6月13日、第2回講演会「いのちを考えるー戦後を生きて」(記事と写真、2015年)

10・8山﨑博昭プロジェクト第二回講演会「いのちを考えるー戦後を生きて」

日時:2015年6月13日(土)午後2時~4時
会場:学士会館(東京・神田)

目次

  1. 皆がつながるきっかけに――主催者からの挨拶
  2. 最首悟氏の講演:焦点なき「場」についてー「いのち」は「いのち」
    付【講演のレジュメ】
  3. 白井聡氏の講演:3・11以降の「いのち」の問題
  4. 参加した発起人からの挨拶:道浦母都子/山中幸男/山本義隆/佐々木幹郎/下重暁子/三田誠広/小長井良浩/福島泰樹
  5. 「声なき声の会」からのアピール:世話人・細田伸昭氏

1.皆がつながるきっかけに――主催者からの挨拶

6月13日(土)、東京・神田の学士会館で10・8山﨑博昭プロジェクトの第二回講演会が開催された。
会場の学士会館は地下鉄「神保町」駅の出口を出てすぐのところにある。非常にレトロな感じの建物であるが、それもそのはず、1928年(昭和3年)開業ということである。


写真1
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地下鉄の出口から学士会館に向かうと、野球のボールを持った大きな手が出迎えてくれる。ここは「日本野球発祥の地」ということで、そのモニュメントである。(詳しい由来を知りたい方は学士会館のホームページを参照)


写真2
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さて、講演会の参加者は約130人。会場はほぼ満席となった。発起人の佐々木幹郎氏の司会で、講演会は定刻どおりに始まった。
山﨑博昭君のお兄さんである山﨑建夫氏から冒頭の挨拶があった。


写真3
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●挨拶(山﨑建夫)

「今日、講演会をやるのは、樺美智子さんが亡くなられた6月ということにもちなんでやっている訳です。6月に樺さんが亡くなり、10月に私の弟が亡くなりました。どちらも権力犯罪。首絞めて殺されているはずなのに圧死、警棒で殴られているはずなのに車に轢かれて死んだ、という風になっている。
50年経つからそろそろ何かやらなあいかんという話が出た時、とても嬉しかったです。何か華やかな事をするのは僕も弟もそんな好きではないので、最初は戸惑ったんですが、特にモニュメントを作ろうなんていう事については。
だけど、それらを準備して下さる方がおって、それを無視できず始めたんですが、とてもよかったと思っています。
一つは今日の集会でたくさんのビラが配られましたけれども、お互いあちらこちらで闘っている人たちが、どこかでつながる一つのきっかけになるということが一つと。かつては華々しく闘ったけれども、今はもう何十年も長らく沈潜しているが、俺たちの青春だ、あるいは絶対に消してはならない、応援するよ、と言ってくれる人たちもいたり、あるいは政治とは全然関係なかったけれども、同じ高校で一緒に生活していたんや、何とか応援しよう、という人たちも現れてきました。そんなことがとても嬉しいですね。
今、こんな時代ですから、とにかくいろんな形で、いろんなところで闘っている人たちが力を合わせて、思い切り右へ行こうとしているのを何とかしたい、そういう力になれればと思っています。
これからもよろしくお願いします。ありがとうございます。」

第二回講演会の最初の講師は環境哲学者の最首悟氏である。発起人の山本義隆氏から講師の紹介があった。


写真4
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●講師紹介(山本義隆)

「発起人の山本です。3・11の福島の事故は戦後の日本の影の部分というのを暴き出したように思っています。それは何かというと、一言でいうと、日本の社会というのは人々のいのちを粗末にしてきたんじゃないか、という思いです。
明治維新から今日まで150年くらいですけれども、その半分が戦前で半分が戦後ですけれども、戦前の殖産興業、富国強兵という形で総力戦体制を作って軍事的にアジアに侵略して行った訳ですけれども、戦後、その殖産興業が高度成長に言い換えられて、富国強兵が国際競争に言い換えられて、やはり同じように総力戦体制で、今度は経済的に外国に進出して行って、その間、戦前も戦後も一貫してアジアの人びと、そして日本の大衆のいのちを粗末にしてきたのではないか、そんな風に思っております。
最首さんは、私と一緒にほぼ同じ時に大学に入って、安保闘争の時に教養学部で一緒で、それから一緒に理学部に進学して、大学管理法闘争、それからその後のベトナム反戦闘争、それから東大闘争を闘ってきたんですけれども、実は最首さん、私より5つ年上です。
小さい時に喘息でダブッておられて、その後もいのちの問題と向き合ってこられました。今日の集会、戦後を生きて―いのちを考える――ということで、最首さんに是非とも来ていただいて話をしていただきたいと思ってお呼びしましたので、最首さんに1時間話をしていただきます。私も楽しみにしておりました。みんなと一緒に聞かせてもらいたいと思います。
最首さん、お願いします。」

続いて最首悟氏の講演となる。講演のレジュメを講演の最後に付けたので、それを参照しながら読んでいただきたい。

2.最首悟氏の講演:焦点なき「場」についてー「いのち」は「いのち」


写真5
写真5

●「自己否定」の底にあるもの

講演の冒頭、講演のタイトルの説明として
「ちょっと変な題名ですけれども、焦点なき場というのは重複しておりますが、場というのは元々焦点がない訳で、強調という事で、焦点なき場ということで、いのちはいのちという、これはお前はお前だよ、俺は俺だよという、俺は俺、お前はお前、相互干渉、おせっかいは止めてくれというような、あるいはお前のことはもう知らないよというな用法ですね。いのちはいのちと突き放すというか、突き放さざるを得ないというか、というのは考えても分からないということで、(レジュメの)冒頭の『いのちのことは分かりません』ということで、不登校新聞に掲載された最後の部分を載せましたので、後でご覧になって下さい。
いのちはいのち、いのちのことは分かりませんと言った途端に、実は始まってしまう。その始まってしまうところのことが問題なんです。」


写真6
写真6

この後、レジュメに沿っての説明となった。
「いのちということは曖昧である。一言でいえば分からないんですけれも、曖昧であることをどうするかという問題が『唯の生』の『唯の』に込められている。つまり曖昧だからハッキリさせろよというのが普通なんですけれども、ハッキリさせられない曖昧さがある、それをどうするんだということ。これは私たちが学生の頃習ってきた方法論とは違う訳です。」
「ハッキリさせるには何が必要かという問題の道というか方向があります。その方向を探って道が無いとしたらどうします?(レジュメの)『まるごと無条件の全体』がその一つの回答です。
まるごとは元々無条件の全体ということで、これも重複しておりますが、このことを巡って岩波書店から刊行予定の『人々の精神史』第5巻で山本義隆を扱います。
全共闘のポイントは、それは半ば無意識だったかもしれないけれども、何だったんだろうかということの中で、まるごと無条件の全体というものを萌芽であれ、そこから抜けられなくてというか、そこに改めて向かったというか、そういうことだったんじゃないかということを書きました。
そのポイントは『自己否定を重ねて、最後にただの人間、自覚した人間になって、その後、改めてやはり物理学者として生きて行きたいと思う』という総括、極めて明快な、総括としては凄まじいものです。この3行くらいの総括、これ以上に山本は言う必要がない。
山本義隆は何もインタビューに答えないと言われてきましたけれども、私の見方では言う必要がない、もう言っちゃった、それ以上言うことは無いのだということなんですね。
ひらすら実践あるのみ。
そして、山本義隆の滝沢克己に対する質問状というか往復書簡が朝日ジャーナルに出ます。その滝沢克巳関係としては、村上一朗さんの言葉に『何の保留、躊躇も擬態も韜晦(とうかい)もないのである。只の人とはこういうものだ。』というのが出てきます。
このただということを巡って、まるごと無条件の全体のことなのだということ、それを巡って、どういう風にアプローチするのかというのが問題になってくる訳です。」
「一つは立ち位置の問題というのがある。
『惘想(もうそう)する立ち位置』という項になります。関係の絶対性と考えていくと分からない。ただ匂ってはまいります。西田幾多郎まで行かざるを得ないだろうという関係の絶対性、これは吉本隆明がだいぶ早く『マチウ書試論』で展開しようとしたことですけれども、それについての惘想ということを書きました。
惘想というのは心の中の網の想いということ、ネットワークです。一応私たちは網の目と、自分を人を事物を指すんですけれども、目と目をつなぐ糸を関係ということでイメージする。その時に、目という結節というのは、それが大事なんです、それが主体なんです。普通はそうなんです。目と目を糸がつないでいるんですけれども、糸と糸とを目がつないでいるだけということになるとどうなるか。モールス信号みたいにトンツートンではなくてツートンツーということですよね。
それからもう一つ、このネットは閉じているのか開いているのか。これは大問題です。開いているとなると立ち位置はどうなるか。そして開いているネットということになりますと、いよいよ意味性の問題が出てまいります。たぶん私たちは無意味ということでは、それは口走るけれど、駄目なんだ。有意味の合意、しかし意味というものを万人が感得することはあっても、それが何なのかを言葉にしなくてはいけないとなると、どうしてもここまでのところでの合意だよね、という風にしかならない。サイエンスというのは、そういう合意です。今のところの合意。そういう意味でサイエンスや理性的というならば、理性的合意ということをいう意味ということにおいては、しなくちゃいけないんじゃないか、ということになります。そこにアインシュタインの言葉が出ています。『ベートベンの音楽は音波の圧力の変化じゃないだろう』ということで。
そして開かれている網の意味性ということになりますと、どうしても全体ということに行かざるを得ない。もちろん無限というものを含んだ全体、無限そのものということでもいい。その全体ということについてどう考えるか、ということを私たちは考え、それをほとんど無意識だったかもしれないけれども、言うことであります。」


