碑をめぐる追想――旧東独の旅と1960年代の精神史から/折原 浩
碑をめぐる追想――旧東独の旅と1960年代の精神史から
折原 浩(東大闘争裁判特別弁護人)
Ⅰ 戦争と抵抗の歴史はどのように刻まれるべきか――ドイツを旅して
●戦争の傷跡も生々しい東ドイツの諸都市
いまから20年以上も前になるが、旧東ドイツ (「ドイツ民主共和国DDR」) を駆け足で旅した。東欧共産圏とソ連の倒壊後、ベルリンの「壁」も崩れて数年を経た1994年3月のことである。
専門のマックス・ヴェーバー研究との絡みで、西のハイデルベルクに一年間滞在した後、帰国の途次、真っ先にかれの生誕地エアフルトを訪ねたのだが、そこではさしたる印象は受けなかった。ところが、ドレスデン、ライプツィッヒ、ヴィッテンベルク、ベルリンへと足を踏み入れたとたん、「歴史」が迫ってきて、敗戦後日本との落差に、思わず息をのんだ。
名だたる都市の景観は、「焼け野原」とはいわないまでも、敗戦後間もない「煤けた廃墟」を思わせ、「どうしてここまで放っていたのか」と問わずにはいられなかった。この第一印象は、当時毎年ドイツを訪ねて定点観察していたドイツ史家・坂井榮八郎の所見とも、さして隔たってはいない。
西側の資本が殺到しようにも、西に逃げ延びていた旧不動産所有者が、返還を要求して、夥しい件数の訴訟が起き、土地所有権が不安定なため、投下が進まなかったという。なるほど、教会や市庁舎など、大きな建物には“Sanierungsplan [改装計画]”の広告板が貼り出され、「復興の槌音」が響く。「仕事がない? 助けられるよ」という立看板も目に止まる。アーケード街の店には、豪華な商品も並ぶ。政策上保護されていたのか、整備と清掃の行き届いた石造りの建物は、落ち着いた雰囲気を醸し出して、往時を偲ばせる。ところが、隣には、窓ガラスは割れ放題、なかに人が住んでいるのかどうかも定かでない建物が並び、外形は重厚なだけに、煤と汚れが目立つ。それが、町外れではなく、中心街なのである。
人々が、ナチスとソ連、ふたつの独裁政権に痛めつけられて、復興への意欲も失い、これほどまで「投げやりに」生きてきたのか、という思いが、一瞬脳裏を掠めた。かりに日本で、大戦末期、「本土決戦」に踏み込み、市街戦の末、アメリカ軍とソ連軍が駐留し、東京を挟む分割統治を被っていたとしたら、こうもなったろうか、との想念にも捕らえられた。
なるほど、戦争と戦後の傷跡は、生々しい。ベルリンでは、ナチス支配の拠点・ヴィルヘルム街と秘密警察の跡地一帯が、意図して野ざらしにされ、片隅には「テロルの地相」と標示されたプレハブの展示場が立つ。戦後、東西を隔てていた「壁」や、連合軍の「チャーリー検問所」跡も、落書きまみれではあるが、大部分はほぼそのまま残され、半ば観光名所ともなって、高齢の女性が露店を広げ、記念品を売っている。
「壁」沿いに帯状にのびる空き地は、大規模な土木工事が進められているとはいえ、都市としていささか殺風景な空間にはちがいない。ただ、警察官が麻薬取り締まり犬と散歩している道筋の一角には、「ベルリンの壁 記念館予定地」と太書した看板が、この情景を「歴史」に繰り込もうとする意思の存在を証していた。
●史跡管理者による表示に疑問
西ベルリンの玄関口・ツォー[動物園前]駅に降り立つと、米英軍の爆撃を受けたヴィルヘルム教会の残骸が、機能的な新館と並び立ち、いやでも目に入る。1870-71年晋仏戦争の勝利記念塔から、東ベルリンとの境界にあるブランデンブルク門に直行する大通りには、「6月17日通り」という標示があるが、これは、1953年の当日、自由選挙を求める東ベルリン市民のデモ隊が、阻止線を突破して行進し、ソ連軍の戦車に押さえ込まれた事件に因んで名づけられたという。ブランデンブルク門寄り、ドイツ連邦議会の建物に近い表通りにも、西ベルリン側なのに、ソ連の戦勝記念碑が立ち、左右に二台の戦車が砲身を構えている。
だだっぴろいベルリンは唯一の例外として、こじんまりしたドイツ都市のひとつに、「ルターの町Lutherstadt」とも呼ばれるヴィッテンベルクがある。いまなおドイツ人の「精神の故郷」なのであろう、教員に連れられた小学生の集団が、引きも切らず訪れている。
