三田誠広:羽田弁天橋に記念碑を 「10・8山﨑博昭プロジェクト」が始動しました
1967年10月8日。この日付を見ただけで、ある世代の人々は、胸が切なくなるような感慨をもつことだろう。若い人たちのために説明しておくと、この日、ベトナム戦争が真っ盛りの状勢の中、日本の首相が南ベトナム訪問の旅に出発することを阻止するため、大勢の学生たちが羽田に通じる橋の上でデモを実施し、機動隊との衝突の中で、1人の死者が出た。山崎博昭くんという京都大学の学生だった。
のちには過激派などと呼ばれることになる学生運動だが、これはその潮流の端緒ともいうべき時期だったので、山崎くんは一般学生として、純粋に戦争反対という善意だけでデモに参加し、機動隊の激しい攻撃にさらされて命を奪われることになったのだった。この「事件」はマスコミにも大きな衝撃として受け止められ、当時の週刊誌に山崎くんの日記の一節が引用されていたことが、いまもぼくの頭の中に鮮明に残っている。
彼は文学青年だった。日記のようなノートの中には、いつかドストエフスキーのような小説を書きたいという夢が語られていた。そのくだりを読んだ時に、同じような文学青年だったぼくとしては、彼が死に、自分が生き残っていることに、言い訳のできないような胸の痛みを感じずにはいられなかった。
ぼくはその胸の痛みを誰にも語らなかった。高校時代の友人の佐々木幹郎は、この出来事に触発されて『死者の鞭』という詩集を発表し、詩人としてのスタートを切った。いずれ改めて佐々木たちと、死者を偲ぶための文集のようなものを作りたいと考えていた。山崎くんは、ぼくたちの高校の同窓生だった。高校時代、周囲を大学生に守られながら、おずおずと反戦デモに参加した仲間の1人だった。
今年の3月、佐々木をはじめ、前衆議院議員の辻恵、関西で弁護士として活躍している北本修二ら、かつての仲間たちが集まった。山崎くんの兄の建夫さんとともに、羽田弁天橋におもむいた。この場所に、山崎くんの名を刻んだ記念碑を作りたいと、全員の意見が一致し、「一〇・八山崎博昭プロジェクト」が結成されることになった。
高校の先輩にあたる元東大全共闘議長山本義隆さんをはじめ、多くの発起人のご協力を得て、プロジェクトは本格的にスタートした。いまは反戦ということを改めて叫ばなければならない時期でもある。このプロジェクトが新たな潮流として広がっていけばと念じている。。
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〔opinion4976:140904〕を転載