権力側の「轢殺」発表は事実なのか、圧巻の「50年目の真相究明」レポート/松本裕喜

権力側の「轢殺」発表は事実なのか、圧巻の「50年目の真相究明」レポート
松本裕喜(編集者)
朝日新聞WEBRONZA [書評]2017年 わがベスト3(5) – 神保町の匠(2017年12月28日)から転載
http://webronza.asahi.com/culture/articles/2017122700006.html

 1967年10月8日、佐藤首相のベトナム訪問阻止をめざす三派全学連などと羽田空港を警備する警視庁機動隊が衝突、中核派系デモ集団の京大1年生山﨑博昭が死亡した(第1次羽田闘争)。この本は山﨑博昭の死から50年を記念して、大阪の大手前高校、京大の同期生、闘争に参加した学生ほか61名が寄稿した文集である。

 驚いたことに死後50年たっても、山﨑の死因は明らかになっていない。当初の死体検案書では「頭がい底骨折、脳挫滅が死因」とされたが、その後警察は「死因は胸がつぶれ、胸腹部の内臓が損傷したことによる」と発表、学生たちが運転した給水車による「轢殺」と断定した。本書の「50年目の真相究明」の1章は、検死や解剖記録のほか、「カーキ色の服を着た学生が欄干に引っかかりボクシングのロープダウンのような状態で機動隊員の警棒で滅多打ちにされていた」などの目撃証言にもとづき当時の状況を図入りで再現して検証に努めた、圧巻のレポートである。しかし、60年安保の樺美智子の死因も、警官が警棒で腹を突き、首を絞めたためか、「人なだれ」による圧死か、決着はついていない。つまり、警察や裁判所が判断を翻さない限り、検証した事実も埋もれてしまうのが現実なのだ。

 権力を待たない側が、権力側の発表に異議を呈し、事実を記録して後世に残そうとするとき、最大のツールは本である。ネット情報が残るのはせいぜい数年だろう。まだまだ本は手放してはいけないツールなのだ。そのことを再認識させてくれる本だった。

2017年12月28日
(まつもと・ひろき)
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※見出しは勝手ながら当プロジェクト事務局が付けました。



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