人間は自らの青春を救うためにその一生を費やす/佐々木幹郎
人間は自らの青春を救うためにその一生を費やす――ドキュメンタリー映画「きみが死んだあとで」に寄せて
佐々木幹郎(詩人)
あれから半世紀以上の歳月が流れた。時間はわたしたちに何をもたらしたのか。
1967年10月8日、18歳の山﨑博昭がアメリカによるベトナム戦争に反対するデモのなかで、羽田・弁天橋で警官によって虐殺された後、わたしたちはその後に続いた幾人もの学生運動のなかでの同世代の死を迎えなければならなかった。わたしたちは橋を渡ることができただろうか。いや、後戻りしてもいいのである。いま、その橋の上で佇むだけでいい。
人間は自らの青春を救うためにその一生を費やす。
死んだ人間を追悼すること。追悼し続けること。それぞれの追憶の層を何層も重ねることが、未来に何かをもたらす。代島治彦監督のドキュメンタリー映画「きみが死んだあとで」は、この半世紀、山﨑と同世代の生き残った人間たちの物語を、あらゆる角度で追い、ゆるやかに解きほぐそうとする。もはや歴史となり、文化となった一人の死をめぐって、後の世代に残すもの。たぶん、いまが最後だ。二度と同じ映像は撮れないだろう。