コロナとオリンピックに思うこと/山本義隆
コロナとオリンピックに思うこと
山本義隆(科学史家、元東大全共闘議長)
発起人の一人である山本義隆氏からコビッド19(新型コロナウイルス感染症)をめぐる昨今の状況についての投稿がありましたので、掲載します。賛同人の方たちから、山本さんがどう考えているのか知りたい、という問い合わせがあり、山本氏に執筆を依頼したものです。山本氏の論稿をもきっかけにして、この問題について、大いに議論を交わしたいものです。なお、小見出しは勝手ながら事務局がつけました。(10・8山﨑博昭プロジェクト事務局)。
●これは世界史的事件
コロナ問題が騒がれるようになって、これは世界史的事件だとの感を強くしています。とはいえ、この新型肺炎では高齢者や持病がある人は重症化率が高いと聞いて、その二つとも該当する私は、自宅に蟄居し、もっぱら物理学の書物を読みふけっています。おそらくコロナについて、多くの人たちが様々なことを語っているのでしょうが、テレビもないしインターネットにも繋がっていない生活で、しかも公共図書館もすべて閉館している状態で、私には購読している毎日新聞だけが外との情報源なわけで、だれがどんなことを語っているのか、ほとんど何も知りません。そんな中で何かを語ったところで、常識的なことしか語れませんが、思う処を若干語らせてもらいたいと思います。
●深刻な医療崩壊の危機とその遠因
一昨年、私は体を壊し、とある大学病院に40日間入院しました。そのうち初めの2週間、絶対安静で外からの刺激を最小限にするために目隠しされ、肺に異物を飲み込むのを防ぐ目的で喉にパイプを入れられ喋れない状態で、集中治療室のベッドにほぼ縛りつけられたような形で過ごしました。正直、厳しいものでした。日常の事柄はすべて看護師さんに頼る生活でした。
そんな風に病院に長期に入院してつくづく感じ入ったのは、当たり前の話ではありますが、病院には医師以外に看護師さんやリハビリの指導者やレントゲンの技師の方たちなど実に多くの人たちが患者のために懸命に働いていることであり、とくに看護師さんたちが汚い仕事でも嫌な顔ひとつせず献身的に働いていることには、本当に頭が下がりました。
そんなわけで今なによりも思っていることは、現在、医療崩壊の危険性や病院での集団感染が報道されていますが、患者はもちろんですが、それとともに病院で働いている人たちを大切にしなければならないということ、いかにすればその人たちを守れるのかということです。
その後も私は、通院しています。一番最近では3月末に行きました。入口で体温測定と手の消毒をさせられましたが、待合室にはかなりの患者が待機していて、なかにはゴホゴホやっている人もいて、正直あまり気持ちのよいものではありません。しかし、医師は、小さなブースにつぎつぎに外来患者を招き入れ、患者と対面し対話し診察しているわけで、その意味では、感染の危険性のきわめて高い位置にいるわけです。通常でも、患者は、大病院では1時間以上待たされてたった数分の診断といった愚痴をよく聞きますが、医師にしてみれば、その数分を朝から何回も繰り返しているわけで、正直、それだけでも大変だと思います。それが現在のような状況になると、「危険手当」のようなものがつくわけではなく、「大変」といったレベルでは済まないと思います。とくに看護師さんたちにたいしては、もともと医師に比べて給料ベースは低いのであろうから、「危険手当」のようなものを本当に考慮すべきなのではないでしょうか。彼や彼女たちの職業倫理に頼っているだけでは済まないでしょう。
このような事態になる以前から、医師の職場がブラックだと、語られてきました。実際、もう20年ほど前になりますが、私は友人の外科医が勤務している中規模の市中病院にひと月ほど入院したことがあります。そのとき、その医師の勤務を間近に見ることができましたが、午前中は昼過ぎまで外来で外来患者を休みなくつぎつぎ診察し、午後は普通でも1件、ときに2件の手術をして、夜は入院患者を診て回るという仕事を、ほぼ1年間休みなしにやっていました。正直、感心しました。しかしそれは、やはり美談ではなく、ブラックなのです。
