ウクライナ侵攻の歴史文脈と政治論理/塩川伸明

【註】ロシア軍によるウクライナ侵略戦争が日々凄惨な様相を示しています。ウクライナの人々の残酷な犠牲、苦しみと憎しみ、他方で戦争反対の意志を抱くロシアの人々の苦悩を思うとき、私たちは何を、どうすればいいのか、思いまどいます。『世界』5月号(〈緊急特集〉ウクライナ 平和への道標と課題)に掲載された塩川伸明さんのインタビュー論考を塩川さんのご承諾を得て、転載させていただきます。ご参考になさってください。なお、画像は転載にあたって事務局が挿入しました。(事務局)

ウクライナ侵攻の歴史文脈と政治論理

塩川伸明 (『世界』インタビュー)

(しおかわ・のぶあき)
東京大学名誉教授。一九四八年生まれ。著書に『多民族国家ソ連の興亡』(全三巻)、『民族とネイション――ナショナリズムという難問』(岩波新書)、『歴史の中のロシア革命とソ連』(有志舎)など多数。


▲ウクライナ地図(塩川伸明著『国家の解体――ペレストロイカとソ連の最期 Ⅰ』から転載)

ロシアにとってのウクライナ
――ロシアによる隣国ウクライナへの侵攻が、きわめて深刻な状況をもたらしています。このような事態に至るということは、つい先日まで、ほとんどの市民が予想もしていなかったと思います。なぜここまでの事態に陥ってしまったのか、その歴史的文脈などについて本日はおうかがいします。まず、ウクライナとロシアの歴史について教えていただけますか。
塩川 ウクライナ人・ロシア人・ベラルーシ人と呼ばれる人びとは、東スラブ系の言語を話し、東方正教を奉じるという点で緩やかな共通性を持っています。
 東スラブ最初の国家キエフ・ルーシが一三世紀にモンゴル=タタール勢力によって滅ぼされたあと、東ルーシ、のちのロシアは多数の公国分立状態となり、西ルーシ、のちのウクライナとベラルーシは、ポーランド=リトアニア連合王国の支配下に入ります。その結果、西ルーシにはカトリックの影響が及ぶようになり、言語面でも西スラブ系のポーランド語の要素が浸透したという経緯があります。
 一六世紀に台頭したモスクワ大公国、のちのロシア帝国は、一八世紀のポーランド分割で現在のウクライナやベラルーシに当たる地域を統治下におくようになりました。こうして、東スラブ系住民の住む地域の大半が,最西部を除きロシア帝国の支配下に入ったわけです。
 ロシアとウクライナの関係は、ロシアを兄、ウクライナを弟とする兄弟関係によく喩(たと)えられます。兄弟だからといって、常に仲が良いわけではないのは当然です。しかし、だからといって死に物狂いで相手を打ち倒すような闘争を繰り広げるわけでもない。喧嘩もすれば仲直りもするという関係を長く続けてきたわけです。

