6月11日、第4回東京講演会:和田春樹さん「市民が戦争と闘った時代」(記事と写真、2016年)
10・8山﨑博昭プロジェクト 第4回東京講演会
戦争に反対する講演と音楽の夕べ
2016年6月11日
文京区不忍通りふれあい館
第1部/講演「市民が戦争と闘った時代」和田春樹さん(元大泉市民の集い代表)
第2部/音楽ライブ「明日」VOICE SPACE ソプラノ:小林沙羅さん、ピアノ・ボーカル:小田朋美さん、アイリッシュフルート、バウロン:豊田耕三さん、チェロ:関口将史さん(トップページの動画をクリックして下さい)
司会:佐々木幹郎
皆さん、ようこそいらっしゃいました。ただいまから10・8山﨑博昭プロジェクト第4回東京公演を開きます。
今回は「戦争に反対する講演と音楽の夕べ」と題して、第1部に和田春樹先生の講演、そして第2部に詩と音楽のコラボレーション集団VOICE SPACEによる演奏をおおくりします。
最初に10・8山﨑博昭プロジェクトの代表である、山﨑博昭のお兄さんの山﨑建夫さんをご紹介します。ご挨拶をお願いします。(拍手)
山﨑建夫
こんばんは。ご参集いただき、ありがとうございます。5分間でこのプロジェクトの趣旨と経過を説明することになっているんですけども、「プロジェクトニュース」№1、№2をぜひ読んでいただきたい。
49年前の羽田弁天橋の佐藤首相ベトナム訪問阻止闘争で亡くなった弟を追悼し、かつその闘いの衝撃を契機に強まったベトナム反戦の時代を記録するために、なにか行事ができないかということで、羽田の地に記念碑をつくりたい、記念誌を残そうということから、わたしたちのプロジェクトは始まりました。ベトナム戦争に反対した闘いなのに、ベトナムの人々にこのことがいまだ正確に知られていないのはおかしいじゃないかということになって、昨年夏、発起人二人がベトナムのホーチミン市にある戦争証跡博物館を訪問して、弟の遺影を展示してくれるよう依頼しました。博物館の館長さんは、そんな運動が日本であったことをベトナムの若い人たちにも知らせたいとおっしゃられて、2017年に、ベトナム戦争証跡博物館で、10・8の闘いあるいは日本のベトナム反戦運動の歴史を紹介する展示会を開催するということになりました。これが現在、プロジェクトの3本目の柱になって動き出しています。
記念碑を建てるための土地をどうするのか、費用をどうするのか、という問題については、正直なところ、なかなかうまくいっていません。地主の方の制約がいろいろあったりします。「これはいける!」ということで一つ話が進んでいたんだけれども、その方が亡くなられた。その子どもさんにも話は通じていたんだけれども、周囲の反対がきつすぎて頓挫したりしました。
50年というのはかなりの時間の経過ですから、10・8羽田闘争を歴史的な事件と考えていいんじゃないかと思うんだけども、地元の人にとっては、なかなかそうでもない。そんな点での反発があったりして、難航しているというのが現状です。
思い切って広い土地を買い取って、そこを資料館にしようとしたら、かなりの金額がかかります。それだけのものを捻出するのは大変です。
それでも土地探しを今、一生懸命やっています。小さな土地で、小さな記念碑が建てられたらいいなぁと追求しているところです。そこは何も弟の足跡を残すということだけではなしに、やっぱり反戦運動のさまざまな曲折のなかで亡くなった人々を含めた反戦の碑にできたらいいな、と思っています。
2点目、記念誌については、すでに賛同人になってくださっている方や、ホームページで見ていただいている方には、いくつかの記事がアップされていて、読んでいただいていると思いますが、賛同人からのご寄稿をいただいて、それらを集めて一冊にしたい。
これは、作家の三田誠広さんと詩人の佐々木幹郎さんがおられますから、編集については十分やっていけるだろう、と思っています。それにプラス、あの当時の基本的な資料、展示会でも展示したりはしたけれども、それらを付け加えれば良いものができると思うんですね。
3点目のベトナム戦争証跡博物館での展示も、実は大きな壁にぶつかって、向こうで政権交代があってりして途切れかけていたんですけれども、ベトナムで展示の実績のある写真家の石川文洋さんと親しい賛同人の方から、あの話どうなっているのかと逆にせっつかれたりして、また、石川文洋さんのご協力も得られることになって、今再開しています。幸いメンバーのなかには英語に堪能な人もおられて、それは徐々に進んでいきます。
それをやっていく過程で、まず日本版でやろうよ、となっているのが、今回の展示会なんです。この展示を、英語版・ベトナム語版に訳してベトナムに持っていこうという話で進んでいます。
10・8羽田から50周年となる来年10月へ、なにとぞ皆さん、賛同人になってご協力ください。
私より年配でも各分野で歴戦の闘士という方がプロジェクトには多いです。私自身も、体も頭も自信がなくなってきているけども、あと1年はしっかり元気で頑張らなければと思っています。皆さんどうかよろしくお願いします。(拍手)
