10・8 山﨑博昭プロジェクト

私の秘密/加藤典洋

私の秘密

加藤 典洋(文芸評論家)

 一九六七年の一〇月七日の夕方のことがいまでも鮮明に記憶に残っています。私は大学の二年目の学生でした。この日、大学の校門の脇で、ビラ配りをしていた活動家のクラスメートが、私に話しかけてきて、翌日のデモへの参加をしつこく誘いました。また、いつもの政治党派の枠内のデモなのだろうと思い、いいよ、オレは、といなすと、友人は、いや、明日は違う、これまでと全然違うんだ! 来いよ、と強く言いました。そんなことがあったからでしょう、翌日の夕刊だったか、ラジオのニュースに急いで買った新聞の一面トップに装甲車が炎をあげる弁天橋を空から撮った写真が大きく載り、一人の学生がそこで死んだと記されているのを見て、動けませんでした。

 そのとき、私の世界が変わったと思います。私は、それから一ヶ月後、はじめてデモに参加し、デモ隊の一員として、羽田の大鳥居駅のむこうまで行きました。機動隊員とぶつかり、追われ、住宅の中を突っ切って逃げました。線路の上をどこまで逃げても、どこまでも機動隊員が追ってきたことを覚えています。第二次羽田事件と呼ばれる一一月一二日のことです。前日、学園祭のさなかに大学新聞の編集室で麻雀をしている友人たちを壁によりかかって見下ろしていると、あるエスペランティストの老人が佐藤訪米に抗議して焼身自殺をはかったというニュースが入ってきました。その後、翌日に亡くなった由比忠之進さんの抗議自殺の第一報でした。部室内がざわつきました。私は山﨑くんと同年の生まれで、このとき、一九歳でした。由比さんは、このとき、七三歳でしたが、いま私の年齢も、由比さんの亡くなった年に近づきました。この年で行う抗議自殺というものが、どういう心根を必要とするか、以前より、ほんの少しなら、わかります。(山﨑くんを一八歳でこのような形で亡くされたご家族の無念も、ほんの少しなら、わかります)。

 そのとき、私はほとんど政治についても思想についても無知でした。小林秀雄を読み、ドストエフスキー、ランボーを読み、大江健三郎のオッカケをし、さらにフランスの新文学、新思想にかぶれた、新しいもの好きな、文学少年でした。そういう無知な若い人間から、その種の「文学」を引きはがし、その人生をまったく変えたのが、山﨑博昭くんと由比忠之進さんという世間的には「何者でもない」二人の人の「激しい」死でした。一九六七年の一〇月八日の新聞一面が目に突き刺さってきたときの衝撃が、忘れられません。何かがそこで凝固し、あのときから、何一つ自分は、変わっていないと感じます。私の秘密の、原風景です。
(かとう・てんよう 2016年3月29日)



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