6月22日関西集会 重信房子さんの講演「パレスチナに平和を!」(全文)

10・8山﨑博昭プロジェクト関西集会

2024年6月22日(土)

エル・おおさか大会議室

 

  • 主催者挨拶

山﨑建夫(10・8山﨑博昭プロジェクト代表)

2014年の11月に、このプロジェクトの最初の講演会を山本義隆さんを迎えて東京で持ったんです。2024年だから10年になるんですね。

時代はどんどん動いていって、あまりよくない方向に動いていますけれども、その10年間、私たちがささやかながら続けてこられたのは、本当にこうやって集会を持った時に集まってくださるみなさんのお陰です。さまざまな戦線で闘っておられる方々から力をいただいたり、私自身で言うとあまり力はないんだけれども、そういう場でみなさんに集まっていただいて、またお互いに励まし合うという形で動いているんではないかと思っています。

今日は重信さんをお招きしたんですけれども、重信さんは僕にとってはすごく遠い人やったんです。あまり身近に感じない。しかもマスコミを通じてしか報道されないから、そのイメージしか見ていない。「魅力ある人だけど怖い人だな」みたいな、そんな印象でした。

ただ、このプロジェクトで記念誌を発刊した時に、「10・8羽田闘争に参加して」という投稿をされているのを読んで、「彼女も大学生の時に羽田に駆けつけていたんだ」ということを知って、かなり身近な存在になったんです。駆けつけた橋は穴守橋と弁天橋の違いはありますけれども。

それから帰国されて、20何年前に逮捕された時の記事が大きく新聞に載りました。その時、逮捕されたこともビックリだったんですけれども、もっと大きなショックは彼女を匿っていた男というのは、新聞の記事を読んで僕のよく知っている人物だったんです。私が1969年4月に勤めた高校で、私は新米の教師で、その頃から活動を始めたので新米の反戦派の教師なんですけれども、彼は中学浪人をして1年遅れて、中学浪人の時に京大のバリケードにしょっちゅう出入りしていて、そこでいろんなことを学んでいたんですね。だから普通の学校に1年生として入ってきても1歳年上だし、世の中のことを結構全共闘的な物の見方をするから、普通の教師は扱いにくい。世界史の教師に授業中に、世界情勢について「お前はどうすんねん。どない考えるねん」ということをぶつけると、教師は困ってしまったりして。何故か向こうは僕が山﨑博昭の兄であるということは知っていて、割と親しく話をしたり、二人で一緒に行動したこともあるんですけれども、ただ普通の教師から見るとやっかいな存在です。ただ彼の担任というのがすごくいい人で、戦後民主主義を体現したような、僕は新人ですが10年くらい先輩で大人なんです。ガタガタ言う教師は正論で抑えてきました。彼に対してもいけないことは指摘するし、そんな先生に恵まれて、彼は3年で無事に卒業したんですけれども、その後ずっと音沙汰無しだったんですが、新聞の記事を見てビックリした。新聞の記事ではブントの活動家であると紹介されていましたけれど。

それでと、さきほど本人(重信さん)にもお謝りしたんですけれども、去年の10月の東京集会に来ていただいて、その時は後ろで書籍(『はたちの時代』)の販売をしておられたんですが、その時は買えなかった。やはり赤軍派というところと一線を引きたいという意識がどこかにあったのかも分からない。その時に立ち話しでしたけれど、話しただけで、彼女のことも誠実な人だということがよく分かりました。真面目で優しい。

1ケ月ほど経って、大阪集会で書籍(『はたちの時代』)を買い求めて読んでみたんですけれど、面白い話がたくさんありました。「よど号事件」の時に、誰も飛行機に乗ったことがないから、「一度下見をせないかん」ということでやってみて、それであれこれ反省があって、あれが実現したんだとか、僕らの知らないことがたくさん紹介されています。もう一つ、その本を読んで気が付いたのは、アラブの現地で、現地の人から「武器を使わなくても闘う方法がいっぱいある。たくさん方法がある日本で、どうして武器を持って闘争するんだ」と現地の人から話をされた。これは正鵠を得ていますね。僕らはまだまだ武器は使わなくても、それ以外の方法で、いろんな方法で闘う方法があるんじゃないかということを、その本から学びました。

最後にもう1点。逮捕された時点で彼女は、ゴクイリイミオオイ(591-1301)の電話番号をしっかり記憶しておられて、救援連絡センターに連絡を取られました。それでセンターが指定する弁護士を選定された。救援会というのは、10・8の後、水戸さんご夫婦が始められた。ゼロから始められたものです。その後、多くの人々がゴクイリイミオオイが頭の中に入っています。50年以上続いて、現役で活動しているんだということです。会員になって欲しいし、カンパをして欲しい。かなり資金難で悩んでおられます。最後にお願いして、挨拶とします。

 

講演「パレスチナに平和を!」

重信房子さん

 重信房子です。よろしくお願いします。

19歳の時に学生運動に入りまして、まだ60年です。今年79歳です。あの時、山﨑君も一緒の隊列にきっといたんだろうなと思うような、そして彼が亡くなってからも、もしかしたら同じような隊列の中にいて、そして語り合う機会があったかもしれないなと、時々思うんですね。何故なら、あれは時代の象徴だったからです。闘いの象徴だったからです。その時に、忘れ去られていくことなく、この山﨑さんの闘いを継承し、本当に戦争をさせない、そうした必死の思い、それを伝えようとしているこの山﨑博昭プロジェクトの関西集会にお招きいただいて、とても光栄に思っています。みなさんありがとうございます。(拍手)

まず、自分で60年活動してきて、やはり誤りも多い活動だったと思うし、特に初期の闘いにおいては、無辜の人たち迷惑をかけるようなこともありました。そういう反省の中で、パレスチナの中でずっと闘う機会がありました。さきほど新田さんが(リッダ闘争について)仰っていたように、考えてみればちょうど1年目で、まだ言葉もよくできない、アラビア語も全くできない者が、当時6万人以上のメンバーシップを持つPFLPの作戦の秘密部門の何かにコミットする、またはできる条件はありません。ですから、突然に赤軍派だったということで、全部結びついていったんだなと、今になったら思います。ただ、国内の情報というのはあまり入っていなかったので、日本に帰ってきた逮捕されて、公判をやりながらいろんな資料を見る中で、「私はこういう自分として描かれていたんだな」と改めて思い至ったというのが現実です。

今日は、失礼なんですけれども、帽子とマスクでお話させていただきます。ここにおられるみなさんには、もちろん素顔を知っていただいていいんですけれども、映像を流す予定がありますので、日常生活を乱されたくない。いろんな形での嫌がらせもまだあります。ですから、その意味でネット上ではできるだけ顔を晒さないようにしておりますので、こんな形でお話することをお許しください。

パワーポイントの最初のページなんですけれども、この西瓜についてみなさんもうご存じだと思います。これは1967年の6月戦争の時に、イスラエルがパレスチナ全土を占領しました。その時に、これまであったパレスチナ西岸地区とガザ地区のパレスチナの歴史を教えることを禁じたんですね。それからパレスチナ国旗を掲げることを禁じたんです。そして占領されると、人間の内部まで踏み込むようなそういう状況の中で、パレスチナの人たちは国旗を掲げられない、でも西瓜は同じ色じゃないか。パレスチナの国旗と同じ黒、赤、緑、白色を持っている西瓜を我々のシンボルとして掲げようという形で、1967年の占領の後、ずっとこの西瓜を一つのシンボルとして掲げてきたんです。それで私もここにシンボルとして掲げました。

今、世界中の画像の中に西瓜がよく出てきます。それは何を表しているかと言ったら、「自治区と言いながら自治はどこにもないんだ。あの占領と全く同じ軍政の中にあるのと同じ状態にある」。そいう意味として抗議の一つとして、みんな西瓜を掲げています。それでまずここに記しました。

話は目次のこのような形で進行させたいんですけれども、時間厳守の中で運営委員会の方でも時間オーバーし、私も急ぎながら全体を伝えたいと思うんですけれども、不十分になるかもしれませんが、時間に合わせてパワーポイントを速く回していく時があると思います。それは資料に書いてあるところは飛ばすかもしれませんので、よろしく了解ください。

 

  • 始めに 山﨑博昭さんの闘った時代のこと

まず始めに、この山﨑君たちの闘い、当時私たちは抗議行動の中で山﨑君と呼んでいました。私の国際主義への飛躍は、やっぱりこの10・8から始まったんだなということをしみじみ感じています。