司会:佐々木幹郎
今日ここにお集まりの皆さん方は、このすぐ近くにある「ギャラリーTEN(テン)」での「ベトナム反戦闘争とその時代」展はご覧になりましたよね。(会場から「はい」という女性の声)。若干一名の方が、力強く「はい」とおっしゃいました(笑)。ありがとうございます。
皆さん、ご覧になられたと思います。たくさんの展示パネルの中に、米軍基地内で反戦兵士の人たちがつくった反戦新聞や機関誌が展示された壁面があったと思います。日本全国の米軍基地内で発行されたこれらの新聞や機関誌が、今回のように勢ぞろいして公開されるのは本邦で初めてのことです。また、写真家の北井一夫さんが撮影された10・8の弁天橋での闘いの連続写真も本邦初公開です。
ギャラリーの展示のなかに、「大泉市民の集い」のコーナーがあります。朝霞の米軍基地にあった野戦病院に対する市民の反戦運動を紹介しています。
実はこの「大泉市民の集い」の代表が、これから講演していただく和田春樹さんです。この朝霞米軍基地闘争が日本における米軍基地内で反戦兵士をつくる最初の運動となりました。
和田春樹先生は、ロシア史、それから朝鮮史、ソ連史含めての専門家ですけれども、「大泉市民の集い」の代表として画期的な初期の活動をされました。今日は元「大泉市民の集い」代表としてご講演していただきます。
和田先生、よろしくお願いいたします。(拍手)
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市民が戦争と闘った時代
和田 春樹(元大泉市民の集い代表)
●ベトナム戦争は不正義の侵略戦争
ご紹介頂いた和田春樹です。私の話のタイトルは「市民が戦争と闘った時代」と付けさせていただきましたが、この場合「市民」というのは、人間が自分の主体的な意思にもとづいて、自分の判断にもとづいて戦争と闘った、そういう時代をつくった「市民」という意味です。この「市民」の中には、当然ながら羽田で闘った山﨑博昭さんのことも入っております。私も当然入っている。そういう気持ちでお話させていただきます。
あの1960年代から70年代の時代を振り返って考えますと、いちばん大きい問題は何といっても、ベトナム戦争というものが実に明々白々な不正義のアメリカの侵略戦争であったということです。
第二次大戦中に日本がインドシナ半島に攻め込み、フランスが逃げ出しました。その日本が降伏した段階で、ホーチミンのベトミン(ベトナム独立同盟)がベトナム民主共和国の独立を宣言したのが1945年の9月2日です。そうすると、フランスが戻ってきて、ついに1949年7月バオ・ダイを首班とするベトナム国を擁立し、再び形を変えた植民地支配をはじめたのです。ベトミンはこれに全面的な抗戦の闘いを宣言して、解放戦争に入るということになりました。
長い厳しい戦いでしたが、1954年3月、ベトナムの人々はディエン・ビエン・フーの戦いでフランスを打ち負かしました。フランスはふたたび逃げ出すことになります。こういう状況で休戦協定であるジュネーブ協定が結ばれ、17度線の北と南に暫定的に地域を分けて、そして2年後に統一のための総選挙を行うとなった。総選挙を行えばホーチミンが当選してベトナムは統一されると考えられたところ、アメリカが共産主義者の勝利は絶対に許さないということで介入して、ゴ・ディン・ディエム政権を擁立するという形で、本格的な侵略を開始するということになりました。
ベトナム民主共和国のほうでは、60年12月、南ベトナム解放民族戦線をつくり、闘争を開始しました。63年になると、仏教徒とディエム政権との対立がはげしくなり、僧ティック・クアン・ドック師が焼身自殺をしました。それからずっと焼身自殺が続けて行われて、ゴ・ディン・ディエム独裁を批判するということになりました。
アメリカはゴ・ディン・ディエムが悪いと思ったら、すぐクーデターをやって政権を取り替えるということになりました。以後、クーデターがくり返されます。
そして64年8月、アメリカはトンキン湾事件――その当時はわかりませんでしたが、今ではでっち上げ事件だということが判明しております――、北ベトナム軍がアメリカ海軍の駆逐艦を魚雷攻撃したという事件を口実に、「報復」の名による北爆を開始し、65年2月からそれを本格化させ、3月には南部のダナンに海兵隊を上陸させました。こうしてベトナム戦争が始まったのです。
最初の推移からしても、私たちとしてはこの戦争をアメリカによる侵略と見ましたが、始まっていくにつれてアメリカによる戦争はますます残酷の度を加えていきました。
アメリカでは65年の3月にはすでにアリス・ハーズさん(82歳。ドイツ生まれのユダヤ人、ナチス台頭で亡命)が焼身自殺を遂げて抗議をするという事態が起こっていました。運動側にあっても、死が現実になる、こういう戦争がベトナム戦争でした。
このような戦争ですから、みながこれに反対するのは当然だと思われますが、さにあらずでして、多くの人はこの戦争に対して行動しようとしませんでした。