 プーチン大統領は、今回の侵攻前の演説で、ロシアとウクライナは「一体不可分」であると述べました。こうした発想は、多くの日本人の目から見れば途方もない暴論と映るでしょう。たしかに強引な極論であり、そのまま同意するわけにはいきません。しかし、ロシアではこの種の発想は決して珍しいものではありません。たとえば、作家のドストエフスキーやソルジェニツィンにも、これに類似した発想がありました。ウクライナはロシアと同じ家族の一員であり、別の国家になるのはおかしいという考え方です。
 こうしたウクライナ観に加えて、プーチンをはじめとする現代ロシアの支配層には、ウクライナという国家は、そもそもソ連がつくりだした存在だという見方があります。
 というのも、ロシア帝国の時代にあっては、今日のウクライナに当たる地域はいくつかの県あるいは州に分かれていて、それらをまとめた単一の行政単位はなかったのです。「民族」というカテゴリーもあまり重視されず、人口調査で「民族」が記録されることもありませんでした。その代わりに「母語」という項目があり、ウクライナ住民のかなりの部分が「ロシア語話者」として記録されました。
 これに対して、ロシア革命後のソ連では「民族自決」のスローガンのもと、「ウクライナ共和国」という領域的単位がつくりだされました。また、ソヴェト期の人口調査では、「母語」とは別に「民族」の項目が立てられたので、「母語はロシア語だが、民族としてはウクライナ人」というカテゴリーが登場し、「ウクライナ人」の数は「ウクライナ語話者」よりも多いということになりました。
 さて、ソ連時代初期の民族政策は「現地化」政策と称されます。特定地域に「基幹民族」を定め、その民族言語や民族文化を振興し、また基幹民族エリートを養成して、大学に優先的に入学させたり、行政職に優先的につけたりする一種のアファーマティヴ・アクションです。この比喩はアメリカの研究者テリー・マーチンが提唱したものです。
 「アファーマティヴ・アクション」という言葉を使うと肯定的なニュアンスがあると感じられるかもしれません。しかし、アメリカでも同様ですが、この政策は差別克服を目指しつつも、むしろ意図せざる結果として、新しい対抗と秘かな差別を再生産する面があります。というのも、「基幹民族」という概念を設定すること自体が「民族」帰属を固定化する効果をもちましたし、特恵政策の対象となるのは誰かということをめぐる争いが「民族紛争」という形をとるようになったからです。
 このようにソ連時代の民族政策は、新しい矛盾や混乱を招いたという意味で、必ずしもうまくいったわけではありませんでした。それはともかく、こうした民族政策によって「ウクライナ民族」「ウクライナ共和国」が制度的に確立したとする認識は、まるっきり暴論ともいえない側面を持っていることもたしかです。もちろん、だからといってウクライナがロシアと完全に一体だというわけでもありません。一言では割りきれない非常に微妙な関係です。
 いま述べたのはソ連の民族政策一般に当てはまることですが、ウクライナの場合、人口面でロシアに次ぐ第二位であり、経済力も大きく、言語その他の面でのロシア人との共通性も大きいため、相対的に多くのソヴェト・エリートを輩出し、支配者層のなかで大きな位置を占めていました。いわば「長兄」としてのロシアに比べれば相対的劣位としても、その他の諸民族に比べるなら相対上位の位置を占めていたわけです。中央アジアでは、ロシア人もウクライナ人もスラブ系の「支配者」として同一視されました。

 現代ロシアの支配層は、ロシア革命によって「ウクライナ共和国」が人為的につくられたと考えるということを述べてきましたが、このことに示されるように、プーチンらの認識はイデオロギー的にはソ連時代と大きく隔たっています。共産主義イデオロギーに対しても,明確に否定的です。日本ではしばしば、ソ連時代の延長として現代ロシアの強権的政治を理解しがちですが、ソ連よりもロシア帝国の栄光に立ち返ろうとする傾向が強いと思います。イデオロギーとは別に、共産主義時代に形成された行動様式、社会学者のいう「ハビトゥス」のようなものは連続しているかもしれないけれども、イデオロギーは断絶しているわけです。そしてソ連や共産主義がつくった「ウクライナ共和国」も、その後身である現在のウクライナ国家も、清算すべきものと考えるわけです。
 こうしたウクライナ観は一定の根拠をもちつつも、極端な単純化に走っているわけで、それがロシアの人びとにどのように受けとめられているかは微妙です。知識層の間では,相当大きな留保をつけない限り受け入れられないという人が多いでしょう。他方では、政権の宣伝をそのままナイーブに受け入れる国民も、量的は多数でしょう。ただ、普通のロシア市民にとって、ウクライナ人は近しい仲間あるいは親戚だという意識はあっても、「敵」だとは考えにくいはずです。仲間であるはずのウクライナの中に「敵」側につく人がいるから、そういう連中の目を覚まさせてやらなくてはならないと思う人もいるかもしれませんが、それが戦争にまで行き着くと、困惑するはずです。