私たちは、当時社学同という部隊にいて、会場の中に昔の友達も来ておりますが、そういう社学同の人たちの隊列の中に私は参加したことを記憶しています。私もさきほどお話があったように、山﨑さんの死にさらに怒りを一歩進めた者として、(山﨑プロジェクトの)本に執筆しています。

私は大学3年生でした。その時、高速道路の上で、機動隊からはさみ討ちにあって、多くの人が頭を割られて血の匂いが充満するようなところにいました。通行止めになっていた高速道路に道路公団のマイクロバスが1台来たので、走って行ってその車を止めて、「怪我人がいるので乗せてください」と言ったら、私と同年配の若い運転手が機動隊に向かって「ひどいことをするな」と大声で言って、そして学生たちをマイクロバスに乗せるのを手伝ってくれたんです。それで「どこに行くんですか?」と言うので、「大きな病院だと警察に言うかもしれないので、どこか小さい病院に連れて行ってください」と言ったんですね。そうしたら「分かった分かった」と言って連れて行ってくれて、病院に行ったら年寄りの院長さんがいて、「今お金がないので、私がお茶の水(の明治大学)に行ってお金を取ってくるから、何とかみんな治療してください」と言ったんですね。そうしたら傷を見ながら「若いからまあ命は大丈夫だろう」と言って鷹揚に構えてくれて、そして道路公団の人が自分のポケットをあちこち探して、有り金を渡しながら「これを使ってください」と言うんですね。私が「お名前と住所をお願いします」と言ったら、「いやいや、一市民ということで。学生さんたち頑張れよ」と言ってくれたんです。その時はすごく「私たちは市民の支持を得て一緒にやっているんだな」という実感がしました。きっと山﨑博昭さんも同じような中にいたんだろうと思います。そしてお茶の水からタクシーを飛ばして病院に戻る途中、運転手さんが「今学生さんが一人殺されたとラジオで言ったよ」と教えてくれたんです。それで山﨑さんの死を初めて知りました。

そんな中であの時代、私たちは本当に信じていたんです。「世の中は必ず良く変わる。私たちが持てるだけの力を持って闘えば必ず勝てるんじゃないか」そんな思いで一緒に闘っていた、そんなことを思い出しながら、今日この席に立たせていただいています。そんな思いを持ってここに参加された方もいると思うので、これからもそんな機会にいろいろと当時のことを語り継ぐ大切さを、これからも実行していきたいと思っています。

 

  • パレスチナの現実

それを踏まえて、パレスチナの現実についてまず触れておきたいと思います。

強調したいのは、ガザからの決起というのは(2023年)10月7日に始まったのではないということなんです。これは長い長い間、イスラエルによるパレスチナ人に対する民族浄化。その中で、人々はもう我慢できない。それほど抑圧され差別されてきた中で起ちあがったということなんです。

 

グテーレス国連事務総長の発言をここに書いてありますけれども、これに対してイスラエルは即反応して辞任要求をしました。でも誰もそれは認めませんでした。国連ではイスラエルの蛮行に対して批判的です。これはイスラエルとハマースとの戦争ではないんです。ハマースとの戦争というのは、アメリカと西側、イスラエルの報道ではそう言われています。日本でもそうした報道が流れます。でも実際には、このパレスチナの闘いというのは、全ガザの解放勢力の人たちが決起して、何とか起ち上って、新しい希望を切り開こうとして戦ったんです。それに対してイスラエルが報復という形でジェノサイドを続けて、すでに10月7日から5月13日、5月15日がナクバの日なのでそれに合わせて数値が明らかにされました。これはスイスにある欧州地中海人権監視グループが集計したものですが、この中でどれだけ多くの人たちが殺されているかを知ることができると思います。

イスラエルは、まず学校と病院を徹底的に狙いました。そして多くの子どもたちが、電気やガスそういうものが無い中で生き延びることができなかったり、エジプトに移送されて助かった人もいます。ジャーナリストはすでに140何人殺されています。「殺すな」という形で、国境なきジャーナリストたちがいつも抗議を続けています。イスラエル国会は、4月にアルジャジーラを狙って、国家の安全に害を及ぼす報道機関に規制するという法案を確立して、5月5日には「ハマースの宣伝機関だ」ということでアルジャジーラの報道を禁止しました。そういうことがずっと続いています。

 

本当に「ナクバ」、これはイスラエルの1948年の弾圧に対して「ナクバ」と言っているんです。「ナクバ」とうのはアラビア語で「大厄災」とか「大惨事」を意味する民族浄化の経験のことを言っています。この「ナクバ」で占領された人たちは、本当に人権を奪われている。この現実について、あまりにも世界は見殺しにしてきた。パレスチナの人たちがいつも最前線で闘ってくれていたんだと改めて思いながら、今この話をしていきたいと思っています。

国際司法裁判所の判決では、南アフリカが提訴して、ジェノサイドの疑いということで、イスラエルに対してジェノサイドに関わるような行為を禁止するとしたりしましたが、イスラエルは全然話を聞いていません。そして、5月25日には、もう1度国際司法裁判所が軍事作戦の即時停止命令を(ガザ地区南部の)ラファに対して行ったんですね。(イスラエルは)それを逆に無視して、激しい戦闘を続けています。

 

  • ネタニヤフ政権の性格

 

ネタニヤフ政権の性格なんですけれども、これは国連で彼が演説した時の地図なんです。これから「新しい中東」をつくると言って示した地図の中にはパレスチナがないんです。ゴラン高原も併合してしまっているんです。ネタニヤフの構想の中には、これまで占領地とイスラエルという区別があったんですけれども、ネタニヤフは全部併合して行こうという意図が現在のネタニヤフ政権の中にあります。右派の「ユダヤの力」とか「宗教シオニスト党」とか、そういう人たちと政権を組んで右へ右へと行っていると言われていますけれども、むしろネタニヤフはその2つの政党を利用しながら政権を維持する以外、維持できないんです。イスラエル軍もちょうど2日か3日前に「ハマ-ス壊滅と言っても、ハマースはガザの人々の思想なんだ。だから砕くことはできない」と反論しているように、ネタニヤフと軍の間にも矛盾がでてきています。それからアメリカとも矛盾が出てきています。でも結局は、(国連安保理でも)アメリカは常にパレスチナの利害よりもイスラエルの方に拒否権を持ってずっと支援してきました。

 

  • パレスチナから見える世界 占領者と被占領者の二重基準

パレスチナから見える世界、私も向こうにいた時に思うんですけれども、日本から見える世界と全然違うんです。本当にアメリカの二重基準というものがはっきりしていて、これまでに(国連安保理で)50回以上の拒否権をイスラエルのために行ってきています。10月7日以降だけでも5回、停戦に対して拒否権を行使したり、パレスチナ国家を認めようという決議を採択しようとした時にも拒否権を発動して拒否しました。毎年38億ドルを(イスラエルに)援助し、この間の10月7日以降、バイデンは140億ドルの追加支援をすぐ発表しました。それから国務長官は「私はユダヤ人としてここに来た」と言うように、占領とそうした闘いのあり方を宗教問題に代えるような発言、それが最初から始まりで、結局は二重基準の中で語られています。

占領に抵抗しているウクライナの人たちが英雄ならば、76年以上もイスラエルの占領に抵抗しているパレスチナ人も英雄であり、テロリストではない。そのことを、もう一度声を大にして言っておきたいと思います。

 

  • シオニズムの登場

次に、現在のシオニズムの動向に対して、これまでどういう歴史の中でこういう問題が起きて来たのかという問題について触れていきたいと思います。

シオニズが台頭してきたのは19世紀(後半)です。19世紀初頭のユダヤ人口というのは250万人程で、その人たちはほとんど欧州の方に住んでいたんです。フランス革命によって自由・平等・友愛という形で皆自由を得たんですけれども、結局ユダヤ人に対する差別、キリストを殺したということでずっと差別が続いてきたんですけれども、そういう差別が全然消えない。そんな中でユダヤ人たちが自分たちの国を作ろうと、ちょうど国民国家が形成されていく過程で、シオニズムという運動が始まるんです。