街外れの「城教会」には、ヨーロッパ文化の中心からは遠い片田舎の一神学徒が1517年、「贖宥状 (免罪符) を買えば救われる」と説く教権と御用学者の現実に即して、キリスト教の本質を問い、「95カ条」の公開質問状を貼り出した門扉が、あの世界史的事件の現場にしてはなんとも無造作に佇んでいる。ところが、道ひとつ隔てた公園の入口に、異様なレリーフが目につく。前面にロシア語、背面にドイツ語で、「ファシズムと戦争に抗して闘った戦士に永遠の栄誉を」とある。しかし、背後の林は一面、ロシア文字を刻んだ墓で埋めつくされていた。沖縄県糸満市摩文仁の丘にある (アメリカ兵戦死者の名も刻んだ)「平和の礎」とは、なんと違うことか。それをなぜ、ルターの史碑の真ん前にもってくるのか。
しばし感慨に耽っていると、通りかかった中年の婦人が、なにかいいたげに近寄ってくるので、とっさに「ソ連兵ばかりですね」というつもりで“Nur sowjetisch !?”と訊くと、「そうなんです、軍属まで葬られてます。当局に撤去を求めても、埒があきません」という。しばらく話し込んで、「記念にひとつ、いっしょに写真を」とさそうと、「それは……」と手を振って去ってしまった。東の市民には「表に立つ」ことを好まない感触がある。
駅に近い「ルターの家」にも、上段にロシア語、下段にドイツ語で、「この博物館 (ルター画廊) は司令官の保護のもとにある」と殊更うたうプラカートが掲げられていた。
筆者は、ロシアの民衆と知識人の、19世紀このかたの「歴史」に、共感を寄せるひとりと自認しているが、解放運動の当事者が、ひとたび権力を握ると、どうしてこうまで住民の神経を逆撫でする愚を繰り返すのか、という感懐も禁じえなかった。
ところが、数日間歩き回るうちに、全体の印象は徐々に変わった。表向きは、「終戦」後日本のように、何ごともなかったかのように、取り片づけられ、整えられてはいない。しかし、大小無数の碑が目に留まり、建てた人々の思いが伝わってくる。夥しい残骸や瓦礫も、ただ無意味に放置されているのではない、と分かってきた。
●市民の情念を伝える印象的な碑文
エルベ河が貫流するドレスデンは、現在「ザクセン州」の州都で、「ザクセン」といえば、筆者などはすぐ、山賊に扮してルターを拉致し、ヴァルトブルク城の一室に匿って、新約聖書のドイツ語訳に専念させた「ザクセン侯」フリードリヒ賢公を思い浮かべる。ところが、「ザクセン」の歴史は複雑で、ドレスデンに都を置いて壮麗な宮殿や美術館を造営し、「エルベ河畔のフィレンツェ」と讃えられる礎を築いたのは、フリードリヒ賢公とは別系統の「ザクセン侯」で、宗教改革後の内戦では皇帝側に荷担したフリードリヒ・アウグストⅠ世(「強壮王」)だったという[この箇所、畏友坂井榮八郎の教示によって訂正]。
それはともかく、この美しい古都は、第二次世界大戦中、米英軍のとくに激しい空爆にさらされ、ひどく破壊された。なるほど、筆者が訪ねた時には、多くの建物が再建されてはいたが、(いまでは観光名所ともなっている)「諸侯の行列」壁画の近くには、聖母教会の残骸が広がり、瓦礫のなかにルター像だけがすっくと立っていた。ところが、その傍には、多数の大棚が設えられ、崩れ落ちた大時計や、柱や梁の石塊が、そのまま整理して保存され、事務所も置かれて、再建基金への寄付をつのっている(気の遠くなるような計画と思えたが、すでに実現され、聖母教会は元どおりに再建されている)。
ちなみに、旧東ドイツでは、日本との友好には西以上に気を遣って、ドレスデンの市内遊覧バスでも、イヤホーンで日本語の解説を聞けた。旧秘密警察の本部が「狩人の館」と改称されてディスコを開業し、「ベルリンのツァーリ時代が終わって以来、ゴルバチョフ有限会社にて醸造」と銘打ったウォッカも売り出されているとか。
ベルリンでも、「歴史」を尋ね歩くと、1944年、このままではナチスがドイツを破滅に陥れると悟ってヒットラー暗殺を企てた国防軍将校の銃殺刑跡が、官庁街保険局の中庭にあり、花輪が手向けられていた。碑文には、ルードヴィッヒ・ベックほか、五人の役職と実名が記され、その上に、「1944年7月20日、ドイツのため、ここに死す」とある。訪れる人は少ない。
西ベルリン側で最前線の建物の一角には、「チャーリー検問所傍の博物館」があり、「壁」を越えて西側に逃れようとした人々のトンネルや高架艇など、数々の創意工夫が展示されている。しかし、片隅には、「誤射によって逃亡を助けてくれた監視兵に感謝」という表示も目に留まった。
これらの展示物は、やがて官製の「壁記念館」に吸収合併されるのか、それとも、独自に生き延びるのか。
