10月4日、50周年まであと3年(記事と写真、2014年)

「10・8山﨑博昭プロジェクト―50周年まであと3年」

2014年10月4日(土)、JR京浜東北線大井町駅前の品川区立総合区民会館「きゅりあん」において、「10・8山﨑博昭プロジェクト─50周年まであと3年」(講演と映画の集い)が開催された。この年の7月に発足した「10・8山﨑博昭プロジェクト」にとって初めてのイベントである。

〈午前の部〉羽田・弁天橋で献花

午後1時30分からの「講演と映画の集い」に先立って、午前中は「弁天橋」訪問・献花が行われた。参加したのは発起人10人(山﨑建夫、北本修二、小長井良浩、佐々木幹郎、辻 惠、三田誠広、水戸喜世子、宮本光晴、山中幸男、山本義隆)、一般参加者11人、事務局スタッフ2人の総勢23人。「きゅりあん」1階の「駐車場出口」の横に集まり、午前10時にマイクロバスで「弁天橋」に向かった。交通渋滞もなく20分ほどで「弁天橋」に到着、橋の手前でバスから降りると、待ち構えていたテレビ朝日の取材陣が一斉に駆け寄ってカメラを向ける。

ここで、ちょっとしたハプニングが起きた。橋の空港側には広い道路を挟んで羽田空港警備のための大きな交番があるのだが、そこから若い警察官が飛び出してきた。

「何をしているんですか」としつこく尋ねてくる。大勢の人がバスに乗ってやってくるような場所ではないうえに、テレビ局の腕章をつけたクルーがカメラを向けるとなれば、たしかに目立つ光景には違いない。発起人の辻 惠さん(弁護士)が応対し、「羽田の今と昔の歴史を訪ねるツアーですよ」と言うが、それでも腑に落ちない顔で食い下がる。彼が「弁護士の辻です」と名刺を差し出して、ようやくわたしたちから離れていった。

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辻さんいわく、「マイクロバスから不審な高齢者が続々降りてくるので、職務上、聞かざるを得なかったんでしょうね」。

そんな会話を交わしながら、空港とは反対側の橋のたもとに移動し、全員が発起人の北本修二さん(弁護士)を囲んで、彼から話を聴いた。

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◎北本修二さんの話

「山﨑君とは高校、大学と同期です。一緒に上京し、前日は法政大学に泊まり、新聞紙を敷いて仮眠しました。この橋の上でもしばらく一緒でした。当日の記憶も曖昧なところが多くなっていますが、曖昧さは数年後も、50年後も、余り変わらないような気がします。仕事柄、人には、記憶をたどって覚えていることをはっきりと述べてくださいと迫ることもあるのですが、いざ自分でやってみると難しいことが判ります。

大鳥居の駅で下りてから、萩中公園にいったん集まったと思います。わたしたち地方から上京した一団は、隊列の後ろの方にいてヘルメットもかぶっておらず、プラカードも持っていませんでした。

弁天橋を目指して一気に走りました。前の方にいる学生たちが機動隊の阻止線を突破したので、やすやすと弁天橋にたどり着きましたが、橋の上には数台の装甲車が駐車し封鎖されていました。橋の上での機動隊との攻防が次第に激しくなって、私の目の前でも多くの学生が血まみれになりました。怪我人を病院に運ぼうとして、通りがかったタクシーを止めたのですが、乗車を断られました。119番に電話をかけ救急車を頼んだ記憶があります。」

次いで発起人の佐々木幹郎さん(詩人)から話があった。

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◎佐々木幹郎さんの話

「わたしの同志社時代の友人から、つい先日、電話で貴重な証言が寄せられました。

10・8当日、彼は山﨑博昭が倒れたとき、すぐ後ろにいたそうです。装甲車が動いた後、橋の上に空間が生まれた。そこに無防備のまま山崎君たちと立っていると、いきなり機動隊が猛烈な速度で突進してきて、最初に山崎君を襲った。頭を割られ、その一撃によって彼は崩れ落ちた。次に、横にいた背の高い女性の眉間が割られ、その血を口のなかに飲み込んでしまった。そのあと自分自身も殴られた、ということでした。