シオニズムというのは、エルサレムのシオンの丘に帰る、つまりパレスチナにユダヤ人の故郷を再建する運動として、シオニズムが語られるようになったんですね。この命名をしたのはナータン・ビルンバウムという人なんですけれど、この人は後でテオドール・ヘルツルらの建国思想に反対して別れていくんですね。ヘルツルの本(『ユダヤ国家』)を読むと分かると思うんですけれども、ユダヤ人国家を作るというのは、イギリスとかヨーロパの文化と国益、帝国主義利益のために、野蛮の防波堤となる国を作るという意図で、この本の中でも「欧州のリーダーたちの許可を得て、我々は国を作る」と書いてあります。ビルンバウムという人は、ユダヤ人の思想は西側のイギリスとかそういう国と違う。ヘルツルはイディシュ語というユダヤ人の元々の言葉、汚い言葉を止めさせると言って、ヘブライ語(現代ヘブライ語)を建国の時に作っていくんですけれども、逆にビルンバウムはイディシュ語こそユダヤ人の言葉であり、ユダヤ人の文化であり、ユダヤ人は今いるところで文化を持って生きて行くことが大切だという形で、結局別れていきました。

まだ2人が仲良く新しい政治シオニズム運動を作っていったのは、1897年です。その頃、ポグロムだとか、いろんな形でロシアでも皇帝が殺された後発生したユダヤ人虐殺という形で、多くが西側に逃げてくるんですけれども、このシオニズム運動を作った人たちというのは、ほとんどが同化ユダヤ人なんです。宗教としてのユダヤというより、政治シオニズム運動として、イデオロギーとしてこの運動が始まった。この政治シオニズム運動の特徴というのは、やはり「選民思想」。他の民族よりも自分たちは優れている。自分たちの国を作る。それでパレスチナというのは誰もいないところ。そこに自分たちの国を作る。「土地なき民に民なき土地を」というスローガンの下に作っていくんですね。実際にはパレスチナには多くのパレスチナ人、アラブ人も住んでいたんですけれども、それを無視して入って行きます。

 

  • 第一次大戦時の英国の三枚舌外交

その頃、第一次大戦の始まる前に、イギリスが三枚舌外交といって、この辺を話し出すと時間が多く取られると思うんですけれども、「フセイン=マクマホン書簡」、これはアラブ人に独立を約束したんですね。それと「サイクス・ピコ秘密協定」、これも(第1の約束を破る形で)ロシアとフランスとイギリスの3ケ国によって(戦後のオスマン帝国を山分けするために)作ったものです。それからイギリスがシオニストと約束した「バルフォア宣言」。それは全部相互に矛盾するんです。特にアラブの独立の約束を裏切るような形で進んでいくんです。

この三枚舌外交の時の「サイクス・ピコ秘密協定」、このサイクスと言う人はイギリスの人で、三枚舌すべてを知ってやっているんですね。つまりイギリスの中ではシオニズムが非常に強い傾向にあった。ちょうどバルフォアが外相になる前のイギリスの内閣の中に、ハーバート・サミュエルという人がいるんです。この人のエピソードを語るとシオニズムがいかなるものか分かると思うんですけれども、この人はその前のアスキス政権の時には大臣をやっていたんです。その時に彼は閣議に提案するんですね。「野蛮に対する防波堤としてユダヤ人を300から400万人パレスチナに送り込んで、防波堤を築いたらどうか」と。アスキス首相がそれに賛成しなかったんです。その後の(ロイド・ジョージ)政権の中で、彼は今度は政権に誘われても入らないで、バルフォア外相がシオニストと話し合う時に、彼は内閣の閣僚だったのに、シオニストの代表としてバルフォア外相と会議をしています。(サイクスも英国代表として参加)

結局シオニスト側は「バルフォア宣言」を勝ち取っていくんですね。彼は「バルフォア宣言」を勝ち取った後に、第一次大戦が終わって「サン・レモ会議」で最終的にパレスチナをどうするか決める時に、ハーバート・サミュエルは「英国の委任統治」の名でパレスチナの利権を確保するんです。彼、ハーバート・サミュエルは高等弁務官、つまりパレスチナの最高権力者としてパレスチナに5年間住むんです。ですから彼は最初はイギリス人として閣僚だった。元々はポーランド系ユダヤ人なんですけれども、その家系の中で最初に閣僚になり、次にはシオニストとして「バルフォア宣言」を勝ち取り、その後には5年間、最初の一番大事な時に、パレスチナにユダヤ人国家の原型をつくる学校だとか兵站だとか、そういう下部構造を作っていくために活躍するんです。そういう人は、あまり表には出てこないんですけれども、そういう人たちがシオニストとして、ユダヤ資本の支援の中で、そういう形でずっと作られてきているんですね。ですからイギリスの委任統治に反対して、ずっとパレスチナ人は闘い続けます。

 

  • 第2次大戦後の世界とパレスチナ

その中で、イギリスは最初はユダヤ人の側に立ってパレスチナ人を弾圧するんですけれども、だんだん第二次大戦に近くなってくると、アラブの利権、特にイギリスがインド洋からアジアに抜ける利権が欲しいために、アラブ人と対立することを避ける。

そのために今度はアラブ側に有利な(外交白書)「37年白書」とか「39年白書」が出てくると、今度は第二次大戦の後にシオニストが二つの転換をするんですね。一つはイギリスが移民を禁止したということでイギリスに対する激しいテロを行うんです。そしてイギリスに代わる後ろ盾としてアメリカをシオニストの拠点にして、そしてアメリカを中心とするシオニズムの拠点を作っていくんですね。そして第二次大戦の中で、非常に多くのユダヤ人が殺されて、ホロコーストが起こったんです。それを実行した中にシオニストもいたんですね。第一次大戦から第二次大戦の間に、ナチスと組んだシオニストたちが、体の丈夫なユダヤ人はパレスチナに送って、「選別」する役をやっていたり、貿易したり、実際はそういう役割をシオニストはやっていた(ナチとシオニストの指導部のホワバラ秘密協定などの歴史文書がある)にもかかわらず、ホロコーストを利用して加害者のシオニストが被害者としてアメリカとかイギリスに働きかけて、パレスチナに国を作るように、これまでの力をもっと注ぐように進めるんですね。

本当は解決というのは、ユダヤ人が自分の住んでいた場所で謝罪を受け、賠償を受け、そこに故郷として暮らすのが一番いいはずなんですけれども、根本では「反ユダヤ主義」があるので、国づくりという形で、これまでイギリスの植民地だったパレスチナにユダヤ人を送り込んでいく。そういう過程があって、2つの国を作ろうという動きになっていくわけですね。

ソ連はそれまでずっとアラブ人たちの人民運動を支えたり、ユダヤの運動も支えてきたんですけれども、反ファッショ統一戦線でシオニストと組んだことによって、今度はシオニストに対する緩和政策を取って、単一国家ではなくて、今後分割するなら許可しましょうという(政策転換)ことになって、それまで一緒にやってきたアラブの共産主義者とか社会主義者は第二次大戦後大きな衝撃を受けながら行くんですね。

パレスチナ分割の試みがある中で、これも一つのエピソードで、あまり新聞などに書かれませんけれども、イスラエルのベングリオンは、のちの首相になるゴルダ・メイヤという女性をヨルダンのアブドゥッラー王のところに送って話をさせて、両者の間で、何とか国をパレスチナに作らせないで、イスラエルとヨルダンの間でパレスチナを山分けしましょうという密談をやっているんですね。それはイスラエルの学者たちが話しているので省略します。

  • パレスチナ分割 作為された決議

「作為された決議」がどんなものだったのかということがここに書いてあります。(国連決議によって)これまで全パレスチナの6%の土地しか持っていなかったユダヤ人が、56.5%近くを持った。それからアラブ人は94%の土地を持っていたのに、それが42%に減らされる。そいうことで、それを受け入れることができないということで、パレスチナ人、アラブ人たちが起ち上ろうとするんですけれども、その前にベングリオンたちはパレスチナ人の民族浄化を決議の直後から始めるんです。それはさきほどの表にもありましたように、ユダヤ人国家は人口が55万人になり、それでそこにアラブ人が40万人いたら、すぐに追い越されてユダヤ人国家はできない、アラブ人と拮抗した人口だということで、最初から民族浄化によってパレスチナ人を追放するということ1947年の段階で決めていたということは、イラン・パペというイスラエル人の歴史学者の資料の中にもよく表れています。この辺のところは後で資料を読んでください。

 

