元全共闘世代の責任として、山﨑さんの闘いを引き継ぐ/浅野健一

元全共闘世代の責任として、山﨑さんの闘いを引き継ぐ

浅野 健一(同志社大学大学院メディア学専攻教授[地位確認係争中]、元共同通信記者)

 私は山﨑博昭さんが虐殺された時、AFS国際奨学生として米ミズーリ州の高校での1年間の留学を終えて帰国して、香川県立高松高校3年生(4年次)でした。私の同級生たち40数人が67年4月、山﨑さんと同じ京都大学に入学し、そのうちの多くが学生運動に参加し、何人かは全共闘運動で逮捕され、退学しています。

 留学していた高校のクラスで米軍のベトナム侵略に反対した生徒は、ナイロビから帰ったばかりの牧師の息子と私だけでした。戦死した若者の追悼会が教会であり、参列者は「自由と正義を守るための犠牲になった」とベトナム侵略を美化していました。それが当時のクラスの雰囲気でした。
 しかし、2007年6月に米国の高校の卒業40周年の集いで再会したクラスメートたちのほとんどは、「ベトナム戦争は間違っていた」と振り返っていました。ベトナム戦争に動員されてメンタルを病んだ同級生がいます。麻薬中毒に苦しんだ仲間もいます。ホームステイ先の同級生は、その後、市役所職員をしながら人権擁護のNGO活動をしています。
 「ベトナム侵略戦争が私たちを変えた」という声が多かったのです。

 当時の日本の青年たちがベトナム戦争に加担する日本政府に抗議の意思を表したことは正義の闘いでした。米国によるベトナム戦争が誤りだったことは、米国のクラスメートたちのその後の態度によっても歴史的に明らかになっています。
 韓国と違い、ベトナム戦争に参戦しなかった日本の自衛隊は、2015年9月成立の侵略戦争法の施行で、これからいつでもどこでも米軍の補助軍として派兵が可能になっています。

 昨年7月、国会で戦争法案に賛成の公述をした村田晃嗣同志社大学学長(学長選で敗北し16年3月辞任)率いる同志社大学の新自由主義者たちは14年3月末、私が学生相手に「御用組合」「デマ」などの用語を使ったことや、期末試験中に「朝鮮戦争停戦60周年記念行事」に参加のために平壌を訪問したことなどを理由に、「不良教授」として大学院教授の定年より5年早い「退職」を強制しました。私の解雇を主張した同僚の教授たちは13年10月30日の社会学研究科委員会(教授会)において、私にはアカデミックな業績がなく、社会運動家としての著作しかないと非難し、私が職場にいることで、強いストレスを感じて、突発性難聴や帯状疱疹に罹ったなどと書いた怪文書を35人に配付しました。当時、私が指導していた博士後期課程の院生は2人、前期課程院生は5人おり、学部では53人のゼミナール学生がいました。ゼミは強制解散され、研究室を奪われ、完全追放されています。
 私は14年2月、京都地裁に学校法人同志社を被告として地位確認裁判を起こし、現在も係争中です。また、私を暗黒裁判で追放した冨田安信社会学研究科長(当時)とメディア学専攻の同僚教授5人を相手取った名誉毀損損害賠償訴訟も起こしています。
 彼らの多くはかつて学生運動、ベ平連で活動した旧「新左翼」です。同志社大学教職員組合(私は1997年に委員長を務めた)は「研究科・学部の自治に介入しない」という理由で、私の雇用闘争の裁判を支援しないと公言しています。学内の著名な“左翼リベラル”学者のほとんども私の労働権を守る闘いに知らん顔です。大学や学部の自治は尊重しても、大学院教授、浅野研究室、浅野ゼミの自治は認めないのです。
 私の同志社との闘いについては浅野教授の文春裁判を支援する会のHPをご覧ください。
 http://www.support-asano.net/index.html

 元A級戦犯被疑者の祖父を敬愛する極右靖国反動・安倍晋三自公野合政権の跋扈を許しているのは、私たち元全共闘世代の責任だと思います。
 山﨑さんの同時代の者として、山﨑さんの闘いを引き継ぎ、非戦平和の東アジアを構築するため、できる限りの努力をしたいと思っています。
(あさの・けんいち 2016年5月10日)



▲ページ先頭へ▲ページ先頭へ