やがて作る「記念誌」では、こういう 証言を掘り起こして、彼の死の真相を徹底的に明らかにしたいと考えています。」

写真4 写真5 写真6 写真7
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◎献花と黙祷

その後、橋をわたって羽田空港寄りにある大鳥居のそばの緑地に移動。そこに置かれているテーブルの上に献花用の花を置いて参加者全員で黙祷を捧げた。続いて献花用の花を中心に据え、弁天橋を背景にして記念撮影。

土曜日ということもあり、弁天橋の下や、その近くには大勢の釣り人がいた。空にはカワウが舞っている。

献花用の花を対岸の遊歩道の傍らにある石の上に移し、再びマイクロバスに乗って「きゅりあん」に戻った。

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〈午後の部〉映画と講演の集い

午後の部(映画と講演の集い)は「きゅりあん」6階の大会議室において、12:30分開場、13:00~13:30スライド上映、13:30開会の時程で行われた。

開場前からポツリポツリと参加者がやってくる。会場の座席数には限りがあるのでeメールでの事前予約制を採ったのだが、立ち見でもいいからと申込みをせずに来られた方も多かった。

スライドの上映がはじまる。いまからおよそ半世紀前、羽田空港に通じる「弁天橋」の上で闘われた10・8羽田闘争とは何を目的とした闘いだったのか、多くの学生、青年労働者たちはどういう思いでこの闘いに参加したのか、という点を中心にスライドは構成されている。

スクリーンに映し出される、今となっては歴史的資料ともいえる当時の写真、新聞紙面、テレビニュース等を参加者たちは食い入るように見つめていた。

写真10 写真11
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13時30分、司会の佐々木幹郎さんから開会が告げられ、まず発起人代表の山﨑建夫さん(山﨑博昭君の実兄)が挨拶に立った。

写真12
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◎山﨑建夫さんの挨拶

「お集まりの皆様、今日は本当にありがとうございます。また事務局の方、走り回って準備していただいて、今日も最後までいろいろお世話になります。本当にご苦労様です。ありがとうございます。

あれから47年経ちましたけれども、僕らにとってはまるで昨日の出来事のように思い出されます。それと、こちらは歳をとっていくのだけれども、弟は写真の中で歳をとらない、いつまでも18歳です。

さっきのスライドの映像にはヘルメットを被った部隊が出てきましたけれど、弟はヘルメットを被っていなかったんですね。(弁天橋では)ほとんどがヘルメットをかぶっていなかった。最近お聞きしたんですけれども、ああいうヘルメットを被った部隊も一部いたそうですが。朝日ジャーナルで紹介された記事では、そういうヘルメットを被っていない部隊、それが警察官、機動隊によってメッタ打ちにされたそうです。しかし、新聞はそうは書かなかったですね。

参加した学生たちや労働者はみんな知っているから、次の闘いからみんなヘルメットを被ってきました。頭を守らなければいかんから。当時、佐世保であるとか、王子であるとか、東大もそうですね。そのヘルメット姿の学生たちがテレビに映し出されるのを家族で見ながら、その一人ひとりが弟に重なりました。家族みんなで応援していました。

1周年の集会では、母親は「博昭のしたことは間違っていなかった」とはっきり言い切りました。そのように家族も変わってきました。ところが当時の新聞報道やニュースを見ていると、もう警察の発表をそのまま鵜呑みにして全面展開するから、学生の奪った装甲車によって弟は殺されたということがずっと広がっていきます。その根拠は何か、というと、警察発表だけなんです。警察発表を基にして大新聞は全部それを展開します。だからものすごい温度差があるんですね。運動している人たち、その周りの人たちは、弟は頭をやられたんだ、殺されたんだ、だからヘルメットを被って自衛せないかんと思い、それで次には俺がやられるかも分からんということが分かっていても、やはり闘いに行くんですね。しかし、ちょっと離れたところにいる人たちは『可哀そうにな、同じ仲間に殺されてな』というような意識でずっときているんです。この落差はものすごい激しいですね。