  • パレスチナ解放勢力の登場

そしてパレスチナ解放勢力が登場します。パレスチナ解放勢力は、第三次中東戦争(1967年)で敗北したことに大変衝撃を受けて、アラブ国家に任せておくのではなくて、自分たちの力でパレスチナを解放しようということで起ち上がりました。新しく民族憲章も決議し直して、1968年に「武装闘争によってパレスチナを解放する」という決議をして、それから武装闘争を激化させていきます。その中に「リッダ闘争」とか「ミュンヘン・オリンピックに対する襲撃」とかありました。そのことによって、ソ連東欧非同盟諸国ばかりでは無くヨーロッパの社民勢力の政権の指導者たちは「かつてパレスチナを2つに分けたのではなかったのか。何故イスラエルだけなのか。何故パレスチナ国家は無いのか。もう一度パレスチナ国家を考えよう」という機運が起こって来て、そして1974年にアラファトを国連に招くような時代になるんですね。アラファトが登場してレバノン内戦もありましたけれども、ずっと闘いが続き、国際的に認知されていくパレスチナというのが生まれてくるんです。

 

  • イスラエルのベイルート侵攻 PLO追放

それを妨害するためにイスラエルがベイルートを侵略して、ベイルートからPLOを撤退させます。この時、私たちもちょうど(ベイルートに)いたんですけれども、闘いの中で包囲されながら、結局皆船で分散していくんですけれども、この年の(サッカー)ワールドカップはイタリアが結局優勝したんですけれども、イタリアチームが「もしも我々が勝ったら、パレスチナに連帯してこの優勝カップをあげる」と言ったんですね。そして実際にサッカーで優勝して、その時にはもう爆弾が降る中で、爆弾の煙のためにあの青空の地中海が真っ黒になって暗くなった中で、みんな「ブラボー」と言って起ち上って、そのワールドカップの優勝を祝ったんですね。イタリアチームは、ちゃんとPLOイタリア事務所に優勝カップを持って行きました。そういうような、みんなが闘いの中で大喜びする場面もありましたけれども、とにかく(レバノンから)追い出されちゃったんです。

その前にもイラン革命があったし、こういうパレスチナの新しい状況の中で転換を求められて、そして和平会議に進んでいきます。この辺も資料を読んでください。

 

  • 第1次インティファーダ勃発

それから分裂がパレスチナの中にあったんですけれども、1987年の12月に第一次インティファーダ、これはパレスチナ人に対する交通事故処理が出鱈目だと、イスラエルの人だけを保護処理してパレスチナ人を置き去りにしているということで、全土的な抗議の運動として始まりました。これは10年近くずっと続く蜂起なんです、二重権力状態のように。この最初から、ハマースというのが出てきます。ハマースというのはイスラームの宗教団体の社会福祉組織だったムスリム同胞団の中から、実力部隊として登場してきます。

 

  • パレスチナ独立国家の宣言

1988年にパレスチナの独立国家の宣言というのが行われます。これはインティファーダの力が作ったものなんですけれども、この時、パレスチナの人たちと一緒に第19回PNC(パレスチナナ民族評議会)にオブザーバーですけど私たちも参加しました。その中で大論争があるんです。「このままパレスチナが見捨てられていくのであれば、22%の土地の中にパレスチナ(国家)を作るのでもいいのではないか」というのと「全土解放」、この論争がずっと続くんですね。この資料に書いてあるように、パレスチナというのは1947年の国連決議181号によって分割されたけれど、結局パレスチナ、アラブ人に対してそれは歴史的な不正だ、許せない。にもかかわらず、そこにしか自分たちの法的、国際的根拠がない。だから我々はこの国連決議181号を大切にしよう。(こうした論争を経て多数決でアラファト提案の22%でも建国を進める案が採択された。しかし左派はその路線を承認していない。)左派の間で私たちも一緒に話をしたんですけれども、その時に決めたのは、基本はシオニズムをなくすこと、人種差別主義をなくすこと、そのためには22%であれ何%であれ、イスラエルの中のユダヤ人と共同してシオニズムをなくし、パレスチナの占領に闘う、それが一つになって初めて中東地域に平和が訪れる、そのような戦略として考えていこうじゃないか、と変わっていくんですね。

 

  • オスロ秘密合意 パレスチナ解放闘争の転換

その後、ソ連、東欧が崩壊してパレスチナは厳しくなりました。ソ連邦から流入したイスラエルへのユダヤ人の移民、それが占領地を中心に100万人以上押し寄せてくるんですね。それによって非常に厳しい状態になりました。それまでソ連、東欧によって助けられていたパレスチナ人は非常に厳しい状況になります。

マドリッド和平会議(米ブッシュ政権主導の中東和平国際会議)が始まり、(その正式の動きとは別にオスロ秘密合意が進行していきました。この合意というのも、勝手にアラファトが秘密に交渉して、インティファ-ダを終わらせることを条件に、PLOを認めさせるというような内容で、5年後には最終的にパレスチナをどうするかを決めましょうという内容です。ですから1993年から5年、1998年で終わるはずの話が今もずっと続いているんですよね。つまり何の解決もしないまま来た。「オスロ合意」によって、多くのパレスチナ人は分断されることになった。そういうような状態の中で、パレスチナでの役割というものをPLOが転換していったんです。これまではPLOは解放組織でしたが、行政統治機構として、エドワード・サイード(パレスチナ系アメリカ人の文学者)の言葉を借りれば「PLOは民族解放運動から田舎の町役場に変わってしまったが、命令しているのは、相変わらず一握りの人たちだ」と彼は非常に怒って批判していました。

 

  • 第2次インティファーダからハマースの勝利へ

そこでもう一度第2次インティファーダという形で、イスラエルの暴虐(オスロ合意を壊すために右派リクードのシャロンが軍靴で1000人の護衛を連れて神聖なアルアクサーモスクに立ち入ったこと)に対して闘います。その後にアラファトが殺されるような事態になっていくんですけれども、アラファトが死んだ後で、結局ファタハの腐敗、それからイスラエルが「オスロ合意」を実行させないようにしている結果として、当初の労働党ではなくてネタニヤフらの組織が政権を握ったこともありますが、ハマースに対する信頼、絶対に妥協しないという闘い方がハマースの勝利を生んでいったんですね。それでハマースが権力を取りました。ハマースを支持した人たちはガザだけではないんです。この地図を見ていただければ分かるように、西岸地区のグリーンのところがハマース支持勢力です。

トランプ政権を経て、50年後のナクバの年の土地の日に、3月30日からパレスチナへの祖国帰還ということでリターン・マーチというのをやるんですね。この人たちが、去年の10・7の行動に決起した人たちで、これはパレスチナ解放勢力のほぼ全ての勢力を参加させています。

  • イスラエルによる虐待

イスラエルによる虐待については、占領による虐待、拘束による虐待、女性への虐待、これらは全て資料に書いてあるので読んでください。今の拘束状況は9,500人。裁判もなく、理由もなく、逮捕状もない拘束者が3,660人もいます。「行政拘留」という形でやられています。女性たちについても資料に書いてあるとおりです。

 

 

  • イスラエルから武器を買うな

そういうところから、パレスチナに対するイスラエルの行動に対して、今「パレスチナに平和を」という声をもっと上げていこうじゃないかと、世界中の各大学でも起こっていて、それはイスラエルの商品を買わない運動にまで発展しています。日本では、この表にあるようにイスラエルの武器、これは防衛省が1月に購入を決めて、こういう落札が1円とかありますが、これは7つのうち5つがイスラエルの武器なんですけれども、国際司法裁判所がイスラエルに対し虐殺を止めるための暫定措置命令出している中で、日本の防衛省はこういう行動を起こしているんですね。国際司法裁判所の決議というのは、国連に加盟したどの国も守る義務があるんです。そいうところが何の説明もなしに、こうした形でどんどん日本が進んでいるのが実情なんです。

 

 

  • 国際連帯運動 BDS運動

それに対して国際連帯運動として広く行われているのはBDS運動、イスラエルの占領地(入植地)の製品をボイコットする、投資引き揚げ、制裁する。この運動が世界的に広がって、EUではEU議会執行部が全体に対して情宣して、実際に(BDS運動を)守るように運動をしていました。けれど、2015年に安倍首相がイスラエルに行った時に、新聞のインタビューで「BDS運動をどう思いますか」と聞かれて「我が国はそういう差別はやりません」と答えて、アメリカと同じような路線を示して、安倍首相になってから、いかに日本がBDS運動を始めとするパレスチナの運動に対する敵対的な関係に変わっていったかということがよく分かるような状態でした。

 

