「50年を経て 今、世代を超えて語り合おう」(2017年7月8日、大阪)

「50年を経て 今、世代を超えて語り合おう」(2017年7月8日、大阪)

――発起人・賛同人会議in関西、4人の若い研究者から問題提起と議論

 


 2017年7月8日、大阪市中央区のエルおおさか南館で、10・8山﨑博昭プロジェクトの関西集会を開催しました。
 この集会は、当プロジェクトの関西での発起人・賛同人会議という位置づけですが、20代から30代の若手研究者4人を迎え、1967年羽田闘争の時代を生きた者たちと、その時代に生まれていなかった者たちが、1967年当時の闘いと現在の反戦闘争をテーマに、世代を超えて語り合う場として、広く参加を呼びかけました。
 集会は14時から16時50分まで開催し、約100人の参加者がありました。

 集会の冒頭、プロジェクトの代表である山崎建夫から挨拶がありました。
「このプロジェクトは今年の10月で終わるわけではありませんが、何としても最後までしっかりやっていきたいと思います。
 プロジェクトの三つの目標の一つ、モニュメントについて、写真がありますが、普通は何々家の墓と書くところに、“山﨑博昭”という名前だけを入れさせてもらって、書家の川上吉康さん(大手前高校同期生)に書いてもらった金文という文字で出来ています。周りの墓との兼ね合いもありましたが、10・8のことをご住職さんもよく知っておられて、当時、学生をかくまったとか、機動隊を境内に入れなかったとか、そういう経験をお持ちで、兄弟で兄が弟のために墓を建てるのはすごいことやと感動してくださって、かなり協力的になってくださって、墓石は山﨑博昭だけでいいですよ、墓誌は亡くなった方の名前だけ書くものですが、言いたいことを書いていいですよ、ということで、“反戦の碑”として作ることが出来ました。
 プロジェクトの第一の目的はそれで実現したんです。すごいことだと思います。実は少し寂しい面もあって、電車に乗っていて街の景色を見ると墓地がある。お寺があってお墓がある。あんなもの一つ作っただけの事なんかなと、ちょっと落ち込んでいる時もあったんです。そうしたら水戸喜世子さんが、妄想が実現したと喜んでくださって、こんなことが出来たらという夢が実現したことをすごく喜んで下さって、こういう形でも出来てよかったんだと私自身も励まされました。
 墓石写真のところにコアラのぬいぐるみがありますが、これも水戸さんとの因縁ですが、1周忌の時に、私の母が水戸さんの子どもたちにということで水戸さんにプレゼントしたものです。実は僕は忘れていました。水戸さんにその話をされて、え~そんなことがあったんかな、と思っていたら、建碑式の時にコアラのぬいぐるみを持ってこられて、お母さんにお墓に一緒に入れてもらおうというということでした。そんな水戸さんに励まされながらやってきました。
 もう少しがんばりたいと思います。
 ベトナム博物館の展示も順調に進んでいて、ツアー参加者も50人弱決まっています。
 記念誌については、校正に入って順調に進んでいます。
 今日の若い研究者たちは、あの当時のことを研究対象にしているということで最初びっくりしたんです。あの頃、存在もしていなかった、生まれてもいなかった人たちが、あの当時の事を研究対象にしている!
 本当に世代を超えて、今も大変で嫌な時代ですけれど、あの時代の運動の高まりと、そこから学ぶべきものは学ぶ、乗り越えるべきものは乗り越えてやっていかないと、このままいくと大変なことになってしまうだろうという時代です。
 若い人たちが、そういう問題意識で見て下さることを感謝しています。とても期待したいと思います」

 挨拶の後、プロジェクトの事業の報告に移りましたが、報告の前に、発起人の詩人・佐々木幹郎が6月17日の建碑式の後に書いた「建碑式」という題の詩を、司会の発起人で歌人の道浦母都子が朗読しました。

