10・8 山﨑博昭プロジェクト

山﨑博昭さんの「死」に怒り、更に一歩歩を進めた者として/重信房子

山﨑博昭さんの「死」に怒り、更に一歩歩を進めた者として

重信 房子(10・8羽田闘争参加者)

●羽田空港をめざして疾走

 山﨑博昭さんの「死」に怒り、更に一歩歩を進めた者として「追悼の鎮魂碑」に賛同し、連帯の想いを伝えます。

 朝から眩しい青空。10月8日、あの日私は明治大学二部の3年生だった。
 社学同系の隊列は、これまでと違って行先を知らされなかった。萩中公園に行くのだろうと仲間たちと語り合っていたが「三々五々、東京駅へ行って次の指示を待つように」という。
 東京駅のホームで「品川駅京浜急行ホームにただちに結集せよ」との指示。品川駅ホームには社学同系の仲間たちがあふれかえっている。「ピーッ」笛が鳴って「乗れーッ」と号令。私たちはみなあわてて乗り込んだ。しばらくすると又、笛の音と共に「降りろーッ」の声が響いた。降りたのは小さなホーム。「大森海岸」と駅名が書かれている。「とびおりろーッ」の大声。無賃乗車のまま下車だ。ホームは簡単なコンクリートの柵。それをまたいでみな次々と跳び降りている。かなりの高さだ。仕方がない。私も跳び降りた。

 「我々は決死の覚悟をもって羽田空港に突入し、佐藤訪ベトを阻止する!」
 成島忠夫全学連副委員長が武者震いをしながらアジッている。どこからもち込んだのか、この日、初めてデモ隊は“武装”した。角材がどっと前に置かれ、一人一人角材を握った。角材は多分50人ほどしかいき渡らなかった。“武装”部隊を先頭に数百人の隊列が組まれた。私たちは救護班で一番後に続いた。

 デモ隊が高速道路の鈴ヶ森ランプの坂道の下までくると笛が鋭く長く一声した。「羽田へ突入するぞーッ」「走れーッ! 羽田はすぐそこだぞーッ!」と激がとんだ。角材をもった連中は全速力で高速道路を逆走しはじめた。置いていかれては救護の役割は果たせない。身軽に棒一本持った彼ら数百を追って荷物を抱えた私たちも必死に走った。たちまち引き離されながら高速道路に上がると、すでに一般車両の通行を禁止していたらしく車は見当たらなかった。かわりに何十メートルおきかに見張りに一人ずつ立っていたらしい機動隊員たちが居た。デモの急襲になす術なかったのか、重武装のまま、一発なぐられて寝た格好のもの、しゃがみ込んでいるもの、呆然としているものたちが点々と居る。私たちは機動隊員たちを避けながらデモ隊の後を追いかけて疾走した。

●頭を割られた怪我人に親切だったタクシー運転手や医師

 そのうち羽田と大森双方から慌てて出動してきた機動隊に挟撃された。デモ隊のうち包囲を突破していくもの、高速のインターチェンジの少し低いところに押しこまれて結局落とされた者もいた。装甲車から隊員は重武装で次々降りてきて、ジュラルミンの楯と金属棒でデモ隊の頭を殴ったり蹴ったり激しい暴力を振るっている。頭を割られた人が続出し、血の臭いが充満している。次々と頭を殴ったり蹴ったりしながら逮捕せず蹴散らす方針らしい。私たちのところに来た。看護の腕章を巻いている者がいて一目瞭然なのだが、殴りかかりジュラルミン楯を振り降ろす。「救護班に何する!」「無抵抗な女に何する!」「やめろーッ!」みな口々に騒いだ。私も暴行はうけたが頭は割られなかった。

