救援の思想――主婦に何ができるか――/柴田喜世子(1968年11月)

 1967年秋、発起人の一人、水戸喜世子(旧姓柴田)さんと故水戸巌さんが中心になって十・八羽田救援会が立ち上げられました。その成立前後からの活動を記録した文章を再掲します。水戸喜世子さんたちによる救援会活動の奮闘ぶりを通して当時の時代状況が窺い知れる貴重な一文です。(事務局)

救援の思想
――主婦に何ができるか――

柴田 喜世子
『思想の科学――特集・安保闘争の新しいにない手』1968年11月号掲載

プロローグ

1967年2月26日
「あの11年前の砂川闘争以来、こんなに前進した集会はなかった。……これまで抗議集会といっても、基地に近よることも出来ず、立川市役所前の広場などに集まって遠吠えしていただけでした。それが今日、こうして滑走路の真中で堂々と集会をやりぬいています。」

 砂川基地拡張阻止の今日の集会で青木市五郎行動隊長は、こうあいさつした。この11年前の闘いに学生として参加した私たちはその後東京を離れ、昨年再び砂川のある東京へ帰ってきた。2・26砂川基地拡張阻止闘争は、私達にとっては、やりかけて、途中で放り出していた仕事の続きという意味をもっていた。夫[水戸巌氏、当時東大原子核研究所助教授]は直接参加という形で、私は家で子守りをしながら精神的支持という形で闘争に加わった。
 その夜彼は頬を紅潮させ、「やったぞー!」と陽気に両拳を上にあげて帰って来た。ボタンをすっかりとられてしまった上着、ドロドロのズボン、そしてほこりにまみれた顔の左眼部一帯はお岩のように青黒くはれ上り、眼球はドロドロと真赤に染って前歯もやられていた。人相の一変してしまった夫の姿を前に茫然と立ちすくんでしまった私と3人の子どもは、初めて受けた屈辱を噛みしめた。

「赤とんぼ」をうたい、機動隊をうつむかせたあののどかさは、もう、過去のものとなっていた。主観的にはせいいっぱい激しく闘ったつもりだった地方[神戸]での6、7年間も今にして思えばのどかなものだった。この11年ぶりの砂川闘争への参加が直接的きっかけとなって、私達の内部で、不当弾圧に抗する活動をはじめなければという気持ちが芽生えていった事は事実である。
 この日、ゲート前抗議集会をもとうとしていたところに突撃し、殴るけるの暴行を無差別に加え、多数の逮捕者と(わかっているだけで)30名を超える人が病院にかつぎこまれ、うち4名が入院を必要とする重傷を負った。

救援日記

10月8日
 痛めつければデモなんぞに来なくなるだろうという機動隊の論理、痛めつけられればつけられる程強くなろうとする学生の論理、日韓闘争[1964~65年の日韓会談反対、日韓条約締結阻止の闘い]以来の、あの無帽の頭を前列の人の背中の下に深く押し込め、バンドにしがみついた形のデモ。なぐるに任せ、なぐらせる事によってのみ、抗議の意志表示をし得たデモが、とうとう爆発してしまった。
 その中で遂に一人の生命を失なった。山﨑博昭18歳。

「……高3の秋、母が過労で入院せねばならない。家事を分担せねばならぬが、受験前の弟には一番こたえたであろうが、快く引きうけて母を安心させる。夕食の為の買物が主要任務。おばさん達にまじって買物カゴをぶら下げて市場に通う。大学合格発表の日に、京都から病院の母に電話で知らせる。たったひとこと、無愛想な太く低い声で『トオッタ』。頼りなくて聞き返す母に最初の太く低い声は母の耳に鮮明に焼き付いてついて消えない……」(追悼会文集より)
 親思いの息子はベトナムの平和を希い、人類の解放を願って尊い生命を捧げた。

 この日の闘争による犠牲者は次の通りである。
 被逮捕者総数
 当日現行犯として   58名
 令状逮捕された者   18名
 その内、起訴された者   34名

 保釈金(1人あたり7万円~30万円)
 総額          300万円

 負傷者総数  推定 1000名以上
 羽田周辺の病院に運ばれた負傷者数 198名  (但し、調査で判明した分に限る)
 羽田周辺の13の病院での治療費総額 108万円

