49年目の羽田・弁天橋で黙祷と献花の集い(記事と写真、2016年)
今年は1967年10月8日の第一次羽田闘争から49年目です。
当プロジェクトは、2016年10月8日の午前中、羽田・弁天橋で故山﨑博昭を追悼する第3回目の「黙祷と献花の集い」をもちました。
同日午後には、初めての「発起人・賛同人会議」を開催。参加者55人で忌憚なくさまざまな意見を交換することができました。欠席者の多くからもメッセージが寄せられました。
引き続いて夕方には「第5回東京講演会」を開き、約120人の参加者を得て、高橋武智さん(元ベ平連/ジャテック)と中山千夏さん(作家)に講演していただきました。
ここではまず弁天橋での黙祷と献花の集いの様子を記します。
「山﨑君は“空港内へ行きたい”と何度も繰り返し、一人で行ってしまった」
この日は朝からあいにくの雨でしたが、それぞれの思いを胸に約30人が参加しました。
「黙祷と献花の集い」は、蒲田方向から羽田空港に向かって弁天橋を渡った広場にある鳥居の前で開催しました。
集いの初めに、全員で1分間の黙祷を行いました。
10・8山﨑博昭プロジェクトの発起人である辻恵が献花の集いの司会を担当しました。
辻 恵(発起人、弁護士、大手前高校同期生)「今日は10月8日。来年の50周年に向けて、お集まりいただいた皆さまからいろいろな思いを語っていただこうと思います。」
最初に山﨑博昭の兄で当プロジェクト代表・山崎建夫からの挨拶です。
(以下、各発言者の発言要旨を掲載します。)
山﨑建夫(発起人、プロジェクト代表)「今日はこんなにたくさん集まっていただいてありがとうございます。賛同人も増えて感謝しております。来年の50周年を皆さんと一緒に迎えたいと思います。よろしくお願いします。」
次に1967年10月8日に弁天橋で闘った方からの発言がありました。
黒瀬 準(賛同人、大手前高校同期生)「僕は山﨑博昭君と一緒に、空港に行こうとする隊列ではなく、向こうからくる機動隊を追い返す隊列に配置された。高校の時から何十回とデモに行っていたが、われわれの動きで機動隊が撤退していくのを初めて見たので、すごいことになっていると思った。
われわれは防衛ラインを担当させられていたが、攻めていく方が気になって何回も振り向いた。山﨑君は隣にいた。山﨑君は『(空港内に)行きたい、行きたい』と何回も繰り返していたが、一人で行ってしまった。」
次に、プロジェクトの発起人であり、10月8日の闘いをきっかけに、「十・八羽田救援会」を立ち上げ、その後の救援運動の中心となって活動した水戸喜世子から発言がありました
水戸喜世子(発起人、十・八救援会)「今の話を聞いて、実は私の夫(注:故水戸巌氏、救援連絡センター初代事務局長、反原発運動リーダー)も当日参加していたんですね。私は小さい子どもたちと、夜明けまで帰ってくるのを待っていて、夫は明け方に洋服が血まみれになって『やったぞー』と言って帰ってきた。山﨑君の死を聞いて、吉川勇一さん(故人、元ベ平連事務局長)や羽仁五郎さん(故人、歴史家)に電話をかけて、抗議声明を出そうという話が出てきました。本当に、いまだかってないくらい広範な人たちの共感を得た闘いだと思います。
今度のプロジェクトもあと1年です。皆さんのおかげで着々と進んできて、もう一歩というところまで来ました。関西でも10月、11月と展示会と講演会があります。東京からちょっと遠いですが、関西でもたくさんの方に来ていただいて、今一度、若い人の中に、この闘いの意味が広がっていくといいなと思っています。」
辻 恵(司会)「10月19日から24日まで、京都精華大学で展示会があります。10月21日の夜には同大学で山本義隆さんに講演をしていただきます。また、11月26日には大阪で山﨑君と京大で同期生だった上野千鶴子さん(発起人、社会学者)に話をしていただきます。」
次に、発起人であり、当時の遺族の代理人の弁護士だった小長井良浩から発言がありました。
小長井良浩(発起人、弁護士)「私は学生事件の弁護はやっていなかった。労働事件をやっていた。ところが、弁天橋の闘争で学生が亡くなっているので誰か紹介してくれという話が来た。休みの日だったので誰にも連絡が取れず、亡くなっているなら自分が行かなくてはならないと決心して、これに参加しました。
誰かが言わなければ事実が間違って虚偽が伝わってしまう。車を運転していた日大の中村満君も「れき殺犯人」にデッチあげられるという大変な被害者だったので、山﨑君とともに今度の記念誌に書かせていただこうと思っています。」
雨が強くなってきました。
最後に発起人の一人である佐々木幹郎から挨拶がありました。
佐々木幹郎(発起人、詩人、大手前高校同期生)「山﨑博昭と高校2年生の時に同級生、高校3年生の時にマルクス主義研究会で一緒でした。10・8当日、私は大阪にいて参加できなかった。山﨑君が死んだということをきっかけに追悼詩集を出してから、あっという間に半世紀が経ちました。
ここの景観はどんどん変わっていきますが、弁天橋のこの地で、毎年、山﨑のことを思い出すのは、魂に響きます。とても意味のあることだと思います。
今日の午後の発起人・賛同人会議で、記念碑をどこに建立することに決まったのか具体的な報告をします。また、会計報告そして来年に向けて何をするのか、ベトナム戦争証跡博物館の企画がどのように進んでいるのかという報告もさせていただきます。2014年にプロジェクトが発足した時は、ここまで大きくなるとは思っていませんでした。着実に根を広げ、賛同人の方々も増えてきました。あと2~3年あればもっと大きな動きにできるという思いがあります。
また来年もここで集まりましょう。ありがとうございました。」
辻 恵(司会)「来年は2017年10月8日、日曜日にここで四たび、このような形で黙祷と献花の集いを開催する予定でおりますので、ぜひ皆様方も来年もお越しいただければと思います。本日はどうもありがとうございます。」(拍手)
黙祷と献花の集いは終了。
雨が少し小降りになったので、弁天橋を背景に全員で記念撮影をしました。
記念撮影終了とともに雨が強くなってきたので、全員で献花の場所である弁天橋のたもと、海老取川沿いの遊歩道の一角に移動しました。
献花場所に供えられた献花です。
来年はいよいよ50周年。来年の10月8日は秋晴れであってもらいたいと思います。
(終)