首都ベルリンは激動の中心地だっただけに、「検問所傍の博物館」を除けば、官製か、あるいは自治体の設立と思しき、大々的な記念碑が目立った。ところが、戦前にはベルリンに次ぐ大都市だったライプツィッヒには、市民が各々の情念を刻み出した小規模な記念碑が、街中に散在していた。たとえば、五人組立像の軸石の表裏に、「神よ、わたしがあの人たち [L・KAP・18] のようでないことを、あなたに感謝します」「もとより人は、ある原理に一命を捧げることも許される。しかし、ただ一度、自分の命だけを」とある。「あの人たち [L・KAP・18]」とは誰か。左端は、銃を背負う憲兵であろう。中央は、「スタハノフ運動」で表彰された「労働英雄」でもあろうか。詳しいことはわからないが、この碑を立てて、他人には原理への忠誠と犠牲を強要していた権力にたいして、「解放」後にこの寸鉄を刻んだ市民の思いは、よく伝わってくる。
電話番号でも記されていれば問い合わせられるのに、と思わないでもなかったが、永続を期する碑であるからには、市民には子々孫々口伝えされ、旅行者には受難の印象と問いを触発すれば十分、というところか。
●壁に「不都合な事実を水に流さず、轍を踏むまい」との決意
ところで、筆者がとくに深い感銘を受け、来し方を振り返る機縁ともなったのは、ライプツィッヒ大学本部棟の壁に貼り出された、つぎの文面だった。
「この場所に、聖パウロ大学教会が立っていた。この教会は、ドミニコ会修道院の教会堂として設立され、1543年以来、この大学の所有に属し、すべての戦争を、損傷も受けずに生き延びてきた。ところが1968年5月30日、大学教会は、恣意によって爆破された。この暴挙を、市当局もライプツィッヒ大学も、阻止しなかった。かれらは、独裁政権の重圧に抵抗しなかった。」
ここには、「不都合な事実」を「水に流さず」、「轍を踏むまい」とする反省と抵抗の決意が、簡潔に表明されている。それにひきかえ、たとえば東京大学の本部棟または講堂の壁面に、「1968年6月17日および1969年月1月18~19日、当局は機動隊を導入した」と、たんに事実を語るプラカートさえ、「忘れたい意思」に逆らって、公然と貼り出すことができるであろうか。ライプツィッヒ市内のいたるところ、たとえば商店のショーウィンドーにも、大学教会爆破の写真を見かけた。悲憤に耐えた市民と、抵抗回避の前非を悔いた教職員の有志が、連携して、「解放後」いち早く、このプラカートを掲げ、再起と抵抗の決意を心に刻んだのであろう。
Ⅱ 樺美智子と山﨑博昭、ふたりの学生の死に直面して
●「学問の自由」「大学の自治」を問い返す主体への自己変革を課す
顧みれば、1960年代の日本は、「戦後精神」がある頂点に登り詰める「疾風怒濤」期だった。そこには、ふたりの学生の死が刻み込まれている。ひとりは1960年安保闘争の樺美智子、いまひとりは1967年反戦闘争の山﨑博昭である。
樺の死は、「民学研」(「民主主義を守る学者・研究者の会」)の事務局を手伝っていたノンポリ院生の筆者に、「政治-社会運動と学問研究とを、どう結びつけて生きるか」という問いをつきつけた。筆者の答えは、街頭闘争に高揚した「情念」を、渦中で「理念」に結晶させ、「政治の季節」の潮が引いた後にも、「学問の季節」に送り込んで、ふたつの季節の「循環」を「螺旋」に変え、日本社会の「現場からの民主化」を持続的に追求していく、という方向に求められた。
1962~63年の「大管法」闘争では、早速、大学現場のあり方が問われた。学内各層の対応を見渡すと、「学問の自由」「大学の自治」を (すでに学内に「ある」と) 前提して「守る」という発想では不十分、と思われてきた。むしろ、学内に現にある人間関係とそこで不断に培われる「精神」を問題とし、「戦後社会学」が問い残してきた大学も研究対象に据えて、切開し、まずは自分たちが、運動と闘いのなかで明朗闊達に発言し、議論し、理性的合意を求めて、自発的結社も創っていけるような、そういう主体に自己変革を遂げなければならない。そのさい、問題の「精神」は、(「物言えば唇寒し」という)「前近代」の「家父長制」的権威主義ないし「家族主義」的」宥和主義の残滓と、(「ピラミッドの梯子を、周囲に合わせて巧みに登る」)「超近代」の「官僚主義」的「立身-出世主義careerism」との癒着、したがって「流れに抗して」立てる「自律的個人」の二重の発育不全、として捉えられた。