10月9日
 午前8時半頃、聴講の授業をうけにお茶の水女子大に行く。校門付近で2つのグループがビラまきをしていた。元気はつらつとした、人数の多いグループが民青。顔や手足にアザやかすり傷を作り疲れ果てた顔をしているのが反代々木と一目で見分けがつく。
 校門脇のついぞ見かけたこともない大きな立て看板には「昨日の暴力学生の行動は我々民主陣営の運動に対する敵の挑発を招くものであり、断じて許せない……この大学からも一部の学生が参加している。我々の力で一人残らずこの挑発者を追放しよう……。」と自治会執行部の名前入りで張り出されている。大部分の学生は、無関心な表情で教室に急ぐ。
 顔見知りの革マル派のSさん(けがをしてビラをまいていた)に話しかけてみた。「あなた達の立て看は?」「ビラを作るのがせい一杯で……それでも眠ってないのです」「参加した人のけがは?」「一人、寮で寝ています。それにしても、今朝の新聞の反動さはひどすぎます。予想はしたものの……。」「カンパ入る?」「全然……。」互に言葉が喉にひっかかって出てこない。この孤独の深さに圧倒される。「出来るだけ応援するつもり。困った事があったらきて頂戴。」と住所と電話番号を渡す。

 さて、私は彼女にどんな連帯を示せるのか? 家に帰って夫と話合う。彼も今日、職場でポスターでよびかけて「羽田闘争報告会」を開いたのだそうだ。組合として参加出来ない彼は一市民として羽田へいった。報告会では新聞記事をもとにした質問も出てそれに卒直に見た通りの事実を答えた。政府のマスコミを通じての宣伝[「暴力学生非難」キャンペーン、そして「学生が奪って運転した警察車両が山﨑博昭君を轢殺した」とするデマキャンペーン]には到底、かなわないとしても、可能な限りの真実の報道を組織する事が死者への最低の義務ではないのか? 報道が真実を伝えない時、野次馬としてでもいい。闘争の現場にいるというだけでどんなに意味があるかという事を知る。
 思いつめすぎる性質の夫は8日以来、一瞬の間も考え続けた。どうすれば嘘の洪水の中から真実の旗を高く揚げる事が出来るのか? そしてとうとう決心した。大学時代の先輩にあたるMさん、ベ平連のYさん[吉川勇一氏]に相談をもちかける。羽仁五郎氏、日高六郎氏と相談の輪が拡がる。誰しも思いは一つだった事を知り、8日以来、やっと心のゆとりを取り戻す。明日は、鶴見俊輔氏に会いに京都へ発つという。

10月14日
 梅本克己氏[哲学者]ら21名の知識人の署名になる声明文が出来上った。お茶の水大のSさんに、まず手渡してあげたい。

10月23日
 読書新聞等、ミニコミ紙上に掲載されはじめた。こちらのとは別に、詩人、文学者(31名)による「よびかけ」なるものも出された[詩人の岩田宏氏らが取りまとめた声明]ことを知る。共産党に影響されない知識人がこんなに沢山名を連ねて、一番ショックをうけるのは共産党かもしれない。

 声明文[梅本氏らの声明文のこと]は各方面に送られた。声明自体の意義は確実にある。
 しかし、「……学生を見すてておくならば、私達自らが国家批判の権利を手ばなすことになるだろう……」という以上、今尚、病床にある学生や獄につながれている労働者に、せめて救援の手も差しのべられないものか?
 山﨑君の死因は我々の手で究明すべきではないのか?
 今の学生にはどんな革新勢力からの援助もなく、彼ら自身の組織以外に頼るものを持たない。その組織も四分五裂している。警棒の不法使用や過剰警備を本気で追及するには一党派で出来るものではなく、セクトから独立したところで全党派の参加者から事情を聞きながら、やる以外にない。統一的な救援会が出来ないものだろうか?
 いろんな人の意見を聞く為にまた電話戦術がはじまった。

