死者への追悼と社会変革――韓国民主化闘争を振り返る/真鍋祐子

事務局から

2018年6月2日(土)の東京シンポジウムでの真鍋祐子さん(東京大学教授)の講演「死者への追悼と社会変革――韓国民主化闘争を振り返る」を文章化しましたので、ここにご紹介します。この日のシンポジストを引き受けてくださった三橋俊明さん(日大全共闘)と真鍋祐子さんの提起は貴重なもので、大変好評でした。この日のシンポジウムの様子はユーチューブで観ることができますが、参加した人や参加できなかった人たちから、真鍋さんの講演をぜひ文字で読みたいという要望が寄せられました。そのため事務局で文字起こしをし、真鍋さんに一部加筆をしていただきました。改めて、講演録をお読みください。(2018年12月30日)

死者への追悼と社会変革――韓国民主化闘争を振り返る

【シンポジウムと徹底討論】死者への追悼と社会変革――『かつて10・8羽田闘争があった(寄稿篇)』をめぐって
https://www.youtube.com/watch?v=1BM-PRJao8k

真鍋祐子

2018年6月2日

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佐々木幹郎(司会):真鍋祐子さんをご紹介します。現在、東京大学東洋文化研究所の教授で、長く韓国の民主化運動について研究されてきました。今回の集会のタイトル「死者への追悼と社会変革」は、真鍋さんの論文のなかの言葉からいただきました。真鍋さんのご著書に、『烈士の誕生―韓国における恨(ハン)の力学』があります。韓国における「恨」は、日本語の「恨み」とはまったく異なっていて、それが力を持っていることが述べられています。わたしは初めて読んだとき、目の覚めるような思いがしました。真鍋さんは、これまでのわれわれのプロジェクトでご講演をしていただいたゲストのなかで、最も若い方です。どうぞよろしくお願いします。

真鍋祐子:よろしくお願いいたします。

私は韓国の民主化運動についてずっと研究をして参りました。それで1987年から88年にかけて、一年間ソウルに留学をして、1991年から93年にかけて2年間、大邸(テグ)にある大学で日本語教員をやっておりまして、その間、民主化運動はまだまだ激しい時期でした。ちょうど大邱にいた時分に民主化運動の現場で抗議の焼身自殺というのが一ヶ月で11件も続いた、そういう時期を過ごしました。それは1991年のことです。4月にソウルにある明知大学の一年生がデモのさなかに機動隊に殴り殺された事件をきっかけに、抗議の焼身自殺が全国に広がったのです。私がいた大邸というところは、保守的な土地柄で、あまり学生運動が盛んなところではないのですが、在職していた大学のエントランスホールには、どこかで抗議の焼身自殺者が出る度に焼香台が設置されて、その台の上に亡くなった学生なり労働者なりの遺影と、ときには黒焦げの遺体の写真、あるいは燃えているさなかの写真が飾られていて、お焼香ができるように線香が立ててある。これが4月から5月にかけて約ひと月、10人以上も亡くなっているので、非常に私にとってもハードな経験でした。

その時に、なぜ自分自身が信ずる正義を主張するために死ねるのだろうかと疑問に思いました。しかも、そこで亡くなっていく学生というのは、韓国は兵役制がありますので、男子学生だと復学生といって、自分とほぼ同年代なんですね。その同年代の韓国の学生・労働者たちの感覚というものに、どうしても共感できなかった。なぜなのかということを、知りたいと思いました。

あと、焼香台が設けられているところにいて、これは社会運動ではあるんだけど、宗教ではないかとも思いました。以前、韓国の漁村でシャーマニズムの調査をやってきましたので、伝統的な死生観という観点で、韓国の民主化運動の問題をやってみようかなと思いました。しかしその当時はまだ盧泰愚政権末期の公安事案に厳しい時代だったので、軍事政権が終わって金泳三が大統領になるのを待って、ようやくその研究を始めたわけです。

韓国の学生運動における死者の扱いを考えたときに、いの一番に頭に浮かんだのが樺美智子の存在でした。日本の学生運動における死者の扱いというのは、どうなんだろうかということで、私はまったく同時代を生きておりませんので、大宅壮一文庫に行って週刊誌とかそういうのを探すことにしました。そこで山﨑博昭という名前に出会ったわけです。

私がやってきた調査というのは、遺族会(全国民族民主遺家族協議会)の父母を対象としたものなんですね。1994年からずっとそこでいろいろお話を伺ったりしているのですが、左側の写真はFacebookのカバー写真に使わせてもらっていますが、これ全部亡くなった方々の遺影がならんでいるわけです。この遺族会はもともと「民主化運動遺家族協議会」という名目で1986年に発足するんですが、90年代の半ばあたりに「全国民族民主遺家族協議会」と改称されます。それはなぜかというと、学生運動の争点が民主化を求める運動から民族統一を求める運動へじょじょにシフトしていくからなんです。

ですから右側の写真は、これは1998年、金大中(キム・デジュン)大統領あてに民主化運動のなかで犠牲になった方たち(「烈士」と呼ばれていますが)の名誉復権をしてほしいという請願のキャンペーンのためのポストカードをつくるわけです。そこでは朝鮮半島全体に死者の写真が埋め込まれていて、祖国統一というものを非常に意識したデザインになっているというのが、おわかりいただけるかと思います。

