弁天橋の上のドン・キホーテたち――樺美智子と山﨑博昭/田島正樹

弁天橋の上のドン・キホーテたち――樺美智子と山﨑博昭

田島 正樹(元千葉大学教授、哲学者)

●樺美智子が担った象徴的意味

 1960年6・15国会南通用門付近で樺美智子が殺されたとき、同情共感しない国民はほとんどいなかった。多くの戦後映画を見れば明らかであるように、若くはつらつとした知的な女性が、そこで一様に担っているもの――平和、文化、進歩、誠実――彼女らは、たいてい農村部の小学校の女教師か何かで、颯爽と自転車に乗り、オルガンを弾いていた。樺美智子は、そんなすべてを一身に体現していた。樺美智子を当時の歴史的な国民的想像力の文脈におき、共感の焦点となったその象徴的意義に注目すべきだろう。

 彼女が闘った敵、岸信介は、対照的に悪代官的キャラクターのもとに、一方では戦前の反動勢力の生き残りとして、他方では我が国のナショナリズムの前に立ちふさがる米国傀儡権力として立ち現れていたのである。国民は、すでに始まっていた戦後体制と利害を共有し、以前の敵国によっておのれの商売が繁盛するという現実に、内心忸怩たるものを感じていればこそ、それと真正面から(象徴的に)敵対して見せた樺美智子を、ジャンヌ・ダルクに祭り上げる心理が働いていたのである。全学連の闘いは、一方では反米・民族独立のナショナリズムの噴出であり、他方では、戦争責任をないがしろにする旧支配層に対する反戦的自己主張である。朝鮮人であった力道山によって、象徴的反米愛国闘争が担われたように、共産主義の看板のもとにナショナリズムが担われたのである。

 その際、ナショナリズムと反戦平和主義は、潜在的には不整合を含んでいた(前者は自主防衛につながるからである)。それは、戦前の超国家主義エリートたちが、ぬくぬくと生き残りながら、あつかましくも戦後の親米経済主義を主導した不整合と対をなしている。全学連主流派が、素手に警官隊の暴力を耐え忍ぶとき、この不整合は初めて象徴的に昇華されるのである。この意味で、安保闘争は非暴力であった。だからこそ、樺美智子なのである。空手チョップという「本質的に防衛的な武力」で敵を打ち倒す力道山が、弱さ(忍耐)と強さ(遅まきながら繰り出される反撃)を一身に統合しているのと類比的である。ここには何か美しい欺瞞といったものがある。

●山﨑博昭たちが担ったもの

 さてそれに対して、1967年10・8羽田闘争で亡くなった山﨑博昭は、これとはまったく違った象徴的意味を担っていた。当時の時代背景としては、いよいよ激化したヴェトナム戦争で兇暴性を顕わにした米帝国主義と、それを同盟者としながら、ヴェトナムでの悲惨な現実とは対照的に高度経済成長をとげた日本の現状とがあった。70年安保改定を前に、学生運動が60年安保の後の分裂を克服できておらず、一部を除いてごく低調であったことも見逃すべきではない。

 山﨑博昭殺害が、同時代の人々に特に大きな衝撃を与えたのは、「彼が弁天橋の上で闘っていた時、お前は何をしていたのか?」という問いを一人一人に突きつけたからである。
 Qu’as-tu fait, ô toi que voilà
     Pleurant sans cesse,
 Dis, qu’as-tu fait, toi que voilà
    De ta jeunesse?            P.Verlaine
(汝、その片すみでたえず嘆きつ、何をかなせし
 汝、その若き日を、何をかなせし?)

 もちろん、今から考えてみれば、山﨑君死亡の知らせを聞いて、「遅れを取った」と感じた者たちには、すでに多くの共有された前提があったと言わねばならない。むしろ、その前提を疑うべきではなかったろうか? 今日であれば、それを問い直すことはたやすいことである。しかし、全知の高みからの様な思い上がった批評では、歴史の理解はおぼつかない。

 結局ヴェトナム戦争は、第二次大戦後のアメリカの覇権の終わりの始まりとなった。「共産主義に対して自由主義を守る」という米国の冷戦の論理には、一部分、真理もなくはなかったが、歴史社会的文脈の中では、それとはまったく違った意味を帯びてしまう。戦後、日本で高度経済成長が実現したのには、米軍が農地解放を強制したことによる点が大きい。それによって、不在地主と陸軍という前近代的政治勢力が一掃されたからである。ところが同じアメリカが、ヴェトナムでは逆に、冷戦の論理に絡まって極めて反動的な地主階級の後ろ盾となってしまった。他の途上国においても独立後、多くの開発独裁や軍事政権が近代化を目指しながら、支持基盤の大地主階級が足枷となって挫折していったが、アメリカは大抵どこでもヴェトナムと同じ轍を踏んでいる。

