中塚明さんの講演を拝聴して/中村 彰

【事務局註】2021年11月20日、秋の関西集会が歴史家の中塚明氏を迎え、予想を超える多くの方々の参加をえて開かれました。遠く札幌から参加された若い方もおられました。「敗戦の総括をし損なった日本――日本は朝鮮でなにをしたのか」と題した講演でした。それは、徐潤雅(ソ・ユナ)さんの研究報告「境界なき連帯:富山妙子と韓国民主化連帯運動」と合わせて、日本と韓国・朝鮮の歴史をめぐる貴重な内容が語られたものでした。中塚明氏の講演は動画を公開しました。当日参加できなかった方を含めて、中塚講演にはとても大きな反響がありました。そのなかで、中村彰氏(元理系教員)から寄稿がありますので、掲載いたします。

 
講演する中塚明さん     ▲大阪・エル・おおさか(5F 視聴覚室)

日本・韓国をめぐる歴史認識を捏造と改竄から洗い出す
――中塚明さんの講演を拝聴して
中村彰 (1947年生)/2021-12-22記

はじめに

 中塚明氏は、私の中高の恩師でもあり、尊敬する方である。個人的なことで恐縮だが、私が最も深く身近に指導を受けた恩師は、東京日本橋の老舗の長男で、旧海軍軍人でもあった。その恩師を、弟子たちは、「さん」を付けて、親しみと敬意を込めて「伊東さん」と呼んでいる。
 そこで、以下、「中塚さん」と呼ばせていただきたい。

 独立系ジャーナリストのIWJ(Independent Web Journal)の岩上安身による第276回インタビュー「シリーズ特集 戦争の代償と歴史認識」(2013-02-16収録ビデオ)で、東学党の乱を引いて、旧日本軍による朝鮮侵略の実相を話されていたのが、高校卒業後に初めて聴いた中塚さんの長年取り組まれてきた内容であった。同じ2013年、中塚さんは、「慰安婦問題の早期解決とジェンダー平等の実現を目指し学び合う会」の第10回セミナーで、「江華島事件から『慰安婦』問題」と云う演題で話されていた(2013-06-30;IWJ取材ビデオ記事)。この度の山﨑博昭氏の追悼講演でも、中塚さんの歴史観を熱く語っていらっしゃる姿に、退職後20年以上を経ても、尚、信念を輝かされていることに敬服を評したい。今回も、中塚さんとは対面ではなく、事務局によって公開されたYouTubeでの講演を拝聴した。

江華島事件と東学党の研究が中塚歴史観の源流

 今回の講演の表題には、「(先の)戦争の総括をしていない(日本や日本軍は事実を書かない)」との副題があり、現在のこの国の情勢と重なり、至極納得ができた。このことを受け、中塚さんは、「軍部(武官)だけじゃない、文官(軍人以外の官僚)もそうであった。」と講演の核心に触れる。
 明治政府が初めて外国と交戦したのは、明治八年の江華島事件で、その公的説明には、「国際法は、例え、国交が無くとも、船舶には、水や燃料を求めて供給を受ける権利(国際法の常識)がある」ことを根拠とし、軍艦「雲揚号」が、この権利を拒否した大韓帝国(朝鮮李王朝)の守備砲台と交戦したこととなっている。然し、これは、日本の挑発行為であったこと、艦長の井上少佐が残した航海録に基づく詳細な報告書の存在を無視(棄却)した「捏造(書き直し)」による「言い訳」であったことが、中塚さんの年齢を感じさせない語り口から、熱く展開された。
 また、講演の前半では、キャロル・グラック(Carol Gluck; Prof. of History at Columbia Univ.)の指摘する「第二次世界大戦を、日本による真珠湾攻撃から米国による原爆投下までで説明する」との「日本と米国との戦後処理の考え方」があることを、聴衆に改めて問いかけた。この第二次世界大戦への歴史観には、「日本の大戦に、米国の存在があっても、中国や朝鮮は存在していない。」という指摘には、中塚歴史観の「切り口」が浮かび上がる。
 「歴史認識とは何か?」との視点を聴衆に提供して、考える方向性を導く手法は老獪で、不思議な説得性がある。

 講演では、やはり、明治八年の江華島事件の「真実」が夜光塗料を施した時計の針のように暗闇に光る。これは、「東学党の乱(明治27年:約3万人の農民反乱組織が殲滅された事件)」と並び、中塚さんの近現代史の源流となる仕事である。この仕事に、日清戦争(明治27-8年戦争)に関する仕事が合流し、中塚歴史観の本流となる。中塚さんの現役末期に、専修大学の大谷正氏から、福島県立図書館の「佐藤伝吉文庫」の情報を得る。そして、中塚歴史観の行動の原点が再燃されることになる。