11月9日
「声明」と「よびかけ」に加わった署名者を中心に「羽田十・八救援活動についての要請」が出来上った。よびかけ人は浅田光輝氏以下47名[事務局の水戸巌氏を含めて48人の連署]。
  ※事務局註:前出の三つの声明は下記から読めます。
  http://yamazakiproject.com/1008_impact_and_response/2016/05/14/2592
 羽田のあと政府はこの反戦闘争を暴力事件にすりかえる事に突っ走り、また、このところ連日、破防法適用を新聞紙上でちらつかせている現在、この要請で、1、当日の事件の最大の要因が首相の南ベトナム訪問旅行であったこと。2、当日、空港付近の学生の集会デモを一切禁止し、過剰な警察力を行使する等、思想・表現の自由に対する不法な侵害が存在したこと。3、事件後の処置においてこの方向が強化されようとしている事、を訴え、事件全体の真相究明と、国家権力の不法行政による犠牲者救援を訴えたことは、「声明」を一段と高い次元におくものであった。

「折り」「詰め」「発送」

11月23日
 この1ヶ月ほどの間に1年間分以上も郵便局に足を運んだことになる。
 むっくり起きて、顔も洗わずに昨夜やり残した封筒づめを始める。一便でも早く間に合わしたいと夢中になってしまう。あやまってわが家に足を踏み入れてしまった人は、誰、彼の区別なく、「折」(要請文の)をやらされ、どうかすると終電車ギリギリまで帰らせてもらえなくなる。事務局の5人のメンバーの献身的努力で、今日までに約1500通の「救援の要請」が発送された。なれた人からみれば軽いと思われるであろうこの程度の量をこなすにも、私達には全く気の遠くなるような思いだった。

 一階は四畳半一間だけのわが家の食堂兼居間は印刷物で埋り、子どものオルガンは重要な物置台と化して封鎖されてしまう。子どもたちは、いつ迄まっても親が相手にしてくれないことを知ると一緒に仕事を手伝うようになった。つながった切手を一枚一枚ちぎっては封筒に貼っていく。たどたどしいとはいうものの、六本の小さな手は大きな衣裳カゴを次第に封筒で満たしていく。でも最初のうちは物珍しく張り切ってみたものの、単純作業をおとなしくつき合って何時間も続ける事はとても不可能で、いつの間にか、一人二人と沈没し、二階に上ってベッドにもぐり込んで眠ってしまう。
この小さな協力も母親として記憶に留めたい。

 要請文を送り続けて8日目の今日、はじめて振替によるカンパの払い込みの通知書を7通うけとる事が出来た。合計して1万5千円! 目頭が熱くなる。帳簿の記入、領収書の発行と急激に仕事量が増えそうだ。当分子どもの夕食はオスシ、ラーメン、ギョウザの繰り返しが続きそうだ。

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 その後、今日迄救援会で郵便局を通して発送した印刷物は約1万5千通にのぼっている。カンパ集計約2百万円(68.9.22現在)

病院まわり

12月19日
 病院の借金を年内にできるだけ支払いに行かなければと気になっていたのが、今日、やっと時間が出来て実現した。前進社の井上さん[倉石庸氏]が道案内を申し出てくれて、昼頃から出発、二つの病院をまわる事が出来た。「救援活動の要請」をみせて、私達の趣旨を話し多くの市民から寄せられたカンパで治療費の支払いを出来る限りしていきたい旨話す。とりあえず三和病院に25,320円、京浜病院に19,155円支払う。最後に法廷闘争の資料としたいので、受診者の氏名と負傷内容について出来るだけ詳しく教えてもらう。重傷者3名については診断書をかいて貰った。1カ所につき、意外と時間がかかり、帰りの高速道路ではほぼ真暗になってしまった。
 今日は夫が子どもを迎えにいっているはずだ。お腹を空かして待っているだろう子ども達の事が急に思い出されて、雨の中をアクセルに力を入れてしまう。