この遺家協という団体の元祖というか、烈士の始祖にあたる人というのが、1970年11月に労働者の生存権を主張して焼身自殺をした東大門(トンデムン)市場の裁縫工だった全泰壹(チョン・テイル)という人物です。その死をきっかけにして、全泰壹のお母さんと東大門市場の衣料工場で一緒に働いていた労働者たちが、なんとか彼の遺志をついで労働者のために闘おうと運動を始めるわけです。

この人たちのやり方というのは、労働災害が起きて誰かが亡くなったりとか、どこかで機動隊に殴り殺された学生がいるとか、抗議の自殺をした学生がいるとかすると、相手の遺族のもとを遺家協のお母さんたちが訪ねていくんですね。そこでその悲しみを同じ立場の者として共有しながら、半分カウンセリングのようなことをしながら、あなたの子どもの死は無駄ではないことを証すために私たちとともに頑張りましょう、というような、いわゆるグリーフワークをともにするという、悲哀の作業といいますけれども、そういう働きかけのなかで、働きかけていく自分自身もその途上にあるわけですから、自分自身も癒やされ、相手も運動することによって悲しみというものを力に変えていくというような、そういう取り組みが世代を超えて今に至るまで続いてきた、これが遺家協という団体になります。

恨(ハン)という言葉を言っていただいたんですが、韓国では結婚前に亡くなったとか、横死・客死など正常な死に方ではない、そういった死者に対しては、伝統的な儒教的な葬儀を行うこともできないし、法事を行うこともできない、お墓も作れない、死体は裏山にそのまま犬とか猫の死骸を埋めるみたいに埋めて墓標も作らずそのまま放っておくとか、あと火葬にして全部骨粉にして山や川に投げちゃうとか、それで終わりなんです。また親よりも先に死んだとか、ましてや運動の最中で死んだとかいうと、親不孝者という儒教的な価値観でも負のレッテルを貼られ、なおかつ政治的には「アカ」というレッテルを貼られ、学生運動のなかで亡くなったなら「暴徒」というレッテルを貼られと、何重ものレッテルを貼られて、親自身も鬱々としたやりきれない思い、そしてどこにそれを吐き出せばいいのかわからない、そういう自分たちのなんともモヤモヤとした、そういう思いをなんとか力に変えていくというのが、韓国の恨。恨みつらみを抱きつつ復讐するという意味の日本語的な「恨み」とは全然違う概念になります。

私、山﨑博昭さんという存在を知ってから、2、3年前に谷中のギャラリーで10・8山﨑博昭プロジェクトの写真展があったときに、職場が近いので見に行ったんです。そこで佐々木幹郎さんと出会いました。韓国には金芝河(キム・ジハ)という有名な抵抗詩人がいますけれども、韓国では死者の悼み方として詩というものが非常に大きな位置を占めていて、詩人というのはある意味シャーマニスティックな存在として、また預言者的知識人とも言える、重要な位置を占めるものなんです。それで、私は初めて「日本にも詩人がいらっしゃるんだ!」と、佐々木さんと出会って認識したという、その程度のものなんですけれども、今日は「詩」という点に注目して話を進めていきたいと思うんです。

韓国の学生運動の原点というのは光州(クァンジュ)民主化運動です。1970年に全泰壹が焼身自殺して亡くなったけれども、1970年代という時代はあくまで「朴正煕(パク・チョンヒ)大統領閣下にお願いをする、なんとか民主化をしてください」という、そういう立場の運動だったわけです。

ところが光州事件は、韓国の運動の枠組みそのものを180度変えてしまう出来事でした。どうしてかというと、1979年に朴正煕が暗殺され、それまで独裁で押さえつけられていた人たちが自由とか民主化を求めて街頭に出てくるようになるんですね。ところがそこで全斗煥がクーデターを起こして、全斗煥(チョン・ドゥファン)率いる新軍部がおさえてしまうわけです。

そういったなかで1980年5月17日に、非常戒厳令が敷かれて、光州以外のソウルなんかの学生運動の人たちは、とりあえず新軍部がどう出るか様子を見ようということで、デモを引き上げるんですが、光州だけは引き続きデモを行ったわけですね。

それによって戒厳軍が、学生運動を銃剣で制圧し、なおかつ非常戒厳令に背いたという理由で、街を歩いている全然関係ない一般市民でもなんでも全部、引きずり出して殴ったり銃を撃ちまくったりという、そういう出来事が5月18日から始まるわけです。

最近「タクシー運転手」という映画が封切られましたけれども、光州事件ではタクシー運転手が非常に重要な役目を担います。なぜかと言うと、あの当時運転免許を持っているということ自体が非常に貴重なものだった。タクシー運転手という人たちは情報の運び屋でもあったということで、光州のいろいろなところでお客を乗せたりするなかで、いろんなところで軍人が住民を殺したりしているらしいという情報を、駅のロータリーとかタクシー運転手の食堂とかで、情報交換をするなかで、ついにタクシーやバスの運転手たちも5月20日の夕方にデモに合流するのです。

タクシーやバスの運転手がデモに合流するということは、市民の側が機動力を確保するという意味になります。ですので、その機動力を使って、郊外の武器庫まで行って武器を奪取して、市民が銃を取る。それによって戒厳軍が後方に退いて、しばし5日間ほど、市民軍統治下ですね、自由光州とか解放光州と呼ばれる状況が生まれるんですね。

