小長井良浩:「10・8山﨑博昭プロジェクト・50周年まであと3年」(2014年10月4日)における発起人あいさつ
弁護士の小長井良浩です。
弁護士というのは、法律の最初の第一条で人権擁護と社会正義の実現というのが使命だと書いてあります。この条文は、戦中の随分たくさんの先輩の犠牲の上に出来あがった法律で、これを何とか変えようということで、今、弁護士の数をやたらと増やすような策動などが行われています。公権力に対峙する、弱きを助け強きをくじくというのが、言わば弁護士の仕事なんですが、なかなかこれを全うしていくのは並大抵ではないと思っております。
私は弁護士になりましてから5年ほど、いろいろ警察権力などの、事柄を歪曲して自分の責任を人になすりつけるというような事件でそれなりの実績を納めておりまして、たまたま昭和42年の10月8日は、大阪の一般の刑事事件の終結のために弁論を書き上げようという時に、大学時代の友人から連絡があって、羽田で1人亡くなっていると、誰か弁護士を紹介してもらいたいということで、二、三連絡を取ったんですが、日曜日で誰も行く人がいないんです。そこで、亡くなっているんだったら自分が行こうということで、大森の駅前の牧田病院に行ったんです。
こうして本人の面接ができたということは、自分としては良かったといま思っているわけですが、ともかく脳内出血で死亡したと、その他に損傷はないということは、自分の目で見ただけではなくて、社会党の国民運動局長である井岡大治代議士であるとか、中谷鉄也弁護士であるとか、あるいは医師の2人の国会議員とか、みな確認して明らかな事実なわけです。牧田病院の院長も副院長も死因は脳内挫滅ということであったわけなんです。
そして、また、東京都監察医務局の死体検案書という手続きがありますが、そこの医師も死因は腦挫滅ということで書いてあるにもかかわらず、午後7時の影響の大きいニュースでは、学生が車を運転していて山﨑君を轢き殺したという、とんでもない事が放送されているものですから、考えまして、やはり自分はそれは違うんだということを言う以外にないという決心をして発表をしたわけです。
今にして思うと、それが自分のそれからの職業生活の大きな転機になったと考えている次第です。よろしくお願いいたします。