朝日新聞に10・8羽田闘争50周年記念集会の紹介記事

朝日新聞の10月6日付朝刊、東京版に、10月8日の羽田闘争50周年記念集会と『かつて10・8羽田闘争があった――山﨑博昭追悼50周年記念[寄稿篇]』の紹介記事が掲載されました。
見出しは、「羽田闘争50年 友よ忘れない8日・千代田で京大生追悼集会 記念誌も刊行」。
………………………………………………………………………………………………………
  ベトナム戦争に反対する学生らが1967年10月、大田区の羽田空港周辺に集まった「10・8羽田闘争」で京都大生の山崎博昭さん(当時18)が亡くなって、8日で50年。友人らが山崎さんをしのび、追悼集会を開く。
 学生らは当時、米国のベトナム戦争への軍事介入に日本が加担していると批判。佐藤栄作首相の南ベトナム訪問阻止のため67年10月8日、数千人が空港に通じる弁天橋で機動隊と衝突し、山崎さんが亡くなった。
 学生運動での死亡は60年6月、60年安保闘争の際に国会周辺で東京大生の樺(かんば)美智子さん(当時22)が亡くなって以来。事件は全国の学生に衝撃を与え、全共闘など学生運動活発化のきっかけとなった。
 それから半世紀。安保法制成立や改憲に向けた動きなどが出るなか、「山崎さんの反戦の志を語り継ぎ、60~70年代の反戦運動を現代の新たな糧にしたい」として、出身校の大阪府立大手前高校や京大の同窓生らが2014年に「10・8山崎博昭プロジェクト」を結成。羽田闘争に参加した学生らが集会を開いた萩中公園に近い福泉寺に今年6月、山崎さんの名を刻んだ追悼の墓碑を立てた。
 10月8日は友人らが弁天橋で献花や黙禱(もくとう)をし、福泉寺の墓碑前で法要を行う。午後4時からは千代田区の主婦会館で「50周年集会」を開き、ベトナムで開催中の「日本のベトナム反戦闘争とその時代」展について報告する。
 展示会は山崎さんらの運動がベトナム戦争反対のためだったのが縁で、ホーチミン市の戦争証跡博物館で8月20日開幕。山崎さんの遺影や現場の記録写真、ヘルメットなどを11月15日まで展示する。その後、ベトナム各地の博物館や大学で巡回展が開かれる予定。
 記念誌「かつて10・8羽田闘争があった」(合同フォレスト)も刊行する。発起人代表で山崎さんの兄・建夫(たてお)さん(71)が弟の評伝を執筆。京大同期生の社会学者・上野千鶴子さん(69)ら61人が寄稿した。高校同期生の詩人佐々木幹郎さん(69)は山崎さんの死を「生涯忘れることができない」と記し、作家の三田誠広さん(69)も「胸の奥に深く刻みつけられている」と書く。
 高校の先輩で元東大全共闘議長の科学史家・山本義隆さん(75)は記念誌に「山崎君の死に直面した諸君は、それはほんの偶然のことで、自分であったかもしれないと自問した」とつづる。当時の運動にかかわった多くの人に共通する思いだという。
 山崎さんの死因について警視庁は当時、学生が警察から奪って運転した警備車両にひかれ亡くなったと発表。学生側は「機動隊に殴られ死亡した」と反論した。記念誌では高校同期生で元衆院議員の辻恵(つじめぐむ)さん(69)らが改めて死因を検証した。(編集委員・北野隆一)
     ◇
 〈ベトナム戦争と反戦運動〉 インドシナ半島で親米のベトナム共和国(南ベトナム)の独裁政権打倒をめざして1960年、南ベトナム解放民族戦線が結成され、共産主義のベトナム民主共和国(北ベトナム)が支援。米軍は65年、北ベトナムに大規模な空爆(北爆)を開始したが、73年の和平協定で撤退。75年に南ベトナム政府が崩壊し、翌年南北が統一された。米国の戦争介入に反対する平和運動が欧米で広がり、日本でも65年結成の「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)や学生団体などが運動を展開した。
(ウェブ版から転載。本紙では一部割愛)
………………………………………………………………………………………………………

8日の50周年記念集会は下記の要項で催します。

◎会場:四谷・主婦会館プラザエフ9F「スズラン」

(JR・地下鉄「四谷駅」下車、すぐ前)

◎開場:16:00、開会:16:20

◎参加費:1500円

皆様のお越しをお待ち申しております。

 

50周年記念誌を当日、販売いたします。またお申し込みは、チラシの下部にある申込書をお使いください。
 



▲ページ先頭へ▲ページ先頭へ