佐々木幹郎さんが語る「弁天橋の死 生への意思」(朝日新聞、2019年1月7日夕刊)

佐々木幹郎さんが語る「弁天橋の死 生への意思」(朝日新聞、2019年1月7日夕刊)

朝日新聞(夕刊)で連載「危機の時代の詩をたどって」が始まりました。その第1回(1月7日)は、当プロジェクト発起人の一人である佐々木幹郎さんを取り上げたものです。10・8羽田闘争と山﨑博昭君の死をどう受け止めたかについて語っていますので、皆様にご紹介します。(事務局)

 

https://digital.asahi.com/articles/DA3S13839565.html?_requesturl=articles%2FDA3S13839565.html&rm=150

「約50年前。危機は今よりも明確なものとして認識されていた。強大なる権力が生み出すものとして……。

1967年10月8日、そのニュースを知った佐々木幹郎(みきろう)(71)は「次に死ぬのはおれだ。それしか怒りを表す方法はない」と思った。佐々木は詩人としてデビューする前で19歳、浪人生だった。

ニュースとは、京大生の山崎博昭(当時18)が佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を実力で阻止しようとした羽田闘争で死亡したというもの。ベトナム戦争に日本が加担することへの危機感が若者たちを突き動かしていた。山崎は高校の同級生で一緒にデモに参加したこともある親友だった。

「この橋を通り抜ければ空港に接近できる。滑走路に一人でも入れば、飛行機が止められる。そんな戦略だった」

どこまでも青い冬の空に飛行機が飛び立っていく。機影を目で追いながら、弁天橋のたもとで佐々木は半世紀前を振り返った。自身は参加できなかった。だが、幾度も想像してきた闘争シーンだ。

学生たちと機動隊は弁天橋など三つの橋で衝突した。学生は投石と角材で闘い、機動隊は催涙ガス弾を撃った。学生たちは倒れ込み、川に落ちた。警備車から炎もあがった。そんな暴力と暴力がぶつかる現場で山崎は死亡した。

佐々木は翌年、同志社大に入学し、文学研究会の機関誌に山崎を追悼する詩「死者の鞭(むち)」を発表した。言葉が次々と屹立(きつりつ)し疾走していく詩だ。

〈ぼくの記憶を突然おそった死者のはにかみのくせ/鋭く裂ける柘榴(ざくろ)の匂いたつ鈍陽(にびひ)のなかで/永遠に走れ/たえざる行為の重みを走れ〉

〈声をかぎりに/橋を渡れ/橋を渡れ〉

政府やメディアが学生たちを批判する逆風も吹く中、国家権力に反逆して死んだ人間を悼む詩。鮎川信夫や田村隆一ら「荒地(あれち)」派の詩は戦争の死者たちと向き合っていたが、彼らとは違う新しい言葉が必要だった。激しい怒りと終わらない絶望を込め、生への強い意思も刻んだ。〈生き抜く! 生き抜くことだ!〉

自身がデモで逮捕された経験も背景にはあった。「警棒で殴られているとき、湧き上がってきたのは『絶対に死ぬもんか』という不思議なほどの『生』への勇気。革命の士として死のうというヒロイズムとは遠いものだった」

「死者の鞭」は詩人で批評家の北川透(83)が「憤怒のメタフィジック」と題した評論で称賛。佐々木は70年6月に同題の詩集を出版し、詩壇デビューした。詩集としては異例の売れ行きだった。

70年11月、作家の三島由紀夫が自決した。佐々木はその時、決めた。三島文学への共感はあったが、殉死をめざす思想とは決別し、蕪村の句にある牡丹(ぼたん)のように生きていこうと。〈地車のとどろとひびく牡丹かな〉。地面を揺るがすような車の響きの中で揺れる牡丹。社会を動かす大きな出来事のそばで衝撃を受け止めつつ、ひっそりと立つ。そして詩を書く。今もそうだ。

権力という暴力、戦争や原発事故、そして現代……。危機の下で生きる詩人たちを追う。=敬称略(赤田康和)」



▲ページ先頭へ▲ページ先頭へ