12月22日
 今日は早く家事をすませて家を出たので病院を3カ所、まわることが出来た。帰り道を急いで事故を起してはと、今日は運転はやめて電車やバスをつかう。山﨑君もこの電車にのって羽田に向かったのだなァと考えたりする。地図と住所を見較べてまず駅に近い高野病院へ入る。2日目なので要領よく説明する。

 この病院は何と65名の負傷者が運ばれていて最高である。治療費も最高の296,000円。約3分の1の10万円を支払う。忙しい中を65名分の負傷内容についても気持ちよく引き受けてかいて下さった。この一覧表が出来るのを待つ間に、バスで東京中央病院に向う。
 ここには警備にあたった地元の警官が未だ治療に来ているとの事だった。ここでは、治療をうける時の学生の態度がわるい、氏名を正直にいわないという苦情をきかされた。氏名が言えないという気持を察してやれないものだろうか。デモ参加者は全学連発行の番号をうった証明書でも持っていて治療の際に病院にそれを渡す。病院はそのカードを根拠にして一括して全学連宛、請求書が行くようにしたらどうだろう?
 このあと羽田中央診療所にまわる。救援会でとったアンケートの中に「羽田中央診療所で治療をうけ、帰りにはタクシー代まで、貸してもらった。」というのを記憶していたので、先生に直接あって心から御礼をいう。親切にしてもらった病院にこそ、出来るだけ支払わなければ、という気持になる。
 この日の総支払額、16万円。帰りの電車の中で三つの病院で作ってもらった計97名分の負傷状況の表をとり出してつぶさに眺めてみる。

 この3枚の紙片にこめられた血の何と重いことだろう。
 男A(19歳)頭部打撲頭蓋骨々折、頭腔内出血、左下腿挫創、顔面擦過傷、
 男B(22歳)左後頭部打撲挫創、
 女C(21歳)右前額部打撲裂傷、右大腿打撲……
 せめて文字にしてこのように残すことが出来た事を幸いと思わねばならない。文字通り、血でかかれた尊い財産だから。

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 その後、調査を進め、合計13の病院について負傷状況が判明、その一覧(一部ですが)が『現代の眼』1968年3月号の216ページと217ページに出ました。救援会からの治療費支払総額は108万円となりました。

 負傷者調査診断書については、現在、進行中の羽田事件裁判の法廷において、弁護士より追及がなされることになっています。過去の法廷においては、検事側が機動隊の負傷事実を一方的に提出してくるのに対し、こちら側は素手で闘わねばならなかったのに対して重要な武器とする事が出来ました。

救援ニュース

12月24日
 ニュース、2号の校正で印刷所にいく。
 今日はクリスマス。子どもたちと、今日だけは一緒に遊ぼうねと約束し、6時には近所の子どもも招待してあるので、何としても、6時には帰りたい。

 組版というのは形が出来てきてからが大変だということをはじめて知った。文章がかなり余る。小さな紙面しかとれない都合上、中身はギリギリまできりつめてあるので、一行でも削りたくない。スキ間の木の巾を狭くしてもう一度組み直してもらう。見出しも小さくする。……やっと出来上ったのが8時すぎ。一目散にとんで帰った。
「お兄ちゃん、もう帰ったよ」「ごめんね」「いいよ、ぼくたちケーキたべちゃったよ」。きくまでもなく鼻から口のまわりが、クリームで真白になっている顔をみれば一目でわかる。「おもしろかった?」「すごーくおもしろかった」。「何して遊んだの?」「絵をかいてた。」
 お兄ちゃんがプレゼントにもってきたスケッチブックは一枚残さず画きつぶしてある。テレビの主人公にまじって学生の闘争場面をかいた絵が圧倒的に多い。赤ヘルメットに「社学同」、白ヘルメットに「中核」「革マル」と書いてある。リーダーが「全学連」と書いた旗をもっている。どの学生も棒切れをもち、空には石が群るようにとんでいる。石よけ帽をかぶり、目をつり上げた機動隊員がヘルメットの上に棍棒をふり下ろしている。ニュースや週刊誌のグラビアで見る程度なのに機動隊の服装その他スミズミまでよくみているのに驚いてしまう。6歳になる長女の方は、必ず、可愛いい救護班の女子学生が表れていて、長い髪、カールしたまつげ、パッチリした目などが念入りにかきこまれている。