それは元をたどれば、かつての厚生省から現在の厚生労働省にまで引き継がれている、医療費削減を第一目的とした一貫した医療政策の結果でしょう。かつて東大闘争では、もともとの医学部闘争のテーマであった登録医制度の改悪を私たちは医療の営利事業化として批判していたのですが、その医療合理化計画はごく最近の都道府県の国公立病院統廃合計画や医学生数の抑制、そして保健所の削減にまで連綿と続けられてきたのであり、その結果が現在、医療崩壊の危機として露呈しているのでしょう。
●1月~3月の過程で何を間違えたのか
毎日新聞の5月4日の投書欄に、東京都の医師からのメールとして「PCR検査の大量実施、医療資材の確保と配布、発熱外来と感染者用入院・収容施設の新設など医療崩壊防止のための具体策を諸外国は実施した。日本も2カ月前に実施すべきだったのに、ほとんど実施していない」「医療従事者は作戦もなく、丸腰で突撃を命じられた兵隊のようだ」とあります。切実です。
たしかに1月~3月の段階で明確な方針を立てて全面的に取り組むことをしなかったことが、決定的だったのでしょう。台湾や香港や韓国やベトナムに比べてコロナ対策に大きく後れをとったことは否めません。その点、台湾の対処は水際立っていたし、中国と陸続きのベトナムにいたっては死者ゼロです。
しかし正直なところ、その点を私たちがとやかく言うのは、ちょっとフェアじゃない気がします。私たちだって、少なくとも私は、2月ころまで、それほど深刻には見ていなかったからです。実際には、私の場合、昨年死んだ友人の追悼会が2月末に予定されていたのですが、それが中止になったことで、ようやく事態をまともに考えるようになったのですが、それも3月以降の急速な拡大は、正直予想外でした。
だから、過去のことをとやかくいう気にはなりませんが、しかし、現時点で1月~3月の過程を改めて検討し、反省点を明らかにすることは絶対的に必要です。それをしておかなければ、同じ間違いを繰り返すことになるでしょう。その意味で私たちは、日本政府にたいしても東京都にたいしても、1月~3月に何を間違えたのか、はっきりさせるよう要求しなければならないと思います。しかしその点で、マスコミの対応は緩いと思われます。
たとえば毎日の新聞にはオリンピックまであと何日などというのがいまだに書かれています。このコロナ禍は、ここまで広がってしまった以上、とくに治療法も確立していないしワクチンも開発されていない状態では、素人判断でも簡単には終息しないと思われます。世界的に見れば年単位で考えなければならないでしょう。にもかかわらず、来年のオリンピック開催が既成事実のごとく語られているその現実認識のいびつさを感じざるをえません。もともと2月、3月のかなり重要な段階でオリンピック7月開催を第一の優先順位にしたことが、台湾や韓国に比べて日本のコロナ対策の立ち遅れをもたらしたひとつの要因と推察されますが、そのことにたいする反省も語られないままに来年のオリンピックなどが語られているのは、とてもじゃないけれど容認できるものではありません。
●商業主義と国家主義丸出しのオリンピック
オリンピックに触れたのですこし脱線しておきます。
私は1960年に大学に入学しました。その時もちろん1964年の東京オリンピックは決まっていました。大学の授業で、どういう科目名だったのかは忘れましたが体育実技があり、実技のほうは好きな球技を選んですることで、それは楽しかったのですが、それにペーパーテストもありました。大学に入ってまでこんな試験があるのかと思いましたが、そのときの試験問題のひとつが、「現在のオリンピックについて問題点を2点挙げよ」でした。「問題点」だったか「弊害」であったかは忘れましたが、この問いだけは印象に残ったので覚えています。