翌1964年、筆者はいったん「学問の季節」に戻り、「マックス・ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム」の事務方と報告をつとめた。ただそこでも、大塚久雄・川島武宜・丸山眞男ら「戦後民主主義」のオピニオン・リーダーズが、「大管法」闘争の経験に照らすと、どこか「学知 (中心) 主義」に囚われていて、「かれらの説く『近代化』も『民主化』も、大学現場は問い残し、地につくまい」と思われた。
1965年2月に入ると、アメリカ軍が (ベトナム戦争で)「北爆」を開始し、沖縄からB52が飛び立ち、佐世保には空母が寄港し、東京の王子にも(戦死者に化粧を施して本国に送り返す)「野戦病院」が開設された。ところが筆者は、緊迫する政治状況からは一歩退き、3月に赴任した教養課程の講義の準備に、フル・タイム没頭していた。それというのも、「安保」と「大管法」、ふたつの闘いの延長線上で、大学とくに教養課程の講義や演習も、日本社会の「民主化」に連なる現場実践と位置づけ、マルクス、デュルケーム、ヴェーバーほか、社会科学の古典を教材として、(結果に追われて前提を顧みる余裕のない)受験勉強から解放された新入学生に、「社会学するsoziologieren」(同時代の問題に現在進行形で取り組む、いうなれば「社会学的アンガージュマン」の)スタンスを、「教養」の核心として会得してもらおう、そうすることが「自分の現場」また「学生たちの将来の現場」からの「民主化」に連なる、といささか欲張って、題材をこなしきれずにいたからである。
●山﨑の死は「歴史」を創っていく責任の重さを突きつけた
しかし、山﨑の死は、そのように「学問の季節」に引き籠もった筆者をも揺さぶった。学生の問いかけに、正面から答えていかなければならない、そのコンテクストで「みずから社会学する」のでなければ、どうして学生に「社会学する」教養を育成することができようか。
また、「戦後民主主義」には、「『命懸け』とか『体を張って』というのは『肉体派自然主義』『道徳的感傷主義』『悪しき求道主義』」と (戦前・戦中の体験を一般化して) 一面的に解釈し、もっぱら “sachlichな [事柄に即する]” 認識を強調して、いつしか「学知主義」に傾き、「現場からの民主化」実践は忌避する、という潮流が伏在していたが、これを感知し、どこか奇怪しい、と疑い返す素地ともなった。
さらに、死の真相をめぐり、警棒による撲殺を、仲間の運転する車による轢殺と偽る、警察権力の「事実」捏造と、マス・コミの (「60年安保」時の「七社宣言」を引き継ぐかのような) 同調・豹変ぶりは、強権に立ち向かって真実を直視した少数派弁護士・学者・市民の主張とスタンスを、鮮やかに浮き彫りにした。闘争の渦中でも、あるいはそこでこそ、一見「些細」として片づけられ、忘れられがちな事実にこだわり、ひとつひとつ論証して、同世代および次世代の未来模索に、可能な選択肢と思考素材を提供し、「歴史」を創っていく責任の重さを思い知らされた。こうした背景のもとに、1968~69年「学園闘争」(筆者の現場では「東大闘争」) が起きたのである。
●大学の特別権力関係下で放棄された「科学者としての責任」
「東大闘争」の事実経過と現場での対応について、筆者はこれまで、ささやかながら繰り返し語り、書き、当事者の発言を促して、議論を呼び起こそうとつとめてきた。本プロジェクトへの賛同のさい「東大闘争裁判特別弁護人」(「特別弁護人」とは、職業的弁護士ではない素人の法廷弁護人) と名乗ったのも、東京地裁の法廷で真相を究明し、その最終弁論を『東京大学――近代知性の病像』(1973、三一書房)と題して公表して以来、一連の論考で、「1967年10月8日事件」の意味を上記のように解し、引き継いできた志を記して、賛同の趣旨を簡潔に表明したかったからである。
ところが、現在の状況はきびしい。筆者の対比にも、「東大は、(ライプツィッヒ大学のように) 外部権力の恣意によって建物を爆破され、その暴挙に抗議しなかったのではない。事実を捏造したのでもない。やむをえず機動隊を導入して『暴力学生』から大学を『守った』のだ」という趣旨の反撥と非難が予想される。今日では、そうした評価が、社会通念とも化して「一人歩き」し、問答無用とばかり罷り通っている。それを『俗論』として『嗤う』ことは容易であろう。しかし、わたしたちはむしろ、この現状を直視し、打開すべきではないのか。