●ベ平連は日米市民の連帯をめざした
その中でアメリカのベトナム戦争に直ちに抗議の行動をとった人がいました。それが、日本ではベ平連の人々でした。ベ平連の最初のデモは1965年1月17日に清水谷公園で行われました。哲学者の鶴見俊輔さん、作家の小田実さんらが中心となった人物ですが、彼らはそれまで政治運動にはまったく関係しておりません。鶴見さんは安保闘争の時に強行採決に抗議して、東工大を辞職し、「声なき声の会」に加わっておりました。小田実さんは「何でもみてやろう」で世界を回っていた人でして、政治運動は関係しておりませんでした。そういう人が「これは許すことができない戦争である」ということで直ちに行動を起こすということになりました。「ベトナムに平和を!」そして「殺すな!」という声をあげるということになりました。
そしてその場合、いかなる組織にも寄りかかることがなく個人の主体性において行動していくということになりました。既成の決まりや思想や、既成のスタイルから自由になって、新しい運動、新しい組織を創りだして、この戦争と闘っていこう、というのがこのような人々の考え方でした。
しかし、最初からはっきり決まっていたというか、決めていたのは、日米市民の連帯を追求することです。戦争をしているアメリカのなかに戦争に反対する市民がいる。その市民と連帯して戦争に反対していこうという考え方でしたが、このような日米市民の連帯というものは、それまで存在しなかったことです。
それまでの平和運動というのは、日本共産党、日本社会党、総評など政党の活動家、労働組合員を中心とする運動でした。決まりやしきたり、思想に、ある意味で縛られた運動を展開していたとも言えます。もちろん、身近な生活にかかわるテーマを追求する運動もあったのですが。ただ、その運動からは日米市民の連帯という考え方は出てきませんでした。
ベ平連は、行動することを考え、最初に打ち出したのが定例デモというものでした。ひと月にいっぺんずつデモをする。戦争が終わるまで、毎月毎月デモをし続ける。そういう運動の形を通じて、市民の戦争反対の意志を表そうとしたのです。
そして同じ考えの人々がみな各地で同じような定例デモを組織するようになりました。名前は名乗るなら名乗ってもいいし、別の名前でも構わない、地域のだれだれがやっているとして連絡してほしい、できることをなんでもやっていこう、というものでした。
日米市民連帯のためにまず、ニューヨーク・タイムズに意見広告を出すということが企画され、広く賛同を呼びかける行動をやりました。それから、いわゆる講演会とはちがって、参加者が自由に意見を出し、議論するティーチ・インというのをやりました。さらにアメリカから歌手のジョーン・バエズを招き、ベトナム戦争反対の意志を歌に託して広げるという形で、反戦フォークソングをみんなに広めました。
そういうふうにしてベ平連は、それまでにない個性的な運動として日本社会に一躍登場したというわけです。
この運動は出発してから一年半後の1966年12月10日、アメリカ兵に向けてビラを作成し配るという行動に出ました。これは画期的な行動でした。Message from japan to American soldiers というビラです。今日展示会でご覧になったかも知れません。最初のビラは、何をしろ、というビラではありませんでした。よく戦争のことを考えて、何らかの行動を起こしてほしい、ということでした。そういうビラをベ平連がアメリカ兵に配ったことは非常に大きい意味のあることでした。
●人々に強い印象を与えた山﨑博昭さんの死
明けて1967年は、大変なことになりました。アメリカも大変だったし、日本も大変なことになったわけです。ベ平連はこの年、韓国軍を脱走し、平和憲法下の日本への亡命を求めて密航してきて、逮捕され大村収容所に入れられていた金東希(キム・ドンヒ)という青年の救援活動に入りました。
韓国軍はアメリカに求められて、ベトナム戦争に参戦しました。朝鮮民族としては、ここで汚辱の歴史を刻んでしまったわけです。しかし、ベトナムの戦場へ行けということに対して嫌だと言って脱走して日本に来た韓国人兵士もいたのです。ベ平連は彼を援助することになりました。日本政府が亡命受け入れを拒否したため、韓国へ強制送還される危険があり、金東希は自分は北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国に行きたいと言いました。ベ平連はいろいろ働きかけをして、韓国への強制送還だけはさせませんでした。日本政府はついに金東希を北朝鮮に送りました(68年1月)。彼が望んだ亡命先の北朝鮮に行けば、それでいいことになるだろうと、ベ平連としては期待しました。しかし、実際はどうだったかわかりません。後に、小田さんが北朝鮮に行ったとき、金東希に会おうとしましたが、その人の存在はわからないということでした。金東希は北朝鮮のなかで消えてしまっていました。