正解は「商業主義の弊害」と「国家主義の弊害」です。すなわち、オリンピックはあくまでアマチュアリズムにのっとってのものであり、また国家が行うのでなく都市が行うものだという理念があったのです。だから、一方では、優勝したスキーの選手がメーカーの名前が見えるようにスキーを担いで表彰台に上ったことでさえ大きな問題にされ、アメリカの陸上選手のメダリストが数年前に1年間プロ野球の球団に在籍していたというだけでメダルをはく奪されたというようなこともありました。まして企業と契約して金をもらうなどもっての外だったのです。他方では、ソ連や東欧諸国の、国家が丸抱えで育成しているステート・アマも当時問題になっていました。
そのことを思うと、以後、とくに1980年代以降、オリンピックは完全に変質したのです。つまり、選手がプロ化しただけではなく、国際オリンピック委員会自体が、オリンピック開催でテレビの放映権料をはじめとして大きく金を稼ぐ営利事業団体となり、各国も国威発揚を目的に選手の養成をやっているわけです。そして選手たちも否応なく国家を背負わされているのです。
そもそも今年の3月段階で7月にオリンピックなどとても開けないことがわかっていたにもかかわらず、IOCもJOCもこだわったのは、メンツとともに主要には金の問題だったのでしょう。
オリンピックに触れたから、もうちょっと脱線し続けます。
私は、オリンピックが意味を持ったのは、せいぜい1980年ごろまでと思っています。
20世紀後半の大きな世界史的事件のひとつは、かつて植民地支配されていた多くの国、とくにアフリカの諸国が1960年代につぎつぎ政治的に独立したことです。しかし政治的に独立したものの、経済的にも文化的にも独立しきれていていないことが現在のアフリカの諸国の混迷と停滞をもたらしていると思いますが、ともかくそのアフリカ諸国の独立を鮮明に示したのが、その後のオリンピックでのアフリカ諸国の黒人選手の活躍だったのです。
はじまりは1960年のローマ・オリンピックでのエチオピアのアベベの活躍です。エチオピアは植民地支配を免れたアフリカの数少ない国ですが、それでも第2次世界大戦では一時ムッソリーニのイタリアに軍事占領されていました。そのイタリアで開催されたローマ・オリンピックのマラソンでかつてローマ帝国の造ったアッピア街道をアベベが20キロ過ぎから独走してぶっちぎりの優勝を果たしたのは、その後のアフリカの選手の大活躍を先駆けるものでした。
私はそのとき、ラジオの実況で聞いていたのですが、裸足のアベベが飛び出したとき、アナウンサーだか解説者だかが、いかにもペース配分も知らない無名の泡沫選手が無鉄砲に飛び出したといった感じで、訳知り顔に黒人選手は長距離に弱いからやがて落ちるでしょうと語ったのをはっきり覚えています。アベベはその次の1964年の東京オリンピックでも圧勝したのですが、その後のオリンピックが、黒人選手に対する西欧や日本の人間の見方を大きく変えていったのです。それはまた、アフリカの新興国家の存在を世界に示したことでした。
そういう点では、かつて20世紀のオリンピックは意味があったと思いますが、現在の、それこそ商業主義と国家主義丸出しで、途方もない税金を使って一部の企業だけが潤うオリンピックは、もうこれを機会に終わりにすべきでしょう。少なくとも、今回の2020東京オリンピックは、まぼろしのオリンピックにすべきです。そもそも今回のオリンピック招致は、福島の汚染水がコントロールされているとか、7月の日本は温暖でスポーツに適した状態にあるとか、経費をかけずに小規模でコンパクトな大会にするとか、嘘にまみれた、それもバレバレの嘘にまみれた招致だったのですから。国際オリンピック委員会も、嘘を承知で東京を選んだのです。おそらくは日本政府が最終的には金を出すと踏んでいたのでしょう。
●資本の無制約な活動のもと人類の生存が地球のキャパシティーを越えつつある
さて、本題のコロナです。
