佐々木幹郎が読む:山本義隆著『私の1960年代』――なぜ科学技術は戦争と一体となった歴史のなかでしか進化してこなかったのか
11月7日の大阪講演会の講演者である発起人・山本義隆氏の近著『私の1960年代』を一読されるようお薦めします。佐々木幹郎氏による書評をご覧ください。
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佐々木幹郎が読む:山本義隆著『私の1960年代』――なぜ科学技術は戦争と一体となった歴史のなかでしか進化してこなかったのか
「評論家のようなものにはならないでください」、と本書の著者、山本義隆は、かつて哲学者の故・廣松渉に言われたという。山本氏は1960年代末の全共闘運動の過程で、東大全共闘代表として活動し逮捕された。1年10カ月の拘置所生活の後、保釈され、しばらくしたころ、70年代初めのことだ。「あなたは立場上、今後いつまでも注目され、いろんな人からいろんなことを言われ、大変でしょうけれど、ひとつだけお願いしたいのは」と言って、廣松氏は冒頭の言葉を山本氏に伝えたのだという。
著者は書いている。「廣松さんのあの忠告は、まともに学問をやりなさいという意味ではなかったのか」。物理学徒として大学院の博士課程で研究生活を送ることを考えていた著者が、大学や学会という専門の業界で生きることを断念せざるを得なかったのは、物理学会への米軍からの資金供与を知り、ベトナム反戦運動に関わり、東大闘争で「自己否定」という言葉を使って、科学者として(というよりも一人の人間として)近代科学とそのシステムの批判を続けてきた結果だった。
著者は全共闘運動が終焉(しゅうえん)した後、闘争に関するいっさいの発言を封じていた。大のマスコミ嫌いで、メディアにも顔を出さなかった。物理学や科学哲学の研究者として、単独行を続けた。予備校の教師となりながら、90年代には、東大闘争のビラなど一次資料5千枚あまりを収集し、そのコピー版を『東大闘争資料集』全23巻(別巻5巻)として国会図書館に収めた。また、その資料の原本はマイクロフィルムとともに千葉県の国立歴史民俗館に寄贈した。科学思想史家として、近代科学の誕生をめぐる3部作、『磁力と重力の発見』(3巻、大佛次郎賞、毎日出版文化賞)、『一六世紀文化革命』(2巻)、『世界の見方の転換』(3巻)を発表し、また物理学の教育者として、優れた教科書を執筆し続けた。
このように紹介すると、著者は評論家の位置からは遠く、つねに実践活動のなかにいた、ということが浮かび上がる。その山本氏が全共闘運動以降、初めての自らの遍歴を語ったのは、2014年10月4日、東京の大田区にある小さなホールでだった。「10・8山﨑博昭プロジェクト」が主催した講演会で、演題は「私の一九六〇年代―樺美智子・山崎博昭追悼」だった。東大生だった樺美智子は1960年、山本氏が東大に入学した年に、安保闘争で国会前で亡くなった。京大生だった山崎博昭は、山本氏が卒業した高校の後輩。67年10月8日、ベトナム戦争に反対する第1次羽田闘争で、羽田空港の近く、弁天橋の上で亡くなった。ともに戦争に反対する学生運動のなかでの死だった。本書はそのときの講演の内容を主軸とし、写真資料を収め、大幅に加筆して出来上がっている。
なぜ科学技術は戦争と一体となった歴史のなかでしか進化してこなかったのか。著者の東大闘争以来の問いかけである。日本は「科学技術立国」という名のもとに、戦後の復興を急速度に遂げた。その背景には、かつての戦争期に生み出された科学技術の優位性によって戦争に勝利する、という思想があった。戦後の日本はそれを経済戦争として継続させたにすぎない。そこでは科学者の戦争責任は曖昧(あいまい)にされ、何の反省もなく、この国は理工系の優位社会を作ってきた。そのことを疑え。
文科系のわたしが読んでも、ゾクゾクするような問題の指摘が続く。原発事故のときの原子力の専門家たちがあてにならなかったことを知ってしまったいま、本書はこの国の現在から未来への進み方こそを問うている。
◎山本義隆著『私の1960年代』10・8刊、四六判368頁・本体2100円・金曜日
(2015年10月4日 熊本日日新聞「読書」科学技術優位の社会を問う を転載。)