやら警察発表の垂れ流しで、記事は記者が勝手に想像ででっち上げたものではないかと思われた。なるほど、死因は警察の殴打によるという全学連秋山委員長と小長井弁護士の見解も採り上げられてはいたが、それは常に真実に異を唱える反対派の意見として、後ろの方のページの下段にごく小さく載せられていたにすぎない。このメディアの「大合唱」が、真の死因を究明するどころか、ひたすら学生を轢き殺した手に負えない「暴力学生」というイメージを強烈に読者の頭に叩きこむことになるのは明らかだった。

●死因をめぐるメディア報道を公開状で追及

 これに危機感を覚えた私は、できる限りのミニコミを集めて目を通した。そのなかでとくに注目したのは、十月十八日号の『社会新報』に掲載された「山﨑博昭君の“死”について」という小長井良浩弁護士の一文である。事件当日、学生が死んだからすぐ来てほしいという連絡を受けた小長井弁護士は、直ちに遺体の収容された大森の牧田第二病院に駆けつけ、院長らから「死因は脳内出血、ほかにはさしたる外形的所見はない」という話を聞いている。しかも同弁護士は敢えて遺体を見せてほしいと申し出て、居合わせた社会党国会議員、弁護士、友人たちとともに、「遺体の右側頬部および頭部に挫創があ」り、「右額になにかに突かれたような跡があることが顕著」であること、「顔面、頭部が挫滅したわけではな」く、「生前の山﨑君の姿はそのまま思い浮べることができた」ことを確認している。また、死因の究明には解剖が重要だからとして、警察・検察側だけでなく、遺族側もそこに立ち会うことを強く求めたが、これは頑なに拒否されたという。このような経過で密室での解剖が行われた結果、その夜の「死因は内臓損傷」という警視庁の一方的な発表が行われたのである。しかも「死体検案書」には、これも甚だ疑わしい曖昧な表現だが、「脳挫滅、胸腹腔内(推定)損傷の疑い」となっていたのに、発表はその「脳挫滅」をもひた隠しにしており、捏造と言っても過言ではないものだった(小長井弁護士は、後に『朝日ジャーナル』十二月二十四日号で、さらに詳細にこの問題を説明している)。

 この小長井弁護士の一文を読んで、私の疑惑はほとんど確信に変わった。仮に「脳挫滅」が致命傷であるとしても、放水用の水を満載していた自重九・四トンの装甲車に轢かれれば、遺体は押し潰されていなければならない。その痕がない以上、機動隊に撲殺された可能性がきわめて高いと考えるのが自然である。しかし私自身も目撃者ではないから、そう断言するわけにはいかない。そこで私は急遽、当時つとめていた大学の新聞に、「事実とは何か――大合唱に抗して」という文章を発表したのである。そのなかで私は小長井弁護士の一文にふれながら、「ほぼ確実に言えるのは、第一に、なぜか警察が死因究明の手段を、全学連にも社会党にも遺族にさえも与えまいと躍起になったことであり、第二にマスコミのまことしやかに提供する『事実』なるものが、ひたすら警察の発表や情報にのみ基づいているということだ」として、次のように書いた。

「以上が、『不偏不党』を呼称するマスコミの正体であり、そのマスコミが強引に読者に植えつけようとする轢殺説は、二日目、三日目になると、完全な『事実』としてまかり通ることになる。(中略)これを私は『暴力』と呼ぶのだ。なぜならそれは巨大な力で以て、事実を知る権利を読者から奪いとり、自由勝手に『世論』を作り上げ、素手の読者を完全に打ちすえるものだからである。」(『一橋新聞』一九六七年十月十六日号)

 このようなメディアの果たす犯罪的な役割を少しでも明らかにしたいと考えた私は、友人の哲学者竹内芳郎と相談して、連名で『朝日新聞』宛にいかなる根拠で轢殺と断定したかを問う投書を行った。またそれがボツになったのを見極めたうえで、今度は「朝日新聞への公開状」を書き、これを当時出ていた総合誌『展望』に発表した。宛先に『朝日』を選んだのは、同紙がたまたま二人の共通に購読していたもので、他紙よりましなマスメディアの代表的新聞と思われたからにすぎない。したがって「公開状」の内容は、他のすべてのメディアにも『朝日』以上に当てはまるものだった。結果は予想通りで、われわれは社会部長とも会見したが、『朝日新聞』は轢殺を証明する何の根拠も示すことができなかった。竹内と私は、その「公開状」をめぐる経過をもすべて『展望』に発表したが、それは後に私の評論集に収録されたし、この「10・8山﨑博昭プロジェクト」のウェブサイトにも掲載されているから、ここではふれない(註 当ウェブサイトのトップページにある「再録・抜粋『政治暴力と想像力』」を参照)。

●近年の言論テロは1930年代そのままの雰囲気

 現在では、政権もメディアも、当時に較べてはるかに危険なものに変質した。近年は、われわれの「公開状」の宛先だった『朝日』が、いくつかの新聞や週刊誌、そして官邸からの執念深い攻撃にさらされている。これはもちろん、『朝日』が反体制的になったためではない。むしろその逆であって、同紙の立場は以前よりもはるかに後退したし、バッシングを受けていっそう萎縮したように見える。これは一紙を標的にして執拗に攻撃しながら、「国家主義」とも言える極右政権と、それにべったり寄り添ったメディアとが、声を荒げて国民を威嚇しているのだ。『読売新聞』はわざわざ『朝日』攻撃の小冊子まで作って、各戸にそれを無料で配布した。とくに従軍慰安婦について報道した『朝日』の元記者が勤める大学を探し出して匿名の脅迫文が送られたり、その家族まで攻撃の対象となったりした事件は、完全な言論テロと言ってもよい。ときには「国賊」だの「非国民」だの「売国奴」だのという言葉すら飛び出すのは、これらの批判者に大日本帝国時代の感覚が復活していることを示している。こうして物を言うのが怖いという雰囲気が作り出されていく現状は、「十五年戦争」を体験している私の目から見ると、完全に一九三〇年代そのままの雰囲気である。またNHK籾井会長の就任時の発言に至っては、大本営発表以外は許さないという戦時中の社会すら思わせる。

 特定秘密保護法が施行され、集団的自衛権が閣議決定され、安保関連法の採決が強行され、マスメディアが権力監視の機能を失ったばかりか、積極的に極右政権のお先棒を担いでいる現在の状況は、きわめて危険な未来を予告している。そのような状況のなかで、今回の「10・8山﨑博昭プロジェクト」が生まれた意義は大きい。実現までにはさまざまな困難が予想されるけれども、是非ともこの計画を完成させたいものである。
(すずき・みちひこ 二〇一五年十二月記)



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