装甲車を越えて/青木忠
装甲車を越えて
青木 忠(著述業、元10・8羽田闘争被告)
私の心は動いた。私の住む広島県の地元紙「中国新聞」に歌人・道浦母都子さんのインタビュー記事が掲載された。その見出しには、「学生運動 意味問い返す」とあり、彼女が、自らが関わっている「10・8山﨑博昭プロジェクト」について語っていた。2018年1月24日の新聞である。
私の手元には、返事を出さないままの、昨年2月10日付けの「賛同のお願い」の文章があった。新聞を読んだ夜、妻に初めて、10・8について話して聞かせた。山﨑博昭君が現場で警察機動隊によって殺されたこと、その現場の学生側の責任者が私であったことも告げた。そして、翌日、事務局に賛同人になることを連絡した。
あの日、あの時間、私は、何人かの仲間とともに羽田弁天橋の装甲車の上にはいつくばっていた。私は焦っていた。佐藤首相(当時)が南ベトナムに出発する時間が刻一刻と迫っていた。どうしたら良いのか。そうか、ぼくらは、装甲車を越えて羽田空港に突入し、首相のベトナム訪問を阻止するためにここにいるんだ。
まず自分から始めよう。装甲車から飛び降りて少しでも空港に近付こう。時間がない。私は立ち上がり、「行くぞ!」と絶叫し、皆に手を振って、群れなす機動隊の頭上めがけて飛び込んだ。必ず仲間がつづいてくれると信じていた。捕われた私は、その後の状況について目撃出来なかったが、羽田弁天橋の闘いは大きく発展していった。
あの瞬間、装甲車から飛翔することにいささかの躊躇いはなかった。その後、わが身がどうなろうが、知ったものか!
あの日、皆本気だった。本当に佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止しようと思った。そのことをベトナムの人たちに誓ったのだった。そしてなによりも、この日だけは、自分の切なる反戦の願いに嘘をつきたくなかった。
山﨑博昭君18歳、私は21歳。私は、特攻隊に散った大学生の青春をどのように理解したらよいのか苦しんでいた世代だった。私たちは、そうした先輩たちを乗り越えるためにも、同じ死ぬのなら、戦争ではなくて、戦争に反対して死のう、との結論を導き出したのであった。あの日の弁天橋の勇敢な闘いの底流には疑いもなく、そうした気概が漲っていた。
私は山﨑博昭君と面識はなかった。今はじめて、私は彼に語りかけたい。「あの日、皆本当にがんばったよね。あの日は、あの闘いしか、自分たちにはできなかったよね。あれで良かったんだよね。」
何歳になっても私には、「10・8」的な生き方しかできないようだ。
1969年4月27日に4・28沖縄闘争への破防法が発動され、私は逮捕・起訴され、被告となった。以後20年を越す破防法裁判を終えて、家族とともに生まれ故郷の因島にもどった。その私に父が死に際に、「空襲の時、お前が死ななかったのは、お母ちゃんとおばあさんが身を挺して守ってくれたからだ。」と告げた。因島は、1945年の戦争末期に二度の空襲を受けたのだった。生母はその空襲から5年後、病死し、祖母も早死にした。
空襲の際、一発の爆弾が、我が家と隣接する2軒を直撃。私は辛うじて仮死状態から生還したが、隣に住んでいた、沖縄から疎開していた仲宗根さんの母と5人の子どもは即死したのである。
なんという運命なのか、これも宿命なのか。私の人生は、自らと故郷を襲った空襲への「おとしまえ」を着けるためにあったのか、とさえ思った。だとするなら、その決着のためにわが道を歩んでいこう。
(あおき・ただし 2018年2月17日)