その期間にビラでまかれた作者不詳の詩「光州市民葬送曲」というのがあります。他にもたくさんあるんですけれども、お手元のレジュメに書いておきました。こういう詩が1980年5月にビラでまかれ、この詩は5年後に地下で、非合法に学生運動家たちがつくった「光州よ、五月よ」というカセットテープのなかにメロディつきで歌になるんです。

そのとき、この詩が若干改変されたわけです。たとえばこの「光州市民葬送曲」のなかの2番目の2行目に「民主魂が生きている」というくだりがあるんですが、1985年版では「民族魂」に書き換えられる。3番目の「三千万同胞よ」以下のフレーズがそっくり切り落とされるんですね。

これが何を意味するかというと、1980年から80年代なかばの間にイデオロギー闘争というか、光州事件をどのように理念化するかということが地下で進んでいくんですね。光州事件の渦中にある市民たちは最後はアメリカが助けてくれるだろうと待ち続けるんです。アメリカは民主主義の国なので。

ところが実際は、アメリカは、韓国を分断地帯というか冷戦構造の緩衝地帯にするという国益のために全斗煥政権を支える立場に立って、空挺部隊の投入を韓国軍に認可するんですね。当時の韓国軍というのは、アメリカ軍の許可なしには動けなかったんです。蓋を開けてみれば、自分たちを虐殺するために韓国軍をアメリカ軍が影で操っていたわけです。空挺部隊が来て、27日に壊滅状態に陥れられることになります。

この光州事件の経験を通して、ようやく民主化ということにもまして、反米的な民族志向的な理念が生まれてきます。

それがほぼ表に出てくるのが1980年代半ばなんですね。「光州市民葬送曲」という詩が1985年に運動歌謡に生まれ変わったときに、「民主魂」が「民族魂」になっているのはそのためですし、「三千万同胞」というのはその当時の韓国の人口なんですね。三千万同胞という言葉は、民族を表象するにはふさわしくないという、そういう考えがあったのか、2番までの歌詞で歌が作られるということになります。

あるいは、「亡霊の歌」「ああ、光州よ、この国の十字架よ」。プリントに抄訳を載せてありますけれども、この花嫁の写真ですね、この人は妊娠8ヶ月の妊婦だったんです。学校の先生をしている夫の帰りを心配して家の門の外で待っていたわけです。そこを銃弾で撃たれて、亡くなってしまった。

ちょうど映画「タクシー運転手」のワンシーンで、光州事件で傷を負った人たちが運びこまれた野戦病院のシーンがありますけれども、そのシーンの中に「お腹の子も一緒に死んじゃったのね」というセリフがあるんです。それはこの崔美愛(チェ・ミエ)のことなんだなというのが、観ればすぐにわかりました。

実は光州事件の直後に、金準泰(キム・ジュンテ)という詩人が「ああ、光州よ、この国の十字架よ」という詩を発表されていて、その詩のなかに崔美愛が一人称で語る独白のくだりがあるんですね。そのセリフを取り出しました。

 

あなた、あなたの帰りを待っていて、

門の外であなたの帰りを待っていて、私は死にました・・・

 

という語りで始まります。

「亡霊の歌」も、これは実在したかどうかわかりませんが、靴みがきの孤児の亡霊の歌として一人称で語られる詩です。

これは私などが見ると、シャーマン儀礼のなかの口寄せの場面に非常に似ていると思うんです。「復活の歌」という詩もそうです。

これは光州事件の市民軍を率いた尹祥源(ユン・サンウォン)という人が、韓国ではというか、光州を中心にした南西部では若くして亡くなった男女を死後結婚させるという風習がありまして、この尹祥源も事故死した同志の女性と死後結婚をした、その婚礼に寄せて作られた詩です。

もうひとつ挙げておきましたのは、「朴寛賢(パク・クァンヒョン)鎮魂祭-海東人が書き、ノレ・クッを行なう」です。

これも光州事件で有名な、光州事件の導火線となる14日の「民主大聖会」で名演説をした全南大の総学生会長が、1982年に獄死するんですが、この人の葬儀のときに作られた詩です。

これは非常に長いので、部分的にだけ翻訳をしましたけれども、最初に死者の来歴を語り、あの世に行く道はどれだけ険しいかということを延々と語っていくやり方というのは、シャーマンが死者儀礼を行うときに歌う歌というか、その形式に沿ったものであるし、自然の森羅万象のなかに彷徨って行き場のない死者の魂があらゆるところにさまよっているという状況が、この「復活の歌」にも朴寛賢の鎮魂祭の歌にも表れています。

こういったシャーマニスティックな下地のうえで、死者の死を悼む詩というのがたくさん光州を起点として作られてきたということがあります。

もうひとつ重要なことは、プリントに書き足しました。二人の文(Moon)が、奇しくも30年の時を経てですが、「死者の『名』を呼び、記憶に刻み、歴史に埋め込む」ということをやるわけです。さきほども言ったように、学生運動の死というのは、あるいは労働運動の若くしての死というのは、親不孝者であり、アカであり暴徒であり、本来なら歴史のなかからはずされるべき存在なんですが、ここでそうではないということを詩をもって示すわけです。

1987年6月に李韓烈(イ・ハンニョル)という延世大の学生が催涙弾の直撃を受けて、7月に亡くなるんですが、その葬儀のときに、文益煥(ムン・イクファン)という牧師ですね、この方が弔辞というか詩を朗読するのです。これは出だしが

 

全泰壹烈士よー!