なぜ対立的関係に陥ったのか
――兄弟的関係にあったロシアとウクライナがここまで対立的な関係に陥ってしまった背景についてお聞きします。対立と不信の象徴的な言説として、プーチン大統領の侵攻前の演説がありますが、ウクライナがロシアとの関係を断ち切って「極右・ネオナチ」となったなどと非難しています。
塩川 ウクライナのゼレンスキー政権をネオナチ呼ばわりするのは、「敵はネオナチであってウクライナではない」というレトリックですが、これがあまりにも無理筋の宣伝であることは明らかです。ユダヤ人であるゼレンスキーがネオナチではありえないことは、はっきりしています。
 しかし、無理のある宣伝とはいえ、「火のない所に煙は立たない」という言葉を借りて比喩的にいうなら、小さな火種を最大限に膨れ上がらせて、大きな煙に仕立て上げたというあたりではないかと思います。この「小さな火種」がどこにあったのかについては、二〇〇〇年代以降のウクライナ政治を振り返ってみる必要があります。

 独立後最初の十数年のあいだのウクライナは、内部にさまざまな分岐を抱えてはいたものの、それが激しい武力衝突や内戦の形をとることはなく、緩やかな統合を維持していました。初代および第二代大統領のクラフチュークとクチマはどちらも元は共産党員で、選挙時には東部・南部のロシア語系優勢地域の票を多く集めましたが、当選後は西部のナショナリストをも統合するため西寄りの政策を取り入れ、東西のバランスをとろうと努めていました。議会も、国民の中の多様性を反映した穏健な多党制で、さまざまな混乱をはらみながらも、連衡合従を通した連立内閣が作られていました。
 こうした情勢が変わるきっかけとなったのは、二〇〇四年の「オレンジ革命」とユシチェンコ政権の成立です。通常、「オレンジ革命」は「民主化」革命としての側面だけが注目されますが、「革命」の主体となった「オレンジ連合」は異質な勢力の寄り合い所帯で、勝利後ただちに分解しはじめました。ユシチェンコ大統領を支える与党は議会少数派となり、経済不振もあって、政権は行き詰まり状況に追い込まれていきます。こうしたなかで、ユシチェンコはロシアとの対抗を前面に出したアイデンティティ政治をかき立てるようになりました。
 その具体的な現れの一つとして、独ソ戦中に、ウクライナ民族主義の立場から反ソ・パルチザン戦争を遂行したバンデラを「民族的英雄」と位置づけたことがあります。
 反ソ闘争を戦った人びとを民族の英雄とするのは、一見何も問題がないかに見えます。しかし、独ソ戦のなかでソ連に対抗して戦った人たちは、ナチス・ドイツに協力していたのではないかとの疑惑がかけられるわけです。
 バンデラ派が本当に親ナチであったかについては諸説ありますが、ロシアでは「バンデラ派=ナチ」のイメージが一般的です。そのことを念頭におくなら、バンデラを「民族的英雄」とするウクライナ・ナショナリストはファシストだという考えがロシアで広がったのは驚くに値しません。
 もう一つは、スターリン期の一九三〇年代に、数百万人の人々が命を落とした大飢饉をめぐる宣伝戦です。
 この飢饉は、ペレストロイカ以前にはあまり知られていませんでしたが、ゴルバチョフ期に多くの歴史家に注目され、種々の資料が明らかとなり、熱心な討論の対象となりました。その頃は、「スターリン体制のもとでの諸民族共通の悲劇」として捉える見方が優勢でした。これに対して、ユシチェンコは、この飢饉を「ホロドモール」と名付け、ウクライナ人を標的としたジェノサイドだとする宣伝を繰り広げます。実際には、飢饉の犠牲者はウクライナ人だけではなく、多くのロシア人・カザフ人・ベラルーシ人などを含んでおり、ウクライナ人だけを標的とした民族的ジェノサイドとする見方には無理があるというのが、欧米の歴史家の間でも多数見解ですが、ユシチェンコ期の宣伝は「民族的ジェノサイド」という観点を強烈に押し出したわけです。
 こうしたアイデンティティ政治は、反ロシア的な気分のウクライナ・ナショナリズムを高揚させる反面、国全体としては亀裂を深めることになりました。そして、ユシチェンコの支持率は回復せず、二〇一〇年の大統領選挙では、彼は決選投票にも残れず惨敗します。
 このとき決選投票に残ったのは、かつて「オレンジ革命」で敗北したヤヌコヴィチと、「オレンジ革命」のもう一人のリーダーであったティモシェンコの二人でした。結果として、東部・南部を基盤とするヤヌコヴィチが、西部を基盤とするティモシェンコを僅差で破って当選しました。不正選挙説も出ましたが、不正の規模は結果を左右するほどのものではなかったということを、欧米諸国も認めました。もともとウクライナの政治は極端に両極化していたわけではなく、東西の微妙なバランスのなかでの小刻みな揺れを特徴としてきたので、そのときどきの情勢で勝者と敗者が入れ替わることは不思議ではありません。

