山村貴輝さんの急逝を悼む

山村貴輝さんの急逝を悼む

10・8山﨑博昭プロジェクト事務局

 

 10・8山﨑博昭プロジェクトの東京事務局を担ってきた山村貴輝さん(やまむら・あつてる 考古学研究者、日本大学全学共闘会議)が、厳しい闘病中の4月25日、急逝しました。享年69歳。
 山村貴輝さんは、近年重い病気を抱え、苦しみながらも、日大全共闘の誇りも高く、一貫して「我らずーっと日大全共闘」と染め抜いた赤旗を掲げ続けました。同時に、10・8羽田闘争で権力に虐殺された山﨑博昭君への強い連帯の意志を胸に抱き続けました。病気に悩まされながらも、常にコミカルで辛辣なジョークを忘れず、未来への希望をもって、必死に生きたのでした。
 山村さんは、4月25日朝、フェイスブックに安倍政権批判を書き込んだ後、予期せぬ心臓の発作によってその命を絶たれました。無念だったでしょう。しかし、あなたは最後の最後まで、反権力の魂を燃やし続け、ほんとうによく頑張り抜いたのだと思います。

 コビッド19(新型コロナウイルス感染症)が拡大している中で、葬儀はご家族だけで催されました。友人・知人は参列することが叶いませんでしたが、山村さんのフェイスブックに弟さんが訃報を書き込まれ、そこに多くの人たちがアクセスしました。そのうち306人が弔意を表し、108件のシェアがありました。友人たちはそのようにして山村さんを送ったのでした。

 山村貴輝さんは、10・8山﨑博昭プロジェクトが立ち上げられてほどなく賛同人になり、東京事務局に加わりました。『かつて10・8羽田闘争があった[寄稿篇]』には、「あれから50年が過ぎた」という一文を寄せました。
 それによると、1967年10・8羽田闘争の時、高校2年生だった山村さんは、学生たちがなぜあのような命がけの闘争をするのか、当時はほとんど理解できなかったものの、胸のうちに深い印象を刻み込んだそうです。10・8羽田闘争の衝撃を転機に、山村さんの内面が変わり、権威や権力とたたかう人生を進んだとのことです。
 また、1970年に日本大学に入学してからの活動については、『日大闘争の記録―忘れざる日々』の第9号の特集「1970年以降へと受け継がれた『日大闘争』のゆくえ」の座談会に出席して大いに語っています。
 山村さんのたたかいの軌跡は、そのような形で記されており、私たちがそれらを読んで山村さんを偲ぶことができます。

 その中でも忘れられないのは、山村さんが自分のブログ「新鬼の城」に「本の紹介『かつて10・8羽田闘争があった[寄稿篇]』」というかなり長文の紹介文を書いたことです。それは、(上)「”ジュッパチ”の全貌と真実が浮き彫りにされた」、(下)「小熊英二氏はなぜ「轢死説」を唱えるのか」の2回にわたるものでした。
 山村さんは、同書にそって、機動隊による山﨑君撲殺の事実を再確認し、「本書が公刊されるに至って権力の意図は完全に粉砕され、「山﨑さん虐殺」の事実関係は不動のものとなったと言っていいのではないだろうか」と書きました。続いて、小熊英二氏著『1968』上下巻(2009年7月、新曜社刊)の中で、10・8闘争について「轢死説」を書いていることを取り上げ、逐一それを論駁しています。小熊氏が「轢死説」について実は何の検証もしていないこと、その根拠が警察情報を鵜呑みにした大野明男レポート(『中央公論』1967年12月号所収)だけであることを具体的に暴いています。そして、小熊氏の「歴史社会学者にあるまじき、客観性に反し、まさに不公正きわまる、一方だけに偏ったスタンス」を批判しています。
 山村さんの筆鋒はあくまでも具体的であり、それゆえに鋭いものです。山村さんの面目躍如たるものがあります。

 10・8山﨑博昭プロジェクトの事務局員として頑張ってこられた山村さんの急逝を心から悼みます。
 山村貴輝さん。あなたの生きざまを、私たちは忘れることはないでしょう。私たちはあなたの志を引き継いでいきます。
 さようなら。どうか、ゆっくりお休みください。



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