写真7
写真7

●全体主義と民主主義をめぐって

この後、1920年代についての話に入った。
「今のこの時点での、そして非常に重要な時点という風に世界はなっておりますけれども、これはやはり1920年代というところに、ひとつ戻っていく必要があるだろうという風に思います。全体主義ということの中からの全体の救出、というようなことを書きましたけれども、救出がいいのかどうか分かりませんが、私たちは全体嫌い、もう御免こうむるという、全体主義はファシズムです。日本も日独伊三国同盟の一員で国際連盟を脱退して、大和、武蔵などという本当に無用の長物を作ったりする訳ですね。もう全体と聞くだけでちょっと嫌な感じがする。それを私たちが無意識に、もう1回やり直さななければいけなんじゃないかというのが1960年代末の民主主義の問題である、ということになる訳であります。」
「1920年代へ、1920年代から。現代思想の「1920年代の光と影」という1974年の臨時増刊号です。


写真8
写真8

(「思想家たちの1920年」欄の写真について)

ジョルジュ・ルカーチ35歳、マルティン・ハイデッガー31歳。31歳が続きます。ルートウイッヒ・ウイトゲンシュタイン、アドルフ・ヒットラー。1920年代として、ここに生松敬三が選んできたのはジグムント・フロイトです。フロイトは64歳。レーニン50歳、エドムント・フッサール62歳。山本が精力的に訳したエルンスト・カッシーラ46歳。非常に大事です。アルバート・アインシュタイン41歳。カール・ユング45歳。カール・ヤスパース37歳、ブラニスラウ・マリノフスキー36歳、この後にヴァルター・ベンヤミン、アンドレ・ブルトン、ベルトルト・ブレヒト、マルセル・プルースト、フランツ・カフカと続いてきますけれども、1920年、(ロシア)革命3年後のレーニン50歳。その時に、ワイマール共和国というのがどういう状態にあって、最も民主的な憲法を持って、そこからどうしてヒットラーが出て来るのか。」
「私たちは全体ということを考えるんですけれども、例えば、元に戻ってまいりますと、レジュメの2ページ、清水真木さんの新書『感情とは何か プラトンからアーレントまで』ですが、ハンナ・アーレント(哲学者・思想家)が晩年、公共の意思ということの基に感情というのがあるということを書こうとした。もちろん私たちは1960年代、例えば理論信仰と実感信仰というような、丸山真男と対小林秀雄と、理論信仰と実感信仰という、理論信仰の方に傾いている訳ですけれども、そうはいかないだろう。
晩年のアーレントの『感情こそが公共の意思の前提そのものなのだ』ということをどういう風に導くかという本です。その中で全体ということについて、『一人が一票を投ずる時に私利私欲で投じてたんじゃ民主主義は成り立たないだろう。私利私欲で投じる時には多数決原理というのを民主主義原理とするしかない訳ですね。多数は正義ということにならざるを得ない。それでは民主主義は成り立たない。実際の民主主義はそうですよね。それぞれの私利私欲に従って投票して多数派を代表するものが国家を動かす。それがもし民主主義だとしたら、民主主義は到底永続する政治社会原理にはなり得ない。』
一人は全体を考えて投票している。故に一票の格差というような数の問題というのは大した問題じゃないんだ。それがさすがにあまりにも違い過ぎたら問題でしょうけれども、常に一人が1.0票をきちんと持つなどということには到底社会は成り立たない、その誤差をどの位で納めるのかという問題と同時に、誤差そのものを問題としない視点があるんじゃないか、と清水はアーレントを論じてきて言う訳です。
しかし、これはまたルソー以来の原理でありまして、一般意思の問題ですね。私たちは投票した途端に一般意思に権利の譲渡をしている。その一般意思の代行をしているのが政治権力であるということになる。その時に一人一票を確保するために、人は徒党を組んではならないというのがルソーの市民社会の基礎です。セクトを作ってはいけない。
全体ということについて、揺らぐのは全体が権力化した時です。圧制が出てきた時に、個人、自由、自由主義というのが出てくる。今度は力勝負になる。大体は体力に優れて、気力に優れている、そして筋力に優れている者がレッセ・フェール(自由放任主義)の結果として権力を掌握することになる。
それを防ぐのは何なのか。権力自体がそれをわきまえるのは、自分が全体というものを代表して振る舞うのはどういうことなのかということを、具体的な人間・権力者そのものがどう思うのか、というのが問題な訳です。その時、やはり価値観、世界観の問題になっていく。」
「ドイツの1920年代から30年代、最高の知的な展開がされる場であり、最高の民主主義憲法を持った場であり、それがどういう風にトータリズム(全体主義)に吸収されていくかという問題でありますけれども、それはまたいろんな影響を持つ。最後にはテロリズムと自分たちの主体性ということでナチズムが成立してくるにしても、あるいはスターリニズムが成立するにしても、その基になる考え方というのは何なのか。
学問的には、ここがまた坩堝になっておりまして、J・S・ホールデンが19世紀末から1920年にかけてホーリズムというのを展開した。そしてヤン・スマッツのホーリズムが20年代末から30年代にかけて出てくる。生気論という非科学から、全体、ホーリズムという科学に生物学を持っていこうという主張だった。
物理は言うまでもなく実体から関係性へ、そしてアインシュタインからカッシーラへ哲学が引き継がれて、そして山本義隆がそれを精力的に訳すというになりますけれども、その実体から関係性へということの中で、実体という限りは、それを覆うもう一つの権威、権力、世界ということが可能であったけれども、関係性となると、絶対的な何かということがどうしても揺らいでくる。その関係性ということが全体ということと結びついて、そしてゲシュタルト(形態)や環境ということが出て参ります。
つまり、学問で言えば、物理学が実体から関係へと移行してくるというところに多くは引き継がれていく。皮肉は生物学が19世紀物理学ということに依拠して、20世紀まっしぐらに還元論的、機械的生物学を展開していくことにあって、合言葉は全体ということでは実験生物学は成り立たないということなんですね。何もするなということが、日本においても正にJ・S・ホールデンが訳された時の態度、これじゃあ科学は進まない。
そして、今、20世紀というのを展望するにあたって、物理学はまっしぐらに意思、心に向かって行ったけれども、生物学は逆方向に19世紀物理学に則って、お互いにすれ違う高速列車のようである、などというような批評になって出て参ります。」