 このようにして発足したヤヌコヴィチ政権は、通常「親露派」と呼ばれていますが、最初から全面的にロシアに依存する姿勢をとっていたわけではなく、むしろロシアと西欧の双方とのつながりを持とうとするのが元来の姿勢でした。しかし、世界的な経済不況を背景とした国際緊張激化のなかで、そうした両天秤政策の維持が困難になり、末期にはロシア依存を濃くします。しかも、各種の腐敗が広く指摘されるようになり、政権全体として行き詰まりの様相を濃くしていきました。こうした流れのなかで、二〇一三年末から一四年初頭にかけて反政府運動(キエフの中心にある広場にちなんで「マイダン運動」と呼ばれる)が高まったのは、自然なことでした。
 ところが、この運動は二〇一四年二月に突然、暴力革命の様相を帯びるに至り、ヤヌコヴィチは国外逃亡に追い込まれます。その背後の事情は明らかではありませんが、整然たる市民運動のなかに過激な暴力を持ち込む極右勢力が紛れ込んだようであり、そのなかにはネオナチ的な人たちもいたようです。
 このような「マイダン運動」の暴力革命化は、ロシア語系住民の多いクリミヤやドンバス二州の住民を刺激し、前者のロシアへの移行、後者における「人民共和国」樹立を引き起こしました。これは国家秩序の非立憲的な変更であり、諸外国から強く非難されました。もっとも、当事者たちからすれば、その前にキエフで非立憲的な暴力革命があったということが正当化根拠とされるわけです。
 この後、ウクライナにはネオナチ分子と目される勢力――その象徴的存在が自らナチのシンボルを掲げる「アゾフ連隊」です――が諸外国から流れ込み、準軍隊的行動を示威するようになります。それがどの程度の規模か、活動実態はどうか、政権はこれとどういう関係をもっているのかをめぐっては、諸説が乱れ飛んでいて、確定することが困難です。しかし、たとえ少数であれ、そうした勢力が存在することが、「現在のウクライナ政権はネオナチだ」という宣伝のもととなったわけです。相当強引な誇張だとは思いますが、ロシア国民の中には「ネオナチがいるなら、それは排除しなくてはならない」と考える人たちも出てくるわけです。

NATOの「東方拡大」とは何なのか
――今回の侵攻にいたった背景として、NATOの東方拡大の動きが指摘されています。
塩川 背景説明に入る前に、まず確認しておかなくてはならないのは、ロシア軍によるウクライナへの攻撃は正当化する余地のない蛮行であり、ロシア国内を含む世界の多くの人たちからの強い非難は当然だということです。
 そのことを確認した上で、かねてよりの緊張激化の背景について考えるなら、この点ではNATOとロシア双方の側にそれぞれの言い分があり、またそれぞれに一定の責任があります。現在の戦争については、ロシアが一方的に始めたものである以上、もっぱらロシアに責任がありますが、そこに至る背景はもっと広く考える必要があるわけです。

