10・8羽田闘争55周年 プロジェクトへの私の想い

10・8羽田闘争55周年
山﨑博昭プロジェクトがめざしたもの
108日(土) 東京集会
1120日(日) 関西集会

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プロジェクトへの私の想い

腰椎骨折で杖を離せなくなった澤地久枝さん(91歳)。
ウクライナ侵攻があって黙っていられなかったと、代々木公園に立たれた姿は痛々しくも凛としていた。「今諦めたら、孫、子が同じ目に遭うかもしれない。一人一人が覚悟を決めて、小さな一歩でもいいから…」と…声を絞られた。
聞くところによると、お一人での外出もままならなくなったので、呼びかけ人になっている「あべ政治を終わりにしよう」を終わりにしたいと漏らしておられるという。
森喜朗のような老醜は一刻も早く退散すべきだが、10.8の語り部にも、澤地さんにもまだあいにく花道が間に合っていない。腹を決めていただこう。
水戸喜世子

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山﨑博昭プロジェクトは、2017年にホーチミン市の戦争証跡博物館で「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」を開催し、ベトナムの人達に1967年10.8羽田闘争と山﨑くんの死を初めて知らせることができました。
プロジェクトの活動に関わることによって多くの人達と知り合うことができましたが、それと共に、この時の三度のベトナム行きは私の初めての海外旅行でもあって、達成感も与えてくれた忘れ難い思い出と言えます。
山本義隆

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魂を拾う、ということ。
毎月8日、山﨑博昭の「月命日」に弁天橋に向かうとき、橋のたもとまで歩いていく途中で、いつも、あっという間に18歳から19歳の頃の自分自身に戻っていることに気がつく。おそらくわたしは、1967年10月の弁天橋とその周囲の風景のなかに、魂を落としてしまったのだ。
沖縄ではニンゲンの魂は6つあるという。わたしはそのひとつを、確かに弁天橋に取り落としてしまったらしい。その魂を拾いに行く。落とした魂を身体に戻す。何回でも。追悼とはそういうことを言うのだ。
佐々木幹郎

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私たちは羽田現地の墓碑墓石の建立、50周年記念誌の発行、ベトナムでの展示会の実現。 同じく国家権力との闘いで斃れた樺美智子・糟谷孝幸・中村克己・津本忠雄に光を当て、当時のアメリカ学生運動家を招いて日米学生運動の体験交流を行うことにより、1960年代を中心にした反戦闘争の実像を再現してきました。京大11月祭展示会参加をはじめ学生や若手研究者との繋がりも持ち、世界戦争の危機が語られる時代だからこそ、これからもプロジェクトの想いを伝えて行きたいと思っています。
辻 恵

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10・8闘争と山﨑博昭の死から55年が経とうとしている。山﨑は18歳であり続ける。
侵略戦争加担を拒否した山﨑のたたかいを歴史の記憶に残したい、その思いで山﨑プロジェクトを開始した。
そして、今日なお、多くの人々が山﨑のたたかいに共感していることを確かめることができた。共に行動した者として感謝している。
北本修二

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1967年10月13日、山﨑君追悼全京大学生葬が時計台下の大教室で行われました。それに参加したことが僕と学生運動との最初の接点となりました。それから半世紀近くたって、「10.8山﨑博昭プロジェクト」に出会いました。不思議な運命を感じて、プロジェクトの一員としての活動を始めました。
戦争に反対することに命をかけた博昭君の強い思いを後世に伝えることが、我々の使命だと考えています。
新田克己

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10・8山﨑博昭プロジェクト



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