その証拠の一つになったのが、新聞でしょっちゅう繰り返された“胸にタイヤ痕があった”ということ。それを鑑識の係員が新聞で証言しています。ところが、この点だけに限っても、遺体を検死した牧田院長、それから遺体に立会われた小長井弁護士、そして私も解剖室で彼の遺体は見ているわけです。誰もそんなスジの入ったものなんて見ていない。解剖室では解剖する医師が『きれいな体やね、これは(死亡したのは)頭しかないわな』と言っていました。しかし、そこにいた3人には口止めしましたね。

この後の映画(現認報告書)では、牧田さんが「耳から血を流していた。頭蓋骨が挫滅して死んでいる」という死体検案書を出して、映画の中でもそう語っています。だけど、世間にはそう広がっていかなかった。新聞の報道は怖いですね。

それ以降、マスコミはあまり好きじゃなくなったんですけれども。だけれど、一方では東京新聞がこの集会のこととか、プロジェクトのことを取り上げてくれました。そして、わたしたちのことがやっと広まっていく。

このプロジェクトのきっかけになったのは水戸喜世子さんです。この人に救援会の活動でお世話になって、その後もずっとお付き合いがあったんですけれども、しばらく離れていました。その水戸さんが大阪の原発反対の運動で活動しているという投書を新聞で読み、それがきっかけで会いたくなって連絡を取って話をしているうちに、この運動、50年経つんやから何かこの若い青年の生き方を後の世にも知らせようという話がなされ、そこからこのプロジェクトが始まってきたんです。

そういう意味ではマスコミの方にもお世話になっているんです。

最後に二つお願いをします。一つは今日も弁天橋で当時の参加者の話を新たに聞くことができました。ここにも弁天橋におられた方もおると思うんですね。どういう状態だったのかということを、分かりましたらメールででも、お教えいただけたら助かります。

それと、賛同人ですね。これに是非ともなっていただいて、この運動を支えていただきたいと思っております。よろしくお願いいたします。」

映画「現認報告書」(約1時間)の上映後、休憩をはさんで発起人の自己紹介と挨拶があった。プロジェクトの発起人は17人だが、この日出席されたのは次の9人である。(北本修二さんは所用のため午前中の「弁天橋」訪問のみの参加でした。)

写真13 写真14
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◎参加された発起人

山﨑建夫(山﨑博昭実兄)

佐々木幹郎(詩人、大手前高校同期生)

辻 惠(弁護士、同上)

三田誠広(作家、同上)

宮本光晴(経済学者、同上)

山本義隆(科学史家、元東大全共闘議長、大手前高校同窓生)

小長井良浩(弁護士、当時遺族代理人)

水戸喜世子(十・八羽田救援会)

山中幸男(救援連絡センター事務局長)

この中から水戸喜世子さん(十・八羽田救援会)の挨拶を紹介する。

◎水戸喜世子さんの挨拶

「水戸喜世子です。どうも今日はよくおいで下さいました。ここに水戸巌がいないのが私は本当に残念ですし、みなさんにも申し訳なく思います。

60年安保があった時は、ちょうど私は大学の学部を卒業して、夫はドクターを終えて、結婚をして関西に行きました。関西に行ったときは、60年安保闘争の真っ最中でした。樺さんが亡くなった時は 私たち二人は関西からデモに参加したのですが、多くの人と一緒に日比谷公園の中で一晩中泣き明かしました。60年安保の挫折感を抱えて、それでも、運動の担い手の中に、新しい時代の予感も感じて過ごした関西の7年間だったように思います。