ベ平連は67年4月3日にワシントン・ポスト紙に意見広告を出します。「殺すな」という大きな字が入ったものです。その字は岡本太郎が書きました。そして「殺すな」の字をとって、反戦バッチ、「殺すなバッチ」というのを作って、みんながつけることが運動になったわけです。そういう新しい運動を創意工夫でつくり出し、運動を続けていました。
その中で、67年の秋になって起こったのが、佐藤首相の南ベトナム訪問に反対する羽田での学生たちの闘争でした。そこで京大生の山﨑博昭君が亡くなるということが起こりました。ラディカルな学生の運動がベトナム反戦運動に取り組んできたこと、その中で一人の学生が命を落としたことが大きな衝撃を与え、人々に強い印象を与えた、こういうふうに思います。
●イントレピッド号の脱走米兵を支援
アメリカではどうかというと、10月21日はワシントンD.C.で10万人の反戦デモが起きます。日本とは桁が違います。
そして10月26日にアメリカの空母「イントレピッド号」の水兵4人が脱走して、ベ平連に援助を求めるということになります。ベ平連は非常に驚いたと思います。震えながら大変なことだと受け止めたのでしょうね、きっと。そしてこの人たちを日本から外へ出すということで、ソ連大使館に連絡しまして、ソ連船に乗せて横浜から日本の外へ送り出すということをしました。11月13日彼ら4人がナホトカ号に乗って出港したところで、記者会見をしました。ベ平連自身が犯人隠匿とか密出国幇助とかどういう罪に問われるかわからない、というほど緊迫していました。だからせめて東大教授を記者会見に出席させようと考えたと言われております(笑)。日高六郎先生がその場に同席したのでした。
ベ平連の人たちは、これによって自分たちが何か違法行為の罪に問われるのではないかと考えていたのですが、実はそうならなかったんです。しかし、この行為は決定的な、大変なことでした。アメリカ兵が脱走し、その脱走したアメリカ兵を日本の市民が日本の国外に送り出すという行動をとった。これは国家秩序に対する大変な挑戦ですよ。
一方、記者会見の2日前、11月11日に、エスペランティストの由比忠之進さん(73歳)が佐藤首相の訪米に反対して首相官邸前でガソリンをかぶって焼身自殺をするということが起こりました。由比さんは翌日亡くなられました。この死も多くの人々に強い印象を与えたわけであります。
このベ平連の行動、「イントレピッド号」の4人の水兵脱走問題は国際的にも非常に大きな事件でした。アメリカでは11月19日にニューヨーク・タイムズ紙に「戦争に反対するベトナム帰還兵の会」が、意見広告を載せるということになりました。大きな反響を呼び起こしたのであります。
市民が戦争は許さない、ということで、自分のやれることをやっていく、そしてこの戦争を批判していく――こういう決意で始まった市民の運動が、現実に戦争しているアメリカ軍に直接的に打撃を与えたのです。そういう行動に踏み出すことになったという意味で、イントレピッド号脱走米兵事件は決定的な転換点でした。
●エンプラ佐世保寄港阻止に始まった1968年
68年になりますと、一層世の中の動きが激しくなりまして、状況全体が激しく、暴力的にもなりました。1月19日には、アメリカの空母エンタープライズが佐世保に入港しまして、反戦青年委員会や全学連はここにこぞって結集しました。ある意味でいうとアメリカの空母に反対する人々のあらゆる抵抗が佐世保という舞台を通じて全国に非常に大きな印象を与えることになりました。
その2日後、北朝鮮の特殊部隊がソウルの大統領官邸の裏庭にまで進出し、大統領官邸に突入しようとしました。そしてほとんど全員が全滅することになりました。さらにその2日後には、北朝鮮の海軍がアメリカのプエブロ号を元山沖で拿捕することになりました。なぜ北朝鮮がそのように対応したかというと、韓国軍がベトナムで戦争している、それに対して自分たちはベトナム人民を助けるために韓国に攻め込んで朝鮮半島に第二戦線を開くんだという考え方です。
その一週間後に南ベトナム民族解放戦線がテト攻勢をやりまして、最後にサイゴンのアメリカ大使館に突入するという情勢になりました。一時期は大使館の建物を占領して戦い、結果、全員が射殺されてしまいます。
日本の国内ではどうかというと、ベトナム戦争とは直接関係がないわけですが、静岡県清水市のキャバレーで在日朝鮮人の金嬉老(キム・ヒロ)が日本のヤクザ2人をライフルで撃ち殺し、そして寸又峡の旅館に立てこもって清水市警察署長に対して謝罪を要求するという挙に出ました。とても大きな事件でした。清水市出身の私にとっても大きな衝撃を与えるものでした。
さらに2月26日には三里塚空港建設反対の農民、学生たちの闘争がありました。
要するに、アメリカのベトナム戦争は恐るべき暴力をもってベトナムの人々を殺していく、悲惨な、とり返しのつかない戦禍が拡大する、それに対して抵抗する人々による今や暴力的な抵抗というものが起こらざるをえないという状況になっていた。そういう時に、4月5日、アメリカでマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されました。