 9時すぎまで一緒に双六のゲームをしてからお風呂に入れて床につかせる。11時過ぎに帰って来た夫と一枚ずつ待望の校正にとりかかった。

差し入れ

1月22日
 同じ羽田の闘いの中で一人の18歳の少年は生命を奪われ、もう一人の18歳の少年は、「ひき殺し容疑者」に仕立て上げられた。二重にかさなるこの欺瞞を許してはならない。[全学連がエンタープライズ佐世保寄港阻止のため東京から佐世保に向かった1月15日、警察は予防検束の飯田橋事件を起こし、131人を逮捕した。その前日14日、警察は日大生・五百川勲君と同・中村満君(18歳)を「山﨑博昭君轢殺」の犯人の容疑で逮捕、それも「業務上過失致死」が適用できずに「公務執行妨害・傷害」による「別件逮捕」という形でのフレームアップをしかけた。]

1月22日~2月2日
 今日、はじめて中村君の差し入れに警視庁へいく。この一日、一旦釈放された彼は、外の空気を胸一杯呼吸する暇もなく、警視庁の出口で別件逮捕された。差入れの経験がないので心細く、柴田道子さん[児童文学者]に応援を頼んで警視庁の玄関でおち合う事にする。日夜、陰険に責めたてられているであろう少年に、思いきり気持を明るくするような差し入れをしようと、デパートに寄ってトビキリ豪華でおいしそうなケーキを物色する。

 次の日からはもう様子がわかったので一人で出かける。彼が保釈になって出てくるまでは一日も休まず差し入れを続けようと決心する。聴講のある日などはなるべく家事を合理化して時間を作り出すことにした。
 差し入れを続けているうちにきまったように受けとる側の顔ぶれが変って、「彼とどういう関係ですか」「おうちはどの辺りですか」「おつとめですか」「御主人は?」という質問を繰り返すのには腹が立ってきた。「こちらは同じ人間がくるのですから、一度きいたことは繰り返さないで下さい。」「こちらも忙しいですからね。同じ人が出られると限りませんよ。」しかし、一般の差し入れには制服をきた係の人が事務的にうけつけているのを何回も目撃している。忙しければ係に任せておけばいいのに。
 そのうちに、「友達とか全学連とか、いろいろ持ってきているのでお腹をこわすといけないから量をへらすとか、一日おきにするとか出来ないのか」といい出してきた。帰ってその話を家ですると「こわすかこわさないか中村君がきめればいいことだよ。そんな事よりも、僕達の励ましの品物という形をとって、絶やさず彼のもとに届けることがどんなに大切かしれないんだよ。」といい聞かされて、全くその通りだと納得した。

 案の定、翌日は今検察庁にいってるからうけとれない、と断られてしまった。「帰ってきてから渡して下さい」「お弁当もちで出かけているからおそくなると思うんだ。そうすれば、食べる暇がないので明日にして下さい。」何とも割り切れない気持で帰りの地下鉄にのった。考え迷っているうちに池袋についてしまった。どうしても出口に足が向かない。そうだ。私の任務は絶対に差し入れを欠かさないことではないのか。
 思い切って警視庁に電話してみることにした。「どうしても渡したいので帰るまでそちらで待たしてほしい。おっしゃるように余りおそくなるようならば持って帰る」と話すと「今どちらから」「池袋」「うちからですか」「公衆電話」。しばらく待つようにいわれ、電話で15分たっぷり待たされた。やっとの事で「とにかく持って来て置いておくように」という返事が返ってきた。こんな事なら最初からうけとればいいのに。ほっとした思いで地下鉄にのりこんだ。