 そこに丁度、首都高速道路公団のマイクロバスが羽田方面から走ってきた。「運転手さん! 助けて下さい。怪我人が居ます!」 私は車の前にとびだして叫んだ。30代くらいか、若い運転手は、うなずくとすぐ車を止めて、マイクロバスのドアをあけた。そして7~8人のけが人を運び入れるのを手伝ってくれた。機動隊は羽田方面に移動しはじめている。運転手は大声で「ひでえことするなあ」と言いながら、どこに行けばいいのか?と、私に尋ねた。「この近くに個人病院はありませんか? 大きい病院だと警察に知られるし、困るんです。お金は私がちゃんと大学にもどってすぐに即金で払います。」というと「よし、わかった。」と運転手は、車を走らせた。私たちが逆走して入った鈴ヶ森ランプから普通道に入って、奥まったところにあった個人病院に連れていってくれた。私がとびこんで院長に話した。「治療して下さい。今手元にあるお金をまず払います。これから、とんぼ返りして治療費を持ってきますから、こちらの怪我人を助けて下さい。警察には知らせないで下さい。私もこの怪我人の名前も知りません。聞くつもりもないんです。とにかく私が責任を持ちますからお願いします。」と訴えた。運転手は、怪我人を運ぶのを手伝ってくれた上に、自分のポケットをあちこちさぐって、あり金を差し出した。「これ治療費に使って下さい。学生さんたち、がんばれよ!」と言って行こうとした。「あ。名前教えて下さい。あとでお金返したいので。」というと「いや、いいから。一市民ですよ。それでいいでしょ。」と笑いながら「がんばれよ!」と怪我人に声をかけて去ってしまった。院長は年寄りだったが、「まあ若いんだから大丈夫だろう」と割れた頭を見ながら引きうけてくれた。

●山﨑博昭君の死、そしてゲバラの死に直面し

 私はすぐタクシーにとびのって、お茶の水へ戻りお金を準備するとすぐ又大森の医院へとって返した。この大森に向かうタクシーの中で運転手から「あんたは学生さんか? 今、学生が殺されたらしいよ」と教えられた。息を飲む思いで話をきいた。私には羽田近辺の橋の名前はわからない。いくつかの橋の上でデモ隊が羽田方面に向かい、機動隊と衝突した中で、学生が死んだというラジオニュースが流れた。殺された……。高速道路から突き落とす殺意は、橋のあたりでも、学生たちを殺したのだ……。運転手と話ながら大森の個人病院に戻って精算した。その後、居合わせた仲間たちと羽田の方へ行こうとしたが、どこも通行止めに合い、夜にお茶の水の学生会館に戻った。

 「京大の山﨑君という人が殺された。抗議で萩中公園に行った」という仲間たちも戻ってきた。この日、共に闘った一人の学生が殺されたことは、だれにとっても大きな衝撃だった。ベトナム侵略に日本が加担することに反対し、佐藤訪ベトに抗議したことで虐殺されるなんて……。「命を賭けなければ、最早、闘えない時代になったんだなあ……」 明大の仲間たちはため息をついてそう言った。理屈抜きにもう後へは引けないぞ、という気持が、みんなの中にみなぎってくる。「学校の先生になる私たちこそ、こういう闘いの中で日本社会の変革の担い手になるべきなんだ。」 共に教師をめざしている仲間がそう言った。そうだ、これまでは明大学費闘争の延長上に活動してきたけれど、社会の一員として、先生になっても、社会を変えていくんだ! そんな一つの転機となったのは、この10月8日だった。

 少したって、チェ・ゲバラがボリビアの山中で戦死したニュースが伝えられた。「二つ三つ、更に多くのベトナムを!」と呼びかけ、又「我々のことを夢想家というなら、何回でもイエスと答えよう」と語った人、ゲバラ。世界の若者たちを共感させ、心をつないだゲバラが戦死した。山﨑君と同じように、恐れず一歩前へすすもう。今は犠牲の中で革命が成就する時代なのだ。
求められたら、活動を第一に優先したい。そんな風に生き方定め、一歩踏み出した日。それが私の「10・8」だった。
(しげのぶ・ふさこ 八王子医療刑務所在監 2015年3月8日)
 註:見出しは、僭越ながら事務局が付けたことをお断りします。



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