 

で始まる。全泰壹は遺家協の初代の労働烈士ですけれども、

 

全泰壹烈士よー!

 

から始まって、◯◯烈士よー!、◯◯烈士よー!

そして、真ん中あたりで

 

光州2千余の英霊よー!

 

ときて、そしてまた◯◯烈士よー!

そして、

 

李韓烈烈士よー!

 

に至るまでずーっと25人の名前を、一人ひとりすごく大きい声で呼ぶわけです。

いわば魂呼ばわりのような、そういう形式で呼ぶことで、当時はまだ韓国のオフィシャルな記憶に組み入れられず、正史のなかに位置づけられないこうした死者たちの名前を、自分たちの歴史意識のなかに埋め込んでいくということをやるわけですね。

奇しくも30年後、その光景を観たときにとても私は感動したんですが、2017年5月、大統領に就任して初めての光州抗争5・18記念辞で、文在寅(ムン・ジェイン)大統領が演説の中で、4人の死者の名を挙げたんですね。「“光州”のために闘った烈士たちを称えたい」という見出しのついた、ニュース映像を見て私は非常に感激したんですが、

 

全南大生、朴寛賢

労働者、ピョ・ジョンドゥ

ソウル大生、趙城晩(チョ・ソンマン)

「光州は生きている」と叫び、崇実大学学生会館の屋上で焼身自殺した25歳、崇実大生、パク・レジョン

 

この4人の名前を並べていったんです。

これもまた、李韓烈以後の、李韓烈の死がきっかけになって韓国は軍事政権が6・29民主化宣言を出さざるをえなくなったので、いったん運動はここで一息ついたという位置づけで、なんとなく、とりわけ、ピョ・ジョンドゥ、趙城晩、パク・レジョンといった1988年以降の死者というのは、あまり知られていない存在だったのです。そういう死者たちの名前をわざわざ呼んでこれを称えたいと、そういうことを大統領が表明したということがありました。

さきほどの詩の話にも通じるんですが、光州事件を起点としていわゆる封じ込められた運動の記録だとか、そういったものを芸術に昇華させるという「五月文化」と呼ばれるものがいろいろと生まれてきます。これは出来事を記憶するためのひとつの装置であるし、方法論的には反復・再現可能な「空間」を創出するといった仕掛けがあります。

ひとつは、運動歌謡です。プリントにある「五月のうた」という非常に有名な運動歌謡の歌詞をご覧いただきたいんですが、非常に生々しいです。

 

花びらのように錦南路(クムナムノ)に降り注がれた、君の赤き血

 

とか、

 

豆腐のように切り落とされた、美しき君の乳房

 

これは史実に沿ったものなんです。こういう非常に生々しい歌なんですが、いちいち歌を作曲して譜面に落としてというと、これは原本を紛失したらパーになってしまうし、作者は容易に足がついてしまいます。そこで即席で誰もが知っているメロディに乗っけて歌う替え歌が作られ、集会で自然発生的に誰もがこれを歌えるという現象が現れました。「五月のうた」というのは1984年くらいから自然発生的に歌われてきたんですが、原曲は、実はMichel Polnareff(ミッシェル・ポルナレフ )※なんです。

※フランスの歌手(Michel Polnareff)の Qui a tue grand maman ?(誰がおばあさんを殺したの?)

1971年に発表された楽曲で「誰がおばあさんを殺したの?」という原題なんですが、これは日本では1972年に「愛のクレクション」という邦題で売り出された曲です。ただ、このMichel Polnareffの原曲は、フランス語の訳を見ると、当時のフランスにおける開発政策・環境破壊、そういったものに対するプロテストソングなんです。

いろいろ環境が激変していって、ブルドーザーが入ってシャベルカーが入ってどうのこうの、そういうなかでおばあちゃんが死んでいった、心が殺されたと、いうような意味合いだと思うんですが、1971年というのは韓国もまさに朴正煕が開発独裁をすすめていた時期なので、どう考えても直接フランスから韓国に入ったとは考えられません。ちなみに日本版の「愛のコレクション」の歌詞では、そうしたプロテストソングの要素は完全に脱色されています。

これは現段階ではまだ推論でしかないのですが、1972年の「愛のコレクション」をおそらくは日本経由で韓国に密かに持ってきた人がいたのではないかと見ているんです。1975年に韓国の女性のフォーク歌手が「愛の追憶」という韓国タイトルでカバーしているんです。日本版同様に「愛の」が頭につく韓国版の歌詞は、当然ながら原曲の内容と全然似ても似つかない。なんかちょっと甘ったるいラブソングみたいな、そういう内容になっているんですけれども、ただメロディだけはちゃんと韓国に入っているわけです。

その旋律という”古い革袋”に光州での出来事の記憶を押し込めて、いつ何時でも人々が集まれば共感の共同体を形作ってみんなで歌うことで、あの時・あの場の・あの人たちの・あの闘いが、バーチャルな空間に再現される。