じつは今までも、新しい感染症は局地的にぽちぽち起こっていたのです。ただ、人がそんなに動かなかったから局地的に封じられていたのです。これまで人の大規模な移動は、ほとんど軍隊に限られていました。古くは、ピサロやコルテスの軍隊が中南米に進駐したとき、免疫のない現地の先住民族は、天然痘でばたばた倒れていったのです。ほぼ100年前のスペイン風邪は、アメリカが発祥ですが、第1次世界大戦にアメリカ合衆国が参戦し、合衆国軍隊がヨーロッパに渡ったことで世界的に拡大したようです。
それに比べて今回は、軍隊でなくとも多くの人がしかも簡単にスピーディーに外国に行けるようになったから、短期間にこれだけ拡大したといえるでしょう。大量生産・大量消費・大量廃棄に支えられた資本主義と石油化学文明のグローバルな展開が気候変動と海洋汚染そして環境破壊をもたらしていることもふくめて、資本の無制約な活動のもとでの人類の生存が地球のキャパシティーを越えつつあるように思えます。
いずれにせよ、現実問題として、現在の状況が続けば、とくに中小の企業への打撃は計り知れないものがあります。旅行業者はもちろん、繁華街の飲食店などはほとんど休業を余儀なくされ、開けていても客が来ない状態ですが、それでも従業員の給料や家賃は確実に毎月払わなければならないわけで、前を通ると悲鳴が聞こえてきそうです。都内では、7月のオリンピックを当て込んで昨年来つぎつぎとホテルの新設・増設が進められていました。銀行が気前よく融資したのでしょう。皮肉なことにそれらは現在ほぼ完成しつつありますが、予約はゼロに近いでしょう。おそらく倒産する企業がさまざまな職種でいくつも出てくるでしょうし、大企業でも人員整理が広がるでしょう。日本だけではないから、かつての1920年代末の大恐慌の状態が、あるいはもっとひどい状態が来る恐れがあります。
●ファシズムに対抗する力が私たちに問われている
そうなると、大衆の側も強い権力を求め、また排外主義が広がっていく危険があります。ファシズムが生まれる土壌です。実際、もともと誰もまともに相手にしなかったようなドイツのちっぽけなナチス党が1929年の大恐慌後にあれよあれよという間に勢力を拡大し、権力を握っていったのです。
そういう状況になったときに、日本は弱いのではないかと、私は思っています。それを実感したのは、オーム事件の時です。オーム真理教が問題になったとき、普通では決して許されないことが平然と行われ、それが何も問題にされなかったことがありました。
一例をあげると、オームで逮捕された容疑者が国会図書館でどのような書物を借り出し読んでいたのか、その資料の提供を求められた国会図書館は、それを調べ上げて警察に提出したのです。それはサリン製造にかんする文献だったようですが、図書の内容によらずこれは図書館法に違反しています。つまり誰がどんな本を読んでいるかは個人の思想信条にかんすることであり、それを権力が調査することも、それを調べて権力に通報することも、ともに許されないことなのです。しかし、図書館法を最も順守すべき立場にあるはずの国会図書館が、それを破り、そのことが新聞に出たときも、マスコミも誰もそのことを問題にせず、批判もしませんでした。社会の基礎が揺らいでいると感じられたとき、人は強い権力を求める、権力の超法規的独走に目をつぶるということが感じられた瞬間でした。
かつての戦争でファシズムを経験した日本は、戦後になってそのことの真摯な反省を行わなかったために、ファシズムに対抗する力を養ってこなかったように思われます。日本は「ナチスのやり方に学べばよい」などと平然と口にする人物が長期にわたって財務大臣を務めている、外国の常識からすれば異常な国なのです。
コロナ後の世界、変わることは確かですが、どのように変わるのか、どの方向に変わるのか、いや、どのように変えるべきなのか、どの方向に変えるべきなのか、私たち一人一人が問われています。
さしあたっての雑感です。
2020年5月6日
(やまもと・よしたか)