  • シオニズムイデオロギーがある限りパレスチナに平和はない

そして今後のパレスチナですが、ネタニヤフが今後どうなるかというのが一つあります。ネタニヤフが実際にどこからも追い落されようとしているけれども、彼はずっと権力を維持するために右派と組んで進もうとしています。彼らの基本的な考え方は、何千年も前に、これはただの神話にすぎないんですけれども、パレスチナはユダヤ人の土地だったということで、全部奪い返そうということで、パレスチナ人なんてアラブ人の一部じゃないか、出て行ったらいいんだ、という考えなんですね。それは前に国を作った労働党のベングリオンという人も同じような考えで、最初に彼は二十歳でポーランドのユダヤ人移民としてパレスチナに入ってくるんですね。その時に行動するのは、全部パレスチナ人とかアラブ人を組合とかそういうところから追い出すんです。ユダヤ人だけの組合を作っていくんです。その論理の根本は、パレスチナに住んでいるアラブ人は民族でもないし、国民でもないし、隣のアラブの国々に行ったらいいのであって、パレスチナで民族として生きている理由はないんだというのが一方的な彼らの論理で、それで国を作ろうとしてきて、それは歴史的に「修正シオニズム」と言われた大ユダヤ主義と言われるジャポティンスキーと、進歩的と言われた労働党のベングリオンも根本は同じなんです。シオニズムイデオロギーがある限り、パレスチナに平和はないし、中東にも平和は訪れてこないんです。

ですから、パレスチナの人たちが、私たちが振り返れば、歴史的に75年以上、本当に自分たちの「血と命」でずっと世界の最前線の闘いを強いられてきていたんだなと、振り返ると思います。

 

  • イスラエルは占領地からの撤退を

私たちはパレスチナの命を懸けた闘いの助けによって、逆に今日本で何をすべきか、私たちが今問われているんじゃないかと思うんですね。パレスチナの命がけの闘いに助けられているのが私たちだ。私たちはパレスチナのBDS運動ばかりか、日本の軍国主義的な軍拡路線が結びついてドローンの購入に至る一つの流れなんですね。だから他人ごとではない。パレスチナ問題というのは他人ごとではなくて、自分の身近な状態の中にあるんだ。今この時代こそ、中東のパレスチナを新しく作り替えていく闘いの中に、日本もそういう形で関わる必要がある。そのためには、何よりもイスラエルの占領地からの撤退、このことなしに始まらないんです。占領がある限り、パレスチナ人たちは自分たちの土地、自分たちの生存を取り戻す、人間の尊厳を掛けて闘い続けざるを得ないんです。

パレスチナ人の民族自決、これを認めていくこと。そして難民問題の解決。当時は75万人でしたけれど、今では600万人を超えています。当時の人たちの孫や子供たち、その人たちがまだ難民のような生活を強いられています。ガザの人たちは75%がその難民の人たちなんです。何度も何度も苦しみの中に生きてきて、そして今も殺されようとしている。

 

  • 日本はパレスチナ国家の承認を

その中で声を上げるのは「日本はパレスチナ国家を承認すべきだ」、これが一つの基本なんですね。何故かと言うと、すでに国連加盟193か国のうち141か国がパレスチナを国として認めています。国連安保理決議で、アメリカがパレスチナの国連への正式加盟の勧告を求めた決議案に対して反対したことによって拒否されました。それで、それに怒って総会にもう1度パレスチナの国家としての承認を求めて、143か国が賛成して、それは決議されたんです。でも決議されても拘束力がないんですね。だけど、143か国がもう一度決議してくれと申請しているんですね。世界の国々はそれに動かされて、西側と言われたいくつかの国々、スペインだとかノルウエーだとか、そういう国の人たちが、パレスチナを国家として認めようと動き出しました。フランスのマクロン大統領までが「パレスチナを国家として認める段階にきている」みたいな発言をしています。日本は、その時総会でも安保理決議でも、パレスチナ国家への承認を賛成しているんです。にも拘わらず、パレスチナ国家を承認しようとしません。それはいつものように、アメリカの政策に引きずられる日本の姿なんです。日本はこのままアメリカの機嫌を取っていればどうなるか、50年後を考えたら分かると思うんです。100年後を考えたら分かると思うんです。

 

  • 日本の中にパレスチナに連帯する素材がいっぱいある

今世界は資本主義の一極の時代ではなくて、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)が動いているように、そしてグロ-バル・サウスと言われる国々が発言しているのは、「これまでは西側がルールを決めたかもしれないけれど、これからは我々が決める番だ」と言っています。そんな中で日本が今までのようにアメリカに付いていけば付いていくほど、日本は核と戦争の最前線に立ってしまうんですね。そうではなくて、日本は本当にアジアの一国として、そしてアジアの人々と仲良くするような、新しい日本、新しいやり方、それができないわけではないんです。日本には憲法があって、それを実現する支えになっているんです。ですから、そこに立ち返って考えていくことこそが、本当に日本を新しく、次の世紀に繋げていける姿になると思うんです。

「パレスチナに平和を」と望めば望むほど、パレスチナ国家の承認、それから日本の中にあるイスラエルの姿、世界第二位の産業用ロボット生産の日本企業ファナック社のロボットがイスラエルで使われてパレスチナの人たちを殺している。兵器を作る軍需企業に置かれて使われている。それに対して、ファナックに抗議の質問状を送ったんですけれども、彼らは「我々はそんなことをしていない。5年間イスラエルと取引はない」と言うんですが、実際にテルアビブに事務所もあるんです。そういういろんな形で、日本の中にパレスチナに連帯すべき素材がいっぱいあります。身近な問題として、大阪では万博があります。万博は私も賛成ではありません。だけれども、万博の中でイスラエルが招聘されています。イスラエルが展示会場を作ろうとしています。それに対しても反対していく、そのような形で新しい動き、新しい進歩というものを、沖縄問題とか反戦運動、今ここの人たちが活動してる本当に戦争を終わらせるんだという、そういう闘いと結びつけながら、私たちはパレスチナの人たちに助けられながら、一緒に国際主義、国際連帯を作っていけるのではないか、と思っています。

「今こそイスラエルの占領に制裁を」。これは若い人たちがいろんな形で活動しています。そして大阪万博の開催に反対し、長崎市は原爆記念日の招待状をイスラエルに出さなかったんです。広島市は出しました。いろんな形でイスラエルを、戦争であんなことをしているのであれば許さないというアプローチ、それがもっともっと必要になってきていると思います。

 

最後にこの写真は、ネタニヤフに戦争を止めろという動きがテルアビブの中で6月17日に起こっています。山﨑さんが生きていたら一緒に闘っているに違いない、そういう思いで私はこの絵を見ながら、そして今日の挨拶をしながら考えました。

今日はご清聴ありがとございました。

 

 

  • 質問への回答

 

30分という時間の範囲内で、お答えできなかった質問については、事務局の方と相談して、可能であれば山﨑プロジェクトのWebサイトに回答の続きを出したいと思っています。

今、立て看の非常にすばらしい活動についてお話いただいたので、一言付け加えます。明日、明大OBの立て看支援連帯行動があります。私はそれに行く予定だったんですけれど、断ってこちらに来ました。2回目も必ず7月にやることになりました。みんなで長い横断幕を持って明大立て看同好会を支援するという形でスタンディングをやる。横断幕スタンディング、立て看支援、立て看は文化であり表現の自由だ、ということを訴えてやろうとしています。連帯します。(拍手)

質問が多いので、選ばないで順番に上から見ていきたいと思います。全部読み上げながら、簡単に答えたいと思います。

 

<質問1>北村さま

重信さんが行かれた当時のPFLPの活動の基盤を成す思想は、イスラームの考えとどのように整合、あるいは不整合、つまりどのような関係にあったのでしょうか。もちろん重信さんから見て。異教徒による抑圧に抗するジハードと帝国主義への対抗は、必ずしも全面的にパラレルではないと思えるのですが。このような関係は日本赤軍についても知りたいところです。

PS:イスラミック・ステートをどう思いますか。

<回答>

1971年に私が行った当時は、イスラームというのがあまり見えなかったんです。実際にイスラーム運動というのが起こるのが、イランの革命があった1979年なんですね。私が行った時代は「アラブ民族主義」。これはナセルたちが反帝、反植民地、アラブの大義を目指す、そういう国民国家を形成していく中で、第三世界では植民地に対する対応という形で独立運動が盛んになっていたのが1950年代、60年代で、私が行った1971年は「アラブ民族主義」が主流を占めていたのです。私が行った時にキャンプに行くと、お爺さんたちが数珠ですね。自分の奪われた祖国のオリーブの実の種から数珠を作って、その数珠を繰りながらイスラームの話をするんですね。そういうような形でイスラーム文化というのは見えていたんです。アザーンと言って、モスクからは祈りの呼びかけが聞こえるとか、そういうのはありましたけれど、実際に(解放闘争の政治に)イスラームというのが見える形で私の中には入ってこなかったんです。