 ヴェトナムにおける民族主義的社会改革の動きは、米帝を打ち破り、結果的には世界の反体制運動に大きな勇気を与えた。またそれは、旧来の冷戦構造の力学には還元できない自己主張を示したことによって、世界の二極支配構造を掘り崩すきっかけとなった。かくて、ヴェトナム人民に鼓舞された諸々の反体制勢力は、東西ヨーロッパを含む世界各地で、スターリン的ソ連の覇権には還元できない反体制運動を、自由に展開してゆくことになる。1967年10・8に決起した学生たちは、ヴェトナム侵略を支える日米同盟に対決しようとしていたのであり、それによって、米ソの二極支配に対して風穴を穿とうとしていたとも言える。この点で、いわゆる「新左翼」は、基本的に冷戦構造そのものの前提を受け入れていた共産党系勢力とは、その公式イデオロギーの違いを超えて、実質的に対立関係にあったのである。

●山﨑博昭が時代に突き付けた試練と亀裂

 戦後日本の共有された国民的観念(平和主義と民族独立)に依拠することによって、国民的統合の象徴となり得た樺美智子に対して、山﨑博昭は、むしろこのような共通性に亀裂をもたらすものとして登場した。羽田闘争を闘った学生たちの行動は広く共感を呼ぶどころか、むしろ多くの方面から激しい非難にさらされたと言ってよい。まず人々は、「彼らの目的はともかく」、その「暴力的な」行動様式に反発した。それは、戦後一貫して共有されてきた「暴力反対・平和主義」に反していた。「平和勢力」自体が公然と「武器」を取るなどということはタブーであった。樺美智子や力道山のように、暴力を一方的に受忍する象徴が必要とされていたのである。

 だからこそ、山﨑の問題を自らに課し、Qu’as-tu fait?(何をかなせし?)と自らに問いかけた者たちは、高度経済成長の同時代に背を向けて、その一体性とその同質性に抗して、一人一人決起せざるを得なかった。60年安保の全学連の行動方針は、それぞれの自治会の民主的決定によってオーソライズされていたが、「過激派」には、個々人の決断のみによって決起したのである。彼らは、確信をもって起ったというよりも、国民と前衛党の後ろ盾を失った孤独の中で、不安におののきつつ手探りで歩み出したのだ。すでに遅れを取ったと感じる者たちは、結論が出るまでじっくりと吟味する間もなく、それぞれの形で自分なりの答えを模索しながら急き込みつつ歩み出すほかはない。10・8に代表される彼らの実力行使は、実際はおおむね非暴力的なものであったのだが、しばしば「暴力的」と指弾されたのは、「民主勢力」「平和勢力」の固定観念に果敢に挑戦したためにすぎない。

 かくて、山﨑博昭の死は、それをおのれの問題とする者たちが、そうではない者たちに抗して、分裂と試練を突き付けたのである。このことに比べれば、彼らがそれぞれどのようにその答えを見つけ、どの方向を目指したのかは、非本質的なことだったような気がする。問題があると感じる者たちが、問題がないと感じる者たちに抗して、それ自身問題として出現したことが重要なのである。

●再び弁天橋を超えて

 それにしても、どうしてこんな事件の記憶にかかわり続けようとするのか? そこに問題を感じた多くの人々も、とっくにそれを忘れて、それぞれの嗣業に人生の意義を見出しているではないか? 同時代の者すらもが、次々に健忘症のようにおのれの問いを置き忘れ、おのれの青春を否認しているのに、どうしてさらにそれ以後に人々の共感を求めることができよう?

 しかし、すでにとっくに流行が過ぎ去った中世騎士物語の思い出を胸に、行く先々でトラブルを引き起こすドン・キホーテは、結局はそれによって普遍的な読者を見出したのではなかったか? それは、いまさら騎士物語への郷愁や感傷を共有することによってではなかった。

 その後に盛り上がった運動の広がりを通して見れば、彼らの孤独が見逃されてしまうかもしれない。後の世代からは、彼らが歴史の渦のような運動に巻き込まれていったのだ、という風にも映るだろう。しかし、それは事実からほど遠いのである。百人の隊列の背後には、必ず百の孤独な決断があり、百の訣別があった。それを最もよく示しているのが、山﨑博昭が羽田闘争に参加するために上京したとき携えていた書物の束である。古今の古典と独仏語の教科書を含む十冊もの本と、『純粋理性批判』と題された自身の省察ノート――わずか一・二泊の旅程のために、カバンに詰め込まれたこれらの遺品を見れば、そこに寸暇を惜しんで学ぼうとする強い意志、悩みつつ思考し、迷いつつ一歩を踏み出した十八歳の若者の姿が浮かび上がってくる。党派のクリシェを鵜呑みにしたり、時世に付和雷同したりするような情動性とは際立って異なる、真摯で思索的なメンタリティーがそこにある。そこに漂うのは、多数者の力を頼まず、権威筋を無批判に信奉ずることを禁欲し、あくまで自分の頭で考え抜こうとする高貴な孤独だ。

 10・8の闘争が同時代の人々の心に深い衝撃を与えたのは、騒乱の華々しさのためではなく、その中に浮き彫りになるこうした魂の陰影のためである。それゆえにこそ、それぞれの孤独と訣別を胸に刻んで起ちあがった弁天橋の上のドン・キホーテたちは、本当は見かけほど孤独ではなかったのだ。
(たじま・まさき)



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