記念誌第一巻・第二巻の書評:1960年代末のあの学生運動の時代/髙橋寿臣
まえがき 追悼! 髙橋寿臣
山中幸男(発起人、救援連絡センター事務局長)
旧知の間柄であった高橋寿臣に、今年2月26日の「10・8山﨑博昭プロジェクト」の発起人会議の場で、随分久しぶりに会った。プロジェクトは、一昨年(2017年)、50年の企画を終えて、昨年から「第二ステージ」に向けた準備を始めている。高橋寿臣は、新たな事務局員になって発起人会議への参加を了承しており、私は今回の二冊の「書評」を本紙『救援』に掲載することをお願いして、今後の展開を楽しみにしていた。
今回掲載の原稿をメールで受けとり、3月29日の発起人会議で会ったのが、結果的に最後になってしまった。
高橋寿臣は、4月2日午前、急逝してしまった。あまりに突然のことで言葉を失う。本稿は彼の遺稿となってしまった。享年70。
10月8日羽田、装甲車の上に虹を見た
――『かつて10・8羽田闘争があった』[寄稿篇][記録資料篇]各分冊(合同フォレスト)
髙橋寿臣(反天皇制運動連絡会周辺、10・8羽田闘争参加者、元東京教育大生)
この2・3年、「~50年」というのが続いていて、私自身も回顧することが増えている。私にとってはもちろん、60年代末のあの学生運動時代のことだ。そしてその最初の強烈な記憶が、ほぼ初めて参加した街頭行動、67年10月8日の佐藤(南)ベトナム訪問阻止羽田闘争である。これはその後数年間続く、学生を中心としたラデイカルな街頭闘争の初めのものとなった。
2014年9月、渋谷で行われた沖縄辺野古新基地建設反対東京行動の際もらったチラシに、どこか見慣れていた人の写真が載せられていた。10・8羽田で警察権力に虐殺された京都大学1回生・山﨑博昭であった。チラシには、17年10月に羽田闘争50年を記念する集会を開く、そのための準備組織を立ち上げたこと、その第1弾としての講演集会を東京品川で開くこと、その講演者はあの山本義隆であることが記されていた。胸が震えた。
山﨑とは別の意味だが、山本も忘れえぬ人である。70年代半ば以降、山本は、ほぼ政治的発言を絶ってきた。「本業」の物理学系の彼の研究本が何かの賞を獲った(註:『磁力と重力の発見』全3巻・2003年刊・みすず書房でパピルス賞、毎日出版文化賞、大佛次郎賞を受賞)ことは私をびっくりさせたが、そのほかでは福島原発事故の問題に鋭く切り込んだ本(註:『福島の原発事故をめぐって――いくつか学び考えたこと』2011年刊・みすず書房)を出してくれて、なにか「さすが」と思わせてくれていた。その彼が人前に現れて政治的な話をする。私は、その集会に行った。10・8羽田を記念するためのプロジェクトが、何人かの知り合いも含めて組織されていることを知ることになる。
記念プロジェクトは三つの企画を立てていた。その一つがその日を回顧する文集の制作で、寄稿文を募集するものであった。私もそれに応じたが、結局61人の寄稿文を中心につくられたのが『かつて10・8羽田闘争があった――山﨑博昭追悼50周年記念誌』第一巻[寄稿篇]である(17年10月発行・合同フォレスト)。それ自体部厚くなって、値段も高くなってしまったなあと私は思うが、実はまだ、この社会に残しておきたい資料等が大量にあるということで18年10月に発行されたのが、第二巻[記録資料篇]である。これは当時、10・8羽田が、マスコミなどにどのように報じられていたのか、知識人・文化人等が、どのような評価を表明していたのか、死者が出た問題について警察・政府はどのような見解を示していたのか、国会や都議会での質疑応答なども含めて掲載されているものである。今日のメデイアは完全に保守右翼化しているか、リベラリズムっぽい主張を基本としていても本性は体制擁護・秩序派であることがほとんどであるが、50年前もそうであったことがよくわかる。「文化人」の中で今日でもやはり関心をひくのは、大江健三郎あたりか。10・8にかかわっていた左翼諸グループの、機関紙等に載せられた見解・主張も、その後の諸闘争の展開の在り方に関連していて興味深い。なんと日本共産党・赤旗の主張なども載せられている。掲載を断わったのは革マル派で、なるほどね、と思ってしまう。
ということで、第二巻の方も興味深いのであるが、私はやはり第一巻の61人の寄稿文が、胸をうつ。その時羽田弁天橋にいた人が多いが、空間的・時間的にはそこにいなかった人々もまた多く、それをどう受け止めたのかという事が記されていて、その真摯さに瞠目する。現場にいた人のものでは、機動隊によって頭などを乱打された様子――山﨑の死を招いた状況証拠ともいえる――を伝えるものがいくつかあり、さながら「50年目の証言」となっている。海老取川に落とされた際、山﨑らしき人が警棒での乱打を受けているところを目撃したものもある。この本の最後の章に、山﨑の死因について真相を突き止めるための、かなり詳しい実況検分が載せられているが、寄稿文のこれらの「証言」と合わせると警察発表の嘘が明瞭になっていると、思う。
その他の寄稿文で私が心を惹かれたのは、多くの人がこの日、10月8日が非常に好天であったことを記しているところだ。なので、装甲車の上に乗っている学生を振り払うために(結果的にほとんどが川に落とされるのだが)ものすごい勢いで放水されたのだが、その様子を見ていた人の中で「虹が見えた」と書き記している人がいるのだ。実は、私自身の寄稿文では書けなかったのだが、私もこの虹を見ていて鮮烈な記憶であったので、「虹を見た」の文は、その記憶が間違いではなかったことを証明してくれたと、思ったものである。
今も獄中の重信房子さん(10・8羽田闘争参加者、昭島医療刑務所在監)は、弁天橋ではない場所での羽田闘争、直後の救対の行動などについて寄稿され、この第一巻が出された際いち早く書評・感想を発表してくれた。その彼女は「この時は、機動隊のジュラルミンの大盾はまだ無かったんだっけ」、と記している。自身の文ではこの大盾が出てくるので、気にされたのであろう。そうなんです、この大盾は、10・8では使われておらず、おそらく1か月後の第2次羽田闘争の際に出てきたのだと思う。各党派ごと全員おそろいのヘルメットというのもなく、一部の人がかぶっていた「時代」だった。
それらをも大きく転換させていくことになった、67年10・8羽田闘争である。
(たかはし・としおみ)
註:救援連絡センター機関紙『救援』第601号(2019年5月10日)に掲載された文章を、救援連絡センターの許可をえて転載します。一部誤記を訂正。見出しは事務局がつけました。(事務局)
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