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建碑式         佐々木 幹郎

あのとき
きみは私の横に坐っていた
風に吹かれながら 同じ方向を向いて
白いワイシャツと黒いズボン姿で

暑い日だった
やっとここまで来た
ふいに つぶやく声が聴こえ
わたしはうなずいた

消えていったものが
そのまま五十年を経て 高校時代の
白いワイシャツと黒いズボン姿で
今日の建碑慶讃法要に参加するんだな

あの日に死んだことが重要なのだよ
誰の墓の建碑式か それは
どうでもいいのだよ
大陸の錆びた青銅器の匂いがした

死んだ彼の顔は見なくてもわかる
ひとつも表情を変えずに 目を細めて
高校の中庭のベンチに坐っているように
もうすぐはじまるね
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 プロジェクトの事業は発起人・辻恵から報告しました。(詳細はニュースNo4参照)
(1)プロジェクトの設立とこれまでの活動の経緯について
(2)記念碑建立に係る経緯と現状について
(3)記念誌の内容説明について

 記念碑に関連して、墓石の文字を書いた書道家・川上吉康氏から書体を選んだ経緯について話がありました。
「山﨑博昭といろいろ話をしたことを思い出す。10月8日の1ケ月前、浪人仲間と京都大学のボックスに訪ねて行った時、彼から『体を鍛えておけよ』と言われた。頭脳的な彼から肉体派的発言があったのが予想外で忘れられない。
 碑の文字はいろいろ試したが『金文』(きんぶん)(中国古代の漢字書体)が一番しっくりした。漢字が出来た時の古代の人たちの思いとか世界観を直接残している。
 山﨑博昭の『﨑』の『山』は元々は梯子の形で天と地を結ぶ階段。山﨑君のことを思って書きながら、非業の死をとげた、志を持って亡くなった人たちの眼差しが周りから見ているような思いにとらわれた。山﨑君の個性以上の力が字の中に投影されていると躊躇った。
 お兄さんは行書体をお望みのようだったので、行書でも書いて両方をお兄さんに送った。お兄さんは金文の方を気に入ってくれたようで、私にとっては嬉しい事だった。皆さんには読みづらいという印象を与えたかもしれない。」

 続いて、ホーチミン市・ベトナム戦争証跡博物館での展示会の経緯と現状について、発起人・山本義隆から報告しました。
「最初は山﨑君の遺影を博物館に展示したいという話を持っていったが、博物館の館長から展示会をという提案があった。発起人の中で他にやる人がいないので私が引き受けて、駿台予備学校の教師と『60年代研究会』を作ってやることになった。
 今年の10月から千葉県の佐倉市にある国立歴史民俗博物館で『1968年』展が開催される。歴博に、手持ちの東大闘争、日大闘争の資料を寄贈した後に、ベトナム展示の話が来たので、新たに展示資料集めをすることになった。
 ベトナム展示の前にまず日本でやろうということで、昨年、東京と京都で展示会を開催した。現在、ベトナムの博物館展示に向けて、資料の英訳など進めており、準備で忙しい。」

 

〈趣旨説明:黒川伊織さん〉

 プロジェクトの報告の後、いよいよ若手研究者からの問題提起が始まりました。ここから司会は黒川伊織(くろかわ・いおり)(1974年生)さんに交代。
 黒川さんから若手研究者からの提起の趣旨説明がありました。
「私は日本思想史と社会運動史の研究者です。今年はロシア革命から100年。そして第一次羽田闘争から50年の歴史の節目の年です。私としてはロシア革命を起点に日本の社会運動の100年を考えてみようということで、その中で、1967年と68年の経験が意義を持っています。
 戦後史を考える上で、60年の転換というのがすごく大きい。60年安保闘争、三池闘争、所得倍増計画というのが60年に出てきている。60年安保闘争までの政治闘争が経済闘争に転換していったと言われている。60年安保闘争以降は、アメリカによる学問・研究への介入が激しくなった時代でもありました。
 65年の日韓条約批准反対闘争、66年文化大革命、そしてアメリカの公民権運動の高揚が伝わってくる。66年は第二次砂川闘争、三里塚を空港用地として閣議決定。こうした中、67年には新宿駅構内でアメリカ軍のタンク車の爆発事故が起きた。
 60年安保闘争から66年、67年と運動が大きく揺れ動いていく中で起きたのが、67年10月8日の第一次羽田闘争だったと考えている。
 68年になるとエンタープライズ寄港阻止闘争、王子野戦病院闘争、プラハの春、フランス5月革命、日大全共闘結成、そして10・21国際反戦デーへとつながっていく。69年に入ると安田講堂攻防戦、救援連絡センターが発足する。
 こう考えていくと10・8というのが、この後の運動につながっていったインパクトの大きさというのが、はっきりと見て取れると思う。
 10・8で救援運動が始まったのが大きいし、救援運動のつながりが今日のプロジェクトにつながっている。
 今日は4人の方に報告していただきます。報告の内容は聞いていただければ分かります。中村葉子さんと小杉亮子さんは68年の同時代的な話になります。
 牧野良成さんと徐潤雅さんに、もう少し後の話をしていただきます。
 何故このような構成にしたのか?
 この数年、戦後史の聴き取りをしてきた。その中で連合赤軍事件で全部終わったと言う人がいる。そんなことはないと思う。連赤で終わったというのは、当事者の実感からも離れているような気がするし、そんなことで終わるような運動ではなかったと思う。皆さんのその時代の経験が、今の様々な社会のつながり方に関わっていらっしゃると思う。連赤事件で終わりという現代史の語りのパターンに対抗するためにも、今日はこの4人の方に報告をお願いしたということです。
 私が思っていることは『歴史は記録されて初めて歴史となる』ということです。まずは人々の経験を残す、基本的な事実関係を整理して歴史像を提示する、ということが過去の50年前の経験、100年前の経験から現在を問い直すために必要ではないかと思っています。」

