100年後の日本/佐々木幹郎

100年後の日本
佐々木幹郎(詩人)

 昨年(2019年)の春頃、ある雑誌から「100年後の日本」を展望するエッセイを求められた。多くの文化人たちがこれに応えたが、わたしは何度考えても、書く気持ちにならなかった。ところが今年になってから、「100年後の日本」について、どうあってほしいのか、切実に考えるようになった。新型コロナウィルスの感染拡大は、第一波が収まりつつあるが、第二波がやがて襲ってくることは確実だと専門家は言う。死がわたしたちの目の前に、ぶら下がっているのが現在だ。

 東京に住んでいるわたしは、40年ほど前から、月に一度は群馬県の浅間山麓にある山小屋に滞在しているが、外出自粛を都からも県からも要請されて、行くことができなくなった。この山小屋には地元の村からも東京からも、さまざまな職業を持った友人たちが遊びに来る。さながらコミューンのような共同空間となっているのだが、そのような空間こそがコロナ禍のもとになる、とみなされるようになった。つまり、日常生活からの息抜きの空間としてあった、焚き火をし、料理を作り、お酒を飲み、音楽を奏でる、というような文化が不要不急のもの、というわけだ。

 「コチラハ、防災オオタデス」という大田区の野外スピーカーからの機械的な声が、毎朝午前11時になると、わたしが住む町に鳴り響く。「感染症ノ拡大ヲ避ケルタメ、不要不急ノ外出ハ控エテクダサイ。イノチヲマモルタメ、ゴ協力ヲ、オ願イシマス」。「イノチヲマモルタメ」、町を歩いてはいけない。異常な事態のなかにわたしたちはいるのだ。

 誰もがその抑圧に耐えているうちに、コロナウィルスはなるほど、人間にとって大事なものが何であるかを、浮き彫りにしてくれていることに気がつく。
 自宅の中庭の樹木を見る時間が長くなった。ケヤキの大木や枝垂れモミジに新緑の小さな葉が次々に開き、それが次第に大きくなり、風にそよぐさまを眺めていると、ふいに永井荷風の短いエッセイを思い出したりする。

 「どんより曇った日には緑の色は却(かえ)って鮮やかに澄渡(すみわた)って、沈思につかれた人の神経には、軟(やわら)かい木の葉の緑の色からは一種云いがたい優しい音響が発するような心持をさせる事さえあった」(「花より雨に」)。

 新緑の葉の色から音楽を聞く耳を持つということ。ここには自分自身を忘れるような思いで樹木を見続けた人がいる。「優しい音響」は樹木が彼と、あるいは彼が樹木とコミュニケートしようとしているからこそ聞こえてきたのだ。荷風はある種の追放感のなかで、耽美(たんび)的な世界を見つけた。

 カミユの小説『ペスト』では、ペスト発症の第一波のなかで、市内に閉じ込められた人々の誰もが感じた「追放感」について、こんなふうに書かれている。

「実際、まさにこの追放感こそ、われわれの心に常住宿されていたあの空虚であり、あの明確な感情の動き――過去にさかのぼり、あるいは逆に時間の歩みを早めようとする不条理な願いであり、あの突き刺すような追憶の矢であった」(宮崎嶺雄訳)。

 自分自身と向き合う時間が長くなると、人は個人の追憶の層を何枚も何枚もめくりたくなる。そして、いまの自分を忘れようとする。

 ウィルス感染が死の危険をあらわに示し始めたとき、人間には面白い思考の変容が生まれる。コロナウィルスを地球上から撲滅することはできない。共存する以外にないと専門家は言う。わたしの友人の一人がそれを踏まえて、「だからオレは、気に入らない人間も、これから認めることにする」と、ある夜、突然、電話で告げてきたことがあった。
 コロナ禍が過ぎ去った後、彼はそんなことを言ったことも忘れているだろうが、すべての生きもの、そして生きものにとりつくウィルスも、地球の上で人間と共存している、ということの改めての発見は、敵と味方という考え方をあっと言う間に消滅させる。いや、古びた考え方にしてしまった。勝敗など、何の解決にもならないからだ。

 何かが始まろうとしている。この先に何があるのか。まだ見えない。ファシズムが蔓延するか。排外主義が強まるか。それを恐れる。見えないものに包まれて、眠る前の一瞬あるいは5分間、何も考えないで、その怠惰を幸せだと感じる。わたしはそのことを意識するようになった。いま生きていることの充実感は、その時間で充分なのだ。「100年後の日本」に、このあたりまえのことを忘れないで伝えたい、届けられる記録にしておきたい。

(ささき・みきろう)
詩人。1947年奈良県生まれ。著書に詩集「明日」「鏡の上を走りながら」、評論「中原中也」「東北を聴く」など。
――「日本経済新聞」(2020年5月23日)から転載。



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