10・8羽田55周年、朝からの全一日行動にさまざまな感慨を深める

10・8羽田55周年、朝からの全一日行動にさまざまな感慨を深める

●弁天橋、午前11時40分
 2022年10月8日の羽田は、急激な寒さに襲われた前日とはうって変わった晴天となりました。時間が経つごとに強くなってくる陽ざしのもと、弁天橋に続々と人が集まってきました。55年ぶりに弁天橋を訪れたという10・8羽田闘争の参加者。初めて弁天橋に来た人。月命日に何度も来ている人。東京、関東圏だけでなく、大阪、京都、奈良、福岡の地からの来訪者。その数、約50人。
 海老取川にかかる弁天橋の下流側欄干で山﨑博昭君は機動隊員たちの振り下ろした警棒によって頭部を乱打され、それが致命傷となって一命を落としたのでした。午前11時40分ごろとされています。
 その同じ時刻に、山﨑君が斃れた地点に向かって、全員で、山﨑君の無念を思いながら一分間の黙とうをしました。涙をぬぐう人、弁天橋をじっと見すえて立ち尽くす人、あのとき弁天橋の上にいた山﨑君を偶然にも写した写真をしげしげと見入る人、弁天橋の欄干を何度も手でなでる人。それぞれの想いが行き交いました。

  

 そこから、海老取川と多摩川が合流する河口にある五十間鼻に向かいました。地元の方たちが、1923年の関東大震災以来、水難死した人々を供養する無縁仏堂があります。その脇に、ちょうど弁天橋をまっすぐに見つめる位置に平和地蔵が建てられています。台座には「山﨑博昭」の名が刻まれています。10・8羽田50周年に際して当プロジェクト発起人の発意で建てられたもので、以来、弁天橋で受難した一人として、地元の方たちにも親しまれてきています。ここでも山﨑君を偲びました。
 

●福泉寺の記念碑に
 弁天橋、五十間鼻を経て萩中公園内にある集会所に移動し、そこで昼食を摂りました。
 その後、午後2時からは福泉寺の本堂で55回忌を営みました。福島原発事故の子ども脱被ばく裁判など反原発運動でお忙しい水戸喜世子さんが福泉寺に駆けつけました。浄土真宗の作法にしたがって、僧侶の読経を聴き、一人一人がお焼香をしました。
 実兄の山﨑建夫さんから、仏教では一般に33回忌が弔い上げとされており、それより長くても50回忌が最後となる習わしのところ、55回忌は異例のこと、こうして55年前の10・8羽田闘争と弟を思い起こす記念の日とすることができたことに感謝する旨の挨拶がありました。

 

 次に本堂の裏の墓地にある記念碑(墓碑と墓誌)に移動し、そこでは佐々木幹郎さんから10・8山﨑博昭プロジェクトの追悼文が読み上げられました。

◇     ◇     ◇     ◇     ◇
〈10・8羽田闘争55周年に際して〉

 1967年10月8日、午前11時40分ごろ。山﨑博昭くんは羽田・弁天橋の上で、警棒を乱打する機動隊と衝突するなかで、生命を落としました。即死でした。享年18歳。ヘルメットもかぶらず、手には石も棒も何も持っていませんでした。
 それまで彼は、弁天橋のたもとで、萩中公園側からやって来る機動隊を阻止するための防衛隊のなかにいました。そこから彼は、一人で駆け出して、橋の上での闘いに参加したのです。どうしても闘争の最前線にいたかった。アメリカによるベトナム戦争に反対する意思表示を、一歩でも空港に近づいて示したい。当時の佐藤栄作首相はアメリカの傀儡政権のある南ベトナムへ行こうとしており、日本が戦争に協力することになる。その飛行機の出発を止めたかった。

 55年前の10月8日、弁天橋は晴れ渡っていました。同じ橋の上にいた人々はその日の青空の記憶をよく覚えています。
 山﨑博昭くんの死は、同世代に「ジュッパチ・ショック」と呼ばれる大きな衝撃を与えました。1960年の安保闘争で機動隊に虐殺された樺美智子さんの死から7年目のことです。