<若手研究者からの問題提起>
●若手研究者からの問題提起 その1/ 中村葉子(なかむら・ようこ)さん
(プロフィール)
 1983年生まれ。大阪府立大学大学院博士後期課程修了。学生運動・反基地闘争を描いた自主制作のドキュメンタリー映画が研究対象です。なかでも反戦青年委員会や、沖縄、朝鮮、台湾をテーマに映画を制作した「日本ドキュメンタリストユニオン」の研究を行っています。著書に「燃ゆる海峡 NDUと布川徹郎の映画/運動に向けて」(インパクト出版会、2014年)など。
(内容)
 映画「鬼っ子 闘う青年労働者の記録」(1969)から10・8後の運動の質的・量的広がりを考える。映画のダイジェスト版を上映しました。

●若手研究者からの問題提起 その2/ 小杉亮子(こすぎ・りょうこ)さん
(プロフィール)
 1982年生まれ。京都大学文学研究科教務補佐員。1960年代にさまざまな国・地域で同時多発的に起きた若者による社会運動が研究テーマ。これまで東京大学、UCバークレーの学生運動参加者への聞き取りをおこなってきました。主な論文に「日本の1960年代学生運動における多元性」(「社会学研究」96号、2015年)など。
(内容)
 東大闘争の語りから見えてくるもの。東大闘争参加者への「生活史」聞き取りから見えてくるものについて、学校や教育が果たした役割の大きさについて報告がありました。

●若手研究者からの問題提起 その3/ 牧野良成(まきの・よしなり)さん
(プロフィール)
 1991年生まれ。労働戦線統一期=国連婦人の10年前後の関西圏における女たちの労働運動に材を取って、修士論文を執筆しています。そのさなか偶然にも、三里塚闘争支援に奔走した女たちがいたことを知りました。今回の報告では、後者についてお話しします。
(内容)
 三里塚闘争支援から生まれた1980年代関西の女性労働運動の経験を考える。
交流誌「おなごと三里塚」創刊から、泉州から三里塚への長距離デモ「女たちのゆっくリレー」へとつながる経緯の報告がありました。

●若手研究者からの問題提起 その4/ 徐 潤雅(ソ・ユナ)さん
(プロフィール)
 大阪大学大学院文学研究科博士後期課程。2010年に研究生として現在の研究室に入りました。韓国の大学で民衆芸術に出会って以来、芸術のあり方に関心を持っています。現在は関西を中心に。画家・富山妙子の作品と、それを媒介に生まれた民際的な場について研究しています。
(内容)
 画家・富山妙子と韓国民主化運動の関わり、韓国民主化運動における「烈士」を考える。歴史的事件の犠牲者の遺族と、今日の犠牲者(セウオル号)の遺族のつながり・共感と慰めなどについて報告がありました。

 若手研究者4人からの問題提起を受けて、質疑に移りました。質疑では9人の方が発言しました。主な意見は次の通りです。
・運動の中でのジェンダーの問題
・救援運動において女性(母親)の果たした役割
・個人参加の反戦運動
・10・8羽田闘争の今日的意義 など

 最後に、集会に参加した発起人一同から挨拶があり、閉会しました。

(おわり)



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