写真9
写真9

●全共闘運動につながる反戦闘争の歴史

ここで、話が変わって全共闘の話に入って行く。ここからは分かり易い。
「全共闘というのは、それはまた一括りにしなくてはいけないでしょうけれども、一括りにした時に、東大全共闘というと実に何かいじましい訳です。日大全共闘からすれば当たり前のことである。日大全共闘というのは、そういう意味では分かりやすいと言えば分かりやすい。使途不明金23億円というのは、たぶん日本会に流れた。日本会というのは日本会議の前身の佐藤栄作が会長で、西尾末広なども入っている日本の保守そのものの進めて行く会議です。会長は佐藤栄作。たぶん使途不明金はそこに流れたのだろう。そして実態は大学とはいえ、というような封建体制への闘いというようなものである。体力勝負、もう体力でぶつからない限りどうしようもない。たぶんそれは全共闘というものの爽やかさというか、血沸き肉躍るものである。
これは島泰三の『安田講堂』にありますけれども、本の帯に『明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし』。実によろしいですね。ワルシャワ労働歌。もちろん島泰三は実刑2年送られましたが、今は動物人類学者ですけれども、この冒頭は佐世保で始まる。彼は人類学の4年生として佐世保に行きます。やはりセクトがらみ。セクトと言ってもシンパなどいろいろあります。焦点は68年の1月18日であります。安田講堂の1年前。佐世保は67年の9月。10月8日に山﨑君が死ぬ、その前に佐藤栄作がエンタープライズの寄港を認めるという決定を出します。そしていよいよエンタープライズがやってくる訳です。7万5千トン。これの阻止行動は反戦と中核、両方含んで、そして右翼まで入った。右翼は実は、この中核を基にする学生の行動に敬意を表した。島泰三はそこに参加して行く訳ですけれども、後で、右翼からもよくやってくれたと言われたという挿話が出てきます。三島由紀夫があとで全共闘の時に、一言天皇と言ってくれれば共闘できると言った下地になっています。もちろん公明党は相当 動員かけますし、右翼から学生まで、これはとにかくエンラープライズ阻止、ここに一国のプライドというのががかっている訳でありますね。
山本義隆にかこつけて書いた文章に私は砂川判決のことを書きました。私たち東大全共闘というのは、私たちとすれば、ベトナム反戦会議から理系の大学院を中心にした全闘連ということを抜きにして東大全共闘はないと思っている、そういう全共闘でありますけれども、どうして全共闘になるかということについて、4つ網の目の結節を挙げました。
一つは、もちろん1960年代。60年の一つの拠り所というのは、砂川判決で、伊達判決が出ます。日本が協力していろんな便宜を図って認める、どうぞ居てくださいというアメリカ駐留軍は日本国憲法に定める戦力に値する。占領下の米軍であればしょうがない。しかし、この独立後の、建前は対等の国が結ぶ安保条約ということの中で、日本側の協力体制ということを問題にすれば、これは日本の憲法が定める日本の戦力に値する、故に駐留米軍は違憲である、と言う判決を下して、これはもうマッカーサーの方は激怒するということになります。自民党は伊達判決を受けて、すぐにアメリカからこれは到底受けられないという連絡を受けて、高裁をとばして跳躍上告をします。そして最高裁の田中耕太郎が出したのが統治行為論という、憲法審査の対象にならないということなんですね。
それはもう開いた口がという感じはするんですが、しかし、私たちが奮い立ったのは、結局は、国会を通じて、そして国会を選んでくる国民の問題であると訓辞を垂れている訳です、最高裁判決は。終局的には国民の判断するところなんだ。ここです。そして私たちは間接民主主義ということには直接民主主義の力あってのこと、日本の戦後民主主義には直接民主主義の力を示したことがない。ここで最高裁は、その力を示せと言ったんだという風に解釈する訳です。
ここで起ち上がらなくてどうするんだ、というのが実は砂川最高裁判決なんです。
砂川最高裁判決はどうしたって表に出て来れないようなものです。田中耕太郎がアメリカと取引をした、そう見なさざるを得ない文書というのが一昨年アメリカから発表されました。そして、今の高村という弁護士が楯にとっているのは、田中耕太郎がその時に付けた長文の補足意見。その補足意見では、自衛即他衛、他衛即自衛であるという論を展開しているんですね。個別的自衛権も集団的自衛権もそんな区別はないんだ、今や自衛といえば他衛も自衛も同じなんだということを、田中耕太郎が延々と書く。
判決そのものは、最高裁は違憲審査ができないという統治行為論ですけれども、補足意見は正に集団的自衛権の問題を扱っている。どうして自民党はこの田中耕太郎という凄まじい人、法学部長であり初の文部大臣として新しい憲法に署名した人であり、最高裁長官になった唯一の人物のこの意見を今言わないのか。これはもっともっと今から出てまいります。言えば日本が独立していないことが分かってしまう、そういう中での最高裁判決は日本の憲法の判断基準になり得ないということなんです。それを高村は分かっているだろう、当然ながら公明党も分かっている、それは言えないということです。
しかし、これが明るみに出てくれば、伊達判決をいとも簡単に覆した最高裁判決は日本の判例に残らないというになりかねないんですね。判例から消されるかもしれないような最高裁判決を基にして、安保法制を通そうなんてことは、これはどんなことをしたってできる訳じゃない。


写真10
写真10

●まるごとの無条件の全体

しかし、私たちが安田講堂決戦まで来る道のりの中の最初は、この最高裁判決にあったことを、山本にかこつけた文章の中にちょっと記しました。そして日韓会談がまいります。同時にベトナム戦争、北爆が始まります。エンタープライズはその象徴。そして私たちにとっては、あるいは山本義隆にとっては物理学会への米軍資金流入問題というのが出てまいります。その中で私たちはベ平連の結成というものに対して、ある対抗意識を持って、ささやかに30名ほどでベトナム反戦会議というものを、理系の大学院を中心として起ち上げました。その中心になったのは、お茶の水大から阪大、そして東大にやってきた所美都子という生物学の大学院生、新聞研の研究生になってきた女性です。そのことをレジュメにちょっと載せました。ここにまるごとの無条件の全体ということが出て参ります。
組織、それも軍事化した組織、生産とは軍事である。精神的作業だろうが何だろうが、生産が軍事化されている。そして組織、制度化されている。それに抗するにはどうしたらいいか。もちろん解答はないです。ただ、民主主義の混乱期あるいは民主主義の育成期あるいは冷戦の真っただ中ということの中で、自由主義陣営の勝利ということを言いながら、その矛盾をあっという間に深化させていく、その中で全体というはどうなのか。私たちには、高木仁三郎もそうですけれども、どうしたって宮澤賢治が出てくる。
その全体という事に向かってどのように踏み出すのだろう。あまりにもアレルギーは強すぎます。全体と言ったら、もうそこで話は終わりみたいな雰囲気です。しかし、翻って考えれば、学問というのは一体何を目的としてやっているのか。そして、その方法的な意識というのがその後やってくるというのが、『惘想(もうそう)』という、そして物理学がまっしぐら進んでいった、そして湯川秀樹に始まり南部陽一郎に終わるという素粒子学の中で、真空における対称性の破れというところまでやってまいりました。それは弟子筋のヒッグスが実験的に証明してみせるということになる訳でありますけれども、ここまで来て、そして全体というものが、例えばゲシュタルト心理学におけるように場ということ、あるいは生物学のホーリスティックな立場というのが場を想定せざるを得ないということにおいて、場の問題というのをどうするか、場においてということがどのようにこの私たちの問題意識と繋がるかということであります。