巣鴨

 このあと、中村君は巣鴨[東京拘置所]に移され、本の差し入れも許されるようになった。
 急に冷え込んで来た朝は純白のセーターを入れた。こちらは警視庁とちがって、すべてが商人を通しての差し入れで、いじめられた直後のことでもあり、正直のところ張り合いが抜けたような気持ちだった。しかし、商人とはいうものの、お達しがあるのか、「接見禁止だから本は入らない」とか(実際は入れられる)、今日はもう2人来てしまったからこれ以上入らないと断られることが度々だった。
 私の経験からこうした場所の人達の言葉というのは、決して単純にうのみにしてはいけないと思う。差し入れは、よくよく問いただすと1日2人、または2000円以下という規則で、キャラメル1個もってきた人とガム1個もってきた人の2人あれば、この合計2枚の受付用紙で差し入れ完了となってしまう。私はそこですでに受け付けられた2枚の紙をみせてもらって、金額の少ない方の紙に追加品目をかきこませてもらうことにした。名前は、前にかいてあった人の下に連名にして。

2月3日
 弁護側の要求で「拘置理由開示公判」が開かれた。法廷に手錠をはめられた中村君が入ってきた。「頑張れよ!」と声がとぶ。この一声に勇気づいて「救援会よ!」とやる。目と目がぶつかる。熱い一瞬。
 彼の態度は最高に立派だった。予想通り「全学連はつぶれた」「羽田救援会など存在しない」と刑事にいいきかされていたという。老練な刑事の手をつくした策謀や嘘を、この童顔の少年が、はねかえし得たというのは……驚きでさえあった。

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 (その後、彼は不起訴処分が決定した[同日夕刻、不起訴釈放となった]。)

現地救護活動

3月10日 成田にて
 2月26日の三里塚闘争で反対同盟の戸村[一作]委員長が全学連の学生をかばおうとして警棒で乱打され、頭を正面から割られ、六針縫う重傷を負い、また沖縄出身の池間正次君(早大)も警棒による頭部乱打で一時は危篤を伝えられた。
 救援会事務局でも3月10日の事が当然問題になって来た。ただ、羽田、佐世保の救援会という性質上、今日は事務局有志という形で参加しようということにきまった。現場での直接的救援活動には経験がないので、とにかく救急箱とあり合わせの薬を買うお金を用意して早目に現地につくようにした。事務局からは3名が参加、わが家では、このところ、留守番の続いた私を行かせてくれることになった。学生の方が分裂状態の時に、救援活動がスムーズに統一的に出来るだろうかというのが私達の一番の懸念だった。

 しかし、この日の救護活動は社学同が組織した青医連の若い医師や看護婦、それに「救護活動でセクトを出すようなら革命なんて止めたらいいですよ」と総指揮の松本礼二氏[共産主義者同盟]、一方、中核派の女子学生から成る救護班に、反対同盟の婦人達が加わって見事に調和のとれた活動が行われた。私達はいてもいなくてもよい存在だったが、双方の対話の仲介役として医薬品や洗面器等、咄嗟に入用になったものの買入れ役として、或いは病院、臨時救護所等をあらかじめ歩いておいて、支障の起きないよう依頼しておく大人の役割として、むしろけが人が出るまでの準備をひきうける形になった。怪我人が出はじめれば当然のことながら中核、反帝[後に反帝全学連へと至る社学同、社青同・解放派など]の区別など誰れの念頭からも完全に消えてしまった。

 救援会としては、まとめ役をひきうけることもさる事ながら、何よりも物質的な援助を充分出来なかったことが悲しかった。重傷者を運ぶものがない。看板や、古雨戸を探してきて運ぶ。運ばれる方も運ぶ方も坂道などではズリおちないかと気が気でない。せめて十本ほどの担架がほしい。
 この日の放水は残酷であった。早春の風は冷たい。やっけの上からも身に沁みる風を、男の子達はたっぷりと催涙液を吸いこんだ衣類の上から肌にうける。 耐え切れなくて救護所にかけつけた男子学生には、女子学生が裸にし、一たんぬいだ服を水洗いし、絞ってもう一度着せる。一層ガタガタする。とても私には正視出来ない。サッパリ洗濯した古着などどっさり欲しい。
 その後、救援ニュースで古着をよせて下さるようよびかけたところ、次々と沢山送られてきて、感激だった。それらの衣類は三里塚の闘争本部に預ってもらったが、すでに、大変役に立ったと感激された。
 青年医師たちは、救護用の車を一台欲しいと語っていた。治療に必要なもの一切が積み込んであって、直ぐ出動出来るような。