巌は関西の大学に就職をして、その間、職場の若い人と組合を作ったり、北爆が始まると神戸のアメリカ領事館前に座り込んだり、私は夜の日韓闘争のデモに参加したりと、いろいろな活動がありましたけれど、必ずしも思い通りの闘いが広がったわけではありませんでした。たまたま転勤で東京大学の原子核研究所に助教授として迎えられたのが67年だったんですね。運が良かったのか悪かったのか分かりませんけれども、67年に東大に戻ってきまして、まもなく10・8羽田が起きました。

私の夫は現地に参加しました。反戦青年委員会として原子核研究所の何人かを募って参加したのです。私と小さい子どもたちは夜の間中、テレビのニュース画面を見ながら、本当に無事に帰って来られるのだろうかと、まんじりともしないで朝まで起きて過ごして、夜明けとともに帰ってきた時は、洋服も全部血まみれで、『怪我人をつぎつぎと運んで、こうしてああして』と。
でも本人は本当に意気軒昂で晴れ晴れと、60年安保の仇を取ったようなつもりで、『やったぞ』と帰ってきたんですね。山崎君のことは悲しすぎて、子どもの前では黙っていました、
元気な姿を見て私たちはホッとしたんですけれども、それもつかの間で、配られてきた朝刊は暴徒キャンペーン一色。学生が学生を轢き殺した、学生は暴徒になったという、本当にプロレス見出しの、どの新聞もそうでした。

夫は一睡もしないまま、自分で声明文を書き、大学時代の先輩にあたる吉川勇一さんに真っ先に電話で読みあげて、「若者の反戦の志を暴徒にさせては、断じてならない」と協力をお願いしていました。一日中電話にかじりついて、羽仁五郎さんとか日高六郎さんとか当時はいらっしゃいましたね。みなさんすぐに応諾してくださって、2、3日後には、素晴らしい声明文となって、各紙に掲載されたのです。学生の反戦の志を自分たちは支持するんだ、学生のやり方には問題があったとしても、政府の戦争加担、過剰警備の暴力性こそが本質的問題なのだ、という支持声明を出してくださって、それがきっかけで、羽田10・8救援会が生まれ、やがて、救援連絡センターにつながっていきました。

私は生まれて初めて警視庁に差入れに通いました。“装甲車を運転して学生を轢き殺した”というフレームアップで逮捕された学生に、毎日差入れに行きました。彼は起訴もされないで、一切黙秘でがんばり通して、救援運動の勝利を実感しました。その後、救援運動は大変なことになりまして、4・28沖縄、成田、王子闘争と、連日、時には千人規模の逮捕者が出て、私は小さい子どもを家に置きっぱなしにして、事務所の机の上で毎日寝るような日が続いたこともありました。その1年、2年は大変でした。

でも救援運動があって、権力は本当に困ったと思います。逮捕されても誰がどこにいるか、党派別であればすぐ分かるでしょうけれど、各党派みんな救援連絡センターに弁護士選任を入れてくるわけですから、一番困ったのは権力だと思うんですね。

それを今、山中幸男君(救援連絡センター事務局長)が継いでやってくれていて、国家権力の弾圧を受けた人の人権を守るという、一人の人民に対する弾圧は全人民への弾圧として受け止めるという思想は、曲がりなりにも、今に引き継がれている筈だと思います。
それの出発点は10・8でした。

山﨑君のお母さんの悲しみ、当時未熟な私はそれを十分には受け止めることはできなかったんですけれども、今、自分も25歳の息子を二人亡くして、一層お母さんは身近なものになり、私の中では家族以上の家族という位置を占めています。反原発の集会でたまたま建夫さんと出会い、モニュメントの夢を話しました。それが建夫さんや友人の努力で繋がりが繋がりを呼び、今日を迎えることができました。今更のように、10・8が人々に与えた衝撃の大きさに驚いています。

「私にとっての10・8」、「伝えきく10・8」、そんな思いがつながり、モニュメント賛同運動となって 広がって行ってほしいと願います。どうか賛同人になってください。よろしくお願いします