●いのちはいのち

実は私たちにとっては場の理論におけるナル言語と言われる日本語の問題がある。場というのが、なりゆき、情況、感情抜きには成り立たない場です。この場というものについて、これをいのちと名付ける、そういう合意ができますか。ハンチントンの『文明の衝突』というのが20世紀を指し示している訳でありますけれど、この20世紀において、そのような合意というのができるか。無ではだめなんですね。残念ながら荘子にしても老子にしても、もちろん神はだめです。神そのもののぶつかり合いによって20世紀の危機というのが生ずると言っている訳ですから。そして、言った途端に、それは俺のことか、貴方のことですよという感性、感覚というのが聞いてくる。そういうものとしていのちというものを、この場と名付けるという合意が、今、求められている。あるいは、これから21世紀はそういう風に進んで行くだろう。そうしなければ樺さんも山﨑君も浮かばれないですよ。
いのちはいのちなんです。そしていのちは貴方であり私なんです。
私は1976年から重度複合障害の娘と暮らし始めるという、暮らし始めるなんて言うのはおこがましいですけれども、しかし、この星子と対話する、星子はものを言いません、自分で食べもしないし目も見えないし、排泄の始末もしない。まるごと口の中に入れたものを飲み込むんでありますけれども、38歳になりました。やはり私にはいのちという実感は、自分がいのちだというよりも、貴方がいのちだということが星子とだぶってくる。それは他の人びとと同じに普遍できていくという事であります。
私たちが学問としてはっきりさせたいということが、実は全共闘以降、すぐに真理はない、サイエンス研究から真理の探究が消えました。それをひとつにいろいろと動く訳でありますけれど、真理の探究じゃなくて何をもって探究するのかということが無い。無いままにサイエンスは制度・組織の中に取り込まれて、あまりにも無惨な姿になってしまう。そうじゃない。学問はそうじゃないです。その時に方法も目的も共に問題にするものとして、いのちというのが登場してきている。そして、いのちは無量価値である。価値を測れない、『いのちは地球より重い』などというせこいことを言っている場合ではない。
しかし、星子のいのちが例えば人の暴力によって失われたとすれば、私はその人に向かって、やはりその人のいのちを奪うかもしれない。そういういのちです。
この21世紀、1920年代から100年目にあたって、もちろんそうそうたる学の権威が揃っています。そこのところをもう1回立ち返りながら、私たちは行動していく、あるいは知的な努力をしても、いのちという場はいのちだということ、そして貴方も私もいのちだということをモットーにして進めないものか、という風に考える訳であります。
終ります。」
以上が最首悟氏の講演であった。


写真11
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司会(佐々木幹郎)

「どうもありがとうございました。後半になるにつれて熱を帯びてきて、最首さん、星子ちゃんはもう38歳になられたんですか。僕は星子ちゃんが生まれた日のことをよく覚えています。とても後半は面白かったです。最初は何を言っているのか、どこへつなげるのかなと、ここは東大全共闘のおかしなところで、山本さんは人間関係のコミニュケーションはとても下手なんですが、話はとてもうまい。最首さんは人間関係、コミニュケーションが無茶苦茶うまいんだけど、話は何を言っているのか分からない(会場爆笑)。今日は後半、熱を帯びてとても面白かったです。どうもありがとうございました。」

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付【講演のレジュメ】

焦点なき「場」について―「いのち」は「いのち」

§いのちはいのち

・いのちのことはわかりません 立岩真也「いのちとはなにか」シリーズ①~③不登校新聞、2009/11月
――最後に「いのちとはなにか」という質問をさせてください。
去年、慶応大学で最首悟さんと講義をしました(連続講義「いのち」から現代世界を考える』岩波書店)。そこで最初に話したのが「いのちのことはわかりません、おわり」と。今回もそういうことです。
「○○とはなにか?」という問いは、よくわからないことがあるんです。その問いに意味がある場合、ない場合、何を問うているのかわからない場合、答えてもしかたがない場合、答ないほうがいい場合、いろいろな場合があります。
少なくても、私には生きているということがどういうことなのか、よくわかりませんし、わからなくてよいようにも思います。そして、いのちとはなにか、その問いに答えようとする欲望が私には足りません。また、いのちとはなにかという問いに、答えがなくてもよく、一つじゃなくていいとも思っています。べつにいのちの大切さやすばらしさなどをいっしょうけんめい言わねばならないとも思いません。死ぬより生きているほうがいいだろう、というぐいのことです。だけど、もっともらしいことを言って、他人に「死んだほうがい」などと言っている人たには、「それはちがう」と言ってきました。それを説明するのは私の仕事です。
――ありがとうございました。(聞き手・石井志昂)
・「いのち」をめぐる断章 立岩真也『「いのち」から現代世界を考える』高草木光一編、岩波書店、2009/6月
「いのちのことはわからない。終わり。結局はこれに尽きていますが、すぐ終わってしまう話をどう終わらせないかという話になると思います。

基点

私は一九六〇年の生まれです。ですから一九七〇年は一〇歳、六八年は八歳、小学校二年生です。そして私は佐渡島に一八歳までおりました。都で何が起こっているのか、ぴんときていなかった。六八、九年あたりの最首さんたちのご活躍は、リアルタイムにはほとんどわかっていなかつたです。ただ、そういう世間知らずの私でも、七〇年前後に水俣の人たちが東京に莚旗立ててやってきたのをテレビかなにかで見たという記憶はあります。あとで文学部に行く、社会学、社会科学をやがてやることになる、それにはその記憶が関わっているだろうと思います。
どんなに田舎に住んでいても、中学生から高校生くらいになると、いかなる出来事が起こって、そこで何が言われたか、すこしは知るようになります。私の場合、社会科学よりも、音楽やアートからやってきたものから、面白そうなことが起こってきたという感じはしていました。基本的にそこで言われたポジティブなことは、「いのち」や「生」を大切にしましょう、というものすごく単純なことであったかもしれません。しかし、それが可能であるために社会は組み立てられなければならないし、組み換えられなければならない。最も短く言つてしまえばそういうメッセージだったと思います。私は一回り送れている世代ですが、とくに「学問」に限定しない出発点、根っこでは、その時代、その世代から、そのようなまったく身も蓋もないメッセージといいますか、を受け取ったという気持ちが確かにあります。私が大学へ入ったのは七九年ですが、いわゆる「学生運動」、それより広く「社会運動」と言われているもののある型のものは、七〇年代に入ってからだんだん退潮していきました。そういうものからある部分をもらったという確かな思いと同時に、その次をその人たちが考えてくれなかったという思いがどうしてもあります。つまり、ベースにある基本的な価値は、曖昧でありながら確かなものであるわけですが、その曖昧な部分をどう整理していくか。さらに、その次のために社会をどう組んでいくのか。それが問題であったはずです。過去何百年、さまざまなアイデイアは出されてきました。そうしたものを継承し、あるいは否定し、破壊する思想もあったわけですが、途中で止まってしまったり、なんだかよくわからないことになってしまった。そんなところに立たされているように、だんだんとですが、私は思うようになりました。

おわりに

最初に私は「六八年の世代の人たちは社会体制をめぐる問題についてもっと考えることを続けるべきだったのにそれをしてくれなかった」と言いました。その世代から受け取るものは確かにあります。しかし、彼らの理念や想念を表した言葉が、数十年のときを経ていま微妙な食い違いを見せています。むしろその同じ言葉が彼らの理念や想念を裏切っているとも言えるかもしれません。彼らの理念や想念に立ち戻りながら、こまごまと考えること、そして社会の仕組みのこととして社会科学的に考えること、これを私は当面の生業としています。いささか迂遠になりましたが、「いのち」をめぐる話になっていれば幸いです。
・立岩真也『良い死』『唯の生』(筑摩書房、2008、2009)語呂合わせのようなもの。あまりぱっとしない生を否定しない方がよい。(序文)