とすると、「東大闘争」の事実経過を改めて掘り起こし、併せて彼我(ライプツイッヒ大学と東京大学)の経験を対比して異同を論ずる必要があろう。ところが、前半の課題は、筆者にとって長年の懸案で、ごく最近も、ホーム・ページ (http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara) の2015年欄に発表した別稿 (「1960年代精神史とプロフェッショナリズム――岡崎幸治『東大不正疑惑 「患者第一」の精神今こそ』[2014年11月8日付け『朝日新聞』朝刊「私の視点」] に寄せて」) で採り上げ、立ち入って論証している。必要とあれば、そちらを参照していただくこととし、ここでは結論の要約に止めよう。
「東大闘争」における現場の争点、医学部と文学部の学生処分にあった。学生処分とは、学生のなんらかの非行にたいして、その学生の属する学部の教授会が、問責し、総長・評議会の承認をえて、退学・停学・譴責といった不利益を科し、反省を促す、という趣旨の措置である。それは、「教育的処分」として「学部自治」の一環とされていたが、近代市民法にもとづく訴追とは異なり、捜査・立件・審理・判決といった機能が、理念上また制度上(警察・検察・裁判所というふうに)分割はされず(したがって一定程度の相互掣肘関係にも置かれず)、当該の学部教授会(実務においてはさしずめ学部長)の一手に握られる「特別権力関係」をなし、下手をすれば、不利益を被る学生の人権を侵害しかねない。そこで、学生本人からの「事情聴取」が重視され、事実認定と評価が公正におこなわれるように、慎重に運用されるべきことが強調され、その慣行が、敗戦後、ほぼ確立されてもいたのである。
ところが、1967~68年、医・文二学部で、学生運動絡みで起きた二事件を契機とする学生処分においては、医学部では「事情聴取」をまったく欠き、文学部も「本人を呼び出した(から医処分とは異なる)」と主張していたが、その実態は「陳謝請求」で「事情聴取」の体をなしてはいなかった。そのため、両教授会とも、事実誤認を犯し、冤罪処分をくだした。ここでは、医学部処分が撤回され、ひとまずは解決された後にも、未決着のまま、1969年1月18~19日の機動隊再導入の後々まで、学内最大の争点をなしていた文学部の処分について、最小限補足するとしよう。
当の処分の契機とされた教員-学生間の「摩擦」事件は、山崎の死の数日前、1967年10月4日の「文学部協議会」閉会直後に起きた。この文学部協議会(略称「文協」)とは、教授会、助手会および学友会、三者の代表によって構成され、文学部の運営全般とくに学生生活に関係の深い諸問題について話し合う協議機関で、こうした慣行が成立していたこと自体、文学部が殊更「権威主義」的でも「官僚主義」的でもなかった証左であろう。ところが、文学部教授会は、1967年5月、それまでは理由あって(建設予定の学生ホールの利用団体代表という資格で、慣例として)認めていた同学部学生のオブザーバーを、「学生との協議は代表者にかぎれ」という(おそらくは「国立大学協会⇨東大本部⇨文学部教授会」の線で下達された) 要請にしたがって、一方的に排除しようとした。そのために、オブザーバー問題自体が主要な議題となってしまい、内容ある議事運営は頓挫し、このままでは「文協は閉鎖されるのではないか」と危惧されもした。文学部処分の契機となる「摩擦」は、そうした対立が夏を越して、9月の(夏休み明け)第一回目は「物別れ」に終わり、辛うじて10月4日に開かれた第二回目の閉会(助手会代表による閉会宣言の)直後に起きた。すなわち、真っ先に席を立って、扉外に出た平委員の一助教授が、つづく委員長ほか同僚教授たちの退出空間を開けようと、一学生に加えた(少なくとも「袖を押えた」)先手に、当の学生が振り向きざま抗議した後手を、先手は不問に付したまま、当初には「教官への非礼」、やがては「暴力行為」と認定して、無期停学処分に付したのである。これは、「身分差別」を暗黙の前提とする「特別権力関係」ならではの措置であったが、文教授会と東大当局は、この「後手抗議」を「退席阻止」にすり替え――つまり、公然たる事実「捏造」ではなくとも、真相は「秘匿」「隠蔽」し――、一部教員からの再検討の要請も拒み、怠って、致命的な事実誤認を温存したまま、機動隊を再導入したのである。