写真15 写真16 写真17
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発起人の挨拶のあと、「私の1960年代―樺美智子・山﨑博昭追悼―」というテーマで山本義隆さん(科学史家、元東大全共闘議長、大手前高校同窓生)の講演が始まった。山本さんが公の場で当時のことを話すのはたぶん初めてのことである。そんなこともあり、この日は新聞・テレビ数社の取材が入り、IWJ(岩上安身代表)によってインターネットによる実況中継も行われた。

◎山本義隆さんの講演「私の1960年代―樺美智子・山﨑博昭追悼―」

山本さんは1960年に東大に入学して安保闘争に参加したことから話を始めた。そして、大学管理法反対闘争、日韓闘争、ベトナム反戦闘争などを経て東大闘争・日大闘争にいたる激動の1960年代を自らのかかわりを踏まえながら振りかえった。

公の場で初めて明かされた東大闘争に係るエピソードも少なくなかったが、日大闘争に触れたくだりでは「ほんとうの意味で全共闘をつくったのは日大。武装した右翼とのゲバルトに強かっただけではない。学生大衆の正義感と潜在能力を最大限組織した、戦後最大の学生運動だった。いまでも、あれを考えると涙がでてきます。東大全共闘は日大全共闘に恩義があり、大きな借りをつくっている。返しようもないけれど。ほんとうにすごい、ほんとうにそう思います。」とひときわ熱をこめて語った。

後日談になるが、これをIWJの実況中継で聞いた元日大全共闘のNさんから「ナミダがとまらない」というメールが事務局スタッフに寄せられた。

講演のなかで山本さんは、60年代の日本では「平和、民主主義、科学技術の進歩」の三つが「絶対的なプラスのシンボル」として機能していたが、ベトナム反戦闘争や東大闘争はその問題点を鋭く浮き彫りにしたと指摘した。

「60年代後半のベトナム反戦闘争は従来の反戦意識を大きく変えました。60年安保闘争のころは、安保改定によって日本が戦争に巻き込まれるのは嫌だというような一国主義的な平和主義が一般の人々のなかでは強かったのですが、10・8のあった67年のころの反戦意識というのは、ベトナム戦争に対する日本の加担の現実を直視することによって、質的に異なったものに変化していました。戦争に加担している、という自らの加害性を問うような運動に転換していったのです。

1973年ころまで続いた日本経済の高度成長も、その後半を支えたのは膨大なベトナム特需です。1966年から1971年までベトナム特需として毎年10億ドルが企業に入っていた。」

「制度としての民主主義は結局は「秩序」として表れる。そうすると、その秩序に取り残されるマイノリティというのが必ず出てくる。そのマイノリティが自己主張しようとすると、その秩序に手をかけなければならない。場合によっては暴力的にならざるを得ない。そういうことを無視して「民主主義を守れ」はないだろう、ということが68年頃からようやくぼくたちの問題意識に入ってきました。民主主義を守れ、というだけでは、そういうマイノリティを抑圧することになりかねないということがわかってきたのです。」

「科学は自然界ではありえない理想的な状況をつくって特定の現象を法則化するが、それを技術として利用する際には公害などの様々な弊害が生み出される。いまは誰でも知っている放射性廃棄物の問題も、原子力発電の研究に携わっていた研究者は誰も考えようとすらしなかった。こういう弊害の責任は科学そのものにもあるのではないかということが60年代後半から徐々に明らかになってきた。
東大闘争の中でも、そういうことをやっている研究そのものとはいったい何なんだろうという問題意識が生まれてきました。」

ここで、山本さんは東大全共闘の機関誌「進撃」13号(69年7月発行)を取り出し、工学部無期限ストを支える工学部原子力共闘会議が書いた文章の最後の一節を読み上げた。

「原子力研究が巨大産業として国家及び独占資本との癒着を深めている。東大原子力工学科の官学協同、産学協同態勢のもとで工学部の異例の官学協同人事が行われ、また教育という名によって商品生産が、研究という名によって名声の販売が行われている。再度研究政策を総点検すべきである。」