§まるごと無条件の全体

・最首悟「山本義隆――自己否定を重ねて」『人々の精神史』第5巻、岩波、予定
・山本義隆「自己否定に自己否定を重ねて最後にただの人間――自覚した人間になって、その後あらためてやはり物理学徒として生きてゆきたいと思う」(「攻撃的知性の復権」『知性の叛乱 東大解体まで』前衛社、一九六九(初出『朝日ジャーナル』、1969〔3月2日号〕)・村上一朗「何の保留、躊躇も擬態も韜晦もないのである。只の人とはこういうものだ」(「呑み助三島さん――畢生の大先輩を憶う」『思想のひろば』26、2015、p75)
ただ:ぢか、直、触れているだけ、浸っているだけ、隙間がない。まぬけ、価値がない、ただより高いものはない、無償、無量価値 (小田実:ボチボチ)
・清水真木「民主主義社会を構成する一人ひとりは、自分の個人的な利益を政策に反映させるために投票するのではなく、社会全体の利益を考慮して投票しなければならないからです。自分の私的な利益は括弧に入れ、社会全体の利益になることは何かをみずから考えること、自分と意見を異にする者たちとのあいだでオープンな議論を重ねることにより合意形成を目指すことは、民主主義社会に生きるすべての者に課せられた義務なのです。 全員がこの義務を自覚的に引き受けないかぎり、民主主義は成り立ちません。反対に、この義務が義務として認められているかぎりにおいて、選挙区のあいだに一票の格差があり、さらに、たとえば有権者数や投票率に開し世代間の格差が生れるとしても、少なくとも約束としては、このような事態は、それ自体としては「法の下の平等」を損ねることにはならないはずです。」(『感情とは何か プラトンからアーレントまで』ちくま新書、2014)
・所美都子「予感される組織に寄せて」(現存する組織は全て生産性の論理に侵され、権力集中と上下関係を必須とする。それは組織の軍事化を意味するとして)。
「個々の人間がお互いに負うてきた固有な履歴を、具体的な問題解決の能力という切断面をもって分析し、位置づけることからはなれて、互いに彼そのものの存在を受け入れることによって、認めあうことになる。しかしながら、自己の存在を特定面の投影像で確かめてきた人間が、限定された映写平面なしに、自らを位置づける、そんなことが可能かという疑問をもったまま、横の伝達関係のみで結集している分権的組織等集団をわれわれは想定する」(『わが愛と反逆』前衛社、1969)
「自分の事は何んにも知らず、いのちの意味も知らないで、かわす無数の花言葉 無心に散って、ブーゲンビリア」

§惘想する立ち位置

・最首悟「『関係の絶対性』についての惘想」『現代思想』(総特集 吉本隆明――肯定の思想)2008年8月臨時増刊号
・関係性の総体 至高・指向・志向・試行・思考・嗜好 惘想
・パスカルの風船
・ジグソーパズルのピース
・おのがじし 佐々木信綱:白雲は空に浮かべり谷川の石みな石のおのずからなる
・つぎつぎとなりゆくいきおい
・場所、情況、場を導入せざるを得ない「人間」という言い方と主語なきナル言語の「日本語」

§有意味の合意へ

・ アインシュタインはある日友人から、「最後にはすべて科学的にされると信じているのか」と問われて、「そうだ。そうなるだろう」と答えた。続いて,「だが、そのことに意義はまったくない。意味なしの説明は何にもならないのだ。ベートーベンの交響曲を音波の圧力の変化だというようなものでしかないのだ」と言った。(Ronad.W.Clark,Einstein:The Life and The Times 1971)
・全体主義からの全体の救出 1920年代へ、20年代から
・サミュエル・P・ハンチントン『文明の衝突』1996、『文明の衝突と21世紀の日本』鈴木主税訳集英社新書、2000。
・〈真空における対称性の破れ(南部陽一郎)、(ヒッグス)場〉に意味ある名づけをする(理性的)合意に向けて。
・場がいのちであるとする。いのちが場であるかのように。
いのちはいのち あなたもわたしもいのちである
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第二回講演会の後半の講師は社会思想史家・政治学者の白井聡氏である。発起人の辻惠氏から講師の紹介があった。


写真12
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●講師紹介(辻 惠)

「発起人の辻惠です。昨年、山﨑博昭の没後50年が2017年に迫っているということで、何とかそれを歴史の中に刻印をしたいということで、このプロジェクトが立ち上がりました。そういう私たちの思いを、私たちの世代だけでなくて、次の世代、これからの日本を担う世代の方々にしっかりと理解をしていただき、かつ、もっと歴史的にいろいろ分析も含めて次の時代に繋げていただき言葉化をしていただきたい、というような強い思いがあります。
そういう意味で私たちは67年10・8の山﨑の追悼と同時に、私たちの前の闘いである60年安保の樺美智子さんの虐殺という事実を踏まえて、この6月にこの2つの死をしっかりと歴史に位置付けて未来につなげて行こうということで企画をしたつもりであります。そういう企画を新しい世代の方に是非参加をして伝えていただきたいという思いで白井聡さんにお願いしました。
昨年の秋以来、4回に渡って政治的なイベントで白井さんに講師として発言をいただいておりますけれども、『永続敗戦論』とかも含めて、情況を切り取るきわめて鋭い分析力と同時に、非常に言葉として、何か印象に残る言葉を必ず毎回毎回の講演の中でおっしゃるんです。ですから、また白井さんのお話を聞きたいということでリピーターが増えている。今日の会場にも、以前白井さんのお話をお聞きいただいて、白井さんだったらまた聞きに行こうということで、今日来ていただいている方もいらっしゃいます。
この4月から関西に行かれて、4月18日に大阪都構想といういかがわしい構想に反対するシンポジウムをやりましたけれども、その時も白井さんが来ていただいて、的確な鋭いご発言をいただきましたけれども、その時に、自分は関東の生まれだけれども『関西の方が性に合うな』というようなことをおっしゃっておられました。わざわざ今回、東京に来ていただきました。是非、今の最首先輩のお話を引き継ぐ形で白井さんから30分間お話を伺わせていただければと思います。よろしくお願いします。」


写真13
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3.白井聡氏の講演:3・11以降の「いのち」の問題

「皆さん今日は。ご紹介にあずかりました白井です。今回、話してくれという話をいただきまして、そして、いのちの問題、いのちを考えるというお題をいただきまして、普段、何と言いましょうか、安倍内閣がどうしてとか、安倍政権がどうしてとか、よく考えればつまらん話なんですけれども、まあしかし、世の中が大変つまらんことに、つまらんと言いながら重大な事にはなっているので、どうしてもそれに対応せねばならず、そんなような話ばかりしてしまう、そういう日々を過ごしておりまして、私も一応、社会哲学とか政治哲学とか、そういう方向から勉強してきた人間ですので、たまには本格的な問題について考えなくてはいけないということもあり、今回の話を引き受けさせていただいた訳であります。