さて、こうした事実の隠蔽と誤認それ自体、けっして「些細」なことではないが、問題はむしろ、それにたいする教員一般の対応にあった。「自分は教官『である』から、当該学部教授会と当局の措置を『なんとしても』支持する」というのでは、「存在被拘束性」(その中身は、後段で切開する)に縛られて「科学者としての責任」を放棄するにひとしい。科学者であれば、専門が何であれ、甲説と乙説との対立に直面すれば、双方の主張内容を精査して比較対照し、どちらに理があるか、根拠を挙げて判定するであろう。とすれば、この学内問題についても、当該学部教授会の甲説と、学生側の乙説とが、ともに発表され、出揃って、対立しているのであるから、「当該学部教授会⇨学部長会議・総長・評議会⇨各学部教授会への学部長報告」という(一般教員にさえ「議事録」が公開されない)「密室ルート」を伝って降りてくる一方的情報を鵜呑みにして、無疑問的に荷担するのではなく、教員個々人が、それぞれ一科学者として、双方の主張内容を「価値自由に」(価値判断を制御し、先入観を交えず、公正に)比較対照し、必要なら現場に足を運び、ヒアリングも実施し、事実にもとづいて当否を判定すべきであろう。そのうえで、それぞれの所見を持ち寄って議論し、そのようにして、いうところの「理性の府」にふさわしい結論に達し、非は非と認め、相応に措置を改めるべきだったろう。ところが、圧倒的多数の東大教員は、「科学者としてごくあたりまえ」のこのことが、一年以上を費やしてもできず、なそうとせず、機動隊の再導入による政治決着に走ったのである。
●権力による大学支配を覆い隠した「縁故者責任」の構造
なぜか。
事実誤認による冤罪処分という失態を、優柔不断な総長のパーソナリティとか、理系では医学部、文系では文学部の「古い」「権威主義的」体質とかに、還元し、個別即人化-局部化して「能事おわれり」とする(「進歩的政治学者」と目されていた法学部教授・坂本義和の)説もある。しかし、それでは説明できない事実がある。すなわち、問題の発端となった医学部では、「インターン制度」の是非をめぐる紛争で学生が起こした「第一次ストライキ」(1967年)のさいには、当時の「ハト派」執行部が、「研修協約」という学生側要求内容の(少なくとも)意義は認めて、「全員戒告」という(正規の処分ではない)穏便な処置に止めていた。ところが、総長大河内一男ほか、大学本部が、この処置を不服とし、医学部執行部の更迭を使嗾した。医学部教授会は、これに応えて、厚生官僚出身の豊川行平を医学部長、首相佐藤栄作の主治医・上田英雄を病院長に選出した。そしてこの「タカ派」執行部が、(ひとりの不在者への冤罪を含む)17名の学生・研修生に、本人からの「事情聴取」もせず、20日という短時日のうちに、「特別権力関係」ならではの拙速・大量の処分をくだし、大河内ら総長・評議会も、これを追認したのである。文学部処分についてみても、文学部が殊更「権威主義」的でも「官僚主義」的でもなかったことは、協議機関とはいえ(たとえば法学部にはないし、ちょっと考えられもしない)「文協」が、敗戦後いつのころからか開設され、1967年5月までは軌道に乗って円滑に運営されていた事実ひとつをとってみても、明々白々であろう。
ところで、医・文両学部の処分のさい、「優柔不断な」大河内とすれば、できれば穏便な学内処置ですませたかったにちがいない。ところが、背後に、そうはさせない重圧があったと推認される。すなわち、60年安保国会後に登場した池田勇人政権は、「高度経済成長政策」を加速し、「所得倍増計画」を謳い上げて大衆を慰撫すると同時に、「大学が革命戦士の養成に利用されている」(趣旨)と唱え、先にも触れたが、「大管法」の制定に乗り出そうとした。それまでにもなんどか「アドバルーン」が打ち上げられていた関連法案は、学内で選出された学長候補者ほか、教員人事にたいする文相拒否権の実質化、大学管理機構の中央集権化、とならび、学生の(学外を含む)「秩序違反」にたいして「厳正な処分」をもって臨み、学内への機動隊導入も躊躇うべきではなく、教員は、一朝有事のさいには学内管理の担い手として学生を首尾よく押さえ込めるように、常日頃「コミュニケーション」を緊密にしておくべきこと、を説いていた。ところが、こうした強権的構想にたいしては、さすがに、池田と親しい学界三長老(中山伊知郎、東畑精一、有沢広巳)が、「そういうやり方では『一般教員』の反撥を招いて逆効果になる。むしろ、大学が『自主的に』対処するように仕向けるから、まかせてほしい」(趣旨)と「取りなし」に入り、池田政権はとりあえず、法制化は見合わせ、手控えた。全国の大学教員はおおかた、この法制化「阻止」を「闘争勝利」と総括し、安堵して警戒を解いた。ところが、その間に、国家権力の意向を「国立大学協会」と個別大学の管理機関が「先取り」・「代行」して、円滑に貫徹しようとする「国大協・自主規制路線」が、政治日程には上らずに、用意され、発進し、整備されつつあった。
