10月4日、佐々木幹郎:「50周年まであと3年」における発起人あいさつ(記事、2014年)

最後にわたしからお話させていただきます。今日、午前中にここにおられる発起人のメンバーと、賛同者のみなさんと一緒に弁天橋を訪ねました。そのとき、橋の上でもお話したのですが、わたしたちが造りたいと考えているモニュメントのイメージです。わたしたちは橋の近くに、小さな小さな鎮魂碑を作りたいと思っています。戦争に反対する意志を表示するものですが、大きくて立派な記念碑にするつもりはありません。小さなモニュメントでいいと思います。

わたし自身は、こんな思いを持っています。わたしはいつか、「弁天橋」と名付けた謡曲を、お能の脚本を書きたいと思っています。能舞台には役者が登場して退場する「橋がかり」がありますが、羽田・弁天橋のたもとに山﨑博昭を追悼するモニュメントを造りますと、現実に存在する「弁天橋」を「橋がかり」と見なすことができます。毎年、10月8日に、その橋がかりから、いまは異界に住む山﨑博昭の霊が、シテとして登場する。モニュメントの近くで控えて、舞台の中央でその霊を迎え入れるのは、ワキとしてのわたしたちです。シテを迎えるワキとして、われわれが橋のたもとで待ち受ける。その待ち受ける場所としてモニュメントが欲しいのです。あの現実の弁天橋の風景を一つの能舞台として、わたしはイメージしています。

わたしたちの日本の伝統芸能は、過去のさまざまな事件、闘いのなかで無念をいだいたままの死者を迎え入れて、その魂をこの世に呼び、迎え入れ、交流することのできるシステムを、たくさん作ってきました。お能だけではありません。古代からの歌謡も物語も、説話も、民謡もそうです。それを「弁天橋」で再生させたいと思っています。山﨑博昭の霊は、わたしたちのなかでは、決して政治的な使命を帯びた霊としてだけあるのではありません。山崎の魂は歴史的な50年前の遺産として、そして日本人の文化の象徴として表現できうる場所に、これから出て行くと思います。

いま、宮本光晴君も言いましたけれども、この50年間、わたしたちは何を考えてきたのか、何をやってきたのか。50年前に橋の上で起こった真実の追求は、これからわたしたちは出来る限り調査します。死因はいったい何であったのか。わたしは昨日、67年10月8日の午前中、橋の上の山﨑博昭の真後ろにいた一人の友人と電話で話をしました。彼はそのときのことを、いまも鮮明に記憶していて、この半世紀、忘れたことはないと言いました。山崎博昭が突然突進してきた警官の警棒で殴られて昏倒した直後、その横にいた女性も同時に殴られたそうです。彼は彼女の頭から吹き出した血を飲み込んでしまい、その直後、彼自身も殴られた。その連続的なリアリティのあふれる証言を、わたしは昨日、電話で聞かされました。今日お集まりの方々、そしてこれをきっかけに、あの橋の上の出来事を覚えておられる方々から、さまざまな角度の証言を集めて、3年後に「記念誌」を出したい。そして、真実の姿がどのような結果になろうとも、証言を立体的に集めて、わたしたちの「50年後の証言」としたい。同時に、闘争の証言だけではなくて、わたしたちがこの50年間生きてきたそのプロセスについての思いをふり返り、未来に向けて進む場所にしたい。未来の子どもたちに残せるものを作りたい。そのためにも、来年、もう一度10月、もう少し大きなホールで、またイベントを持ちたいと思っています。そしてこのプロジェクトに賛同して下さる方々に、さらに多く集まっていただいて、いろんなことをやりたい。その上で、3年後にはモニュメントと記念誌を作る、そういう計画をしております。

わたしは山﨑博昭が死んだ後、週刊誌に報道された山﨑君の日記を読んだとき、そこに記されてあることのいくつかが、高校時代に彼とわたしが話し合ったときの、わたしの言葉であることを発見しました。それを読んだ直後、わたしはもう、言葉からも逃げ場所はなくなったと思いました。高校時代から詩を書いていましたが、彼を追悼するために、67年の暮れから68年の1月にかけて、「死者の鞭」と題した長編詩を書きました。それは後に、同じタイトルの詩集として1970年に出ましたが、それがわたしの第一詩集です。その『死者の鞭』という詩集を出して以降、わたしは半世紀近く詩の世界から離れられないまま現在まで来ています。

彼と生前、最後に交じわした会話を、わたしはよく覚えています。大阪から京都へ行く電車のなかで、偶然、山﨑博昭と会いました。『いま、何をしている?』というのが彼のわたしへの質問でした。その言葉が、絶えずこの50年間、甦ってきました。一番つらいときも、詩をやめようと思ったときも、『いま、何をしてる? 佐々木』という山﨑博昭の声が、しばしば聴こえてきました。それに答えるためにも書き続けるという、そういう思いで生きてきましたから、このプロジェクトを水戸喜世子さんが発案され、そして山﨑建夫さんからプロジェクト立ち上げ依頼のお手紙をいただいたとき、即座に、わたしは何でもします、と言いました。

みなさん、これからもよろしくお願いします。



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