日清戦争戦史の捏造を究明

 以下、拙文の筆者の想像を含むが(中塚さんの「想像で歴史を語る毋(なか)れ」とのお叱りを承知で)、欧米に留学した経験のある明治の武官は、「戦史」の重要性を学習して帰国する。どうも、明治中期の頃までは、欧米諸国に留学した明治人の留学の成果が生きていると思われる。
 欧米の新風に洗礼された武官も同様である。その軍事行動の正当性の是非は別にして、上層部の意思に従い、清国との戦闘準備が立案される。同様に、戦闘の経過を記述して、戦闘行為の事実関係を残すことも武官の重要な任務と理解されていた。従って、日清戦争戦史は、戦闘行為の「正当性の根拠」を示す為や「勳功を判断」する為にも、必要な資料となるべきだとの認識は健全だったろう。従って、戦闘作戦は、戦争の正当性を主張すべく、軍部中枢により精緻・詳細に立案・記述されていた筈である。その謂わば「正統な戦史(未刊行)」が、日清戦争後、10年も経たない日露戦争(明治37-8年戦争)開戦の前年である明治36年7月1日に、「宣戦の詔勅に従ったものに書き直せ」との陸軍参謀本部の命令に従い、「改竄」の憂き目に至るのである。それまでの刊行される筈の日清戦争戦史は、「日清戦争戦史の草案」として、資産家の「収集品」となり、福島県立図書館の佐藤伝吉文庫の一部として、奇跡的に遺ったのであった。(尚、同様のことが、帝国海軍でも行われた。詳細な作成行動に関しては、国立公文書館の「アジア歴史資料センター」(防衛省防衛研究所戦史研究センター所管資料)に保管されている。)

 中塚さんは、福島県立図書館の資料を丹念に検証して、「日清戦争は、朝鮮国王を虜にして、同国王から、『朝鮮国に駐留する清国軍を駆逐する依頼』を受けて開戦に至る、との正当性を担保する作戦行動」という本来の正統な戦史である筈のものの改竄を確認するに至ったのである。
 そして、斯くして、「この種の『捏造』が『伝統』となってしまった。」と歴史の改竄に纏わる話題を締めくくった。(参考:中塚明『歴史の偽造をただす』、高文研、1995)

大仏次郎や前進座には「反省的邂逅」があったのか

 講演内容と前後するが、歴史認識の別な切り口として、講演の前段では、朝日新聞が、戦後の極東国際軍事裁判の判決に際し、その判決傍聴記を、戦前から「鞍馬天狗」などで広く民衆に知られていた大仏次郎(明治30年(1897)〜昭和48年(1973))に依頼する話題が紹介された。大仏は、1948年11月の同軍事裁判の判決の傍聴を通じて、「(日本(軍)の残虐行為の)狂いうる血の根源を見つめないといけない。」と結論した。この「大仏の結論」は、極東国際軍事裁判の検察の陳述を聴き、国民に知らされていない事実と、下された判決から大仏自身が下した「反省的邂逅」の結論であった(『朝日評論』1948年12月号)。その筈だった………。
 だが、然し、その後の大仏の小説である『宗方姉妹(きょうだい)』や『帰郷』には、その「血の根源を見つめた筈の痕跡」が全く欠落していることを指摘する中塚さんの「歴史観」への厳しい視線が伝わってきたことは、実に新鮮で印象的であった。
 同時に、中塚さんは、「左翼系の人たちも」という表現も用いている。戦前の紀元二千六百年(昭和15年)の「前進座」の公演演目に『陸奥宗光』というのがあり、劇中、「日本(大日本帝国)の朝鮮侵略」について、軍部の独断・独走を憂う」る陸奥宗光や伊藤博文などの明治の政府高官が居たとの解釈が脚本に反映され、話題になった事実もまた、中塚さんの歴史観に従い、婉曲的に抉り出された。
 察するに、中塚さんの胸中には、幕末期に複数の重要人物の暗殺や横浜焼き討ち事件に直接関与した筈の伊藤博文や、足尾鉱毒事件などの古河財閥との深い関係のある陸奥宗光が、「軍部の独走(朝鮮王宮占領)に憂慮」したという「史実」があるなら、是非とも確認・検証したいと願った。
 この仕事が、『蹇蹇録の世界』(みすず、1992)という現役退官直前の仕事である。陸奥宗光の『蹇蹇録』は戦前の岩波文庫本だが、筆者の手元にあり、目は通した。然し、中塚さんの本を読んで、「史実の確認」とはこういう仕事なんだと教えて貰った気がする。
 中塚さんの仕事は、幸運にも支えられている。『蹇蹇録』の草本、筆記者稿、公表原稿は現存しており、それらを吟味することが出来たからである。一般に、岩波文庫の評価は高いが、凡例にあるような一側面でしかなかった。原資料は原資料でも、中塚さんが対象にしたのは、次元の異なる原資料であった。