さらに複製技術を使って、すでに1982年に市民軍スポークスマンの尹祥源の死後結婚に寄せて歌劇「ノップリ」が作られ、そのカセットテープが地下で非合法に流布されました。そして1985年にはさきほど触れた「光州よ、五月よ」がやはり非合法に作られるんですが、これもやはりカセットテープという複製技術を使うことで、光州だけじゃなくて全国に広がっていくわけです。1980年代半ば、厳しい情報統制で光州事件というのは公にはなかったことにされていましたが、学生街ではみんな知っていたわけです、こういう歌を。

そしてもうひとつの形式、例えばマダン劇形式の「五月劇」。マダン劇というのは村の広場みたいなところで、周りをぐるっと観衆が取り囲んでいるなかで、仮面を被って風刺劇をやったりするんですが、その形式を使って「五月」を再現する劇をする。

これは劇場でやる演劇と違って、どこでもやれるし、大道具・小道具いらないし、群衆が周りを取り囲んで役者と掛け合いをしながら、一緒になって劇を作っていくということで、これもどこにいてもあの時あの場、あの出来事を再現できるバーチャル空間になります。

もうひとつは、民衆美術です。

これは版画という方法が使われるんですね。これはもう推して知るべし、日本でも下丸子文化集団といった場で、版画が多用されたと聞いたことがあるのですが、ひとつ原本があればいくらでも複製ができるということで、じつは韓国で1982年くらいから、版画を使って光州事件を描き告発するという作品が生まれてくるんです。その淵源がどこにあるかはドイツのケーテ・コルヴィッツか、魯迅なのか、あるいは1960年代のキューバ革命の版画運動、そしてメキシコの壁画運動から来たのか、今まさに研究プロジェクトを立ち上げて調査中なんですが、光州事件の発火点となった全南大学とかに行くと、学生会館の壁面にでっかい運動の画が書かれていたりするんです。それがどこの何に由来するのかはまだ明らかになっていませんが、日本とのかかわりでいうと富山妙子という1921年生まれの、まだご健在の画家の方です。その方の書いた美術理論書だとか、あるいは彼女が金芝河の詩に寄せて作ったリトグラフ、光州事件を描いたリトグラフ、そういったものが地下で韓国の民衆美術家たちに受容されたというルートもあるようです。ともあれ、壁画や版画といった方法が、80年代以降、学生運動のなかで使われていきます。

版画を使った社会運動のスタイルは、直近の韓国社会にも現れました。1987年に李韓烈が催涙弾に撃たれて、これは撃たれた直後の新聞に出た写真ですが、これを使って「韓烈を救い出せ」と題した版画が作られるんです。それをもとにして葬儀で用いる「掛け絵(コルゲクリム)」が制作され大きく掲げられるんですが、2016年に全く同じ構図の風刺画が作られました。2015年11月にソウルの光化門(クァンファムン)広場で民衆総決起大会というキャンドルデモの口火を切った集会で、白南基(ペク・ナムギ)という70歳の農民のおじいさんが放水銃で撃たれて、意識不明の重体のまま翌年の9月に亡くなるんですが、李韓烈の版画に模した風刺画「白南基を救い出せ」が「民衆の声」というネットニュースに掲載され、SNSを通じて拡散されたのです。

ちょっと順番が前後しますけれども、2013年にカン・ヨンミンというアーティストが「6月の友人たち」という、李韓烈の写真をモチーフとした作品を発表します。この時期はすでに朴槿恵(パク・クネ)の政権になっていて、非正規労働者が抗議の焼身自殺をしたり、労災認定されずに亡くなっていった人たちというのが結構いて、たぶんそこを風刺したものかなと思うんです。決定的なのは2014年ですね。「セウォルが流れても」、これはセウォル号のことを描いているんですが、韓国語でセウォル号のセウォルと「歳月」を意味するセウォルは、発音が同じです、ですから「セウォルが流れても」というのはセウォル号と歳月をひっかけている。この図柄は、セウォル号の犠牲になった女子高生を背後から支える潜水士という図柄で描かれるんですが、こうした版画を使ったカウンター(対抗)運動という80年代以降の韓国民衆美術の手法が朴槿恵の弾劾訴追から文在寅政権の発足に至るまで、ずっと継承されてきているということがあります。

韓国のデモというのは、基本的に弔い合戦です。だから今、日本の首相官邸前でデモをやったりしていますが、その内実は韓国の視座からすると全然違う、方向性が真逆、ということです。

もともとの始まりは、遺体をめぐる争奪戦から来ています。羽田闘争のこともそうだし、樺美智子もそうだけれども、死因が特定できない、できうれば警察としては特定できないまま火葬にしてしまいたい、でも遺族はそれはダメだ、真相究明すべきだと。そういう争奪戦もあれば、遺体を墓場まで持っていく最中に、それが大きなデモに発展するのを恐れて機動隊が出てそれを阻止しようとする。権力はそういうことをやるんです。

それから、光州の犠牲者たちが望月洞(マンウォルドン)墓地に葬られるんですが、意地の悪いことに当局が光州市内から望月洞に行くバスを廃止するんですね。遺族たちが墓場に行けないようにするんです。しかたないので遺族たちは歩いてみんなで行くんですが、そこにジュラルミン盾を構えた機動隊がぶつかってくる、そういう弔い合戦というのが繰り広げられてきた。

