モニュメント完成! 建碑式のご報告
モニュメント完成! 建碑式のご報告
2017年6月17日(土)午後2時から、東京都大田区萩中の萩中公園に隣接する福泉寺(浄土真宗本願寺派)において、ついに完成したモニュメントの建碑式を行いました。
モニュメントについては、プロジェクト発足当初、羽田・弁天橋近くの民有地に山崎博昭君を追悼する記念碑を建てることを目指していましたが、さまざまな壁に突き当たり、民有地取得は困難を極めました。民有地取得と並行して、寺院での墓地探しにも取り組んできましたが、最終的に上記の福泉寺のご住職が私たちの希望をかなえてくださることになりました。
福泉寺の墓地に「山﨑博昭」の名を刻んだ墓石と、1967年10月8日の第一次羽田闘争および反戦平和を祈念する文章を刻んだ墓誌「反戦の碑」を併設し、この墓石と墓誌をモニュメントとすることにしました。
墓石の文字「山﨑博昭」は大手前高校の同期生である書道家の川上吉康さんが、中国古代の殷時代の青銅器に彫られた漢字書体「金文(きんぶん)」で揮毫したものです。刻印すると、写真にあるような迫力のある文字になりました。
墓誌には以下の文章を刻みました。
「反戦の碑」
一九六七年一〇月八日 アメリカのベトナム戦争に加担するために日本の首相が南ベトナムを訪問 これを阻止するために日本の若者たちは羽田空港に通じる橋や高速道路を渡ろうとし デモ禁止の警察と激しく衝突 重傷者が続出し 弁天橋の上で京都大学一回生 山﨑博昭が斃れる 享年一八歳 再び戦争の危機が高まる五〇年後の今日 ベトナム反戦十余年の歴史をふり返り 山﨑博昭の名とともに かつても いまも これからも 戦争に反対する というわたしたちの意志を ここに伝える
二〇一七年一〇月八日
10・8山﨑博昭プロジェクト
代表・兄山﨑建夫 建之
当日は梅雨の晴れ間で快晴、さわやかな天候の下、発起人とプロジェクト事務局、関西運営委員会のメンバー23人が参列しました。
プロジェクトの代表である山崎建夫さんから、本堂での読経の前に、万感の思いを込めた挨拶がありました。
「本当に有難うございます。50年目にして本当に皆さまの力で、あのとき弁天橋におられた方、救援に当たられた方、同級生、その後10・8を自分のものとしてそれぞれ闘いに参加された方たち、その人たちの力で、東京・弁天橋の近くに墓碑を建てることが出来ました。お墓ですけれども、山﨑博昭の名と、反戦の碑を置かせていただくことが出来ました。ご住職のおかげです。ご住職も、当時、弁天橋からこちらに逃れてくる学生たちをかくまったり、当時のことをしっかり覚えておられます。しかも兄弟で兄が弟のために何かをするなんて非常に珍しい、ということで感動していただいて、協力していただけたんです。そういう協力がなければとても出来なかったと思います。
本当に感謝しております。有難うございます。」
本堂での読経・焼香の後、お墓に山崎博昭の骨を分骨し、参列者がモニュメントにカーネーションの花を供えました。
お墓の中には、プロジェクトの趣意書と賛同人名簿も納めました。
その折り、発起人の水戸喜世子さんが、コアラの母親が子どもを抱いている小さな縫いぐるみを供えました。この縫いぐるみは、50年前に「十・八救援会」を立ち上げた物理学者・水戸巌、喜世子夫妻の子どもたちのために、山﨑博昭君の母堂・春子さんが贈ったものです。50年前の縫いぐるみとは思えない新しさで、墓石と墓誌を守るように、ひととき鎮座しました。
当プロジェクト念願のモニュメントがついに完成しました。1967年10・8羽田闘争と、そこでの18歳の山﨑博昭君の死を人生の原点あるいは転機とする同時代の厖大な数の人々が、ベトナム反戦の歴史とそこにある熱い思いを次世代に引き継ごうという願いを共有しています。その願いが形になったのが、このモニュメントではないでしょうか。
このモニュメント建立によって「10・8羽田の記憶」は永く生き続けることでしょう。このささやかなモニュメントによって、福泉寺を中心に萩中公園から弁天橋にかけての地が、そして弁天橋そのものが、日本のこれからの時代に、戦争反対の屈することなき意志を脈々と継承していく、平和祈念の場となるよう、願ってやみません。
【福泉寺】
大田区萩中3-27-10
交通:京浜急行空港線「大鳥居」駅下車 徒歩15分
JR京浜東北線・蒲田駅下車、東口から京急バス・萩中公園経由羽田空港行き→萩中公園で降車、徒歩1分