戦無派――10・8ショック組 闘争宣言――/井上澄夫(1969年9月) 

戦無派――10・8ショック組 闘争宣言――
井上 澄夫
小田実編『ベ平連』1969年9月刊、三一新書、三一書房所収

われら戦無派

 僕は戦争を知らない。「戦時中」や「非常時」を知らない。僕の知っている戦争は、あくまでも戦争の爪痕――それも、横浜市鶴見区一帯の見渡すかぎりの焼け跡、小学校に仮生居していた復員軍人の家族、進駐軍のジープ、上野の浮浪児、パンパンなどの、当時の日常生活の中で触れえたこまぎれの戦争――であって、自他の死と同居する戦争そのものを知っているわけではない。
 この戦争を知らないということと、密接な関連があるが、「戦争に行ったこともないくせに」と戦争を知らぬ世代(戦無派)の反戦運動を軽蔑する人がある。ものごとは、すべて体験したものでなければ十分に理解することができず、十分理解してからでないと反対できないという論理は、一見もっともらしいが、この論理を推し詰めてゆくと、「反戦運動をするものは、少なくとも一度は、戦争を体験しなければならない」という戦争肯定の結論がでてくる。ベトナムの子供たちのように、ナパーム弾で全身を焼かれてからでないとベトナム戦争反対と叫ぶことはできず、樺さんや山﨑君のように殺されて見ないと国家権力の本質はわからないとでもいうのだろうか。

 僕は自分のささやかな戦後体験から考えてみる。あの頃の粗末な食事あるいは進駐軍の子供たちにわけもなく侮辱されたことなどのいやな思い出をたどってゆくと、ごく素直に出てくる感想は、「もう戦争はしたくない」ということであり、それは一言でいえば被害者意識である。僕のようにそれほど直接に不利益を蒙っていない戦無派でもこのように感じるのであるから、戦争体験者が、なお一層そう思うのは当然である。しかし、この被害者意識から出てくるものは、せいぜい厭戦感情であって、反戦思想を支える原体験としてこれが定着している人びとはまれであるように思う。このことはベトナム反戦運動の担い手が、主として若い世代(戦無派)であることを合わせ考えて見るとよくわかる。僕たち戦争を知らない世代がベトナム反戦運動をするのは、戦争体験者の厭戦感情を僕たちが共有しているからではなくて(もちろん、僕たちにも、当然のこととして厭戦感情があることは否定しないが)むしろ、自分たちがベトナムの人びとにたいして加害者であることを拒否したいからである。戦争体験者はたしかに戦争を知ってはいるが、それは自分が被害者・犠牲者であるという側面でのみ戦争を把えているのであって、もう一方の当事者、日本軍によって侵略され、略奪され、暴行され、虐殺された東アジアの諸民族のことなどきれいさっぱり忘れているのである。被害者意識だけの厭戦感情が、ベトナム反戦運動を十分に理解しえないのは、このような加害者意識の欠落によるものと僕は思う。

 戦争体験者たちは、いったいなにを反省したのだろうか。 僕がべ平連運動に参加し始めたきっかけは、67年10月8日の山﨑君の死である(このことについては後述の「10・8ショック組闘争宣言」に詳しいので、ここでは触れない)。僕は漠然と、「とにかく、なにかしなければならない」と考えるようになり、11月のある日、バイトの帰りに、当時お茶の水にあったべ平連の事務所にふらりとあらわれた。行って見ると、狭い物置のようなところに、よくもまあこれだけ入ったもんだと思わせるほど物と人が詰っていて、人は廊下まではみ出しており、僕はなにがなんだかわからないままそのはみ出した部分の尻尾に立っていた。と、そのうち部厚い紙の束がぽんと手渡され、その束が一体なんであるかを確認する間もなく、これを一枚ずつ八ツ折りにしろという。で、これまたなにがなんだかわからぬうちに、僕は懸命に仕事をしたのだが、これが僕のべ平連運動の始まりであって、懸命に折った紙が、『べ平連ニュース』なるものであり、僕はこのニュースの発送を手伝ったのであることがわかったのはこれを一部三十円で買って、国電に乗り、さてと改めて眺めたときであったのだから、今考えれば、ずいぶんと忙しい始まりであった。といっても、今でもこのような忙しさは少しも変わっていないのであって、事務局を訪れる人びとが、自己紹介もあらばこそ、 僕と同じ目に会わされるのはまずまちがいない。

 ところで、そもそもこんな調子で、運動に参加したのであるから、僕が同じ年の暮れに一ツ橋大べ平連を作ったときもその出だしは似たりよったりであった。僕は、キャンパスの告知板に、ベ平連を作りたいから賛成の人は電話してくれという主旨のポスターを生まれて初めて書いた。そして、このポスターの最後には、インチキにも「すでに若干名名のりでている」と書いておいたのだ。果たして翌日、女性の声で電話があり、喫茶店で会うことになった。そのときの会話は次の通りである。