この路線はなるほど、建物爆破を極限とする「鋭角的」また「顕示的」な強権性はそなえていない。むしろ、「政府(文部省)対大学」という(「集合的主体」として実体視されやすい)「社会形象(構成体・制度)」間の見えやすい対立を、大学内部の見えにくい「人間関係」(昇進順位・指揮命令系統・抑圧委譲といった機能・潜在機能をそなえた「官僚制」の位階関係と、これに随伴する後述の「コネ」)に転移し、「一般教員」の「縁故者責任」意識を管理者・上層部側に引き寄せ、動員して、それだけ「科学者責任」の発動とくに学内への適用を躊躇わせ、鈍らせる性格をそなえている。この点はおそらく、三長老が長年の大学内(管理者)経験から、直感的に予期したところであろう。
「縁故者責任」意識とは、いかなる公式組織の「ゲゼルシャフト(制定秩序準拠)関係」にも、組織が継続的に存立するかぎりは派生し随伴する、非公式の(「ゲゼルシャフト関係」の合理的目的の範囲を越える)「諒解(非制定秩序準拠)関係」すなわち「縁故関係(コネ)」の顧慮と、その規範的要請に悖るまいとする感性的・情緒的行為準則と定義されよう。たとえば「自分の才能をいち早く見抜いて講座増設に奔走してくれた恩師」「親身に学恩を施してくれた先輩」「互いに『リベラル』に遇し合って心地よい『城内平和』を築き、維持している同僚」「強制委任にひとしい役職を、病身の自分に代わって引き受けてくれた親友」「崇拝に近い尊敬と信頼を寄せてくれる弟子」などに、敬愛の念と愛着の情が沸くのは自然であろう。それはもとより、それ自体として非難されるべきことではないし、日常的に機能しているかぎり、「麗しい人間的師弟関係・同僚関係」とも評価されよう。
ところが、こうした無限定の感情的契機は、外からのライプツィッヒ型強権行使にたいしては、(G・ジンメルのいう)「対外排斥と対内緊密の同時性」法則がはたらいて、内部結束を固め「一丸となって」対抗する梃子ともなろう。しかし、ひとたび「国大協・自主規制路線」型の支配によって、対抗軸が内部に転移され、権力が拡散して「真綿で首を絞める」ように浸潤するときには、個々人はそれだけ、自由な発言や討論を内面から抑止され、とりわけ科学的批判性の内部適用を妨げられることにもなりかねない。
この問題に現場で直面した故高橋和巳(当時京大文学部教員)は、1969年5月30日のある集会で、「教授会で恩師と対立するのは、生爪を剥がされるように辛い。とはいえ、原理原則に悖ることはできないから、生涯を阿修羅として生きるほかはない」と表現した。
しかし、全般的には、国家権力による統制強化の企図をいっそう巧みに貫徹する「国大協・自主規制路線」にたいして、まずは当局の少数者が背後からの重圧に屈し、教員一般も「縁故者責任」準則に引きずられて、「科学者責任」原則に生きることができなかった。ライプツィッヒ大学の場合と同様、権力支配への無抵抗・荷担にはちがいないが、支配がさほど露骨ではなく、「縁故者責任」にくるまれて鈍角的に浸透したため、それとして自覚され、対象化されることなく、明快な抵抗の意思が形成されなかったし、決意が表明されようもなかったのである。
●東大全共闘側の当事者にも、反省と総括が求められている
他方、東大全共闘側には、「国大協・自主規制路線」を、いきなり既定のこととして先験的・「流出論」的に持ち出す嫌いがあった。「教員一般は、大学管理機構の末端にあって、当の路線を学内に貫徹する権力の手先『である』から、対話が成り立つ『はずがない』」と「本質主義」的に決めてかかり、「存在被拘束性」を実体化して、教員をむしろ「縁故者責任」意識の優越と(個別の対応を顧慮せずに一括して斥ける)カテゴリカルな(同位)対立に追い込む傾向にあった。少なくとも、学内処分の具体的事実関係の論証から出発し、その拙速・粗暴の背後に、「国大協・自主規制路線」を突き止め、帰納的・経験科学的に分析して、学内外大衆に説得的に示し、(敵対者との間にスペクトル状に分布するほかはない)支持基盤を確実に広げ維持していく方向には、思考が凝らされなかった。むしろ、一方ではスローガンの抽象化、他方では戦術のエスカレーションに走って、大衆的支持基盤の喪失を招いた。