 戦争に反対する。このたった一つの単純な叫びが、命がけのものであることを山﨑博昭くんの生と死は示しました。戦争があるかぎり、かつても、いまも、これからも、戦争に反対する叫びが続くことを、そして後の世代に受け継がれることを、わたしたちは願っています。

◇     ◇     ◇     ◇     ◇

 記念碑の前で順番に一人一人が手を合わせました。この記念碑が、10・8羽田闘争の出発点であり、集結会場でもあった萩中公園のすぐ前にある福泉寺に建ったことは大きな意義があったと、改めて感じるところでした。

 

●山﨑プロジェクトがめざしたもの
 午後6時からの記念集会までの時間を萩中集会所で待機しました。早朝からの行動のためやや疲れましたので、ちょうどよい休憩タイムでした。
 JR蒲田駅近くの大田区消費者生活センターの記念集会「10・8羽田闘争55周年/山﨑博昭プロジェクトがめざしたもの」は、午後6時から始まりました。
 会場の演壇には山﨑博昭君の遺影、1967年のあの日の弁天橋上の山﨑君の写真、同年10月17日の日比谷野外音楽堂での中央葬の写真、そして白を基調とする花が置かれました。左右にはそれぞれ10・8羽田弁天橋のたたかいの写真12枚(北井一夫氏撮影)、穴守橋のたたかい3枚が張り出され、当時の峻烈なたたかいの様子が再現されていました。
 参加者には、当日のプログラム、この日発行の『10・8山﨑博昭プロジェクトニュース(№10)』が配られました。

 記念集会の司会は発起人の佐々木幹郎さんが務めました(※記念集会の詳細は後日)。
 最初に発起人代表の山﨑建夫さんがあいさつしました。
 続いて、ドキュメント『プロジェクトの歩み』(約20分、代島治彦監督)が上映され、出席している発起人から「プロジェクトの8年間を振り返って」の発言がありました。山本義隆さん、水戸喜世子さん、北本修二さん、新田克己さん、福井紳一さん、代島治彦さん、三橋俊明さん、辻恵事務局長、小林哲夫さんの9人がそれぞれのちがった視点から発言しました。
 10分間の休憩の後、小林哲夫さんの進行で中村眞大さん(北園高校→明治学院大学)、那波泰輔さん(大学非常勤講師)が若い世代の考えるところを語りました。
 槽谷孝幸プロジェクトから白川真澄さんが発言し、「声なき声の会」世話人の細田伸昭さんからのメッセージ(代読)がありました。
 事務局長の辻恵さんから8年半にわたるプロジェクトの数々の活動、三つの目標達成(記念碑建立、ベトナムでの反戦展示会の実現、分厚い2冊の記念誌刊行)の報告、多大な資金協力を受けたプロジェクト会計の報告、今後の活動の問題について発言がありました。
 最後に東京大学大学院生の田中駿介さんから、11月23日(水)、若い人たちを中心に企画された「戦争を考えるシンポジウム」(渋谷LOFT)が呼びかけられました。
 参加者からの自由討論の時間がなくなり、そのぶんは会場1階の中国料理店での懇親会で大いに語り合うこととなりました。
 この日は、19歳の若者から80代まで世代を越えて、82人の参加がありました。

 全一日の行動をとおして、激しい戦争と弾圧という現在の世界のなかで10・8羽田55周年を迎えるという緊迫感がみなぎり、濃密な時間を過ごすものとなりました。
 「10・8」「山﨑博昭」を記録し、記憶することの大切さ、ここでこそ「戦争反対」の叫びをあげ続けることの切実さが、さまざまな感慨を込めて語られました。
 当プロジェクトの発起人はもちろん、賛同人も、そしてイベント参加者も、一人一人が常に「10・8精神」(水戸喜世子さんのことば)をもってたたかうことで、民衆の戦争反対のたたかいが歴史を越えて継承されていくのではないでしょうか。
 次は11月20日(日)関西集会です。開場13時30分/開会14時00分、「エル・おおさか」視聴覚教室です。ぜひまたご参加ください。

 

 

 

10・8山﨑博昭プロジェクト 事務局



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