あるいは集会前に、これはソウル大の事例ですが、ソウル大のゆかりの死者たちの追慕碑というのがキャンパスのなかに点在します。右側がその地図ですが、その追墓碑を巡拝して、ひとつひとつの追墓碑の前で、シャーマン儀礼式に豚の頭を捧げて祈って、次の追墓碑に移って、そうやって力を得てから学生集会の広場に行って、みんなで集会をやって、気勢を上げてから門の外に出ようとすると、そこに機動隊が待ち構えている、そこでドンパチがある。韓国のデモはそういう形で出てくるし、加えて李韓烈以降、「民主国民葬」というスタイルが現れます。

これはさきほども言いましたが、もともと韓国の学生運動や労働運動で若くして異常な死に方をした、そういう人たちは伝統的な儒教規範に基づく因習のなかでは、葬儀もお墓もだめなんですが、わざとそれをひっくり返すような形で、「民主国民葬」なるものを彼らは考案するわけですね。李韓烈の遺体が安置された延世大病院から、永訣式の会場となる延世大構内の広場をめざして、白装束で鉢巻きつけた学生たちが霊柩行列を作って移動する。永訣式を終えたあと、今度はこの死が社会的に重要な死であるということを記すために、路祭というものを行います。

そしてこの場合はソウル市庁舎前ロータリー、今でいうところのソウル広場ですね。ここに霊柩行列が出ていこうとして、また機動隊が止めようとしてドンパチ。こういう民主国民葬というのが1987年以降、韓国の運動のなかで行われるようになりました。ちなみに一番最近の事例では、盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領の葬儀が民主国民葬で行われました。

2ヶ月くらい前の朝日新聞にですね。官邸前デモのルポがあって、私らの運動の主語は「私だー」みたいな記事があって、それは違うだろうと私はちょっと気分悪かったんですね。韓国の学生運動とか民主化運動というのは、いってみれば死者が主語なんです。

さきほど触りの部分で言いましたが、韓国の運動体は基本、グリーフワークの共同体です。だから、ともに戦うこと自体がお互いにとっての癒やしになる。ことの始まりは、「なぜ◯◯は死ななくてはならなかったか」、あるいはMichel Polnareff(ミッシェル・ポルナレフ )の歌にあるように「誰が◯◯を殺したのか」、そういった問いを立て、答えを生きることが即、運動になっていく。

その運動というのは自ずと、「国民なめんな」とか、そういうのではなくて、政治的な問い、政治的な答えを求める運動にならざるをえません。そこで練り上げられた運動目標の3点セットというのがありまして、これは光州の遺族たちの運動から発しています。

①真相究明

②責任者処罰、被害者への謝罪と補償

③被害者の名誉復権

名誉を復権するということは、その歴史を正しく教科書にもきちんと書けということも込みです。この3点セットというのは、現在までずっと引き継がれてきています。光州抗争に始まり、背後にアメリカがいたということに彼らは気づいていくなかで、自分たちの置かれた状況がポストコロニアル状況、植民地主義のもとに置かれていたからこういった惨劇があったんだということに気づいていく。

さらに運動を進めていくなかで、じつはアメリカ・日本の植民地主義に抑え込まれていただけではなくて、内なる植民地主義、端的にいうと家父長制ということですね、そういったことに気付くようになるわけです。今年に入って、光州事件当時私も性暴行を受けましたなどの、「 Me too 」という運動が韓国で盛んになっていますが、それもこの延長上にある動きです。

そういった覚醒のなかで、光州事件の問題解決、および私が調査していた遺家協がやってきた民主化運動の犠牲者に関する運動もそうだし、日本軍慰安婦問題の解決運動、これもルーツは80年代学生運動なんですね。だから慰安婦問題について彼らが求めているのも、この3点セットです。

そしてもう一つは1990年代の終わりくらいからベトナム戦時民間人虐殺ということについて、ベトナムに謝罪しようという運動が始まっています。彼らは1980年代の学生運動のなかで、先述した富山妙子の本とか画集を地下でこっそり読んだのと同じように、ベトナムの女子学生の手記なんかも読んでいるんですね。

自分たちが韓国軍を派兵して、南ベトナムで民間人をたくさん虐殺した、そのことについて、ベトナムの人たちに、真相究明、責任者処罰、被害者への謝罪と補償、名誉復権を、という謝罪運動をずっと続けてきているグループが韓国にあるんですね。

それからセウォル号事件ですね。これも遺家協出身のある人権活動家が4・16連帯というのをつくってセウォル号の真相究明のために、連帯してやっている。全部、光州事件から出てきている3点セットです。

結局彼らはどういう歴史のなかに死者を位置づけ、記憶するかといいますと、それは1919年です。3・1運動、初めて朝鮮民族として日本帝国主義に対して対抗したという、ここを起点とした歴史意識への問い、それがさらに自民族だけではなく普遍的な人権運動、ポストコロニアル状況というのはなにも朝鮮半島だけではない、世界中のどこにでも普遍化しているので、普遍的な人権運動へと展開していく。今、韓国の民主化闘争というのは、このあたりまで来ているというお話です。

すいません、長くなって。ごめんなさい。(拍手)

 

佐々木:最後にお話を飛ばされたところ、「水に落ちた犬を打つ」という言葉ですが、大事なところだと思いますので、ご説明をお願いします。

 

