改憲に立ち向かう一つの力となる本/重信房子

改憲に立ち向かう一つの力となる本

重信房子(10・8羽田闘争参加者 八王子医療刑務所在監)

 

◆弟の死に衝撃を受ける家族の思いがブント・赤軍派の友人たちに重なる

『かつて10・8羽田闘争があった』(10・8山崎博昭プロジェクト編・合同フォレスト刊)を読みました。
この本は、50年前ベトナム侵略戦争に反対し、佐藤首相ベトナム訪問に反対し、立ち上がった若者たちが羽田空港周辺で闘い、その中で虐殺された故山﨑博昭君の追悼と、当時の闘いを明らかにし、歴史に刻むために編まれた書です。
600ページ以上もあるこの本を10月6日に受け取り、10月9日まで一気に読みました。気持ちとしては一気ですが、物理的には徹夜で読むことができない獄で中断を余儀なくされつつ、一心に読みました。

初めに、博昭君の兄建夫さんが、弟がどんな子供だったのか、どんな家庭の中で育ったのか、そして突然の死の衝撃を「あゝ をとうとよ 君を泣く 君死にたまふことなかれ」の題名の一文に想いを凝縮して記しています。この家族の思いを通して、当時の闘い、命知らずに使命感に燃えて立ち上がる若者たちと支えつつ案ずる家族の姿が痛いほどわかります。自分の周りの若者たち、ブントや赤軍派の友人たち、また、バーシム奥平、サラーハ安田、ユセフ檜森、ニザール丸岡らが、山﨑君の「死」と連動して浮かび、胸を熱くさせます。

 

◆蘇る10・8羽田闘争、世代をこえる大きな共感

この本はそのあと、第1部から第4部に分けて編まれ、第1部では、このプロジェクトに関わった方々中心に 10・8から50年を経ての総括的な感慨が記されています。50年前救援に関わり、このプロジェクトに加わった水戸喜世子さんや山本義隆さんら大手前高校の同志、同期の方々の文です。どの方々も10・8闘争とそこでの山﨑君の「死」がそれ以降の運動の飛躍の出発点であり、またそれぞれの人生に大きな影響を与えずにはおかなかったことを深く語っています。10・8闘争が同世代の人々の結び目であり、それ故再び50年後に共通の思いを持ちえたことが伝わります。

第2部では、67年10月8日闘争に共に参加した山﨑君の学友や戦友たちによる、弁天橋やその付近での攻防を中心に編まれています。日本が再び侵略戦争の道に加担することを許してはならない! と、不退転の当時の騒然とした時代がよみがえります。ここでは、戦友、友人たちが山﨑君がどのような部署について闘ったのか具体的で詳細に語っています。

私もこの本に一文を寄せましたが、私の文が記憶違いの不正確さがあると読みつつ思いました。一つは、10・8当日ブントや私たちは、鈴ヶ森ランプ出入り口から高速道路を駆け登ったのですが、私は「逆走した」と書きました。しかし、「出口」でなく「入り口」だったら、「逆走」ではないと。もう一つは、私は高速道路上で、機動隊の「ジェラルミンの盾と金属棒でデモ隊の頭を殴ったり蹴ったりしている」と書いたのですが、まだジェラルミンの盾は無かったのか? 68年の記憶と混同してしまったのかもしれません。他の方々の具体的手記を読みつつ思いました。それに部隊「数百人」と書きましたが、情報誌では、この時のブント社学同らは、1,200人、1,000人と書いている人もいます。確かめずに書いたため、不確かだったと思います。

第3部は、「同時代を生きて、山﨑博昭君の意志を永遠に」と、様々な立場、年代の方々の視点からの文や10・8のこのプロジェクトに賛成した意志のコメントなど。折原浩論文も収められています。

 

◆圧倒的説得力がある山﨑君の死因の真相

第4部は、「歪められた真実」。これは圧倒的説得力があります。この第4部の真実から改めて逆に第2部の手記をじっくり読み直した程です。(第1部にも当時の遺族を代表した小長井弁護士も記しています。)この第4部の「50年目の真相究明――山﨑招博君の死因をめぐって」がそれです。辻恵と10・8プロジェクト事務局が執筆し、調査で到達した地平、事実の再現に向けた詳細な聴き取りと図解説明によって正確に真実が明かされています。

当時は、「山﨑は学生の運転した車に轢き殺された」とか「暴徒キャンペーン」が激しかったのを思い出します。検死前から「轢殺説」を流しながら、自供攻勢でも結局つじつまが合わせられず、犯人学生説は失敗だったことも記されています。
また、この文で初めに山﨑君を検死した牧田病院長の発表では、「直接の死因は頭骸底出血と頭骸骨折だが、タイヤの跡は認められなかった」と述べたものが変更修正されたり、警察の国会答弁もつじつまが合わないなどを、この中で明らかにしています。

この警察のねつ造の記述との関連で、辻恵は60年安保闘争で殺された樺美智子さんに言及しています。2010年に樺さんの「死の真相」が明かされていたことをこの文で私は初めて知りました。「樺美智子さんの『死の真相』――60年安保の裏で」として、2010年12月公表された。筆者は丸屋博医師。60年6月16日に樺さんの遺体を司法解剖のため慶応大法医学解剖室で、中館教授執刀で行われ、その口述筆記したものを丸屋博が当時の解剖学の著名な権威、草野教授に鑑定してもらうために持参し、そこで死因の説明を受けた。丸屋は自ら樺さんの残されていた臓器を確かめた上で、「樺さんは腹部に(警棒状の)鈍器で強い衝撃を受け、外傷性膵頭部出血、さらに扼痕による窒息で死亡した」という結論をまとめたという。(実際、樺さんと一緒にいた女学生は命はとりとめたが、同様の重致傷で入院。)
検察に提出したこの「第一次鑑定書」を、検察は受け取りを拒絶して書き直しを迫った。それで、執刀医の中館教授は修正を加えて「第二次鑑定書」を作成したが、それでも検察は不都合で使わず、解剖に一部立ち会っただけの東大の上野教授によって別の鑑定書が作られた。そこで、「人なだれによる圧迫死、内臓臓器出血も窒息によるもの」と変更した。そして第二次鑑定書も闇に葬った。このように丸屋博医師によって50年を経て明らかにされた。

闘う側にいた私たちは、詳しい山﨑君の死因は知らずとも「権力の虐殺」であり、怒りと共に次の11月闘争に向かったのです。50年を経て、改めてその詳しい実証に、当時のデモで激しく対峙した権力の殺意をよみがえらせて、身震いしてしまいます。しかも巧妙に権力は真相を葬った。歴史に繰り返されている権力の姿を、反戦平和を求める市民運動の側から露にし、今現在の深まる「共謀罪」「安保法」「改憲」に立ち向かう一つの力として、この本を多くの方々に読んでもらいたいと思いました。
(2017年10月13日)
(しげのぶ・ふさこ)

※『オリーブの樹』第140号から転載。見出しは、勝手ながら事務局が付けました。



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