 その日、おそくまで負傷者の大部分が運ばれた成田日赤は、大混雑だった。負傷者の列が延々と続く。中核の前田君が病院での一切を掌握し、病院側に対しての責任をひきうける。辺りがすっかり暗くなった頃、青医連と救援会で院長に面会、御礼と 情報交換をする。日赤で治療をうけたもの学生100名。労組、反対同盟29名。うち入院35名。入院患者の中には、26日の時のような生命に危険のある者はいないということで一同ほっとする。
 負傷者の数は日赤は満員ということで、現地の医師の判断で何とか歩けそうなものは、現地での治療だけで帰してしまっているので、実際の負傷者数は少なくともこの数の4、5倍以上になると思われる。救援会が現地で一人一人の負傷者について行なった負傷者調査は、小長井[良浩]弁護士等の調査に協力する為に帰りに手渡した。

 今日の解散集会への暴行は、私にとって悪夢だった。
 1回目の襲撃で出た負傷者も大体一段落して、最後だから私も近くにいって、集会の話でもきいてみようかなと思った時だった。疾風のように機動隊の黒いカタマリが、私の横を通り過ぎたと思った次の瞬間には辺り一面、血の海となった。誰一人予期していなかっただけに無防備だった。リンチは思い通りに、心ゆくまで加えられ、特にヘルメットをかぶった学生は徹底的にケモノのエジキにされた。私達のいる救護所は、重なり合う程の怪我人で埋まり、女を主体として形作る防衛 の輪は大きくなる一方だった。しかも機動隊は時折、この円陣にまでニジリ寄って押し入ろうとした。

救援会を支える母たち
(紙面の都合でごく一部を記します。)

黒田美世子さん
「冷たい廊下に新聞紙にくるまって眠り、食事も食べずに散っていった子に、せめて、温かい紅茶の一杯も飲ませたかったと思う女性は、いないのでしょうか。ジャーナルの岩田弘の思想は特異なのでしょうか……[岩田弘氏(立正大学教授)は「若者のささやかな棒切れと石コロと一人の犠牲者と警察車のあげる黒煙が、日本の支配者に対する国民大衆の不同意と抵抗を代弁することによって、世界の民衆に対する、とりわけベトナム民衆に対する日本人の名誉と良心を救った。」とする一文を寄せた。『朝日ジャーナル』1967年10月22日号]。そちらの様子をしらせて下さい」(67.10.12)

「救援会のパンフ受取りました。私自身も一日も早くカンパを送りたいのですが、生活費で一ぱいでなかなか思う様になりません。それに暴力革命反対と言い、人事院勧告完全実施闘争さえ支持しようとしない夫の、給料からカンパは出来ないので、1週間前からアルバイトをしています。待望のお給料入り次第、すぐ送ります。……」(67.11.24)

「やっと私自身の手で得たカンパです。どうか少しでも役立てて下さい。早朝1時間余り朝刊の配達をしています。足が丈夫で新聞大好きの私にとって、何と適した職業でしょう」
「今の時期に又々、全学連の分裂。何ともいいようがありません。あれだけの反響を起したのですから、何か仲良く力強い前進が出来ないものでしょうか。
太郎が子どものへルメットをかぶり、赤影の刀をふりまわしています。ポケットに石をつめなさい、というのですが、どうも機動隊の方がカッコイイそうで、そのつもりのようです……。」(67.12.7)

 ◎以来、現在に至る迄、毎月1回も欠かさず数千円――給料の大部分を送って下さっている。小学5年生を頭に1年4ヵ月の赤ちゃんまでもつ4児のお母さんです。

山﨑春子さん
「……家族の者に協力してもらって、これから8の日に救援会にわずかずつでもカンパさせていただこうと思っております……」

 ◎亡くなられた博昭君のお母様。私達の方が逆にどんなに励まされ救援されていることか。その深い暖かさが息子に大きな愛を教えることが出来たのだと思う。毎月10日頃送って下さる多額のカンパは私達の怠慢への鞭となっている。

