山本義隆さん 松本講演会「リニア中央新幹線と原子力発電」(要旨)
松本市に拠点をおいて脱原発の運動に取り組んでおられる「サラバ原発・変えよう暮らし方の会」が,2023年2月23日に開催されました山本義隆さん(科学史家,10・8山﨑博昭プロジェクト発起人)による講演会の要旨を会報に掲載されました。会の許可が得られましたので,ここに転載します。
2023.2.23 リニア中央新幹線をめぐって第一回学習会
講師に科学史家の山本義隆さんを迎え、松本市Mウイングで開催した学習会は募集定員を上回る250余名が参加、盛況でした。講演要旨を本会で文章化し、掲載します。 (DVDあり、注文は事務局まで)
「リニア中央新幹線と原子力発電」
原発もリニアも根底に有るのはナショナリズムだ。日本に初めて原子力関係の予算を導入した中曾根康弘は「世界の一流国と肩を並べるためにも原子炉設置とウラン採掘にも相当な国家予算を投じて取り組むべきである・・・」 と言っている。 日本の先端技術は常にナショナリズムで固められてきた。
歴史的に見ると、日本の科学技術の発展は士族が西洋に行った時から始まった。支配階級のインテリ達が外国に行って感激したのは、民主主義でもないし基本的人権でもない。ヨーロッパの,熱を動力に使い,電気をエネルギーに変える技術に度肝をぬかれた。それは軍事力にも結びついていた。技術力の落差は軍事力の落差だった。軍事力の差を強く意識させられ、そこから日本の近代化が始まった。第一次世界大戦で技術力の差とヨーロッパの総力戦にショックを受けて、支配階級は何とかしなければいけないと考えた。
それから一貫して軍と支配階級は総力戦と工業化のために奔走した。日本には資源がないから満州の資源を使って重工業化することを考えた。 モデルはソ連の計画経済だった。 社会主義国は国有だが、満州での所有は資本家だった。経営は国の計画に合わせて日本から呼んできた官僚に任せた。組織原理はナチズムだった。トップダウンで経営方針を決めるというやり方だ。
岸信介等が官僚として呼ばれて満州でやってきたことを、日本にかえってきて戦争中は統制経済等の指揮をとった。戦前の官僚は士族の出で絶大な力を持っていた。戦後、軍隊は解体したが官僚機構は解体しないで生き残り、敗戦後の復興と高度成長を主導した。これが国策民営の始まりだ。原子爆弾とジェット機が無かった事が戦争に負けた理由と考えて、戦後、兵器の研究と動力の研究を推し進めた。そこから日本の1950年代は始まったという事を押さえておかなければいけない。
東海道新幹線で東京一極集中をもたらしたしたという認識は多くの論者に共有されている。リニア中央新幹線が出来たら東京一極集中は更に進み、その裏面で国内格差を更に推し進めることになるであろう。 地方分散も職住近接の社会も実現せず、逆にストロー効果が働き、地方で稼いだ果実が瞬時にして東京に吸い寄せられ、 地方都市が衰退する現象が起きる。 長野新幹線が出来てからの長野市と松本市の商品販売額を比べると、長野市は減っているのに対して松本市の方は増えているという様なケースがいくらでもある。
リニア中央新幹線は南海トラフ地震発生時には東海道新幹線のバイパスになると言っているが、東日本大震災の時に本当に役に立ったのは赤字経営で廃線を検討されているようなローカル線だった。日本海側から上がって行って東北を横断して太平洋側に貨物を運んだ。地震の為ならそういう路線を大事にしなければいけない。新幹線は地震の時には、逆に真っ先に壊れる心配がある。
リニアは消費電力が膨大になる。 物理的にいうと速度が倍になったらエネルギーは4倍になる。 その上浮かせるためのエネルギーが必要になる。更に走っている所だけ電気を流すことは出来ないから損失も多くて従来の新幹の4~5倍にはなる。炭酸ガスの発生も消費エネルギーに比例するからリニアの方が4~5倍多くなる。リニア推進はそのエネルギー源は当然の事として原発の利用を考えていた。福島事故2か月後にはJR東海会長の葛西敬之氏が、「原発継続しか活路はない」と産経新聞に寄稿している。 国とJR東海は、“柏崎刈羽原発が再稼働しなければリニア新幹線が運行のために使用する膨大な電力を賄えないという危機感”を持っている。つまり、リニアを認めるという事は原発を認めるという事になる。