 やや古い話ですが、最近も論争が蒸し返されている論点として、一九九〇年のドイツ統一交渉時にアメリカはNATO不拡大を約束したのかという問題があります。一方の側が「アメリカはNATO不拡大を約束したのに、それを破った」と主張し、他方の側が「それは嘘だ。そんな約束などなかった」と主張するという構図での論争があります。
 過熱した政治的論争から離れて、これまでに積み上げられてきた研究者たちの議論を振り返るなら、およそ次のような点が確認されます。すなわち、正式の約束があったかなかったかと言えば、なかった。しかし、ある種の仄(ほの)めかしはあった。ベーカー米国務長官が一九九〇年二月、ゴルバチョフと会談した際に述べた、「一インチも東方に進出しない」という発言です。この発言の意味をめぐっては種々の解釈があり、議論が分かれています。とにかく、そうした曖昧な発言があったので、「約束があったはずだ」と思い込む人がいてもおかしくはないということになります。プーチンからすれば、お人好しのゴルバチョフが曖昧な口約束を信じたのが間違いのもとで、今度は明確な約束を取り付けねばならない、と考えているのでしょう。
 もっとも、このベーカー発言は一九九〇年二月時点のものであり、ゴルバチョフが統一ドイツのNATO帰属を認める七月までには、なおいくつかの曲折がありますから、二月時点でのやりとりだけから結論を出すのは性急です。
 少しさかのぼるなら、一九八九年末のマルタ会談に至る米ソ交渉のなかでも、「冷戦終焉」をめぐってゴルバチョフとブッシュとの間に微妙な食い違いがありました。通説的には、この時に米ソが共同で冷戦終焉を宣言したとされますが、実は、マルタで冷戦終焉を語ったのはゴルバチョフだけで、ブッシュはその点に触れませんでした。二人の共同記者会見でゴルバチョフがそう語ったときにブッシュは何も言わなかったので、あたかもゴルバチョフ発言を黙認したかの印象が生じ、そのことが「マルタで米ソは共同で冷戦終焉を宣言した」という通説のもととなりました。しかし、実際にはブッシュはゴルバチョフと異なる考えを持っていたことが、その直後から明らかになります。
 ゴルバチョフがこの時期に重視していたのは、冷戦が終わったからにはNATOもワルシャワ条約機構もともに不要となり、双方の変容を通して新しい全欧機構がつくりだされるべきだということで、ドイツ統一もそうした全欧的過程に位置づけられるべきだ、というのが彼の立場でした。
 これに対して、アメリカはあくまでもNATOを最重要視し、統一ドイツはNATOに帰属する以外の結論はありえないという方針を押し通しました。このような米ソの立場の違いがドイツ統一交渉の核心であり、九〇年二月のベーカー発言もその一コマでしたが、力関係に劣るゴルバチョフは結果的にブッシュに押し切られる形になりました。