真鍋:「維新独裁の根を抜く」というのは、じつは1980年の光州事件の時点で、たしかビラの中だったか、市民軍が発行していた「闘士会報」という壁新聞みたいなのがあるんですけど、そういう資料の中に出てくるフレーズなんです。

光州市民が非常に追い詰められて、これは徹底抗戦するしかないといったときに、朴正煕の「維新独裁の根を抜く」というのは、朴正煕というのは日本統治時代の陸軍士官学校出身だから、日本軍隊的なものを持ち込んでいる。そういったものを全部引き抜いて、なんとかわれわれが生き抜こうという、そういうところから始まったフレーズです。

なぜここにこれを挙げたかというと、じつは私も迂闊だったんですけど、民主化宣言がなされて、1998年に金大中が大統領になり、盧武鉉が大統領になり、ここですべてが終わったような気がしていました。

しかし、光州で演劇をやっている戯曲作家の方が、この方は1998年9月にお亡くなりになるんですけど、私はその方が亡くなる2ヶ月前にインタビューをしてまして、埋もれていたそのテープが出てきてあらためて聞いてみたら、非常に金大中に対して怒っているんです。なぜかと言いますと、1997年末に大統領選挙に当選したとたんに、全斗煥と盧泰愚をクリスマス恩赦で出してしまうわけですね。

このことを金大中は光州市民に問うてみたのか、と。金大中は光州のことを何も知らないんだ、と。光州市民がこれを許すかどうか、聞くべきじゃないか、と。やはり「水に落ちた犬」は打たなければいけない、と。それこそが、本当に浄化された正しい世界にいくために大事なことなんだということを、切々と末期の肝臓がんの方がおっしゃってたんですね。

盧武鉉の時代に親日派清算というのがなされましたけれども、ここに言う親日・反日というのは日本語でいう親日・反日とは全然ニュアンスが違います。これは、感情論ではないんです。

韓国で親日・反日というときの「日」は、日本とか日本人とかを指すのではなく、日本帝国主義です。日本帝国のことを指すんです。なので、朴正煕のような日本帝国主義の思考をそのまま引きずって軍隊方式をそのまま自国民に対して弾圧を行うとか、日本のかつての「国体」(論)ですね、これを韓国も北朝鮮もそれぞれ引き継いでいる。「親に孝、国に忠」という、かつての国体論の家族国家観をそのまま国を統治するのに使っていたり、あと1968年の日大闘争で右翼学生や体育会系学生を投入したとあるのですが、日本のそういうやり方を韓国も真似ているので、そういう右翼青年とかヤクザを反体制運動に対して投入して殺したり、そういう日本帝国主義の遺制というか、よからぬ因習というか、そういったものがずっと残っている。

それを徹底的に清算しなければいけない、という考えなんですが、でも実際それがなされていたかというと、中途半端に全斗煥と盧泰愚を獄から出してしまう。いま全斗煥が何を言っているかというと、「俺は光州で射撃命令なんかやってないぞ」とか言っていて、2年前には自伝を出していて伸び伸びと活動されているわけです。1998年時点でそういうことを指摘した劇作家は正しかったなと私は思っていて、文在寅が朴槿恵をたやすく恩赦にするのかしないのか、そこを注視してみたいなと思っています。たぶん国民感情は許さないだろうとも思っています。

佐々木:「水に落ちた犬を打つ」という言葉は、おそらく魯迅の「水に落ちた犬は打て」という言葉から来ているのではないでしょうか。1920年代の魯迅の評論「『フェアプレイ』はまだ早い」に出てきます。それと連動した思想ですね。

—————–休憩—————–

<質疑応答>

佐々木:光州事件のときにタクシーの運転手が参加しましたが、これは韓国の民主化運動のなかで大きなポイントだと言われているのですね。

真鍋:そうです。

佐々木:韓国における「恨」の構造は、民主化運動のなかで死者を追悼する。このご指摘とはとても重要だと思いました。死者を追悼することが、どのように運動につながり、社会変革につながるか。韓国と日本との違いなど、そのことについて、もう少しお話ください。

真鍋:まずは韓国の因習というか伝統的な死生観というのが運動のベースにあることは確かです。さきほども言いましたが、未婚で横死した場合、きちんとした儒教式の葬式も法事もできないということがあって、生きていればこんなこともできた、あんなこともできた、そういった未練が残るので、生きている人たちに祟りをもたらす、そういう信仰がずっとあったんです。それを慰撫するためのシャーマニズム儀礼というものが伝統的にずっとありました。

韓国で光州事件後に流行った流行歌を、いまYou Tubeで懐かしく聞いたりしているんですが、そこに出てくるいくつかのフレーズというのが、開けなかった花一輪、とかですね。

生きていれば恋愛もして結婚をして子どもをなして、いろんな人生の勉強もやって仕事も成功して、というような、もっと大きな花が咲いたはずなのに、花開く前に蕾のうちに手折られてしまった、そういうニュアンスがあったり、あと、ニムという言葉がよく出てくるんです。