リニアの構造上の問題としては、いくつか上げられるがその一つはゴムタイヤが使われている事である。ゴムタイヤはパンクもするし摩擦熱で発火する危険性が大である。1991年10月、宮崎実験線で支持輪のゴムタイヤが破損、摩擦で発火して列車が事実上全焼した時の写真がある。公共交通機関としては当然の安全が担保されていない。
そのほか残土の問題、 大深度地下にまつわる問題、自然環境破壊の問題、超伝導を作り出すための液体ヘリウムの調達など問題は山積みである
日本の原子力開発について歴史的にみると、中曾根康弘が原子力予算の提案理由の中で MSA(米国)の援助に対して「米国の旧式武器を貸与されるのを避けるために、新兵器や現在製造の過程にある原子兵器を理解しまたこれを使用する能力を保つことが先決問題だと思うのであります」と述べている。まずもって原子力は兵器として考えられていた。石油や石炭の「平和利用」とは言わない。原子力だけ「平和利用」とつけるのは原子力は軍事利用が中心になることは決まっていたからだ。 経済というのはある意味で反資本主義的だ。国の要請に従って物をつくるというのは資本家側にすれば反資本主義的なはずなのになぜ協力したかというと、軍事生産は全部国が言い値で買い上げてくれる。 三菱などは資本金を17~18倍に増やした。
1956年日本原子力産業会議設立。解体されていた戦前の財閥各社が原子力に群がる事によって完全に甦った。このようにして日本の原子力開発は始まった。原発建設が1970年から右肩上がりに直線的に進められてきた。現実的には、通産省は原子力産業の保護育成のために沸騰水型軽水炉と加圧水型軽水炉をそれぞれ年平均一基程度ずつ建設するように電力業界に要請し、電力業界が分担して実施してきた。岸信介は「最近の国際情勢」に「今日の原子力のいろいろな利用というものは、いうまでもなく軍事的な原爆の発達から生まれてきているものである。平和的利用だと言っても、一朝ことある時にこれを軍事的目的に使用できないというものではない」と書いている。日本の原子力推進は56年の段階から核燃料サイクルを想定し、軍事転用の危険性の高いあらゆる種類の核施設が日本国内に建設されることになった。カーター大統領は日本が核燃料サイクルを使ってプルトニウムを抽出することを問題にした。それはインドが商業用原子炉を使って原子爆弾を作ったからだ。カーターは危機感を持ち日本が再処理工場を作ることに強力に反発した。 日本がアメリカに楯突いたほとんど初めての例になるが、 80 年代レーガンの時に再処理を認めさせた。
コンスタントに伸びていた電力需要が 90 年代の半ばで頭打ちになった。高度成長が終わった。それは産業の中心がエネルギーを大量に消費する形から情報を中心とする産業に移っていったことが一つ。そして生産過程で省エネの物が開発された。日本の工場が労働力の安い外国に移っていった。 また原発の事故も頻発したことがあって、1995 年あたりから新炉の建設がなくなった。すでにある炉の建て替え時期に当たる 2030年頃までの成長戦略と原子力のコア技術維持及び原発建設の能力の維持を目的として原発海外輸出を図ったがすべて破綻した。
2012年6月20日 原子力規制委員会設置法の末尾にある付則の12条に一項を追加、 原子力利用の「安全確保」は「国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として」行うとし、ますます軍事利用の懸念が高まる事となった。
現在は再生エネルギーの発電経費が下り、 国民の中に原発に対する忌避感がある中で 2022 年岸田政権は原発回帰に至った。
〈10代の参加者感想〉
リニアについて何も知らず、ただ便利なものとしか認識していませんでした。しかし、現実は厳しいもので、地方がダメになってしまうのだと思いました。 リニアを推進する背景に大国主義ナショナリズムがあり、国際的競争力を高めるためにあると知り、大変驚きました。
リニアには、自然破壊があり、それは人間らしい行為ではにあるが、コンセンサスの得方に問題があるなと思いました。国策民営路線ということで、日本は発展したきたのだけれど、その裏には深い闇があるなと思いました。
僕はまだ未知が多く、 原子力があった方がいいと思った。核抑止力とかもあったほうがいいと思う。未知なのでまだ深く学んだ方が良いと思ったので、今回は社会と原子力のつながりを考えるキッカケになり、すごくいい講演会になった。これから原発について勉強していきたいと思いました。本の技術は借り物で、日本にあわせているわけではないことを頭におく必要があるなと思いました。