山﨑建夫:「10・8山﨑博昭プロジェクト・50周年まであと3年」(2014年10月4日)における発起人代表あいさつ
お集まりの皆様、今日は本当にありがとうございます。また事務局の方、走り回って準備していただいて、今日も最後までいろいろお世話になります。本当にご苦労様です。ありがとうございます。
あれから47年経ちましたけれども、僕らにとってはまるで昨日の出来事のように思い出されます。それと、こちらは歳をとっていくのだけれども、弟は写真の中で歳をとらない、いつまでも18歳です。
さっきのスライドの映像にはヘルメットを被った部隊が出てきましたけれど、弟はヘルメットを被っていなかったんですね。(弁天橋では)ほとんどがヘルメットをかぶっていなかった。最近お聞きしたんですけれども、ああいうヘルメットを被った部隊も一部いたそうですが。朝日ジャーナルで紹介された記事では、そういうヘルメットを被っていない部隊、それが警察官、機動隊によってメッタ打ちにされたそうです。しかし、新聞はそうは書かなかったですね。
参加した学生たちや労働者はみんな知っているから、次の闘いからみんなヘルメットを被ってきました。頭を守らなければいかんから。当時、佐世保であるとか、王子であるとか、東大もそうですね。そのヘルメット姿の学生たちがテレビに映し出されるのを家族で見ながら、その一人ひとりが弟に重なりました。家族みんなで応援していました。
1周年の集会では、母親は『博昭のしたことは間違っていなかった』とはっきり言い切りました。そのように家族も変わってきました。ところが当時の新聞報道やニュースを見ていると、もう警察の発表をそのまま鵜呑みにして全面展開するから、学生の奪った装甲車によって弟は殺されたということがずっと広がっていきます。その根拠は何か、というと、警察発表だけなんです。警察発表を基にして大新聞は全部それを展開します。だからものすごい温度差があるんですね。運動している人たち、その周りの人たちは、弟は頭をやられたんだ、殺されたんだ、だからヘルメットを被って自衛せないかんと思い、それで次には俺がやられるかも分からんということが分かっていても、やはり闘いに行くんですね。しかし、ちょっと離れたところにいる人たちは『可哀そうにな、同じ仲間に殺されてな』というような意識でずっときているんです。この落差はものすごい激しいですね。
その証拠の一つになったのが、新聞でしょっちゅう繰り返された胸にタイヤ痕があったということ。それを鑑識の係員が新聞で証言しています。ところが、この点だけに限っても、遺体を検死した牧田院長、それから遺体に立会われた小長井弁護士、そして私も解剖室で彼の遺体は見ているわけです。誰もそんなスジの入ったものなんて見ていない。解剖室では解剖する医師が『きれいな体やね、これは(死亡したのは)頭しかないわな』と言っていました。しかし、そこにいた3人には口止めしましたね。
この後の映画(現認報告書)では、牧田さんが『耳から血を流していた。頭蓋骨が挫滅して死んでいる』という死体検案書を出して、映画の中でもそう語っています。だけど、世間にはそう広がっていかなかった。新聞の報道は怖いですね。それ以降、マスコミはあまり好きじゃなくなったんですけれども。だけれど、一方では東京新聞がこの集会のこととか、プロジェクトのことを取り上げてくれました。そして、わたしたちのことがやっと広まっていく。
このプロジェクトのきっかけになったのは水戸喜世子さんです。この人に救援会の活動でお世話になって、その後もずっとお付き合いがあったんですけれども、しばらく離れていました。その水戸さんが大阪の原発反対の運動で活動しているという投書を新聞で読み、それがきっかけで会いたくなって連絡を取って話をしているうちに、この運動、50年経つんやから何かこの若い青年の生き方を後の世にも知らせようという話がなされ、そこからこのプロジェクトが始まってきたんです。そういう意味ではマスコミの方にもお世話になっているんです。
最後に二つお願いをします。一つは今日も弁天橋で当時の参加者の話を新たに聞くことが出来ました。ここにも弁天橋におられた方もおると思うんですね。どういう状態だったのかということを、分かりましたらメールででも、お教えいただけたら助かります。
それと、賛同人ですね。これに是非ともなっていただいて、この運動を支えていただきたいと思っております。よろしくお願いいたします。