●3・11は戦後的価値観の外皮を吹き飛ばした

さっそく本題に入って行きたいと思います。最初に山本義隆先生からお話もあったように、3・11によって戦後の影の部分というものがあふれ出て来たというお話がありましたけれど、私も全く同感でありまして、戦後という時代というのは平和と繁栄、民主主義というようなフレーズによって、非常にしばしば説明がされてきた訳でありまして、一言でいえば、それっていい時代だったですよね、という解釈がされてきた訳です。
しかしバブル経済の崩壊、それから冷戦崩壊という形で大きく政治経済の状況が変わる中でどうも調子が悪くなってきたな、ということで、最初は失われた10年ということを言っていた。失われた10年で何とかなりませんかね、どうにもなりませんね、どうにかしなけりゃ、どうにかしなけりゃ、と言っている間に失われた20年と言われるようになってきて、つまりこれは平和と繁栄というものがだんだん損なわれてきたということを意味する訳です。そこに対する不満や不安というものが広がってきていた訳ですけれども、それにとどめを刺すように起きたのが3・11だったと言えると思います。
そこで現れたのは何であったのかというと、これはずっと昔から指摘されてきたことではありますけれども、民主主義国家になったとは言うけれども、実情は本当はどうなんだと、かつての戦争指導者層みたいなものがずっと権力の座に逆コースを通じて居座っているじゃないか、ということがさんざん言われてきて、そこのところを何とか誤魔化してやってきた、というのが戦後の時代のすごく大掴みに言えば実態であったということになろうと思うんですけれども、その隠されてきたどす黒い部分というものが、あの原発の建屋がドーンと吹っ飛ぶのと同時に、いわば戦後民主主義の時代の民主主義や平和と繁栄という価値観が覆い隠してきたものが露出してきた、と言う風に見ている訳です。つまり外皮が吹き飛ばされた、外皮が吹き飛ばされたその中には何があるかというと、フクイチの現場にはドロドロに溶けてしまった核燃料がある訳でありますけれども、政治状況、社会状況ということで言えば、こちらもドロドロとした情念ですね、戦後民主主義、そんなものは憲法と同じで押し付けられたものじゃないか、そんなものはいらないんだという本音、これがドロドロと渦巻いている、それの一番最悪の表れが例えば排外主義の運動などという形で現れていると思うんですが、そんな状況が3・11以降展開されています。


写真14
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私はあの事故が起きた事自体も大変ショックでありましたけれど、その当時、またこれは現在までも引き継いでいる事でありますけれども、この社会の人びとのこの事故に対する反応というものに対して、ある意味で事故以上の大きなショックを受けているかもしれません。というのは、あれで明らかになったのは、日本人は生物としても生命を持つ存在としての本能というのが壊れている、あるいは失っているのではないか、そう思うからなんですね。

●3・11で感じた不気味さ

私自身はあの事故の当時どうしたかと言いますと、妻の実家が名古屋にありまして、まず3月11日、最初は地震と津波が起こり、その後原発大丈夫かなと思っていたら、案の定ということになった訳ですね。夕方だったか夜だったか、電源車を呼んでいるというニュースを聞いた時に、ああこれはあかん、と思った訳です。電源車を呼ぶということは、その現場だけで物事が完結しない事態になってしまったということ意味する訳ですから、これまで経験したことがないような事が起こるのではないか。私は当時、原発のことに対して全然詳しくなかったので、よく分かっていなかった訳ですが、がしかし、ともかく直感的にこれは何か大変まずいことになると思いました。それで2、3日経ったところでこれは非常にまずい、これは東京からの大脱出ということが起きてくるんじゃないかということを予感しましたので、名古屋に妻の実家があるものですから、ひとまず動こうということで、微妙な情勢に立ち至った訳です。一方で名古屋の妻の実家にころがり込むということになると、それはそれで向こうは非常に心配するでしょうし、他方でこれはもう早く動かないとダメだろうと、これ以上、事態が決定的に悪くなると脱出不能になるだろうということも考えました。なので、中間的に岡崎市あたりまで行きまして、そこでとりあえず様子を見ようということになりました。その当時、名古屋から高速道路にいまして思ったものです。眠かったので夜寝たんです。それで朝まだ暗い時間に目が覚めて、窓を開けてみたらきっと高速道路がとんでもない渋滞になっているのではないかと思って窓を開けた。しかし、そんな事は起きていなくて、普通に車は流れている。その時私は思ったですね。ああ壊れているんだな、と。というのは、こうやって今、このような集会が出来ている、つまり日常生活が出来ているというのも、これも全くたまたま運が良かっただけの話であって、もうちょっとだけ運が悪ければ、それこそ当時の吉田所長や菅首相が予測した最悪の事態、使用済み燃料が溶け始めて手が付けられなくなるという事態、これで東日本全部がダメになるというような事態が紙一重で回避できたということですね。たまたま運が良かったことだけの事であります。
こういう事があって、首都圏の人間にしても直接的に近い形で生命の安全を脅かされたに等しい事態が生じた訳です。しかし、ああいう事になっても、東京から首都圏から人口大移動、いくらかは起こったみたいですけれども、パニックに至るような大移動というものは起きなかった。これに関して、日本人というものは冷静沈着な判断が出来て落ち着いた国民である、などということを論評する人たちもいるようですけれども、私に言わせれば正に愚かの極みであります。脱出しなくて、結果として首都圏から緊急の脱出が必要なほどの危険性はなかったということは確かですけれども、それはたまたまです、もうちょっと運が悪ければそういう事態になっていました、という話であり、結果としてそういったパニック的な脱出が起きて、それはそれで確かに大きな問題が生じただろう。例えばその過程で交通事故が起きるなど、死傷者が出るということがあったかもしれない。だけれども、それだって結果論であります。ある意味、私は生物としての健全性ということから考えるならば、脱出パニックが起こって、そこで車が衝突して犠牲者が出るというくらいを、よっぽどこれは生き物として健全であろうと私は思う訳なんですね。
というのは、生き物というものは、例えば自分の部屋に入ってくる蚊であったりハエであったりしたって、これをうるさいなと思ってやっつけようとすれば逃げる訳ですね。殺されたくない、殺されてたまるかという行動を取るのがあらゆる生き物の原則であるはずです。がしかし、日本人はそのような生き物としての本能というのを失っているのではないかということですね。私は今、ある意味、この国の社会に、あるいは隣人たち感じる不気味さというものはそれであります。


写真15
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●日本人の行動としての集団主義

一体、何時からこういうことになってしまったんだろうか。これはなかなか難しいところなんですね。今、生命保存の法則という、生命というのは必ず自らの生命延命というか延長を図る、その脅威から逃れるという行動を取るだろうということを申しましたけれども、それじゃあ、どういう行動を具体的に取るのか、危ない事があったら一目散に逃げるというのが大体の本能なんじゃないかと申しましたけれども、がしかし、これはおそらく生物学の世界でも様々な研究がされてきながら、また、なかなかこれこそ大変難しい問題、そう簡単に結論が出ない問題だと思いますが、一目散に集団から離れて逃げるというのは、おそらく一つの行動の一パターンに過ぎないのだろうと思う訳です。例えば魚の群のようなものがあります。何であれは群れを成して泳いでいるのだろうか。大きな魚がそれを食らおうと思ってやってきて、そうしたら、蜘蛛の子を散らすように散るかと思えばそうはならない訳ですね。あくまで群れの形状を保ったまま逃れるような運動をするということがあります。あるいは、アフリカあたりのサバンナに行って観察してみると、草食動物が肉食動物から捕捉される時に、あくまでも群れの単位で逃げる。それで脱落したものがライオンとかに食べられてしまう、ということが観察されるようです。ですから、これを大雑把に一般法則化してみるとどういうことなんだろうか。つまり、個体は常に自分の生命を何とか維持しようとする。その時に、いわば個人主義的な方法でそれを維持しようとするような動物もあれば、おそらくは集団の動きということに、とにかく一体化する方が、おそらくは経験則上その方が生き残れる可能性が高いという場合もあるのでしょうね。
自分の頭で判断して自分の行きたい方向に逃げるんだ、という考え方もあれば、とにかく集団が進む方向にひたすら合わせていく、その方が生き残る確率が高いと、言わば集団主義的な方法によって生き残りを図るという、どうやらたぶん2通りの方向性というのが、すごく大雑把に言えばあるんじゃないかということですね。
そう考えると、3・11当時の日本人の行動というのは何であっただろうかと言えば、おそらくそれは極めて集団主義的なものである。とりあえず左右を見渡してみて、みんな、これは何だ大丈夫じゃないかというような顔をしておる、ということは大丈夫だと思うことにしよう、こういう訳ですね。おそらくこれは諸国民、諸文化、諸民族によってかなり行動様式が異なることであって、おそらくこれは日本文化論的な説明で言えば、こういう日本人の行動、集団主義というのはおそらく水稲耕作文化というものが、水稲耕作の伝統というものが影響しているのだろうなどというような説明がしばしばなされる訳ですね。つまり稲を作るというのは、村落共同体でとにかく一丸となってやる外ないから、集団の決定というものには 四の五言わずに従うしかないということで、何百年か何千年か分からないですけれども、かなり長い間やってきましたので、もうそういう行動様式、思考習慣というのが完全に内面化されて当たり前になっているというような説明がある訳です。いや、それだけじゃないでしょう、日本人だっていろいろいるはずでしょう、ということを主張をして、いわばそういった水稲耕作文化に基づけられた日本人の自然な集団主義のような見方を批判したという方もいた訳ですが、どっちが本当の日本人なのかということを言いだすと、それこそ非常に本質主義的な言い方になってしまうので、おそらくどっちの傾向というのもあるでしょうし、一人の人間の中にその両方の傾向というものはあるでしょうし、そう簡単に結論の出る問題ではないと私は思っています。