そして、最後を次のように締めくくった。

「じゃあ、その後、何だったのかと言われると、正直かえす言葉もないんですけれど、3・11でああいうことが起こって、しかもいまは戦争とファシズムの前夜みたいな状況になってきました。ぼくら若い頃は、戦前の人たちに対して、なんであんな日本の戦争とファシズムを止められなかったんだと言ってきたわけですけれども、今度はぼくたちが今の20代、30代の人たちに言われるんじゃないのかと、正直思います。

ぼくはこの2年間、なんども金曜日に国会前に行きましたけれど、高校生や大学生が結構しゃべっています。その人たちに言われたら返す言葉がないなと思います。今まで何もしてこなかったわけではないけれど、それでも結果的には3・11をもたらすことになったわけだし、そういう意味では悔しい思いもあれば、自分が情けないという思いでいっぱいです。

率直に言って、67年の10・8から50年近く生きてきて、50年も生きてきたら現実と折り合いをつけてきたこともあるわけですが、わたしはもうすぐ73歳になります。あと何年生きられるかわかりませんが、まあ、ちょっとは心を入れ直して(笑い)、やれることを探してやっていこうと思っています。」

他にも、民衆の自発的闘争参加の意義、日本物理学会への米軍資金導入問題、過去三度あった理工系ブームと軍事との関係、戦前の東大工学部が果たした軍事的役割、科学と技術の本質的な違い、岸信介の核武装願望、日本の植民地支配の後遺症としての1950年朝鮮戦争と朝鮮特需の意味、進歩的知識人(丸山真男等)の欺瞞性(ダブルスタンダード)などの多様な話題が緊密に結び付けられながら展開された。

山本さんは9月に風邪を引いたため「声がかすれる」と言っていたが、講演が進むにつれて声にも徐々に張りが出てきた。内容もさることながら、その歯切れのよい口調と巧まざるユーモアは聴衆を魅了し、講演時間の1時間10分はまたたく間に過ぎ去った。

発起人の一人として山本さんの講演を間近で聞いていた三田誠広(作家)さんは、その印象をブログで次のように書いている。

「演説の壇上に立つと、さすがというか、見事な講演で、正確な記憶力と、物理学者らしい論理の中に、けっしてきれいごとは言わないという現実感覚の語り口は、説得力があり、さらに関西人らしい間のとり方で笑いをとることもあり、講演の模範のような楽しい話だった。それは山本さんはすでに歴史上の人物であり、伝説の英雄でもあるが、世間では過去の人という見方もしていたと思う。しかし本日の演説を聞いていると、時間の隔たりはなく、いまも闘いは続いているのだという実感をもつことができた。」

◎毎年10月にプロジェクトの集いを企画

最後に発起人の辻 恵さんから閉会の挨拶があり、主に次の3点について報告があった。

  1. 弁天橋の近くにモニュメントを建てる土地を取得するための交渉をいまも精力的に続けている。
  2. ベトナムの首相に対し、このプロジェクトに対する何らかのメッセージを具体的にいただきたいということで交渉をしている。
  3. 山﨑君の死因究明について、当時の関係記録を検察庁に問い合わせをしている。

また今後の予定として、「来年の10月には「50周年まであと2年」の集会、再来年の10月には「50周年まであと1年」の集会、そして2017年には「ロシア革命100年、羽田闘争50年の10月集会」をぜひ実現したい。今日の催しを含めてパンフレットを作り、もっといろいろな方々にこのプロジェクトのことを知っていただくように活動をしていきたい。」と力強く語り、「あと3年の間にやれるだけことはやっていきたいと思うので、今日を出発点として皆さんと共にこのプロジェクトを盛り上げて行きたいと思う。今後ともよろしくお願いしたい。」という言葉で締めくくった。

〈注1〉当日の「開会のことば」「発起人あいさつ」「山本義隆さんの講演」「閉会のことば」は、HOMEページのサイドバー「私の1960年代」から動画で見ることができます。

〈注2〉「発起人あいさつ」は本サイトのグローバルメニュー「発起人メッセージ」に全文が掲げられています。



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