こういうベトナム戦争をめぐる状況が、ベ平連の運動に参加している、あるいはその周りにいる市民たちに、何をすべきかを問うてきたのでした。
●キング牧師暗殺を契機に大泉市民の集いを立ち上げた
ぼんやりと生きていた私にとっては、マーティン・ルーサー・キングの暗殺が引き金になりました。遅すぎたわけですけれども、一人の市民として反応するきっかけになったわけであります。つまり、ベ平連の運動は地方、地域に拡大していく中に、私もいたのです。
私が住んでいた地域は、朝霞基地のある練馬区の大泉学園町です。大泉学園町と埼玉県の朝霞市と和光市は、戦前には地域の北側に陸軍士官学校があり、被服廠があり、そして陸軍病院があるという、戦争を支えてきた地域と言えるところです。大泉学園と埼玉県朝霞市、和光市、新座市にまたがった広大な基地が朝霞基地です。第二次大戦で日本が敗北した後、そこをアメリカ軍が接収しまして、主力部隊である第1騎兵師団とその司令部が置かれました。50年にはじまる朝鮮戦争の時は、在日米軍の本拠地になっていました。首都を守るアメリカ軍の基地です。これがすぐ朝鮮戦争に出撃していきましたから、大泉学園町と朝霞市は朝鮮戦争に直結する町になりました。
その後、そうした色が少し消えていたころ、1965年の暮れに基地の北に米軍病院が作られました。アメリカはベトナム戦争を始めると同時に3箇所くらい病院をつくりました。その一つです。
初めは何ともなかったわけですが、次第にヘリコプターが飛ぶようになりました。ベトナムの戦場から横田基地に傷病兵を降ろすと、そこからヘリコプターで運んでくる。ヘリコプターが私たちの町の上を飛んでいく、朝霞基地の病院に運ばれていく、そういう情景です。
私はそのヘリコプターの音を一年も聞いていました。何もせずにです。
人間というものは、臆病なものでもあるし、いろんなものに縛られているから、「反対だ」と思っても、その声を表して行動するということは、大変なことですね。私は朝霞に米軍病院ができたことも、『サンデー毎日』に記事が出ましたから知っていました。実際に見にもいって写真を撮っていました。でも、何もしませんでした。
しかし、とうとうキング牧師が死んだ時、1968年4月7日、私は一人で朝霞の病院の前に行って、カレンダーの裏側にスローガンを書いたものをアメリカの黒人兵に見せました。
「黒人兵よ、若いアフリカ系アメリカ人よ。あなたの戦場はここではない、国へ帰って戦ってくれ」というようなことを書きました。
人にそんなことを言うということは、大変なことですが、私は訴えずにはおれなかったのです。その時に基地はマルティン・ルーサー・キングを悼んで弔旗、半旗を掲げていました。そういう状況です。顔を合わせて黒人兵は何がしか反応を示したように私は思いました。それで私は行動するようになりました。
5月6日になって、大泉学園駅前でベトナム戦争、米軍病院に抗議するビラを配りました。そのビラは私と妻の二人の名前で出したもので、最後に私の住所と電話番号も書きました。気持ちのある人は連絡してくれ、という意味です。ビラを配っている私について、何も隠すことはないという気持ちでやりました。それが市民の運動だと思ったし、おそらくベ平連の精神はそのようなものだろうと、私は思っていました。
そうこうして電話をくれた人とか声をかけてくれた人が集まって7月7日には「大泉市民の集い」ができました。いちばん最初に反応してきたのは共産党の人でした。共産党の区会議員と赤旗の記者がやってきました。私の行動がたちまち赤旗に報道されることになったわけです(笑)。ありがたいような、ちょっと困ったような感じです。援助はありがたいが、共産党の支えでやったんでは市民運動にならないと思いました。やはり牧師が必要だと考えました。私の住んでいる大泉の教会の牧師はベトナムに医薬品を送る運動をしている人でした。それがわかって、その牧師に会いに行って一緒にやりたいと言ったら、よろこんで一緒にやろうということになって、市民運動の条件ができました。
しかし、もちろん共産党の人たちは、基地問題をいちばんよく研究していました。朝霞に行って、社会党の市会議員の人に話しを聞きましたら、基地に詳しい中学校の先生がいるから話を聞いたらどうかと、言われました。それで、会いに行ったら、その人は中核派の人でした(笑)。その中核派の先生が私に「いちばん詳しいのは平和委員会の共産党の木透さんだ。その人に会ってみろ」と言うんです(笑)。党派というのは関係ありませんね。この問題をやろうと決めれば、助けあってやっていくという精神が完全にありましたね。それで朝霞基地について長いこと調べた共産党の労働者の木透さんに発会式で講演してもらいました。こんな風でして、最初は実質的には共産党を頼るばかりでした。