 ソ連解体後も、様々な変化がありました。一つの重要な節目は、一九九九年に始まる数次のNATO東方拡大です。このとき、アメリカの長老的な外交官・歴史家のジョージ・ケナンは、晩年の遺言的発言として、東方拡大はロシアを挑発する危険な選択だとして、強く批判しました。しかし、この警告はクリントン政権によって無視されました。
 他方、あるロシアのリベラルな論者は、当時、NATOの東方拡大によって自分たちの国内基盤は極度に狭められてしまった、これはロシアのリベラルの息の根を止めるものだと述べていました。この暗い予感が実現したというのが、その後の流れであるように思えてなりません。
 同じ一九九九年には、コソヴォ問題を契機としてNATOのセルビア空爆があり、このとき米ロ関係は極度に緊張しました。あまり知られていないことですが、このときエリツィンはテレビで「アメリカはロシアが核大国だということを忘れているのではないか」という恫喝発言をしました。今日、プーチンが核の脅しをしているのを前代未聞のことと思いこむ人が多いようですが、実はエリツィンが二〇年以上前に先例をつくっていたわけです。
 そして、これまた今日では想像しがたいことですが、二〇〇〇年に入るとプーチン新大統領のもとで、米ロ関係はエリツィン末期よりも緊張緩和に向かいました。プーチンは大統領就任直前の発言で、「ロシアがNATOに入ってもいいではないか」と言ったことがあります。また、二〇〇一年の9・11直後にも、プーチンはいち早くアメリカの「対テロ作戦」に協力する態度を表明しました。同年一二月にアメリカがABM(弾道弾迎撃ミサイル)制限条約からの一方的脱退を通告したときも、あえて強く抗議することはせず、対米協調路線を続けました。このようにプーチン政権は、その滑り出しでは米ロ協調を重視していましたが、その後、米ロ関係は次第に緊張に向かっていきました。
 こういうことを振り返ると、一九九〇年二月の時点で「約束」があったかなかったかを争うよりも、九〇年代末にアメリカ政権がケナンらの警告を無視したのはどうしてかとか、二一世紀初頭時点のプーチンは対米協調路線をとっていたのに、そのチャンスが失われたのはどうしてかといった点をもっと論じてもよいのではないかと思います。

――ウクライナのNATO加盟も、こうした一連の流れのなかで問題化されていくわけですね。
塩川 遡(さかのぼ)りますと、ウクライナはもともと独立時点での目標として「中立」を掲げており、NATOにも入らず、ロシア中心の独立国家共同体集団安保体制にも入らないというのが基本方針でした。もちろん、あれこれの政治家がNATO加盟論を掲げたことはありますが、それが国家的な方針として確定したわけではありませんでした。大きな転機となったのは、二〇一九年のウクライナ憲法改正で、NATO加盟を目指すことが憲法に盛り込まれたのです。この改憲の背後の事情は十分明らかではありませんが、アメリカからの強い働きかけがあったのではないかと取り沙汰されています。具体的駆け引きの実態はともあれ、とにかくこれは政治の世界の動向であって、世論とは別です。
 一般国民の世論としては、ロシアの強硬化に刺激されて、時間とともに次第にNATO加盟賛成論が上昇傾向を見せていたとはいえ、比較的最近まで、「EUには加盟したいが、NATO加盟についてはあまり肯定的ではない」というのが大まかな趨勢でした。
 ところが、今回の戦争はウクライナ世論を一気にNATO寄りにしました。皮肉にも、プーチンは、ウクライナのNATO加盟を阻むつもりで、むしろNATO側へと決定的に追いやったことになります。


▲侵略戦争と同時にロシア全土で反戦運動が起こった(2月24日)。


▲ロシア国営テレビ放映中に「戦争反対」を訴えたマリーナ・オフシャニコワさん(3月14日)

