10・8 山﨑博昭プロジェクト

山﨑君の死を悼んで /雪山慶正(1968年1月)

山﨑君の死を悼んで

雪山 慶正
『思想の科学――特集・反戦行動の焦点』71号(1968年1月)に掲載

 10月8日、羽田デモの先頭集団に加わっていた山﨑博昭君が警官隊の警棒によって頭部をウチ割られ18歳の若い生命をベトナム反戦闘争の犠牲に捧げてから早くも2ヶ月にちかい時が流れた。だが、当時ぼくの胸をやいた権力にたいする激情的な憎悪の念と山﨑君にたいする愛惜の思いは、時とともにますますかたくぼくの意識に定着してくるようだ。

 その理由のひとつは、山﨑君が虐殺された 直後から、連日にわたって、国家権力が新聞・ラジオ・テレビなどのマスコミを総動員して行なった「学生が装甲車で学生をひき殺した」「羽田デモの学生は暴徒の集団だ」といった狂気じみたデマ宣伝と、これに協力して代々木共産党が行なった、「トロツキスト暴力学生の山﨑君には一片の同情をもよせるべきでない」といった冷血な反トロ・キャンペーンがぼくの心中に彼らにたいする激しい憎悪をうえつけたからだ。だが、いまひとつの 理由は、10月27日号の『週刊朝日』にのった山﨑君の手記の断片が、ぼくに深い感銘をあたえ、山﨑君にたいして強い人間的共感をよびおこしたからだ。ぼくは、ゆくりなくも、七年前の安保闘争のさなかで警官隊の暴力によって21歳の若い生命を断たれた樺美智子さんと、二年前に服毒自殺をとげ十九歳の青春を自らピリオドをうった学生運動家、奥浩平君のことを想像しないわけにはゆかなかった。なぜなら、ぼくは、山﨑君の手記のなかに、樺さんの遺稿集『人知れず微笑まん』や奥君の遺稿集『青春の墓標』の底をつらぬき流れているきびしい自意識――つまり 自己のエゴイズムを徹底的に告発し、人間的真実性を自己の内部に確立しようという精神的な苦悩のあとをハッキリとみとめることができたからだ。いわゆる大衆社会的状況のなかで、平和と民主主義と繁栄の擬制のもとに主体性を喪失したイージーな「マイ・ホーム主義」が青年の間に氾濫しているとき、山﨑君など反代々木派全学連の若い活動家諸君の間にだけ僅かにみとめられるきびしい自己告発の精神は、実に貴重な社会的意義をもつもののように思われる。なぜなら、体制の変革は、自己を解体の危機にまでおいつめるきびしい否定の精神を媒介としてこそ可能なので、ふやけきった「平和」と「民主主義」にもたれかかって人間的危機感を完全に喪失している代々木共産党諸君によっては絶対に不可能だと思われるからだ。佐藤首相のべトナム訪問の日、10月8日の全学連の羽田デモを、この日「秋晴れの多摩湖畔」で行なわれた「歌と踊りの赤旗祭り」と対照してみれば証拠は歴然とするだろう。以下、山﨑君の手記についてささやかな感想をのべようと思う。

 山﨑君の手記を通じて一番つよく印象づけられることは、彼の自己自身にたいする無比な誠実さであり、自己省察のきびしさである。聴明な彼は若くして社会的矛盾にめざめ、大手前高校在学中から早くも反戦運動に参加し、京大入学後は反代々木派学生活動家の一員としての積極的な活動に入ったのだが、こうしたなかでも、彼はたえず自己の内面を凝視し、きびしく自己の弱さと日和見主義――つまり主体性の見落を告発している。

「地球上に生をうけて18年と10カ月、私は一体何をしてきたのだ。現在にすら責任をもたず未来にたいする責任もなく、ひたすら懐疑と無関心の間を揺れ動き他人の言葉で自己する。この私は一体誰だ。」
「僕には勇気がないということは分っていま す。・・・僕は本質的に日和見なのですよ。勇 気をもって一方を肯定すれば他方からの攻撃。要するに僕は生きて行く資格がないのです。弱い人間なのです。」

 だが、こうしたきびしい自己告発も決して山﨑君を虚無と絶望の底につきおとしはしなかった。自己の主体性の欠落をハッキリと見きわめた上、彼は、そうした自己不信に耐え、自己の弱さを鎖のようにひきずりながらも、社会変革のただ中に身を投じ、そうした社会変革の実践を通じて自己変革――主体性の確立をめざしたのだった。

「人間は全部弱いんだ。それでもだよ。ここが肝心なんだ。それでもだよ。人間は努力するんだよ。……僕は、人間は生きてゆく上でどうしても罪を犯さなきゃならんと思っている。かといって、生きなければ、それはそれ以上の罪なのだ。僕たちの生は罪の浄化のためにのみ意味をもつんだよ」

 ここには、罪の意識に悩みながらも、そうした自意識の重みに耐え、社会変革の実践のなかに、解体の危機に瀕した自己を救い上げ、自己を誠実に生かしぬこうとする、若い潔癖な魂の美しい告白がハッキリとみとめられる。彼を学生運動の積極的な働き手たらしめたものも、彼のこうした自己にたいする無比の誠実さにほかならないだろう。こうした山﨑君にたいして、「暴徒」だの「狂信者」だのといったレッテルをはることがどうしてできようか? ぼくはいま、国家権力とその支配下にあるマスコミ機関によって、山﨑君の死の上に幾重にもぬりつぶされた虚偽の厚い壁を、一枚一枚徹底的にひきはがした彼の真の人間像を明るみにもちだし、そうして反代々木派全学連諸君の人間群像に、正しいスポット・ライトをあてることこそ、ぼくたちに与えられた一番大切な任務にほかなるまいと考えている。

 1933年2月18日、中国の大作家魯迅は、革命戦争のなかでつぎつぎに仆れてゆく学生たちを想ってつぎのように書いた。ぼくは魯迅のこの言葉を愛惜の思いをこめて山﨑君の霊前にレクイエムとしてささげたいと思う。

「若いものが老いたもののために記念するのではない。しかも、この30年間、私はかえって多くの青年の血を見せつけられた。その血は層々と積まれてゆき、息もできぬほどに私を埋めた。私はただ、このような筆墨を弄して数句の文章を綴ることによって、泥中に小穴を掘って喘ぎつづけるばかりである。こは、いかなる世界であろう。夜は長く路もまた長い。私は忘却し、ものいわぬ方がよいかもしれぬ。だが、私は知っている。たとえ私でなくても、いつか必ず、彼らを思い出し、再び彼らについて語る日が来るであろうことを……」 (竹内好訳) ※出典:魯迅「忘却のための記念」(事務局註)

雪山慶正(ゆきやま・よしまさ)
1912年~1974年。岡山県生まれ。1945年4月治安維持法違反容疑で逮捕され、8月、餓死寸前で釈放された。戦後日本共産党に入党。立命館大学講師を経て1949年専修大学教員となる。1956年10月ハンガリー革命へのソ連の武力弾圧を支持した日本共産党に憤激し、共産党員であることを恥じて脱党した。以後は反スターリン主義者として歩む。「羽田10・8救援活動についての要請」(1967年11月9日)、「羽田・佐世保救援の訴え」(1968年2月1日)に連署し、学生たちを支えた。訳書にL.ヒューバーマン『資本主義経済の歩み』、『アメリカ人民の歴史』、M.L.キング『自由への大いなる歩み』、トロツキー『コミンテルン最初の五ケ年』など多数。死後、教え子たちが遺稿集『悲劇の目撃者――雪山慶正・その人間と時代』を発行した。



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