そのうちに私たちの研究所の同僚の夫人、石田玲子さんが、ベ平連の米兵向けのビラをくれました。私たちは、はやくも8月31日には、アメリカ兵にビラを配ることをもうはじめていました。米軍病院にいるのは傷病兵ですから、彼らに反戦を訴えるということは当然のことで、すぐに取り組みました。じつは、日本女子大のアメリカ史専門の歴史家・清水知久さんを口説いて、運動に加わってもらってましたので、清水さんが英文のビラをすぐ書いてくれました。
私たちは10月には最初の定例デモをはじめました。
この運動は大泉ベ平連と言ってもよかったのですが、大泉市民の集いと名乗りました。その名前にこだわりがありました。もうすでにベ平連もひとつの流れ、一個の既成の運動となっていましたから、やる時は最初から自由にやりたいという思いがありました。
●朝霞反戦放送を始めた
ベ平連の脱走兵援助のジャテック(JATEC[反戦脱走米兵援助日本技術委員会])は、68年の11月には大変な時を迎えていました。
北海道の弟子屈(てしかが)でアメリカの情報機関員であるラッシュ・ジョンソンというスパイが脱走兵を装って、運動に入り込んできて事件が起こりました。ジョンソンは、戦争を忌避して脱走した兵士だと考え、ソ連に逃がそうということで連れいったとのですが、一緒にいた脱走兵は日本の警察に逮捕され、ジョンソンは姿を消してしまった。これでソ連を経由して逃がすというルートが頓挫するということになりました。
ベ平連、ジャテックは、大変な打撃を受けました。
私たちは定例デモを続けていました。しかし、その時はそんなにのんきでもなかったのです。全国の大学が大変なことになっていたからです。68年の秋は学園闘争が盛り上がり、私も東京大学で教員の有志の行動にも参加することになりました。そしてとうとう1969年の1月には、全共闘が立て籠もる東大安田講堂に対して機動隊が導入されて封鎖解除ということになりました。非常に辛い、悲しい局面に到達しました。
しかし、その時の私の感じは、東大で学生たちがやっている行動も結局これも大きく考えればベトナム戦争に反対する反戦運動だというものでした。ベトナムへの暴力を許さないということが学生たちの行動の基礎にあるのではないかと、私は見ていました。だから私は学生の運動があるからといって、地元の運動を弱めたりするようなことは考えませんでした。
69年の5月3日、私たちは王子・朝霞・立川・横田の基地を見るバス旅行を計画しました。基地を見るということは、ただ漫然と見ているのではない、基地を見ることがすでに基地に対する攻撃の開始だと考えて見ることを試みたのです。私たちの手段は大したものではないけれども、しかしこれらの基地を許さない、潰していくんだ、という気持ちをもって監視するんだ、というのがその時の考えです。
その直後の6月から私たちが始めたのは、朝霞反戦放送というものでした。これがどういうところから発想されたのかはっきりしませんが、基地の金網の外に空き地がありましたので、その金網の外から基地内に向けて定期的に強力なスピーカーで訴えをしたのです。それを反戦放送と称したところがミソでした。
6月1日から一週間続けて、午前中2時間ずつ反戦放送をやるという行動をしました。私も普通に勤めている人間ですから、そういうことをしていいのかどうか問題があったんですけども、もう構わない、ここで行動しようと考えました。
反戦放送の内容は、世界や日本各地の反戦運動でこういうことがあったというニュースです。それから朗読ですね。朝日新聞に連載された本多勝一の「戦場の村」を英文に訳したパンフレットが出版されており、それを朗読しました。そのほか、ジョーン・バエズの歌とかいろんな歌を流したわけです。
●攻撃的基地闘争と位置づけて運動を展開
そういう行動が可能になった条件について、私が考えるところでは、こういうことです。通常、病院の脇で大きな容量のスピーカーで訴えかければ、これは大変です。病人にとって寝ていられない状態ですから(笑)。病院としては威力業務妨害です。ですから普通なら直ちに病院側から訴えが出て、“御用”になるのが当然です。しかし私たちが反戦放送を始めましてから、警察は一度も介入しませんでした。ただ、私たちが基地の金網に南ベトナム解放民族戦線の旗を結びつけたら、「金網はあなた方のものじゃないんだから、こういう旗を結びつけることはやめてくれ」という警告がありました。それだけで、警察は私たちに対して抑止するという考えは全然見せませんでした。
私が思うに、威力業務妨害というのは刑法に規定されている罪ですね。地位協定によって、アメリカ軍の基地は、日本の国内法から完全に自由な存在なのです。したがって国内法の規制もうけないし、保護も受けない。だから威力業務妨害というのは米軍基地には適用されないということではないか。