翻って、1968年6月17日の第一次機動隊導入の直後、闘争が急速に全学に波及・拡大したのも、「医療・教育の帝国主義的再編粉砕」「国大協・自主規制路線粉砕」といった抽象的スローガンが「受けた」(ストレートに「共鳴盤」を獲得した) からではなく、むしろ、ベトナム戦争の激化にともない、侵略への荷担構造全体が可視化されてきたところに、山崎の死に衝撃を受け、「何もしないでいる自分」の「加害者性」を察知するほどに感受性の鋭い、他学部を含む学生・院生・若手教員の間に、医学部の不在者・冤罪処分にかんする「高橋・原田報告書」の綿密・周到なアリバイ証明が、すでに問題提起として投げかけられ、「これは放っておけない」「身近に起きたこの疑わしい権力行使にたいしても『見て見ぬふりをする自分』であってはならない」とする気分が、つとに普及し、浸透していたからではないか。まさにそれゆえ、大河内による間髪いれない機動隊導入も、「冤罪処分につづく、不当な権力行使の第二弾」と、素早く受け止めて、惑わされない「共鳴盤」が、いわばすでに熟していたのではあるまいか。
また、いまひとつ本質的な問題として、「参加者個々人の自発性を最大限尊重して、規約や組織決定の縛りをかけない」という全共闘運動の特性も、運動の拡大・膨張局面では有利にはたらいたとしても、後退局面では、指導責任の不在と(「闘争者にはなんでも許される」という)「無律法主義Anomismus」の頽廃をもたらしたのではないか。
こうした数々の問題点を指摘し、切開することは、なるほど、それだけを取り出して「科学者責任」の放棄を「正当化」「自己正当化」して止まない面々には、いたって好都合で、まさにそれゆえ、他方では、その意味の「利敵行為」と感得されて、回避されがちであろう。しかし、当事者による反省と総括があって初めて、「歴史」が創られ、後続世代が「同じ轍を踏む」弊から免れ、先行世代を越える可能性も開ける。そうでないと、いつまでたっても「二番煎じ」が繰り返されるばかりではないか。この側面が、いつまでも無視されたままであってはなるまい。
その趣旨で、いま一歩踏み込み、あえて問題を提起すれば、全共闘運動の当事者はおおかた、自滅するか、企業戦士や学知家に転ずるか、沈黙するかして、いずれにせよ、自分たちの担った運動の正当性を再吟味・再確認・再説すると同時に、(よくよく考えれば、「生(情念)」と「形式」、「政治の季節」と「学問の季節」との弁証法的関係をいっきょに「止揚」して「満開の生」を享受・謳歌できるわけがなく、したがって抽象的目標をいっきょに100%達成できるはずもない)闘争を当面、どこで「いったん収束させれば」よかったのか、高揚した「情念」を「理念」に結晶させ、つぎの「学問の季節」に送り込み、「時満ちて」みずから再決起するか、残された課題をつとめて明確化して次世代に引き渡すか、要するに、みずからの体験を対象化して「歴史」を創る責任を、どこまで自覚して、生きてきたろうか。はっきりいって、「やりっぱなし」「いいっぱなし」ではなかったか。
●1960年代精神史をめぐるさまざまな観点の交流を
もとより筆者も、東大闘争へのかかわり、ましてや1960年代の精神史、日本の敗戦後史を、まだまだ総括しきれてはいない。さまざまな位相における当事者が、それぞれの追想と反省を持ち寄って、討論し、総括すべき問題は、多々残されていると思う。議論はいま、漸く始まったばかり、ともいえよう。
なるほど、本プロジェクトに期待するあまり、(一般にはよくあることだが) なにもかも持ち込んで負荷をかけ過ぎる弊は、お互いに戒め合って避けなければならない。筆者としては、さまざまな観点からの1960年代精神史がありうることを前提とし、それらが徐々に交流し、山崎碑建立の一助ともなり、翻って議論の深化に連なることを願い、まずは筆者個人の思いを率直に綴った。
[2015年12月6日、「10・8山崎博昭プロジェクト」から、賛同人のひとりとして「一口メッセージ」を寄せるように要請され、執筆を開始。同プロジェクトの発足当初、「東大闘争裁判特別弁護人」として賛同したが、昨今の思想状況では、その趣旨を説明するのは困難で、「一口」では語り尽くせないまま、思いがけず膨れ上がってしまった。
(おりはら・ひろし 2015年12月28日脱稿、その後一部増補、訂正、2016年1月31日最終稿)