PFLPの活動というのは、マルクス・レーニン主義で、比較的イスラームを批判してマルクス・レーニン主義的な活動をしていましたけれど、社会そのものはやはりイスラーム社会ですから、実際には冠婚葬祭とかそういうところではイスラーム方式でやっていて、理念がマルクス主義という関係だったのではないかと思います。

「ジハードと帝国主義への対抗は、必ずしも全面的にパラレルではないと思える」ということですが、イスラームのいいところは神の前で平等という概念なんですね。ですから不正に対しては非常に強い闘いの意志を表明するんです。ですから、権力者も平等とかそういういうことを意識せざるを得ない。王様でも喜捨で他に施す、そういう形でやらざるを得ない。

ハマースの母体になっていたムスリム同胞団というのが、初めて政治運動、権力を取る運動として宗教、イスラーム運動を始めていったということがあります。

ですからイラン革命が起こった後に、そういう力が非常に増大していって、特にアフガニスタンで共産主義に反対するイスラーム戦士というのをアメリカのCIAなどが支援してソ連に対抗させるんですけれども、闘いが終結した時に、戻って来たイスラーム勢力が各国で政治運動として、アルジェリアなどが典型ですが、国が内戦状態になる。これまでの「アラブ民族主義」の政権と、イスラーム勢力の対立が激しくなったのがあります。

イスラミック・ステートはISのことだと思いますが、この勢力は、やはりアメリカだとか、「アラブの春」を経てあまりにもひどい歪曲が続いた。その中でイスラームの理想、16世紀とか17世紀又は7世紀以降の当時のモラルとか、そういうものでまとめようとする動きとして最初は非常に活発になりました。最後には始末に負えないほど大きくなったものを、アメリカなどが抑圧していくことになりましたけれども、やはりそれはそれまでの植民地支配の歪んだ姿が、結局、一般的な国民国家としてうまく形成できないところで、そういうイスラーム勢力がいろんな形で登場してきた一つの形だったんだろうと思います。

 

<質問2>石川さま

実際にパレスチナに住まれた経験から、パレスチナ問題の最終的な解決方法はいかにあるべきとお考えですか?パレスチ人とユダヤ人の共存は可能ですか?

<回答>

この質問に対しては、パレスチナ人とユダヤ人の共存は可能なんです。それから実際にパレスチナの側が出していたのは、「パレスチナ民主国家の建設」という形で、ユダヤ人もパレスチナ人も同じ国民、市民として一緒に暮らそうと、そういう立場だったんです。

私が行った頃は、まだ68年にPLOが転換して出来た勢いのいい時でしたけれど、その時はシオニズムに反対するユダヤ人が、私がいたレバノンのベイルートにも多くいました。そしてみんなで何としても一緒に一つの国を作ろう、そういうような反シオニズムのユダヤ人が多くいたんですね。

それからシオニズムが登場してきた時にも、シオニズムに反対する勢力の方が大きかったんです。その頃には、レーニンたちのロシア社会民主党などと一緒になるユダヤ人のブントという組織があったんですけど、その人たちの方が勢力が強くて、このブントの人たちは、「文化的分離」と言っていましたけれど、領土としての国を作ることには反対していたんです。ですからシオニズムとは対立してきたんですけれども、ワルシャワ蜂起の時に、ユダヤ人の蜂起とその後の市民の蜂起の2つあるんですけれども、ユダヤ人蜂起の時に戦ったのはブントの人たちで、その人たちは絶滅、殺されていくんですね。シオニストはちょうどアメリカの方に新しい拠点を作って活動していて、ベングリオンとかそういう人たちがヘゲモニーを持っていく。第二次大戦の間に力関係が変わって、シオニズムが大きな力を持っていったんですね。それでも私が行った時代には、まだユダヤ人たちがシオニズムに反対する、そういう運動がありました。今も、そういう運動がもう一度シオニズムをユダヤ人自身が阻止していく、「私たちの名前で語るな」ということで、ネタニヤフに反対する運動が出てきています。

パレスチナ人とユダヤ人の共存は可能なんです。実際にそれを拒否しているのは宗教ではなくて、シオニズムというイデオロギーです。政治運動として人種差別主義です。これは1975年の11月だったと思いますが、国連総会で「シオニズムは人種差別主義である」という非難決議を取ったんです。でも1991年に、ソ連が崩壊していく過程で、アメリカが中東和平会議交渉をやった時に、国連総会に「シオニズム非難決議の撤回決議」を出すんですね。その時にはソ連とか東欧が崩壊してしまって、アメリカの資本の下で再生しようとしている時代でしたから、一応迎合してみんな賛成したので、シオニズム非難決議というのはなくなってしまったんですね。そういうプロセスはありますけれど、人々の中には同じ記憶として残っています。

 

<質問3>釜ヶ崎労組組合員さま

残りの人生も力強く、私たちの希望であるように頑張ってください。

<回答>

ありがとうございます。頑張ります。

 

<質問4>橋詰さま

坂東国男を防衛する闘いはどのようになっていますか?もしも重信さんがイスラエルに入国した場合は軍事裁判になるのでしょうか?

<回答>

坂東国男さんについては私も知りませんし、私が知ること自身が彼らを危険にすると思って、私は一切か関わらないようにしています。きっとどこかで、いつものように人々のために活動しているはずだと思います。

そして、私がイスラエルに入国した場合以前に、パスポートが出ないんです。ですから行けないんです。残念ですけれど。

<質問5>川上さま

パレスチナの人々との共存を願うイスラエル人は、人口のどの程度の割合で存在するのでしょうか?ここで共存というのは、素朴な意味でお互いを尊重し合いつつ生きるという意味で、例えばラビンの存在と意味合いは、現在のイスラエルではどのような意味と重みを有するのか。余計なことですが、私は遠山美枝子さんの2年後輩です。

<回答>

質問の「共存を願うイスラエル人は人口のどの程度の割合で存在するのでしょうか?」について、私が行った時代には共存派がすごく多かったんですね。労働党のラビンという人は1995年に「オスロ合意」をやった後に、ユダヤ人の右派によって暗殺されるんですね。平和集会をやった直後に大衆の面前で射殺されるんですけれども、その頃には「二つの国を作る」というラビンの考え、私たち左派というかパレスチナ側から見るともちろん異議はあるんですけれども、二つの国を作るという意思、それは分離することによってユダヤ人の純血を守るという意図があるんですけれども、二つの国を作るというのはありましたね。

それが共存、一緒に住むことが出来なくなっているのは、非常に大きな洗脳があるんですね。今のネタニヤフ政権になって、資料などを読むと、ラビ(ユダヤ教の聖職者)自身が教義として、「ガザの全人口を殺害すべきだ」という発言をするんですね。すると生徒が、「先生それは女性とか子供はどうなるんですか」という質問に対して、「全部皆殺しだ」と言う、こういうラビがいるんですね。

前までは分断する壁がなかったから、パレスチナ人もユダヤ人も行き来は出来たんです、労働力としてイスラエルに行くとか、いろんな形で。そしてユダヤ人の方もパレスチナ人の悲惨な状況というのは目に見えていたんです。その中から共存を目指そうとか、一緒にやろういう勢力がいっぱい育っていたんですね。だけど壁を作ってしまった以降は、パレスチナの現実は見えないんです。ですから幻想の世界なんですね。ですから本当に悪い、人間以下の人間たちが住んでいる、だから人間として扱わない。昔、アメリカがインディアンを殺したように、本当に人間ではないんですね。だから何をしてもいいという形で、そういうような教育をずっと受けて、ホロコーストのあの悲劇を我々はまたパレスチナ人から受けるんだ、殺さなければ殺される。そういうような非常に偏った思想を洗脳してきているので、昔と全く違って、非常に殺戮などが正当化されているということにおいて、共存の割合は非常に低くなっています。むしろ、アメリカにいるユダヤ人の方が共存を望んでいるという姿になっています。

 

<質問6>山口さま

かつてアラブに向かった若き頃の重信さんと、その後日本へ戻り、獄中生活を経て来た現在の重信さんとの違い、思想面、世界観、運動論は何でしょうか?