ジャテックは米軍の脱走兵を匿い、国外へ逃がした。違法行為になるのではないかというおそれがあったのですが、そうならないことが明らかになりました。なぜなら、日米地位協定によって、アメリカ軍兵士は日本への出入りが自由なんですよ。アメリカの兵隊が何千人何万人も来て、いちいち入管の手続きをとっていたら大変ですから、出入り自由になっている。であれば、アメリカの兵隊が脱走して、日本から出て行くのも自由である(笑)。したがってまた、それを助けてもまったく罪にはならない。日本人が国外に入管手続きなしに出て行くのを助けたら、これは入管法違反になります。
そこで、私たちが考えたのは、これは要するに攻撃的な基地闘争の展開であるということでした。ベトナムで無差別の殺戮を行うアメリカの軍隊が出撃し、傷病兵が出る、その傷病兵を後方に送り、病院で戦争の機械の部品として修理して、また戦争に送りだす、そうした機能を果たしている米軍病院の機能を反戦放送で妨害すること、これはベトナム戦争の遂行に打撃を与える闘争です。他にも、山梨の北富士忍草母の会の農民が北富士演習場の着弾地に身を潜めて演習を妨害している。厚木基地では滑走路の延長線上に置いた古タイヤを燃やして米海軍機の離着陸を妨害している。朝霞野戦病院は傷ついた兵士を収容し、また戦場に戻すための装置であるとすれば、その兵士たちに反戦を訴えて、戦場に戻るなと訴えていくことは、病院の機能を麻痺させることになるんだという理解が生まれました。今や基地闘争は攻撃的基地闘争の段階に入った、われわれはその一端を担っているんだと考えたのです。
反戦放送の内容は次第に充実していきました。その点では、アメリカ人活動家のヤン・イークスの登場が意味深い。ヤン・イークスは、徴兵を拒否して国外に逃れた活動家でした。この人はあらゆることを教えてくれました。アメリカ兵に人参を食わせるんだったら、縦に長く切るんだということから始まって、二本の指でつくるのがピースサインだ、これによって平和を望んでいるということを伝えられるんだ、握り拳を突き出せば黒人に対して連帯していることを示せるんだとか、です。最初は何もわからなかった私たちに全部、彼が教えてくれました。
●「KILL FOR PEACE」
反戦放送は6月に一週間やり、8月にも一週間やりました。10月も12日から19日まで一週間の予定ではじめました。そうしたら、直ちに成果が出ました。15日に朝霞基地で働く2人のアメリカ兵がわれわれに連絡してきました。援助してくれというのです。驚きでしたね。われわれがしていたのは、反戦放送のさいに英文のビラを配っていたし、ジャテックが出していた兵士向けの新聞も配っていました。これは基地の中に投げ込んで兵士に渡していたわけです。
彼らがやってきて助けてくれというのは、自分たちでGI新聞、『Kill for Peace』を出したいというのです。「平和のために殺せ」というのがアメリカ軍のモットーである、平和のために殺さなきゃならんというのは、まったくおかしい。それを皮肉るために、あえて『Kill for Peace 』というタイトルで新聞を発行したいんだというのです。
一人は、ほとんど教育を受けていない、本国では警察の助手をしていた若い男性で、もう一人はベトナムで闘った黒人兵でした。白人と黒人の兵隊が2人で一緒に来ました。黒人兵は自分のペンネームはチェだと言いました。最初は、何のことかわかりませんでしたが、チェ・ゲバラのチェでした。基地の中の図書館にチェ・ゲバラのゲリラ戦の本があって、それを読んで勉強した、チェ・ゲバラを尊敬していると言うのです。非常に意識の高い人でした。
彼らが書いた新聞は、紹介する余裕がありませんが、非常にソフィスティケートされた内容でした。政治的には高度なものじゃありません。素朴な感情を表現した、とてもいい新聞でしたね。それを私たちは、印刷して、基地の中に投げこむということになりました。
一人は、2号が出たところで、密告されて、除隊となり、帰国しました。けれども、黒人兵はのこり、こんどは黒人兵のための新聞”Right On”を出しました。
3人目は、70年になって、ジョン・ウィリアムズという兵士が新聞“Freedom Rings”を出すことになります。彼は、もう隠れている必要はないと判断して、GI新聞の編集者として記者会見をしたい、準備してくれと言うので、記者会見をやりました。彼らはそこで本名を名乗っています。
つまり、70年になるとそれだけ米軍は解体してきたということになるわけです。私たちの目の前で、私たちの呼びかけにこたえて、朝霞の兵士たち、傷病兵たちも基地の中で、一種自主的な非合法集会の状態をつくりだしました。私たちとアメリカの兵士たちによる米軍基地機能麻痺の運動がそこまで進んだのでした。
●朝霞、岩国、沖縄へ米軍解体の運動となって発展
米軍の解体的雰囲気は強まってきまして、どうなったかというと、朝霞基地は閉鎖になりました。もちろんニクソンがベトナム化政策――南ベトナムのサイゴン政権軍に戦争の主役を担わせて、米軍は撤退する政策――をとりましたから、その一環ではありましたが、米軍は敗戦の中で戦意を喪失し、兵士は犯罪的戦争の中で批判を強めていたのでした。70年12月に朝霞病院は閉鎖になってしまいます。