写真16
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●戦争の実体のあまりの非合理さと残酷さ

それで、こういった前提を置いてみた上で、戦後って何なんだろうということを少しお話したいと思うんですけれども、やはり戦後という時代には一つ特殊な意味があると思うんですね。日本の戦後というのは特殊だと思います。何故かと言うと、戦後という時代区分は既に70年に達しようとしている訳ですけれども、これは大変長い。このように長い時代を一つの時代区切りとしている国というのは、たぶんあまり他にないだろうと思います。例えばフランスの文脈で言えば戦後というのは、インドシナ戦争、アルジェリア戦争が終わって初めて戦後ということになるのでしょうし、例えばソ連、ロシアだったら90年前後にソ連崩壊という歴史を画する出来事が起きている訳であります。
ではその特殊性というのは何なのか。おそらく日本人が戦後という言葉を使う時に、自然と二つの意味をそこに含ませているのだろうと思うんです。それは何かと言うと、一つには第二次世界大戦の後という、これは世界共通の意味です。もう一つは何かというと、戦争一般の後ということだと思うんですね。つまり、もう戦争は起こらないというある種の了解であります。もちろんこれは現実に反する訳です。確かに日本自身は自ら主体となって戦争することは70年間なかったけれども、米軍に基地を提供し、そして日本にその米軍基地があるということを抜きにして、アメリカの世界戦略というものは全く成り立ち得なかった訳ですから、今もそうですが、ですからアメリカは大中小の戦争をずっと続けてきた訳です。だから、戦争が全部終わった後の時代などということは、決して言えないはずなんですが、不思議なことに日本人は何となくそう思っていると思うんですね。だから日本はもう二度と戦争をやらない、少なくとも日本はやらないのだから、いわば戦争と言うものと手が切れたいい時代だと、こういう了解というもを、戦後という言葉によって暗黙のうちにしていると思います。
その歴史感覚、あるいは言語感覚というは一体どこから来たのか。それは、私がこれからもっとちゃんと腑分けして考えていこうと思っているんですけれども、一つには原爆の体験というものがあるだろうと思います。それこそ、昭和天皇ですら玉音放送の中で言っている訳ですね。『残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻リニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ』、これは原爆投下のことを言っている訳ですね。こんなことをやっていたら、日本がこんな恐ろしい兵器を使っての戦争をやっていると、日本が滅びるだけではなくて人類が破滅する、大変なことだという事を昭和天皇ですら言っている。つまり、それこそ黙示録的な経験であります。現代の戦争というのはこんな恐ろしいことまでするのである、となればもう戦争なんてこれ以上出来るはずがないでしょう、という意味で、だから戦争は二度と来るまい、こういう感覚というのを持ったということが一つの要因だっただろう。
そして実はもう一つ僕が考えるのはこういうことだと思うんです。それは大日本帝国の、何と言いましょうか、人間の扱い方ですね。大日本帝国、特に軍の人間の扱い方。今でも私は本当にそれを思うと、誠に慚愧の念に堪えないと思う訳ですけれども、日本の300万人の死者のうち、大体200万くらいは最後の1年で亡くなっている訳ですね。つまり軍事的には全く意味のない、完全に勝敗のついた戦争になっていた訳ですが、国体を護持して負けるにはどうしたらいいんだろう、どうしたらそれが出来るんだろう、どうしたらいいんだ、どうしたらいいんだと小田原評定をやっているうちに200万人が死んだ。まさにいのちの軽視の極限ですね。結局、余談的に付け加えれば、今年は戦後70年、また日韓基本条約50年という節目の年になっていますけれども、結局、対外的な戦争責任の問題というのが、今もってずっと燻り続けて解決できないというのも、結局、対内的な300万の犠牲者のうち、その大部分が本当に軍事的に何の意味もない無駄死にだったという体制、その落とし前というものを全く我々自身の手で何も落とし前を付けていないこと、これが私はずっと引っかかっているんだろうと思います。そのことについての落とし前を付けられない限り、対外的な落とし前も付けることが出来ない、その能力を持たんだろうと思う訳です。
あまりにも非合理な、合理性のかけらもない戦争指導というものが行われて、人々のいのちというのは虫けら以下の扱いを受けて、消費されていった訳であります。いわば、そのようなことをやってしまうのが日本国である、日本政府であるとすれば、そして宿命的にそうであり続けるのであるとすれば、もう二度と戦争なんて出来る訳ないじゃないですか、というのがおそらく戦後というものがもう二度と戦争をやらない時代という風に日本人が思うことの、実は無意識的な根拠になっているんじゃないかと思うんですね。
つまり、あの戦争以降、みんなのために誰かが犠牲になる、誰かが犠牲にならねばならないのだというレトリックというか論理を誰も使えなくなった。あまりにそれが胡散臭い、あの戦争の具体的経過というものを見るに、みんなのために、そのみんなということが実は天皇陛下のためにというものだったという話がありますけれども、天皇というのは国民の結晶、国民の象徴として、天皇イコール国民全体そのものという形で思念されていた訳であって、そう考えると、天皇のためあるいはみんなのために死ななければならない、犠牲を払わなければならない、いのちを捧げなければならない、それこそが最高の生き方であると戦中は言っていた訳ですけれども、その実体たるやどれほどひどいものであったかということが、多くの人がそれを自ら経験し、そして様々な事を知るに至って、戦後もはや誰もみんなのために犠牲になれということを、決して言えない社会になったんだろうと思うんですね。
ある意味それは、ある種の社会的イデオロギーとしては生命至上主義あるいは個人主義として現れてきたんだろうと思います。つまり、とにかくいのちは大事である、それから全体的なものへの嫌悪というものが、あの戦争の経験を通じてものすごく強くならざるを得なかったんだというのは先程最首先生がお話をされた中にも出てまいりましたけれども、これは歴史的経験からして当然の事だっただろうと思います。つまり、全体なんてものは、はなから絶対碌でもないと、個人の方が絶対大事な個人主義しかない、日本の戦後の右翼というのは、そういう生命至上主義や個人主義というのは戦後民主主義の悪しき部分なんだ、というような批判をずっと繰り返してきた訳です。

●いのちを守らない権力とどう闘うのか

そして3・11を迎えた。私はそこで、一つやはりこれは容易ならざる事だと思わざるを得ないのです。というのは実際あのような事故が起きてはならないことなんですけれど、起きてしまいました。起きてしまった時、起きてしまったからには何とか食い止めねばならないということになった訳ですね。その時、生命至上主義や個人主義ではどうしたってこれは食い止められない訳です。というのは、これも正に運よく最悪の状態にはならなかった訳ですけれども、それこそチェルノブイリのような形での放射性物質の露出ということが起きてしまうと、ある種、誰かが決死部隊で突っ込んで止めるということをせざるを得なくなる。現状だって、ある意味、それがチェルノブイリに比べれば緩和された形でそうなっている訳ですよね。現実にあそこで被曝をしながら作業をしている人たちというのが、今日、この日もいる訳です。正にこれは犠牲であります。ある意味、みんなのために犠牲を払う、いのちへの危機、リスクというものを冒して犠牲を払うということが現にされているし、それが必要になってしまった、そのような状況を私たちが残念ながら作ってしまった訳なんですよね。