プーチンの誤算――なぜ侵攻はうまくいかないのか
――ロシアの侵攻開始決断の合理性も含め、今回の戦争は多くの点で専門家たちの予想を裏切りました。
塩川 開戦直前まで、中長期的文脈での緊張激化という趨勢は明らかでしたが、だからといって、「戦争が必至である」という情勢に至ってはいませんでした。その意味で、今回のロシアの開戦決断はそれまでの緊張の単純な延長ではなく、ある種の飛躍を意味したと思います。そして、こうした飛躍があったため、その後の結果に関しても、いくつか予想外の事態が生じました。
 第一に、ウクライナの応戦能力と抗戦意欲が予想外に高いことが示されました。もともと種々の内部分岐を抱えたウクライナは、ゆるやかな国民統合は可能でも、一枚岩的な団結はできにくいと思われていました。
 ところが、開戦とともに、ウクライナにおける内部分岐は一挙に埋められ、あたかも強固な全国民的団結があるかの様相を呈するに至りました。皮肉にも、プーチンがウクライナ国民を団結させ、今まで未確立だった「ネイション」を確立させたかのようにさえ見えます。
 第二に、ロシアにおける反戦/厭戦(えんせん)気分、政府批判行動の広がりが明らかになりました。一般論として、どのような国のどのような戦争であれ、開戦直後の時点では挙国一致的な戦争支持の雰囲気が広がり、少数者の反戦論は孤立するものです。ある程度時間が経って、犠牲の大きさが感じられるようになってから、徐々に厭戦気分が広がるのが通常のパターンです。
 ところが、今回はどうも最初から熱狂的な戦争支持はあまり感じられず、早くも厭戦気分が広がりだしているように見えます。それは二月二四日以降の戦争が、多くのロシア国民の予想を超えたことに由来するでしょう。
 二月半ば頃までであれば、「西からの挑発」への反発に基づく政府支持の気分がかなりあったでしょうし、その後も「人民共和国」承認を支持する、また限定的軍事行動は「やむなし」と考える雰囲気もあったかもしれません。ですが、全面攻勢となったことで、「いくら何でもあんまりだ」という考えが広まったのではないでしょうか。
 ロシア軍がかなりの規模の犠牲を出していることもそれに拍車をかけています。ロシア政府がいくら言論統制を強めても、多数のロシア兵士の死体が戻ってくるなら、泥沼化の現実は否応なしに感じ取られることになるでしょう。
 ただし、ロシアにおける反戦/厭戦の態度は一種類だけではなく、そこには様々な要素が流れ込んでいるということを押さえておかなくてはなりません。われわれに比較的届きやすいのは、知識人たちの格調高いアピールです。また、市民の集会・デモの参加者たちの声を聴くと、「ロシアにも政権と異なる態度を表明する勇気ある人々がいるのだ」と感じることができて、胸を打たれます。
 とはいえ、反戦/厭戦の動きはそういったものに限られるわけではなく、もっと多様な要素からなります。
 政治的立場についていえば、もとから政権の統治手法に批判的だったリベラル寄りの人たちだけではなく、元来は政権を支持していたような人たちの間からも、種々の戦争批判の声が出てきています。ある意味では、そうした部分の登場こそは政権の安定度を左右するかもしれません。
 一つには、「オリガルヒ」と呼ばれる財閥の頭目たちの動向が注目されます。彼らは一面で政権と癒着していますが、他面では政治権力と対抗することもあります。これまでプーチン政権のもとで政権からにらまれた何人かのオリガルヒは海外に逃亡しましたが、その後も国内にとどまっているオリガルヒは基本的に政権に近い立場です。
 今回そうした人たちの間でも動揺が始まっていると報じられています。これは人道的な考慮からの反戦論というわけではなく、経済制裁が彼らを直撃することから、「こんな損なことはやめてくれ」ということと解釈すべきでしょうが、財閥が政権を支える支柱の一つをなす以上、無視できない役割を果たす可能性があります。
 また、軍のなかでも動揺が始まっている可能性が取り沙汰されています。早い時期にセンセーションを呼び起こしたのは、退役将校のイヴァショフが、一月末にウクライナへの侵攻に反対する声明を発表したことです。これは愛国主義的な立場からの戦争批判であり、いわゆるリベラルな立場のものではありません。これをただちに軍全体の動向とみるのは性急でしょうが、「早期の勝利」という展望を裏切って泥沼化が進行するなら、軍事的リアリズムからの批判が増大してもおかしくありません。さらに、最近ではFSB(ロシア連邦保安庁)のなかでも不穏な動向があるとの報道も出ました。その真偽は定めがたいですが、とにかく気になる動きではあります。
 さらに、ロシア共産党の国会議員のなかからも反戦論が出てきています。彼らは、同党が「人民共和国」承認のイニシャチヴをとったのは平和のためであって戦争のためではなかったと主張しているようです。日本では、ロシア共産党は野党ではなくむしろ与党だという解説が盛んですが、政権とときおり馴れ合う中途半端な野党と見るべきでしょう。日本にも同様の「野党」がありますね。彼らは、徹底した反政府ではなく、むしろこれまでは政府を支えてきたけれども、そういう部分からも動揺が出てきたというのは政権の安定度を占う上では大きな要素です。
 このように見てくると、プーチンは大きな誤算をしたと考えないわけにはいきません。ウクライナの反応も、自国内での反応も、ともに予想を大きく超えるものでした。