ニム(님)というのは韓国語で「様」という意味なんですが、もう一つは擬人化された対象としての「あなた」という意味があります。通常の会話では「あなた」という意味では使わないんですが、朝鮮が日本の統治下にあったときに、韓龍雲(ハン・ヨンウン)いう詩人が「ニムの沈黙」という詩のなかで「ニムは遠くに行ってしまわれました」と書くんですね。その場合のニムとは、愛しい人とか、それを国家=祖国に投影してニムという言葉を使ったのではないかと言われています。光州事件の非常に有名な弔い歌のひとつに、「ニムのための行進曲」という歌があります。

 

資料:

「あなたのための行進曲」

白基玩作詞、キム・ジョンニュル作曲

 

サランド ミョンエド イルムド ナムギモプシ

愛も 名誉も 名前も 残さず

 

ハンピョンセン ナガジャドン トゥゴウン メンセ

一生涯 がんばろうという 熱い 誓い

 

トンジヌン カンデオプコ キッパルマン ナブキョ

同志は (死んで)いなくなり 旗だけが 翻る

 

セナリ オルテカジ フンドゥリジ マルジャ

新しい日が 来る時まで 動揺するな

 

(繰り返し)

セウォルン フロガド サンチョヌン アンダ

歳月は 流れても 山河は 知っている

 

ケオナソ ウェチヌン トゥゴウン ハムソン

目覚めて 叫ぶ 熱い 叫び

 

アプソソ ナガニ サンジャヨ タルラ

(私は)先に 行くから 生きている者は 後からついてこい

 

アプソソ ナガニ サンジャヨ タルラ

(私は)先に 行くから 生きている者は 後からついてこい

 

(繰り返し)

 

ここに言うニムはなにかというと、「愛しいあなた」であると同時に、「愛しい失われた祖国」という意味合いがありまして、よく1980年代初頭の歌謡曲のなかにもニムという言葉がよく出てくるんです。

また、「この身が一握りの灰になっても」というフレーズもよく出てきます。

「一握りの灰」というのは、きちんと葬儀もしてもらえず墓もつくってもらえず、途中で亡くなってしまったので骨粉にされてしまって一握りの灰になるというのが、非常に物悲しいというか、「花開けなかった蕾」と同じような意味合いで、大衆歌謡、流行歌のなかにもずっと潜在しているんですね。

なにが言いたいかというと、残された人たちのモヤモヤとした行き場のない思いというのがあるのと同時に、死んだ人に対して、もし生きていればこんなこともあっただろう、あんなこともあっただろう、とか、愛しいあなたはどこに行ってしまったのか、とか、そういった死者の身に成り代わって、流行りの言葉でいえば忖度するというか、そういったメンタリティというのがあります。

そこが基底にあるんですけれども、私が日本のいろんな運動を見ていて、韓国の遺族の弔い合戦に近いイメージとして見た画像は、水俣の「怨」という幟を立てて、遺影を抱えて、という、あの場面が一番近い。

だけれども、石牟礼道子さんが亡くなる寸前か、ドキュメンタリー番組のインタビューで、自分が美智子さんと親しくて「水俣の患者のもとに天皇夫妻が来て下さい」というお手紙書いたんです、というような話をされていて、そこは結局、天皇制に回収されて宥められて終わってしまう。

韓国の場合は、天皇制というのがないので、同じハンプリ(한풀이)といっても(ハンプリというのは「恨を解く」という意味)、宥め宥めて解こうとするのとは違い、積極的に状況をひっくり返して、死んだ人たちの内にわだかまった叶えられなかった夢を、たとえば統一祖国のために身に火をつけて死んだのであれば、その統一祖国を作り出すということが、亡くなった人たちがこの世に対して抱いている未練とか、生きていれば楽しいことがあったであろう未来と引き換えに、彼らが望んだものを、世界を構造的にひっくり返して、そういう社会をつくろうというふうな、非常に解放的なそういう運動になっているんです。

だから、ついこの間、富山妙子さんのお宅に水戸喜世子さんと代島治彦監督さんと行ったとき、富山さんもポソっと「水俣もああなっちゃったしね」とおっしゃってて、そこが日本と韓国の大きな違いじゃないかなと思います。(拍手)

会場から:死者を主語とする運動という言葉が印象的で、とても感じるところがあります。たとえばクリスチャンというのは、イエスが殺されたということを主語にして運動しているようなものだと思うところがあるのですが。

真鍋:キリスト教というのは韓国の民主化闘争においては非常に重要なファクターです。全泰壹という人そのものがクリスチャンだったですし、お母さんもクリスチャンだったんですが、ただ当時やはり自殺は罪だというのでキリスト教会の多くはその存在を忌避したんです。しかし、そこから逆に、全泰壹は社会の構造悪のなかで罪人に代わり自ら死んだのではないか、第二のイエスであると言い始めた神学者たちが出てきて、民衆神学というのが起こってきます。

佐々木:韓国における烈士という存在は、国あるいは権力体制に対して闘って亡くなった人ですね。日本の新左翼の運動のなかでは、党派闘争の内ゲバでたくさんの人が亡くなりましたが、韓国ではどうでしょう。そういう人は烈士と呼ぶんでしょうか。

真鍋:内ゲバは聞いたことがないです。「殺身成仁」という論語の言葉に倣って、自らの身に火をつけて死ぬことで、運動体のなかの足並みの揃わないところに道を示すというのはありましたけれども……。ですので、内ゲバではなくて、自分が死ぬという、そういうことでしょう。

佐々木:貴重なお話を、ありがとうございました。(拍手)

(おわり)



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