桝本セツさん
「ますます凶暴化する警察権力に対して体がふるえるような怒りをおぼえます。娘も今東大医学部で闘っている最中です。教育の場での闘いに対しても常に暴力がふり下される危険があります。……タオル・毛布・シーツ・別便で送ります。友人からもお送りするはずです」(4.10)

「満足な収入がないので十分救援も出来ず残念におもいます。医学連も続々と逮捕者が出て救援が追いつかない状態です。学生運動に対する自民党の弾圧政策が次第にロコツになってきました。しかし明治以来の旧教育制度をひっくり返すのは今がチャンスです。学生たちはきっとやるでしょう。大人も一緒に頑張らねばと思います。」

関本八重さん
「……マスコミの権力についた一方的な報道、純粋で真面目な彼等に「暴力学生」などと名づけ、それを正当化させようと、ある事ない事を書き立て世論を作ろうとする恐しさ、歯噛みする思いです。デモの度にこのような思いをし何かをしなければと思いながら、勇気も手だてもないままに、何もせずに過している情けない一主婦が、せめてもの罪亡しに……学生さん達には若い生命をくれぐれもお大事に、一般民衆の中へ入って解らせる運動を、手ぬるいと考えずに進めて下さるようお伝え下さい」。

 ◎その後お送り下さったカンパの中に、息子さんや友人が逮捕された、という走り書きをうけとりました。

おわりに

 羽田闘争、佐世保闘争、何れも現在、裁判が進行しています。救援会の活動も今年に入ってからは主としてニュースの発行、法廷闘争に中心がうつってきました。特に佐世保については、弁護団は飛行機賃と宿屋代を捻出 するのに、ほとほと困り果てています。救援会で集まるお金を全て注ぎ込んでも足りないので、弁護団自らが金策に走りまわっている実情です。
 一方学生は10月8日だけで300万という、途方もない保釈金を要求され、羽田以後も相次ぐ基地闘争――これを書いている横でも、テレビは“米タン輸送阻止闘争”で197名逮捕されたと伝えています。――で絶え間なく犠牲者を出し、彼等にとっては各闘争の保釈金を工面するだけで手に余るというのが実情です。ベトナム訪問阻止にはじまる反戦闘争が、私達の志とも全く同一である以上、その犠牲までを彼等に一身に背負わせてしまうことは出来ないと思います。

 救援会はその火急的性格の故に、一にもお金、二にもお金とわずかな暇にもただひたすら封筒書きをして、要請状を発送することにあけくれました。その為、救援会としての組織活動も全く不充分で、ごく限られた人々がキリキリ舞いする結果にもなりました。国民救援会が、「平和と労働」という6階建の独自のビルの、広々とした部屋を持ち、専任の男や女が何人もゴロゴロしているというのと違い、こちらのメンバーは、2人の主婦を除いて何れも正業を持ち(それも普通のサラリーマンの倍も忙しい職業)、事務所もなく、活動費さえ大部分自腹という、素人っぽさの限界がはっきり表われて来ました。
 この限界性を自覚し、王子闘争、三里塚闘争の救援については、救援会内の広範な人の間で討論された後、最もふさわしい人達がこれを引き受けて下さいました。極めて乏しい現在の私達の力量では、個別の救援会を次々と発足させて、70年にはそれらが一つになって犠牲者救援に立ち上る事を、ささやかな展望として抱いています。この展望をふくらませ充実させる活動を、多くの人の参加によって成し遂げなければと思います。

 王子闘争救援会
   東京都葛飾区奥戸新町319 石川逸子 気付
 三里塚闘争救援会
   千葉市稲毛海岸5-5-2-406 渡辺一衛 気付
 羽田·佐世保救援会(羽田十·八救援会)
   北多摩郡久留米町大門2-2-15-403 水戸 巌 気付

(再掲にあたっては、読みやすさのために改行、行間空けを増やしました。数字は固有名詞以外おおむね洋数字としました。明らかな誤植は訂正しました。文中の[ ]による註は事務局が付けましたことをお断りします。事務局)



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