 (べ平連運動について、一通り説明したあとで)
 「ところで、一緒にやりませんか?」
 「ええ、でも、ほかの方ともお会いしたいし」
 「ほかの方?」
 「ポスターには、若干名集まっているって書いてあったでしょう」
 「はあ」(僕は、ここで大いに困る)
 「若干名ってだれのことなんですか?」(僕は、ついに勇を鼓して叫ぶ)
 「つまり、僕とあなたのことです。二人もいれば十分です。やりましょう!」
 この女性は、弁護士の卵のSというのちに「くにたちべ平連」の女親分になった人であるが、 今でも、僕の顔を見ると、だまされた、だまされたとぐちをこぼし、そのわりには楽しげにガサガサと反戦運動に走りまわっている。

 それやこれやで、二年間、僕も、ガサガサと走りまわったのであるが、今年の5月20日滅多に行ったことのない大学に、なんの風のふきまわしか、ふらりと出かけてみたら、なんと学生大会が60年安保以来九年ぶりに成立していて、そこで大議論をやっている。大学立法粉砕のための学生大会であったから、僕もスト決議には、手をあげようと思っていたら、一ツ橋大べ平連のY君がやって来て、僕をノンセクト連合の代表にしたという。僕は、まったくなんのことやらわからず、あわてて事の次第を聞いてみたら、一ツ橋大べ平連が中心になって、ノンセクト連合会なるものができており、形式的にではあれ、僕がベ平連の代表であったからそのまま僕を代表にしたという。本人の承諾もなしに決めたのであるから、ずいぶんひどい話であるが、どうせ通らないだろうと思って提案したストライキ提案が、圧倒的多数で可決されてしまい、僕ははからずもストライキ実行委員会の委員長になってしまった。そんなわけで一ツ橋には、まことにべ平連的なスト実が長期にわたって存在することになるのである。もはや紙数が尽きたから、最後に、僕の行動の原点だけをいくらかまともに書いておく。

10・8ショック組の闘争宣言
 この拙文を、反戦・反安保・大学治安立法粉砕闘争なかばにして、みずから命を絶った同志加藤悟一君の霊前に、深い哀悼の意と限りなき友情をこめて捧げる。

10・8の意味
 <山﨑博昭の死は、僕にとってあまりにも重かった。彼を殺したのは僕だったから>
 彼の死の日から僕は変わり出した。それはおそらくそういいきってもよいと思う。あのとき、 僕の中のなにかが崩れ、僕は変わり出したのだ。
 だが、足許に急にぽかっと大きな穴があいてしまったような、あの居ても立ってもいられない、やりどころのない<不安>・<焦り>、あのとき初めて自分のものとして確認しそれ以来僕の一部として行動へのためらいと衝動とを同時に生み出して来た<こわさ>を、今、こうして文章化していると、いまだ彼の死の重みを十分に担いきれない、いや、ごまかしてはいけない、担いきろうとせず、いつもどこか逃げの姿勢を保ったまま退路を絶とうとしない自分を、僕は見る。

 僕の中のなにかが崩れ出して、僕はおそるおそる行動し始め、行動していく中で今までろくに見ようとも考えようともしなかったさまざまなことを僕は識り、それがまた次の行動を導いてきたのだが、まちがいなくそのはずなのだが………僕はまたここで、「だが」といわざるをえない。きれいごとにしかならない過去の行動の客観的説明をいくら並べて見ても、それらの文章の尻尾にはやっぱり「だが」という言葉がついて、今のままで行けば(もちろん、僕自身のことをいっているのだ)この「だが」はきっと、ずっと続くのだろう。ここでただ一つはっきりわかっていることは、この「……ずっと続くのだろう」という部分に、この部分を理由にして安住してはいけないということだ。それほど山﨑の死は、重いのだ。
 だから、僕にとって、山﨑の死の重みを担いきるという言葉の意味は、次のようになる。山﨑に死を、僕に<不安・焦り・こわさ>を押しつけてきたすべてのもの――僕自身を含めて権力の補完者・支持者となってきたすべての勢力とそれらによって支えられている権力総体――を打倒すること。これ以外にはない。<不安>や<こわさ>は敗退の理由ではなく、それらが現存するからこそ、それらを生み出すすべてを打倒しなければならないのだ。こわいから、行動するのだ。

 そして僕にとってやはりなによりも苦痛なことは、これまでほんの少しずつ変わってきた自分自身が、どこまでも打倒の対象たらざるをえないということである。こうやって、一字一字書いてゆくことは、もうあともどりできないのだということをおのれに納得させてゆく一つの過程なのだ。だからこの短文は僕個人の、たった一人のささやかな闘争宣言である。

 67年の10・8は、日本の(政治)思想史上極めて大きなエポックを画することになるだろうと僕は思う。山﨑の死によって告発されたものがいったいなんであったのかを鋭敏に把えた人びとにとって、10・8は、ハンガリー革命や六全協に匹敵する根底的な問題を孕んだ事件であったはずだ。べ平連の仲間たちやさまざまなセクトの人びとと話をすると、反戦運動や革命運動に参加するようになった直接の契機が10・8であると語る人があまりにも多いのに驚かされる。僕はこういう人びとを、僕自身を含めて、「10・8ショック組」あるいは少し恰好をつけて「10・8思想転向派」と呼んでいる。
(井上澄夫)
(いのうえ・すみお)

(故井上澄夫氏は元一橋大ベ平連。市民意見広告運動・事務局や沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックを担い、一貫して反戦の運動を進めてこられました。ご遺族の許可を得て掲載します。三一書房のご好意に感謝します。事務局)



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