写真17
写真17

こういう事態が生じてきてしまったということは、これもまた一つ、いわば戦後の地金が露出したということの一環なんだろうと思うんです。そしてまた、ある種、戦後の価値観というものが、今日生じてしまった状態に対して、実際的な解決を図れないという無力さをある種呈しているということでもあると思います。
では、戦後的価値観というものがある種破産しているのだとして、私たちはどういう価値観を見つけ出していったらいいのか。それがもちろん、いわゆる今の安倍政権に代表されるような右翼的なものへ回帰するなどというものが全くのお話にならない代物であることは、もちろん申すまでもない。がしかし、さりとて戦後的価値観をもう一度、そのまま更新しないでやっぱりこれが大事なんですよと言っても、残念ながらそれはもはや大衆の心を掴めない、そういう時代に入っているだろうと思います。
その時、果たして私たちは、いのちを守らない政府なんだということが明らかになったという風に山本先生がおっしゃいましたけれど、正に私もその通りだと思います。
じゃあ、そのいのちを守らない権力とどう闘うのか、そしてその闘いはある意味で本当にいのちがけになってしまうかもしれない。いのちがけになりながら、ある種いのちがけになるというのは恐ろしい話で、それは自分のいのちを粗末にすることになりかねない。
でも、いのちを粗末にするのではない形で、しかしある種死に物狂いの闘争をしなければならない。果たしてそれは具体的にどういう形をとらなければならないのか。私もそれは今なお考え続けていることであり、また簡単に答えが出ないことであり、考え続けなければいけないし、また実際にしなければならないことだと思っていますが、それこそ今、本当に問われている問題であろう、という問題提起をして私の話を終わらせていただきたいと思います。
どうもありがとうございました。」

司会(佐々木幹郎)

「どうもありがとうございました。戦後の地金が出てきた。その地金の中で人間のいのちという価値観の問題が、実は戦後の中で誤魔化されていた問題が、今問い詰められてきているんだという最終的なまとめがありました。どうもありがとうございました。
今日は最首悟さんの『焦点なき場についてーいのちはいのち』という講演と、白井さんの『3・11以降のいのちの問題』という講演の2つで締めさせていただきます。」

4.参加した発起人からの挨拶

司会(佐々木幹郎)

「今年の秋、第三回目の講演会を開きます。10月10日です。そして大阪でもやります。11月7日に御堂会館で15時から山本義隆さんの大阪での初講演をやります。私たちは、こういう形で連続講演会をいろんな角度からやっていきたいと思います。
それでは発起人のご紹介をいたします。歌人の道浦母都子さんです。」

●道浦母都子(歌人)

「さきほど最首先生が新書の帯に書かれている歌――明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし――を紹介してくださいましたが、その作者でございます。」


写真18
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●山中幸男(救援連絡センター事務局長)

「山中幸男と申します。本来なら水戸喜世子さんの方が羽田10・8救援会で、今日は来られなかったので、一緒に救援連絡センターというものを作ってきた立場です。」


写真19
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●山本義隆(科学史家、元東大全共闘議長、大手前高校同窓生)

「山本です。」

●佐々木幹郎(詩人、大手前高校同期生)

「10月10日の講演は下重さんに講演していただきます。下重さんは、今ベストセラーの『家族という病』を出されていますが、それをテーマにして戦後の問題、そしていのちの問題、そして我々が受けとめてきた死者とはどこにいるか、そういうものを含めて素晴らしい講演を期待しております。」


写真20
写真20

●下重暁子(作家・元NHKアナウンサー、大手前高校同窓生)

「下重でございます。昭和30年に、歳が分かるんですが、大阪の大手前高校というところを出ました。私は中学、高校が大阪だったものですから、これは山﨑君と同じ学校です。それで、もう大学を出てNHKに勤めておりました時に山﨑君が亡くなった事件が入ってきました。その時のショックといったらもう口に出来ないほどで、いったい私は何をして生きてきたんだろうという気がしました。それが私がNHKを辞めた一つの原因でもあります。
ということで何かできないかなと思って発起人になりました。よろしくお願いいたします。」


写真21
写真21

●佐々木幹郎

「10月10日は是非期待してください。第一部は下重さんの講演、第二部は道浦母都子の短歌の朗読、そして小室等(歌手・作曲家)さんが来てくださいまして歌ってくださいます。」

●三田誠広(作家、大手前高校同期生)

「三田です。学校の先生もしていますが小説家もやっております。山﨑君とは同じ高校の同じ学年でありまして、高校時代に友人にすごいリーダーがおりまして、そのリーダーの次くらいにいろいろ作戦を立てまして、学校内にマルクス主義研究会というものを作りまして、そこに集まっていたメンバーがだんだん過激になっていって、みんな中核派に入ってしまって、私一人が文学にしがみついておりましたので、友達がみんないなくなったというショックがありまして、それが今の私の文学を作っているという風に思っておりますが、この集まりに入って昔の友達とどんどん再会できるということで、もう私も高齢者でありますけれども、戦後生まれとして、今が戦前と言われないように何かしなければならないと考えております。よろしくお願いします。」


写真22
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●小長井良浩(弁護士、当時遺族代理人)

「小長井です。こういう非常に過激な方々の中に入ってしまったんですが、一番高齢なものですから、違う世界に入ったような感じになっているんですが、しかし、私の発言が昭和42年、1967年10月8日に非常に大きな社会的な意味を持って今日に至っているという責任は痛切に感じておりまして、もう絶対に警察が嘘をこしらえて山﨑君の虐殺をつくろったということについて、生涯かけて証明していきたい。もう声もかれてきましたけれど、何とか続く限りやっていきたいと思っております。よろしくお願いいたします。」


写真23
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●福島泰樹(歌人)

「後ろの方にいたんですけれども、お話を聞いているうちに俺はやっぱりやらなくちゃいけないなと思いました。1966年、早大学費学館闘争が私の出発点です。来年50年になります。いろんな意味を含めて、ちょっとお手伝いさせていただくことにしました。」


写真24
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司会(佐々木幹郎)

「会場に声なき声の会の世話人細田伸昭さんが来て下さっております。60年安保の時から始まった声なき声の会。現在もずっと続いておりまして、私たちは声なき声の会と連絡を取り合いながら、これからも活動をしていこうと思っています。」

5.「声なき声の会」からのアピール:世話人・細田伸昭氏

「声なき声の会というのは、ご存知のように1960年に、当時の岸信介が言った『声なき声の支持がある』ということに対して、そうではないというところから始まった運動です。
私自身が1960年は小学校2年生でした。この山﨑さんが亡くなられた時は中学校3年生でした。どちらもテレビで観て大変大きなショックを受けました。一人の学生の死をこうやってこだわってずっとここに来ていらっしゃることに、私はとても尊敬しますし、私たちも1960年の6月15日に樺美智子が亡くなって、そのことにずっとこだわってきた声なき声の会です。
当時、安保ブントの学生だった樺さんなんですけれども、声なき声の会は、60年安保闘争の中の象徴的な運動の中で亡くなったと捉えています。立場もその時いた立ち位置も違うんですけれども、そのことがずっと声なき声の会の6月15日の集会を守ってきた動機になっています。私自身は1976年から声なき声の会に具体的に関わって今に至っているんですけれども、60年代の活発な活動の時代は実はよく知りません。でも、反戦と平和ということに対して、ずっと一貫して市民の立場から活動してきた、行動してきた、そして6月15日にこだわり続けた、そういう声なき声の会を大切にしていきたいと思っています。」


写真25
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10・8山﨑博昭プロジェクトの第二回講演会はこれで終了した。この後、近くの店で懇親会を行い30人の方が参加した。

(終)



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