これが私たちの運動です。大きく言えば、米軍解体の運動だということになります。
米軍の解体が全面的に進んでいる局面で反戦放送をさらに拡大できるということで、1970年には、横浜の岸根でも行われ、岩国の海兵隊の基地でも行われるようなりました。結局、反戦米兵の決起、米軍解体の最大の運動は岩国基地で起こりました。岩国にはGI新聞が出る。それから反戦放送が始まる。そしてこの年7月4日、岩国基地の営倉内で反乱的な抵抗が起こりました。これは初めての画期的なことでした。
この直前、70年6月、ジャテックは、脱走兵の援助から反戦米兵の援助に転換する、ということを決めました。そして全力をあげて岩国基地の米軍兵士たちを援助することに乗り出しました。そしてジャテックの古山洋三さんと私と清水は『米国軍隊は解体する――米国反戦・反軍運動の展開』(1970年6月刊)を三一書房から出しました。
その後、運動はどうなるか。最大の問題は沖縄にありました。沖縄こそがベトナム戦争の最大の基地になっていたのです。B52が嘉手納基地から飛び立ってベトナムを爆撃している。その沖縄に、ヤン・イークスとアニーというカップルが行きまして、嘉手納基地のアメリカ兵を組織するということをやりました。それが70年の3月です。嘉手納基地の反戦GI新聞“Demand for Freedom”が発行されました。そうしているうちに70年12月コザ暴動がおこります。米軍の兵士が沖縄の市民を車ではねる事故を起こしたことをきっかけにして、コザ市(現在の沖縄市)民が激高して、多数の米軍の車両を焼き討ちする「暴動」になったのです。しかし、米兵を攻撃したわけではありません。事件で一人の死者も出ませんでした。その後、71年5月になって、反戦米兵48人と沖縄の反戦労働者によってコザにおいて反戦交流集会が開かれました。
つまり、アメリカの基地の存在はもう耐えられないと思っている沖縄の人々と、基地の中でベトナム戦争に反対するアメリカ兵とが出会って、結合していく展望が現れてくる状況になっていたのです。この結合こそまさに実現されるべき大きな課題であったわけです。
けれども、結局のところ、そうなりませんで、日米政府による沖縄返還協定が71年6月に調印され、72年5月15日に発効することとなりました。これが、基地の中側では反戦米兵の運動が継続し、外からは沖縄の人々に包囲され、基地が崩壊することを恐れたアメリカ政府の追い詰められた上での方策ではないかと私は思っております。
●戦争に対する大きな抵抗運動の意味は不滅
以上が、ベトナム戦争に反対した市民の手による反戦運動というものです。いろんなことをやってきましたが、結局、最後の局面に出てきたのが、1972年、在日アメリカ陸軍の相模原補給廠からの戦車を止める運動です。戦争の機械に打撃を与えるということで言うと、いちばん効果があるのがベトナムの戦場に送る兵器の流れを止めるということです。1972年8月から秋の時期に、相模原で兵器を止める運動が起こり、激しくなりました。それは印象的な闘いであったと申せます。
だんだん市民運動は変っていきまして、私たちのところでは、ハイエナ企業といってベトナムに進出する日本企業を批判する運動もやりました。
さて、1973年1月27日にパリでアメリカ政府と南ベトナム政権と北ベトナムのベトナム民主共和国と南ベトナム解放民族戦線の南ベトナム共和国臨時革命政府の4者によるベトナム和平協定が結ばれます。そしてベ平連は解散します。それでベトナム戦争の最後は1975年4月30日、サイゴンの解放によってもたらされました。
以上ですが、反戦市民運動は、達成したもの、達成できなかったもの、いろいろありますが、今から振り返れば、可能な限り、あらゆる手をつくして、戦争と闘った、という意味でいうと、あの戦争に対する大きな抵抗運動であったと言えるかも知れません。
じつは、この言い方は、アメリカで出版された、ベトナム戦争時代の抵抗運動を書いた『世界はわれわれを見ている』という写真集の最後に、結論として述べられていることです。ベトナム反戦市民運動はジョンソンを止めて、そして最後はニクソンを止めた、アメリカの政権と軍を追い込んだという点で成果があったと言っています。
これは正しいでしょう。しかし、本当のところ、われわれは何をかちとったのでしょうか。ベトナムの人々は確かに勝利した。アメリカをして敗北せしめました。
しかし、われわれは、アメリカをして、誤った不正義の戦争をしたということに対してベトナムに謝罪させることができませんでした。それができなかったということは、やはりあのときの反戦運動に関わった者すべての責任だ思っております。もちろん、その時代にやった運動の事実、その意味は消えることはありません。それが今の新しい世代に、少しでも伝えられ、戦争反対の意志の力を与えることができれば幸いです。そういうことを望みます。
しかしまた、結局、運動は結果です。結果を出さなければなりません。このことが僕の教訓だと思います。(拍手)
(第1部終了)