解き放たれた暴力の行方
――そうしたロシア国内の政治的な状況を踏まえると、今後どのような展開がありえるのでしょうか。
塩川 まず、ウクライナについては、開戦後の新しい動向として、三月八日にウクライナ与党の「公僕党」がNATO加盟に必ずしもこだわらないと表明し、政権自身もロシアとの交渉において「中立」というオプションを排除しないと表明したと報じられています。
 この間の短期的文脈でいえば「中立化」はロシア側の要求であり、それを受け入れるのはウクライナの大きな譲歩ということになります。もっとも、振り返っていうなら、独立後長いこと「中立」が基本方針だったのですから、形式的にいえば二〇一九年憲法改正以前に戻るにすぎないと言って言えなくもありません。
 とはいえ、この間に大きな変化があった以上、単純に元に戻るというわけにはいきません。「中立」という言葉を仮に使うとして、それはどのような中立なのか、関係する諸国が「中立ウクライナ」の安全をどのように保障するかが問題となります。この点でアメリカとロシアを含む関係国の間で合意に達することは、完全に不可能とは言わないまでも、相当難しいことでしょう。
 停戦交渉のもう一つの焦点は、クリミヤおよびドンバス二州の地位です。この点でも、抽象的にいえば、妥協的決着を考えられないわけではありません。「ウクライナの中での高度の自治」といった定式が考えられます。とはいえ、それをどのように具体化し、どのように保証するかとなると、これまた非常に困難でしょう。
 ロシアについては、今後、戦争反対の動きがどの程度高まるのか、政権を揺るがすところにまで至るかどうかは、にわかには判断できません。あえていくつかのシナリオを考えるなら、政権が反戦の動きを抑え込み、高姿勢で戦争を続けるというのが暗いシナリオです。残念ながら、これが現実化する可能性は決して低くはないと思います。
 他方、戦況悪化を見た政権が、反戦/厭戦の気分の高まりをも考慮して,態度を柔軟化させ、妥協的な停戦に向かうというシナリオも考えられます。妥協の内容にもよりますが、これは手放しに歓迎できるとは限らないにしても、相対的にマシなシナリオと言えるかもしれません。
 いま述べたのはプーチン政権自身が政策変更する可能性ですが、それとは別に、一種のクーデタによってプーチン政権が倒れ、後継政権が停戦、そしてさらに和平に向かうというシナリオもあるかもしれません。但し、そうしたクーデタの中心になるのは、リベラル知識人ではなく、これまで政権を支えてきた人たちが、愛国主義や軍事的リアリズムの観点からプーチンを排除するということであり、その後継政権が自由と民主主義に向かうという保証は全くありません。それどころか、いったん解き放たれた大量暴力が、政権が替わると否とにかかわりなく、各地で自己増殖していくという暗い展望も排除できない気がします。
 これらのうちでは第二のものが相対的にましとはいえ、それも手放しで喜べるものではなく、もっと暗いシナリオもあるとなると、あまりパッとしない話になってしまいます。人々を元気づけるどころか、ますます沈鬱(ちんうつ)にさせるような気がして、気が引けますが、われわれが生きているのはそういう「暗い時代」ではないかという気がしてなりません。
―― 本日はまことにありがとうございました。
(聞き手 本誌編集長・熊谷伸一郎)

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※塩川伸明さんは1967年10・8羽田闘争参加者として、当プロジェクト発行の記念誌に当時のことを書き記しています。「一九六七年一〇月八日羽田――一つの経験/塩川伸明」(『かつて10・8羽田闘争があった――山﨑博昭追悼50周年記念[寄稿篇]』所収)。(事務局)



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