<回答>

私は左翼運動の中で、あれ(10・8羽田闘争)が最初の実力闘争だったんですね。自己防衛というか防衛しながら起ち上るという形で10・8型の実力闘争が始まりました。その後は攻防の弁証法というか、権力の側は大きなお金を使って楯を大きく作ったり、装備を良くしたけれど、学生の側は石とゲバ棒しか持てない。その中で「武装する」という声が大きくなって、武装闘争に関わっていくんですけれども、その頃の私なんかの考えとして、世界が今ゲバラも闘い、山﨑君とゲバラが結びついて私たちの考えができました。ですからアメリカでの武装闘争があり、ゲバラが死に、山﨑君が死に、こういう時代にあって、我々は武装闘争抜きに勝つことはできないという形で、党がまず武装すること、党の武装が国際的な連帯に与することのできる組織、党派をつくるということで赤軍派が党の武装という問題で登場するんですね。

だけど今から考えると、武装闘争を自己目的化した組織だったんです。ですから、どういう社会を創るかとか、そういう発想が乏しくて、世界革命をやるのに一国革命の話をしている場合じゃないということで、国内問題について非常に内容が乏しかったんです。

それで向こうに行って初めて武装闘争というのを現実に見て、「あれ?武装闘争って人民がやるものだ」ということを理解したんですね。人民に支えられ、自分の息子、娘を戦場に又は戦士として送り出すことに非常に誇りを持って、私の息子はフェダーイン、フェダーインというのは犠牲を厭わない者たちという意味なんですけれども、息子を出しているという誇りを持っている。振り返った時に、私の後ろに武装闘争をやった時にどういう人たちが来たかといったら、逆に共感してくれた人たちを逮捕させるような自供があったりとか、本当に人民のためにならないことを自覚できなかった自分、そこで「闘うためには自分を変えることなしに世界は変えられない」ということを初めて愕然と気が付きました。

それから1970年代、パレスチナの中で闘いながら、70年代後半になって武装闘争の在り方というのを反省しながら、80年代はずっと民主主義路線(民主主義を徹底化させる)というので行くんですけれども、国内では全然聞こえていなくて、私たちは77年に自己批判を提起し、大きな声を出したはずなんですけれども、それは人々に伝わっていなかったというのを、裁判をやりながら自覚したんです。そういう中で、考え方というのは70年代後半から80年代にかけて、日本の新左翼運動の総括だとか、そういうことを一生懸命やりながら、もう1回捉え返して、人々の役に立つ闘い方というのは一体何なのかというところから考え直し、そして、「自分たちの力は権力より小さいから、少々のことはしょうがないんだ」みたいな考えでやってはいけないんだ、これからはハイジャックとか、人民に迷惑又は被害を与える活動はやめようというのを、78年から79年にかけて決めて、77年の自己批判の中から、考え方がとても変わりました。

そして獄中にいる中で、本当にパレスチナ問題が日本では全く伝わっていない。私たち自身の闘い方が逆にパレスチナを遠ざけているな、という自己批判もありました。

そうした中で考え方の変化というのは、武装闘争というのは、権力との攻防の中で権力が武装して弾圧してくる、それの防衛として戦わざるを得ない、そういう時はパレスチナのように武装闘争があるし、支持するし、そういう闘い方は有効だと思います。

ただ、日本でそういう闘い方がかつてあったけれども、全然人々のためにもならなかったという反省としてあります。

 

<質問7>望月さま

結局どうしたいのか。パレスチナとイスラエルの両国家存立か、イスラエル粉砕、ユダヤ人絶滅がいいのか。国連決議はすでに機能していない。どう国連決議を実効性のあるものにするのか。新しい秩序構想などお持ちだろうか。

<回答>

「結局どうしたいのか」と言ったら、共存するという状況を創り出していく以外にないんですね。それはたぶん一つの国だろうと思います。パレスチナはパレスチナ国家を作るだろうし、イスラエルはイスラエルと言いますけれど、二つであっても一つであっても、私はとにかくシオニズムという差別思想、差別勢力が権力を取っている現実を変えること、民主的な、本当の意味で共存を可能とするような勢力が権力を取るような構造を、イスラエルであれパレスチナの側であれ、それを作っていけるような状態を作らなければいけない。

「国連決議はすでに機能していない」。機能させていないのはアメリカなんです。アメリカが国連決議を無視してイスラエルをずっと擁護してきた。その結果が現在のジェノサイドにまで繋がっている。そういう秩序というものを変えていくためには、今アメリカ内の闘いが少し盛り上がっていますが、そういう各国での人々の闘いが規定要因なんですよね。パレスチナもそうだし日本だってそうだし、アメリカだって。そういうアメリカの政策を変えていく、あまりにも大きなユダヤ資本の力によって、イスラエルロビーが(アメリカ政治を)本当に牛耳っているんですよね。それを少しでも変えていくようなことによってしか、国連決議の機能というのは現実的になっていかない。アメリカの方が逆に国連決議が邪魔しているということで、国連の決議を実行しないために、G7だとかそういう機関で決めるように再編しようと、ずっとしてきたんですよね。ですけど、国連決議、総会に最大の力を返してあげるような、それこそ国連改革が必要ではないかと思っています。

 

<質問8>揚田さま

英国は三枚舌の責任を取り、大ブリテン島内にイスラエル国を作ればよろしいのだ。

<回答>

それも1案だと思いますが、実現性はすごく難しいと思います。

 

<質問9>鈴木さま

PFLPのその後と、現状パレスチナ自治政府の批評を。

<回答>

PFLPは、これまでハマースと自治政府の対立を何とか解消しようとイニシアチブを取っています。PFLPは第三勢力としてまだ残っています。ハマースはPLOの外なんです。PFLPはハマースをPLOの中に入れようとし、自治政府は邪魔だから入ってくるなと思っているんですけれども、パレスチナ人の全人民の代表がPLOなんだから、ハマースも入れるべきだ。ハマースは(PLOに入らないと)フリーハンドなんですよね。ですからPLOの中にハマースも入れて、みんなで統一した意見を作ろうというのがPFLPで、私はそれが一番現実にかなったあり方だと思っています。

自治政府がうまくやれないのは、もちろん自治政府が腐敗し、何の力にもならなくて、パレスチナ人を弾圧してイスラエルの手先みたいになっているんですけれども、これは「オスロ合意」の束縛なんですね。その上「オスロ合意」を実行しないのはイスラエルなんです。「オスロ合意」の中に、合意したことしかやってはいけないという規定があるんです。ですから、それによって彼ら自治政府は動きが取れない。それが人々から見たらどうしようもない政府だと思われている現実で、それは占領に対する闘いという点では、政治的であったり軍事的であったり違いはありますけれど、共同した同じような考えを持っていると思います。

 

以下は、当日時間切れのため会場では回答できなかった分を,後日文書にて回答いただいたものです。(事務局)

 

私の話をよく聞いて下さり質問くださってありがとうございます。以下に順番に回答いたします。

 

<質問10>岡田光司さま

「レジュメの1ページ目にどんな戦争下でも武器を持たない人の命を奪うことは許されないとありました。であるならば、昨年10月7日のハマースの攻撃も、武器を持たない民間人を殺して許されない攻撃になるのではないでしょうか。それ以前に歴史的背景があったとしても。もちろん私はイスラエルのジェノサイドに抗う立場です」

<回答>

「もちろんそうです。私も武器を持たない民間人を巻き込んで殺すべきではないと思っています。2つの点で、それに関してこの10月7日について考えています。1つはまず前提としてハマースの攻撃ではなく、パレスチナ解放勢力全員の意思であり、全体の攻撃だと言う点です。第二にこのデータが果たしてパレスチナ解放勢力が殺害したという情報が正しいのか?ということです。これはイスラエルの発表で出されているものですが、アラブ側の情報によるとハマースら武装勢力は整然としていて、主に兵士たちを狙ったということです。もちろん犠牲者もあったでしょう。

イスラエルの報道ですら、慌てたイスラエル兵がめちゃくちゃに交戦したために犠牲者が多く出た、特に音楽祭の場ではそうだったという現場で生き残ったユダヤ人たちの証言が出されています。この情報はハーレツなどのイスラエルの新聞によっています。