歴史家としての優れた行動規範と東学農民運動の照射

 中塚さんは、山辺健太郎という「歴史家(中塚さんの表現)」の存在をとても気にしている。お二人は、行動規範が共通している。中塚さんは、山辺健太郎から教えてもらったと述懐されているが、「疑う」ことが初めにあるのではなく、「(資料に基づいて)確認する」ことが大切だという立ち位置が、二人の共通の規範になっている(『歴史家 山辺健太郎と現代』高文研 (2015))。「確認する」という山辺・中塚の行動規範がなければ、本当の「歴史認識」は完成しないものなのだろう。

 日清戦争の実相に迫る話では、先の佐藤文庫と別な史実も披露される。日清戦争は、澎湖島沖での海戦で勃発する。(中塚さんが「歴史の偽造の極めつけ」であると表現する)「日清戦争の最初の戦死者とされる帝国陸軍兵士」の逸話も、中塚史観の確認・検証の俎上に上がる。偽造の極め付けの『靖国神社忠魂史(昭和8-10年)全五巻』には、徳島出身の広島第五師団所属の杉野虎吉上等兵が日清戦争に於ける「最初の戦死者」と記載されている。
 このことに関して、中塚歴史観の真骨頂が冴える。冒頭に紹介したIWJの2013年2月16日の岩上安身のインタビュー(中塚さんの自宅で収録)で、靖国神社発行の分厚い大型の重い「忠魂史」の該当巻を、中塚さんは書斎から持ち出し、捏造部分を示し、杉野上等兵戦死の真相は、「東学党農民3万人虐殺時に関与した多数の日本陸軍兵士の一人が、東学党農民側から放たれた銃弾の流れ弾による顎部損傷に依るもので、東学党農民の反乱での唯一の陸軍の戦死者である」ことが示される。
 講演でも、捏造の事実が暴かれた。虐殺された農民の頭蓋骨の一部が、1995年に北大の人類学教室で発見され、「東学農民運動の研究の端緒」にもなった。また、東学農民運動の殲滅作戦に杉野上等兵と共に従軍した同じ徳島の兵士の従軍日誌が発見され、日誌の遺族の了解を得て、京大人文研の年報である『人文学報』111号(2018)に、北大の井上勝生により凡例を付して公開されている。
(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/231141)

日本と韓国の相互理解の時代の到来へ

 私としては、久々に、中塚さんの話を聴き、新たな認識の視点を示して貰ったことに感謝したい。当然ながら、「歴史認識」という問題は、単純ではないものと承知している。
 「唯物史観」という用語は、私の信念として、忌避したい。理系に疎くは無い私にとって、武谷三男の「弁証法」には、ある程度の理解を示している。

 中塚さんは、冒頭、「徴用工問題以来、この国の朝鮮への印象は悪くなっている。」こと、そして、「韓国へのバッシングが強まってきた。」と切り出し、その問題に対して、キチンとした理解の下に「ある」とは言えないとも言及した。更に、「どのような方法が、両国の理解の深化に結びつくのかを考える機会にしたい。」と述べられたのであるが、講演では、中塚さんの「答え(考え)」を直接的に聴き取ることは叶わなかった。
 私の「答え(考え)」は持っている。然し、此処では表明することを避けたい。理由は至極簡単である。それは、本来、個々人が、「(自らが)自分の身の丈にあった確認」をすることが必須だからである。
 私見であるが、一言だけ、この問題は、「大陸-半島-列島」の未解明の東アジアの歴史に加え、近代以降の「弁証法」の問題でもあることは、確かなことであると考えている。
 極めて身近な両国の相互理解の時代の到来の必要性を、中塚さんの講演で再認識できた。

 数年前の高校の同窓会で、中塚さんと古代史の話をしていた折、古代史の入門書に上田正昭の『私の古代日本史 I, II』を紹介された。神主で右派の歴史学者と目されている上田正昭の古代史を中塚さんから紹介されたことに、多少の違和感を覚えたことがあった。上田正昭は、「日本海」の呼称に関する「歴史認識」について、ある論理を展開されているが、細部の事実には誤謬がある(上田正昭「東アジアと北つ海」、『エミシとは何か』中西進編 角川選書 (1993))。理由は不明であるが、上田正昭は、韓国から、修交勲章崇礼章を授与されている。
 現在、私は上田正昭の古代史学に従い、全国の古墳探訪を通じて、東アジアの融和と相互理解の契機の可能性を思い巡らせている。
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