後に調査され,より正確に発表されるでしょう。リッダ闘争と同じように、これも交戦を一方的にハマースと言う形で断罪していると言う点を見逃すことができません。またもう一つの点は、パレスチナ側から見るとこれは何百倍も殺され、傷つけられた民間人の犠牲に対する報復という立場からの奇襲作戦の1つに過ぎません。ナクバの時からイスラエルはむしろ民間人をターゲットとすることで恐怖を作り出し服従を強いてきました。ですから占領者イスラエルのジェノサイドと、国際法、国際決議で認められてきた抵抗権を行使する占領されたパレスチナ人を同列に扱ってハマースが悪いと言う事は言えないと言う立場です。民間人に犠牲者を出した点はもちろん私も賛成ではありませんが、パレスチナ解放勢力のこの決断と奇襲攻撃の勇気をまず称えています」

 

<質問11> Swing MASAさま

「パレスチナの方々にとって女性解放を語れる余裕は無いのかもしれないですが、普通の暮らしが取り戻せるまで私もガザ緊急アクションで頑張りたいと思います。住んでいらっしゃった当時の女性解放はどんな状況でしたか?」

<回答> 「歴史的にアラブの伝統と文化の中で根付いてきた発展段階の中で、まだまだ封建的側面はありました。(日本だって封建的家父長制が今もあるように)その中で、パレスチナ解放・民主国家を目指す主体であるパレスチナ人たちは、他のどのアラブ諸国よりも女性解放が実現されている場でもありました。当時PLOはアラブの人々の羅針盤のような位置であり、誇りでもありました。特にイスラエルの弾圧の中で女性が戦い解放を求める事は、二重の戦いでもありましたが、家族単位の文化社会の中で、女性が創造性を持ってリーダーシップを取る家族が多かったのには驚かされました。それほど女性は戦いの中で目覚めていったからだと思います。何度か経験した国連やその他の女性会議などで、資本主義国の女性たちがフェミニズムを唱えている中で、第三世界パレスチナなどの戦いは解放なしに社会革命は難しいと実感し、解放闘争が優先されながら、その戦いを通して女性解放も一歩一歩進めていると言うふうに考えていました。

しかし、歴史的には後のイラン革命の流れからですが、ハマースを含む宗教勢力は、やはり女性の民主主義的な対等を損なう側面が逆に昔よりも増えているのではないかと思います。

 

<質問12> 岡田さま

「パレスチナに渡る決意をした経過、パレスチナでどのような活動をしたか?」

 

<回答>「長くなりますので、ここで語るよりも「戦士たちの記録」(幻冬舎刊)をお読みいただけたら嬉しいです。そこに当時の赤軍派の過ちをどのように超えていくべきか考えていたこと、また、PFLPの中で主にはボランティアとして情報センターで公然と活動していたのですが、リッダ闘争後はイスラエルのモサドによる非軍事部門のガッサン・カナファーニに対する見せしめ爆殺後、PFLPは私へのモサドの殺害を警戒して、以降PFLPの指揮の下で地下的な非公然の活動を担いつつ活動してきました。」

 

<質問13> 水野行範さま

「感想1ー1972年のリッダ闘争のことが、日本の新聞で報道された時、京大熊野寮の事務室で、事務員の山城さんが「奥平はんと麻雀を一緒にしたけど、気の良い優しい学生はんやった」と言っていた言葉を思い出します。

感想2-重信さんが逮捕された時、Vサインを笑顔でカメラに向けて差し出した時、革命家の明るさに励まされました。

質問− 10.7のハマースの蜂起は、イスラエルに対する反植民地闘争として画期的なものだとは思いますが、その後のイスラエルの報復を予想しなかったのでしょうか。犠牲の多さを考えると、戦術として他の方法がなかったのでしょうか?」

 

<回答>

「感想についてですが、奥平さんは麻雀をやらないと思います。安田さんは麻雀のプロ級でよくやっていたと聞いています。もしかしたらそれは安田さんのことだったのではないかと思います。またネットで小学館「小説丸」というサイトに高山文彦さんが「リッダ!」というノンフィクションを連載中です。これは奥平さんを主人公とするドキュメントです。時間があれば見てください。

 

質問に対する答えですが、イスラエルの報復は当然予想していました。犠牲の多さも予想していたと思います。もう占領され併合される瀬戸際にあって、絶望よりも戦うしかなかった戦いを選んだと言うふうに私は現地を知るものとして思います。様々なマイナス面はありながら、ガザの解放勢力が一致、団結して戦った「洪水作戦」は、占領に対する抵抗権をしっかりと行使した勇気ある奇襲作戦だと思っています。パレスチナの世論調査によると、現在も人々は過酷なジェノサイドの犠牲にあいながら、ガザ地区でも西岸地区でもハマースに対する支持は10月7日以前よりより高い支持と評価が続いています。絶望による死か、それとも戦いによる死か?人々の選択肢は限られているせいでしょう。先日、ネタニヤフと矛盾を拡大しているイスラエル軍のハガリ報道官まで、ネタニヤフの「ハマース壊滅に反対し「ハマースは人々の心に根付いた思想であり壊滅できると考えてるのは誤っている」と言い出す始末です。」 日本の中で想像することは難しいですがむこう側に身を置いて想像してみてください。

 

<質問14>辻恵さま

「イスラエルのガザ虐殺を阻止するためにICCのネタニヤフへの逮捕状発行やICJの勧告は強いアピール力を持つので、大いに歓迎するところですが、実効性を発揮するためには、どういう行動方針があり得るのか。一緒に考えていきたいと考えていますが、重信さんのお考えをお伺いできれば幸いです」

 

<回答>

「ICJの判決は、国連に加盟するすべての国に拘束力を持ちます。日本もそうです。これを実行させる力は、政府が判決を無視する国においては主権者である人々の力がやはり決定的です。西側諸国の支配層が現在起きているジェノサイド・ホロコーストをホロコーストと認めない以上、人々の力を持って行動を起こすことが何よりも大切です。現にそれらの力が国際世論となって米欧支配層に影響を与えてきたのが10.7以降です。

アメリカでのユダヤ人を含む人々の虐殺抗議、イスラエル企業への協力や資本投資をやめろと言う学生たちの声が、弾圧を受けながらも、バイデンの(口先だけではありますが、)変化を起こさせました。日本でも軍拡と一体になったイスラエルからのドローン購入を決めている防衛省への抗議、ファナックの日本のロボットによって、武器が作られ、イスラエルの兵器がパレスチナ人を虐殺している現実、日本の身近にあるイスラエルに対する抗議と、パレスチナ人に対する連帯の量を増やし、国会での決議を拡大させていくように戦うことが1つの力です。日本は国連決議でパレスチナ国家承認に賛成しながら、日本国としてパレスチナ国家承認を宣言していません。まずそれをやらせましょう。辻さんの努力に期待します。アメリカの従属から解き放つ、このパレスチナの戦いこそ、バレスチナ人に助けられながら、日本で変革を求める力にしていくのが私たちに必要だと思っています。」

 

<質問15>川瀬千代美さま

「私は特に畜産動物に対する人間の行いに疑問を感じたことから、様々な政治的抑圧、権利の侵害に興味を持ち始め、そこからパレスチナの解放への意識につながりました。その辺についてのお考えがあれば教えていただければと思います。」

<回答>

「ガザにある動物園で何度も空爆に遭いながら、動物たちを守ってきたガザの人たちです。この間イスラエルの空爆で多くの動物が殺されたりしながら、命を守ることを動物園の人々は続けていると言う現地のニュースを聞きました。人間も動物もイスラエルの意図的な飢餓を作り出す政策の犠牲になっています。財源もなくて、動物に日本のように物質的に愛情を注ぐ条件は無いけれども、人々の中で動物も環境も大切にしながら生きているのがパレスチナの人々です。もちろん肉食文化の人々ですが、そこにもきちんとした屠殺など宗教的にも厳しく定められています。私は詳しくは知りませんが、家族を、人間を、仲間を大切にする人々は、動物を大切にします。パレスチナの人々がそうです。」

 

 

 

 

 

当日、重信房子さんの著書『はたちの時代』と『パレスチナ解放闘争史』を販売しました。購入した方には、重信さん自筆の短歌を書いた栞をプレゼントしました。

 

本記録は,講演会のビデオ映像をもとに,明大土曜会の山中健史氏が文字起こししてくださったものです。山中氏の労に感謝します。(10・8山﨑博昭プロジェクト事務局)



▲ページ先頭へ▲ページ先頭へ